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国交回復から夜会までのこと

 ディーデリヒはパトリツィアを一目見て、そのときはまだ誰かも知らなかった彼女を妃にするのだと決めた。


 北部セトレア共和国の学園の中庭にある東屋から見た、渡り廊下を通るパトリツィアの横顔が目に焼き付いて離れなかった。

 どうしてその距離から彼女の瞳の色まで分かったのかと自分でも不思議に思う。

 透けそうな白い肌に、白金の癖のない髪が風に靡いた。その髪を彼女が片手でおさえたその仕草、一瞬目を細めたあとの遠くを見通すような菫色の瞳、全てがディーデリヒの目に焼き付いていた。


 彼女がどうしても気になる。自分の妃になるはずの女性だ。

 そう思ってディーデリヒは学園での案内役となった一学年先輩のサウリ・メラートクに聞くことにした。彼は北部セトレア共和国首長の嫡子でもある。学園にいる留学生には詳しいはずだ。


 そして、彼女は隣国ティリシス王国の王家の血を引く公爵の娘パトリツィア・ラインマイヤーだと教えられた。

 ティリシス王国とは国交が断絶して長く、かの国の内部情報は少ない。なのでディーデリヒは主には北部セトレア共和国を通してティリシス王国や王家、そしてラインマイヤー公爵に関して調べさせた。


 その後、サウリの双子の妹ヴァウラにパトリツィアを紹介してもらい、徐々に距離を縮めた。

 当初、国交のないルセアノの皇太子との交流に戸惑っていたパトリツィアだったが、サウリとヴァウラに取り成され段々と打ち解けた。

 ディーデリヒはパトリツィアと交流を深めるうちに、どんどん彼女を妃にするのだという決意を強めていた。


 パトリツィアと交流を深めつつ、ディーデリヒは積極的にティリシス王国との国交を結ぶよう皇帝である父や貴族たちに働きかけた。

 皇妃である母にもパトリツィアを通して取り寄せたティリシス王国の繊細な刺繍の施されたり美しく染められた絹織物を送る。

 そのたびに、パトリツィアがいかに皇后に相応しいかを手紙に認めた。


 いずれティリシス王国と国交が再開されれば、両国間の結び付きを強めるための婚姻政略がなされるはずだ。

 ディーデリヒの妹がティリシス王国の王子の誰かに嫁ぐだろう。そして、ディーデリヒと年の近い王女のいないティリシス王国では、パトリツィアが国王の養女となりルセアノ皇国に嫁いでくることになるのは明白だ。


 けれど水面下では抜かりなく動いていたディーデリヒは、両国間で国交再開を実現させようとパトリツィアと語り合いつつも、肝心の自分の気持ちを伝えていなかった。


 留学期間を終え、ディーデリヒもパトリツィアもそれぞれ国へと帰ることになった。

 パトリツィアから第一王子との婚約が知らされたのは帰国から一ヶ月が過ぎた頃のことである。

 ディーデリヒは慌てて両親にパトリツィアを妃にすると宣言し、ティリシス王国へ向かった。


 外交員や政務官は宣伝こそ積極的にしてはいないが、正式な訪問であり公にされてはいた。けれどルセアノの皇太子が入国したことを知るのはティリシス国王と宰相、その護衛騎士の一部である。


