マヌエラ(2)
「あの、どちらさまですか?」
「ヘルムートだ」
口うるさい側近や女子学生たちに追い掛けられて辟易していたヘルムートは、なんとか逃げ切った先に女子学生がいたことに落胆した。
けれど彼女はヘルムートのことを知らなかった。
ヘルムートはこの学院で自分を知らない女子学生がいることに驚いていた。
そのふわふわした蜂蜜色の髪に優しげなはしばみ色の瞳を持つ小柄な女子学生が、こてん、と首を傾げた様子を見て気に入った。
あの冷たそうな白金の髪に菫色の瞳の、素直でない婚約者とは違う。周囲にいてきゃあきゃあ声をあげる女たちとも違う。
「ヘルムート様、わたしはマヌエラ・レーヴェンと申します」
自分の名前を聞いても驚かない、可愛らしいが肝が据わった女だとヘルムートは感心したが、マヌエラは単純に国王と王妃の名前くらいしか知らなかっただけである。
それからヘルムートは学内でマヌエラを見掛ければ声を掛けるようになった。
そうして一ヶ月が過ぎた頃、午前の教養科目を終えたマヌエラの教室に、女子学生が四人乗り込んできた。
「貴女、ずいぶんとヘルムート殿下と親しいようね」
四人のうちの銀髪の女子生徒の言葉で初めてマヌエラはヘルムートが王子だと知った。王子殿下相手にだいぶ無礼な態度だったはずだ。マヌエラは顔を青くした。
「ヘルムート殿下には、パトリツィア・ラインマイヤー様という立派な、婚約者に相応しい方がいらっしゃるんですのよ」
「それなのにヘルムート殿下とあのように親しげにされるなんて」
「貴女は大した歴史もない男爵程度の娘ですわね? 立場を弁えなさい」
あとの三人にも口々に言われて恐ろしくなった。マヌエラは生まれてこのかた、ここまで正面切って詰られることなんてなかったのだ。
泣きそうになりながら彼女たちに素直に「申し訳ありませんでした」と謝った。
「分かれば良いのよ」
銀髪の女子学生がそう言うと四人はマヌエラのいた教室から立ち去った。マヌエラの周りには男子学生たちが集まって慰めてくれたが「一人にしてほしい」と告げればそっとしておいてくれる。
マヌエラは落ち込みながらも、いつもの裏庭の秘密の場所に向かった。
「大丈夫か?」
数日に一度、マヌエラの秘密の場所に来るようになっていたヘルムートは、その日もやってきた。
元気のないマヌエラに掛けるヘルムートの声は優しい。
「わたしヘルムート様、いえ、殿下が王子だったなんて知らなくて……しかも、婚約者になる方がいらっしゃったなんて……」
「殿下なんて呼ぶな。今まで通り呼べば良い」
「でも……」
「まさか、パトリツィアになにか言われたのか」
はっとして、あの銀髪の女子学生がヘルムートの婚約者だったのだとマヌエラは気がつく。
それならば彼女があんなにも怒りを見せていたのも合点がいった。
ヘルムートの言い方からして、彼がパトリツィアをあまりよく思っていないことにも気がついた。おそらく政略的な婚約なのだろう。
そして以前からマヌエラは話し掛けてくる男子学生の中でもとくに家柄の良さそうなヘルムートが結婚相手にいいのではないかと考えていた。
しかしヘルムートが王子だと知った今、マヌエラは下位貴族の娘でしかなく養子にしてくれるような貴族との繋がりもない。正妃にはなれないし、正妃となれば色々と仕事もあるはず。
そしてマヌエラは思った。王族男性ならば側妃を持てるはずだ。
この王子の側妃になれば、きっと学院卒業後も好きなだけ薬草の研究ができる。しかも側妃だろうと王家との繋がりができれば家の役にも立つはずだ。
そうだ、ヘルムートの側妃になろう。
マヌエラはヘルムートの言う通りに「ヘルムート様」と呼び続けた。
そして表ではヘルムートに「あまり私に近づかれては……」と言いつつ、二人きりのときには「でも本当は私……」と思わせ振りに上目遣いでヘルムートを見つめた。
ヘルムートの自分に向ける好意がどんどん大きくなるのが分かる。王子なのに御しやすいなとマヌエラは思った。このまま行けば側妃になれるのは間違いない。
そして女子学生の間でのマヌエラの立場は、編入から半年足らずの間にどんどん悪くなった。身の回りのものが失くなる、すれ違う人に足を掛けられて転ばされるなど日常茶飯事だった。
教室にもパトリツィアたち四人が再度訪れ、マヌエラは厳しい言葉を次々ぶつけられた。
けれどヘルムートや、ヘルムートがいなければ男子学生の誰かしらが必ず庇ってくれる。なので学院生活で大きく困ることはなかった。
三年次の後期課程が始まってすぐ、階段を下ろうとしたところを後ろから突き飛ばされた。死ぬかと思ったが、偶然にも通りかかったヘルムートに抱き止められ事なきを得た。
