夜会(2)
どうしたものかと考えていると、そっと肩に手を置かれる。振り向くと深いスミレ色の直毛を一つ結びに肩に垂らし、柔らかな蓮のような薄赤の瞳を細めた男性、ルセアノ皇国の皇太子ディーデリヒ・ラムブレヒト様が立っていた。
ご入場はまだのはずなのに、なぜここにいるのだろう。
「ディーデリヒ様」
「大変だねぇ」
口角がむずりと動く。表情を引き締めるとディーデリヒ様はヘルムート殿下に相対するようにわたしの前に立った。
「ヘルムート殿、お初にお目にかかる。ルセアノ皇国の皇太子ディーデリヒ・ラムブレヒトだ。貴方のお噂は色々と聞いているよ。よろしく」
「ああ、俺はティリシス王国第一王子ヘルムート・ビシュケンスだ」
前半、敬語ではないことに気分を害した様子を見せたがディーデリヒ様が隣国の皇太子と知ってヘルムート殿下は一応の挨拶をした。
「パトリツィア嬢が北部セトレアに留学していたことは僕がルセアノ皇国の皇太子として証言しよう。なんせ北部セトレアで共に学んだ仲だからね」
まあ、このティリシス王国の高位貴族でパトリツィア嬢の留学を知らない人間の方が少ないだろうけど。
そう言い添えてディーデリヒ様は一歩下がった。
「申し訳ございません。せっかくの歓迎の場ですのに、主賓である貴方のお手を煩わせてしまって」
「いいよ、面白い見せ物とでも思うから。まあ、ヘルムート殿が王位を継ぐようなら今後の国交については考えなければいけないけどね」
ディーデリヒ様の言葉に周囲の貴族たちがさざめく。
三十年近く断絶していた国交がようやく回復しようとしているのに、そんな貴族たちの心の声が聞こえそうだ。
このままでは国交回復に尽力した人々の努力が水の泡になり、これからの貿易で富を得ようとしていた人々の目算も外れることになるだろう、と考えているのかもしれない。
ディーデリヒ様の発言一つで貴族たちの中で拮抗していた第一王子派と第三王子派の勢力は一気に第三王子派へと傾いた。
ヘルムート殿下はそんな空気には気づいていないだろうけれど。
「それではヘルムート殿下、ご納得いただけましたか?」
「ならば誰がマヌエラを虐めたんだ」
「……不在にしていたわたしが知るはずもないことです」
「だがお前が裏で糸を引いていたのだろう」
どうしてそうなるのか。頭が痛くなってきた。
「わたしがマヌエラ様を虐める理由がありません」
「なにを言う。マヌエラの可愛らしさに嫉妬し、俺との結婚がなくなると思って焦ったのだろう」
危うく、はしたなくも「はぁ?」と声が出てしまうところだった。クラクラと目が回りそう。ディーデリヒ様の気遣わしげな視線が痛い。
「お前は婚約したものの俺に気に入られず、そこにマヌエラが現れたのだからな」
あれ? とわたしは気づいた。
時系列がおかしい。マヌエラ様が学院に編入されたのは一年前で、ヘルムート殿下とわたしの婚約が結ばれたのは一ヶ月前、それも十日前には解消されている。
「ヘルムート殿下、マヌエラ様と出会われたのはそんなに最近のことだったのですか……?」
「マヌエラとは、マヌエラが学院に編入してきたときに出会った。それがどうした」
「わたしとの婚約が結ばれたのは一ヶ月前でございますよね。マヌエラ様と出会われたあとではないのですか」
「一ヶ月前?」
わたしが北部セトレア共和国の学園の課程を修了し、帰国して試験と論文で学院の卒業を認められたのを機にヘルムート殿下との婚約は正式なものとなった。
けれど、その直後に情勢が急転し十日前に婚約は解消となったのだ。
「一ヶ月前、国王陛下の命で婚約となりましたが発表はされないまま解消となりました」
「王命だと?」
「はい。婚約については正式な発表は行っておりませんでしたし、ですので解消についてもとくに発表の必要はないとの国王陛下のご判断でございます」
「お前は王命で婚約したのか?」
引っ掛かるのはそこなの?