 ディーデリヒは内密に国王へ謁見し、すぐにでも国交を回復したい旨を伝えた。

 ティリシスでも国交回復は検討されておりそれについては前向きだったが、婚姻政策について国王は渋った。

 現国王までの四代ほどは第一王子の王位継承が続いている。それが伝統というほどのものでないのは理解しているが、自分の代で四代続いたそれを変えるのもどうなのか。

 しかしパトリツィアとの婚姻がなくなれば後ろ楯のないヘルムートの立太子は難しい。


 ラインマイヤー公爵は国王が優柔不断なのを知っていた。臣籍降下したとはいえ同母兄弟で年も近いため、一緒に育ったのだ。

 だから第一王子とパトリツィアの婚約が正式に発表されていないのをこれ幸いと、宰相として婚姻政略の有効性を説き国王を説得したのだった。


 ラインマイヤー公爵はヘルムートを素行不良で王位を継げるかも分からず下位貴族の娘に入れあげていると認識していた。

 そんな第一王子よりも隣国の皇太子であり、パトリツィアを望んでいるディーデリヒに嫁がせた方が娘が幸せになれると考えたのだ。

 こうしてティリシス王国第一王子ヘルムート・ビシュケンスとパトリツィア・ラインマイヤーの婚約は二十日間で解消された。


 正式に婚約が解消される三日前、パトリツィアにはヘルムートとの婚約解消が伝えられた。同時に国交回復の婚姻政策のためにパトリツィアがルセアノ皇国へ嫁ぐことも知らされた。


 確かにディーデリヒとはお互いに国交回復へ向けて動くことを約束していた。そのためにも将来的には第一王子の王子妃となり隣国との国交のために働くつもりだった。

 それを帰国してすぐ宰相を務める父にも相談していた。

 けれど、王弟で宰相の父親に公爵の娘でしかないパトリツィアが国交回復を実現したいと伝えただけで、こうも急に事態が動くものだろうか。パトリツィアは不思議に思った。


 不思議に思ってディーデリヒに手紙を書こうと考えた、その翌日、ディーデリヒが直接ラインマイヤー公爵邸を訪ねて来たときには言葉も出ないほどに驚いた。


「あなたが婚約したと聞いて、いてもたってもいられなかった」


 向かい合って座ったディーデリヒの言葉にパトリツィアの胸の奥がドキドキと高鳴る。今まで生きてきて感じたことのない種類の緊張感だった。

 気がつけば給仕人の姿も侍女の姿も部屋にない。応接室のドアや窓は開いているものの、パトリツィアは初めて家族以外の男性と二人きりになったのだ。

 恐慌状態とまではいかなくとも、かなり混乱していた。


「あの、どうして……その、いてもたっても……?」

「一目見て、誰かも知れない貴女を僕の妃にしたいと思った。したい、というか絶対にするのだと決めた」


 まっすぐと薄赤の瞳で他のなにも目に入らないという様子のディーデリヒに、さらに「一目惚れだよ」と囁くように言い募られる。

 身体中が熱くなって、耳の奥でドクドクと血の流れる音がして、なにも考えられなくて、パトリツィアは卒倒しそうとだけ思った。


「もう決まってしまったことだけど、貴女は僕との結婚は嫌かな」


 ディーデリヒはパトリツィアの様子で彼女の気持ちを確信したが、嫌じゃないと言葉にしてほしかった。

 ディーデリヒはソファから立ち上がってパトリツィアに跪く。そのほっそりとして爪まで美しく磨き上げられた手を取って口付け、パトリツィアの菫色の瞳をひたすらに見つめた。


 パトリツィアは答えあぐねているようで、優しげな薔薇色の唇を開いては閉じを繰り返している。けれど、目は逸らさない。

 パトリツィアが深く息を吸って、ゆっくりと吐いた。


「……う、うれしい……です」


 聞き取れるか聞き取れないかという声量でなんとか告げたパトリツィアにディーデリヒは思わず立ち上がった。『嫌じゃない』どころか『うれしい』と言ってくれたのだ。

 ディーデリヒが嬉しさのあまりパトリツィアをきつく抱き締める。額に一度口付けたところで、ラインマイヤー公爵が応接室へと入ってきた。

 ディーデリヒはそっとパトリツィアから手を離して少し距離を取る。

 パトリツィアは顔を真っ赤にしたまま呆然とした様子で、父親が入室したことにも使用人たちが戻って来たことにも気づかずソファに座り込んでいた。

 ディーデリヒはパトリツィアのその様子に心配になって声をかける。


「パトリツィア、驚かせてしまったかな」


 ディーデリヒが優しく声をかけると、パトリツィアははっとして父の姿を認めた。慌てて立ち上がるがよろめいて、それを予想しパトリツィアのそばまで寄っていた侍女が支える。