その時のヘルムートは颯爽と格好良くて、マヌエラは本当に彼が好きになってしまった。マヌエラにとって、これが初恋だった。
だからと言って、正妃の座を狙うつもりなんかない。
マヌエラは社交シーズン幕開けの王宮での夜会のエスコートをヘルムートに申し込まれたとき、それを受けていいのかどうか迷った。
「ヘルムート様はパトリツィア様をエスコートされなくて良いのですか」
「マヌエラへの苛めの数々は目に余る。あんな女は俺の妃に相応しくない」
「でも、わたし夜会用のドレスなんか持ってませんし……」
「俺が贈る。俺はマヌエラを、マヌエラだけを妻にしたい」
好きな人にそんな風に言われて、マヌエラはときめいてしまった。
マヌエラが正妃になればヘルムートの立太子は遠ざかるかもしれない。
そして、まかり間違って将来王妃にでもなってしまえば大変なことだ。薬草の研究も続けられるか分からない。でもヘルムートが自分を、自分だけを求めてくれるなら、がんばれる。
そう思ってマヌエラはヘルムートの誘いに頷いてしまったのだった。
マヌエラは採寸のためにヘルムートから王宮に呼ばれたが、王宮に行くための服もない。なので、それもヘルムートに贈られた。
そのドレスも今まで着たこともないような高級なもので、寮の手狭な自室で一人で着替えるのは苦労した。
侍女のいないマヌエラが自分だけで夜会用のドレスに着替えられないのは明らかだった。
そのため当日は昼前からヘルムート自身がマヌエラを迎えに来て、王宮でヘルムートに命じられた侍女たちがマヌエラの化粧からドレスの着付け、髪を整えるまでを行った。
ヘルムートに贈られたドレスは豪華なものだった。
生地はヘルムートの髪色と揃いのゴールドで、刺繍の施された絹のオーガンジーが重ねられている。豪華ながらも襟や袖、裾のレースが可愛らしさも演出していた。
身に付けるイヤリングやネックレスはヘルムートの瞳の翠玉だ。
総額でいくらになるのか見当もつかず緊張しているマヌエラは、侍女たちにジロジロと見られていることにも気づかなかった。
着替えを終えヘルムートと顔を合わせれば、ヘルムートの正装は随所にマヌエラのはしばみ色が使われていた。
コルセットは苦しかったが、マヌエラは胸が高鳴って完全に物語のヒロイン気分になっていた。
夜会の直前、パトリツィアに婚約破棄を告げ苛めの謝罪をさせると、ヘルムートに白金の髪に菫色の瞳の美しい女性のもとに連れられた。
「私、ティリシス王国第一王子ヘルムート・ビシュケンスはパトリツィア・ラインマイヤーとの婚約を破棄する!」
あれ? パトリツィア様ってこんなに美しい方だっけ?
パトリツィア様は銀髪で、目の前の女性の髪の色味は近いけれど違う気がする。
マヌエラは疑問に思ったがヘルムートは話を進めている。マヌエラへの苛めの話になって、最初に四人の女子学生から教室に押し掛けられたときの怖さを思い出し、マヌエラも必死に主張した。
主張しながら、改めて目の前の女性を見てあの銀髪の女子学生とは全くの別人だと気がつく。けれど隣のヘルムートは目の前の女性をパトリツィアとして話を進めた。
マヌエラはもうなにも言えなかった。完全なる人違いだ。どうしよう、今後どうすれば家族に迷惑をかけずにすむだろう、そのことしか考えられなかった。
そして、マヌエラは顔面蒼白になりながら話の行方を見守り、最終的にはヘルムートとともに夜会の会場から退出させられた。
夜会のあとから処分が決まるまでマヌエラも王宮に留め置かれることになった。同じ王宮内にいても当然ヘルムートには会えず、会話をするのは事情聴取の事務官たちばかり。
そして段々と事の成り行きがマヌエラにも分かってきた。ヘルムートには多少幻滅したが、起こってしまった出来事はどうしようもない。
それに幻滅する部分はあっても、学院では確かにヘルムートが助けてくれたのだ。
それに自分の恋心も消えはしなかった。
見た目が格好良くて堂々とした振る舞いをしているのに、ダメな部分があってなんだか可愛く思えてしまったのだ。好きだからなのかもしれない。
学院では三年次の後期課程はまだ残っているがマヌエラは今年中はもう学院に戻れないだろう。けれど事務官たちに頼み込んで試験と論文で合格すれば後期の修了認定はしてもらえることになった。
四年生に進級できるかは分からないがやれることはやっておきたい。
心細くはあったが開き直ったマヌエラは時間があるのを良いことに思いっきり勉強に打ち込んだのだった。