「パトリツィア、とりあえずお茶を飲んで落ち着きなさい」


 父の言葉で気を取り直し、ディーデリヒが応接室に入ったときに淹れられた冷めかけの紅茶を三口ほど飲んだ。

 甘やかなウバの香りがパトリツィアの気持ちを落ち着かせる。


「取り乱してしまい申し訳ありません」


 パトリツィアは改めて立ち上がり父に会釈をした。

 まずラインマイヤー公爵が先ほどまでディーデリヒも座っていたソファに着く。ついでパトリツィアと並んだディーデリヒがパトリツィアを座らせて、自身もその隣に着席した。

 パトリツィアの侍女は応接室の角の椅子に控え、使用人二人が手際よく新しい茶器を準備する。今度はセカンドフラッシュのダージリンが淹れられて部屋にさわやかな香りが広がった。


「二人が良い夫婦になれそうで安心した」

「色々とお気遣いいただきありがとうございました」


 公爵の心からの言葉にディーデリヒも心底から感謝を述べる。公爵の力がなければ、短期間での国交回復は不可能だった。

 ディーデリヒとパトリツィアの婚約もそうだ。


「では、慌ただしくして申し訳ないが僕はルセアノに戻ります」

「まあ、今からですか?」

「うん、僕が来ているのは非公式だからね。ルセアノの政務官と外交員は残るけど、七日後に使節団を連れて正式な訪問となる」


 国交回復への状況については随時ルセアノ皇国に知らせている。ディーデリヒが戻る頃には人員の選定や国交回復を祝うための様々な物品の準備もできているはずだ。

 細々したスケジュールはこれから両国の政務官たちが詰めていくことになるが、大まかには決まっている。


 七日後、ディーデリヒたちルセアノ皇国使節団がティリシス王国に到着する予定だ。

 その当日に正式な国王との会談、二日目には貴族議会に所属する議員や伯爵以上の貴族を招いての昼餐会、三日目はティリシス王都を視察して回り、夜には王場での夜会がある。

 折り良く社交シーズン直前であり、その幕開けとされる王宮での夜会が予定されていたことも、スムーズな国交回復への助けになった。

 通常なら王宮主催の夜会では、招待状は遅くとも一ヶ月前には発送される。今回の夜会でもすでに招待状は出されており、出席者からの返事も王宮に到着済みだ。

 そのため出席者に隣国ルセアノ皇国との国交回復の祝賀も行われることを通知するのみだった。


「どうか、お気をつけて」

「うん、貴女もこれから準備で忙しくなるだろうから体調に気をつけてね。無理をしてはいけないよ」

「ディーデリヒ様こそ」

「じゃあ、パトリツィア」


 二人が名残惜しく見詰め合っていると公爵が咳払いをする。ディーデリヒはパトリツィアへ伸ばしかけた手を戻して馬車停めに向かい待機していた馬へと跨がった。


 今回、往路は側近で宰相補佐の一人と、二人の護衛騎士との四人で先行し騎乗して動いていた。政務官や外交員たちはあとから馬車で入国している。

 側近は宰相補佐としての仕事がありティリシスに残るため、復路は護衛騎士を二人を連れて三人での行程だ。

 空はディーデリヒの心を映したように晴れ渡り、優しい風が頬をかすめた。


『……う、うれしい……です』


 顔を赤くしてそう告げたときのパトリツィアを思い出す。

 パトリツィアはディーデリヒとの結婚が嫌ではないどころか嬉しいと答えたのだ。


 ディーデリヒは馬の走る速度を上げた。どこまでも駆けていけそうで先を駆ける護衛騎士を追い抜いてしまう。先駆けの護衛騎士が慌ててディーデリヒに並走し小言を並べた。


「今くらい許してくれ!」


 そう言って笑いながら先を走る皇太子をどうしたものかと見詰める先駆けの護衛騎士に殿役の護衛騎士が近づき首を振る。


「浮かれていらっしゃるのだから、しばらくはそっとしておこう」

「それもそうだな」


 ディーデリヒが北部セトレア共和国に留学していた頃も随伴していた二人の護衛騎士はそう笑い合った。

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