「えっと……そうでなくては、なぜヘルムート殿下と婚約するのですか……?」
隣でディーデリヒ様が下を向いて口許を押さえている。堪えようとはしているらしいけれど『ふっ…』とか『ククッ』とか呼気が漏れていた。
その向こうの少し離れたところでは一緒に入場した兄の背中が見える。後ろを向いている上にその肩の震えは笑いを堪えきれていないことを示していた。
わたし個人としては笑い事ではないのだけれど。
「だが、お前は俺の婚約者として扱われていただろう」
確かに学院へ入学して留学するまでの一年半は周囲――とくに第一王子派の貴族の令嬢たちから実質婚約者のような扱いを受けたけれど、実際には婚約していなかったのは学院の誰もが知っていたはずだ。
わたしが筆頭とされていたけれど婚約者候補は他にもいたからだ。
「お前が望み、ラインマイヤー公爵が権力を手にせんがために婚約したのではないのか?」
わけが分からないという顔をされても、わけが分からないのはわたしの方だ。
「ヘルムート殿、この辺りにしてはどうだ。客観的に見ればどう考えてもパトリツィア嬢にマヌエラ嬢とやらを虐める利はないし、理由もない」
「……」
ヘルムート殿下がディーデリヒ様を睨み付ける。それを受け流しディーデリヒ様は会場前方の大階段を見上げた。
「それに夜会の始まる刻限も過ぎている」
段上にある王族専用のテーブルの前にはすでに国王王妃両陛下と王子殿下方、そして先月一歳になった王女殿下を抱いた側妃様が並び立っている。
本来ならヘルムート殿下もそこに並び、国王陛下の声でディーデリヒ様が迎え入れられる手はずになっていた。
「ディーデリヒ殿、息子が手間を掛け」
「なぜ私が!」
「ヘルムート、下がりなさい」
威厳ある国王陛下の声にディーデリヒ様が静かにボウ・アンド・スクレープで応える。
対してヘルムート殿下は抗議の声を上げたが、陛下は退出を命じた。
「もとはと言えばパトリツィアが……!」
「下がれと言っている」
その厳しい声に侍従たちがヘルムート殿下へと近づく。
促されてヘルムート殿下はマヌエラ様を連れて不承不承退出した。会場は静まり返っている。
「ディーデリヒ殿、こちらへ」
国王陛下に呼ばれディーデリヒ様が大階段を上がる。
王族の揃う段上の一段下でディーデリヒ様が立礼を取った。さらに促されて段上へ上がるとディーデリヒ様が会場へと向き直る。
「では、みなに紹介しよう。ルセアノ皇国皇太子ディーデリヒ・ラムブレヒト殿だ。このたびの国交回復の立役者でもある」
会場から拍手が鳴ると国王陛下が頷いてそれを収める。
「そして、ここで喜ばしい発表がある。パトリツィア、こちらへ」
国王陛下の声がやたらと響いて聞こえた。大階段の近くにいたわたしは後方へ向き直り軽く立礼をする。それからゆっくりと大階段を上がった。
大階段の三分の二ほどまで上がると階段の奥行きが広くなっている場所がある。先ほどディーデリヒ様が立礼を取った場所だ。
そこで王族に向かいカーテシーをする。深く頭を下げて二呼吸。ゆっくり頭を上げると、さらに段上へと呼ばれる。
ディーデリヒ様と並んでわたしも会場へと向き直った。
「この度、パトリツィアは我が娘となりパトリツィア・ビシュケンスとなった」
国王陛下が会場を見渡す。
貴族たちの中に驚いている顔もちらほらとあるが、その多くは第一王子派のようだった。
「そして、ディーデリヒ殿とパトリツィアは婚約が結ばれた。二人の結婚はルセアノ皇国とティリシス王国の架け橋の礎となるだろう」
大きく拍手が響き、ディーデリヒ様とともに礼を取る。長く続いた拍手が鳴りやんでようやく頭を上げた。
「それでは乾杯にしよう」
段上の袖に控えていた侍従たちがまず国王王妃両陛下へフルートグラスを渡す。続いてディーデリヒ様とわたし、それから王子殿下方と側妃様へとグラスを渡された。
フルートグラスに注がれているのはルセアノ皇国で作られたロゼのスパークリングワインだ。
ディーデリヒ様にいただいたものを昨晩の、ラインマイヤー家での最後の家族での団欒の際にいただいた。
華やかな香りに、飲みやすくも甘さは控えめで後味のすっきりしたスパークリングワインを両親も気に入っている。
二人は大階段から少し離れた場所で寄り添いこちらを見上げていた。わたしを見守る優しい視線には寂しさも滲んでいる。
今晩からディーデリヒ様とともにルセアノへ旅立つまで、わたしは王宮で過ごすのだ。
「では、ルセアノ・ティリシス両国の発展と二人の輝かしい未来を願って、乾杯」
国王陛下の言葉で会場の全てが左手を胸にあて、右手でグラスを掲げた。少しして国王王妃両陛下がスパークリングワインを飲み干す。それにならって、わたしたちや貴族たちも飲み干した。
会場の貴族たちがグラスの中身を見計らって国王陛下からファーストダンスが指名される。
もちろん今回の夜会ではディーデリヒ様が指名された。ディーデリヒ様はわたしに向かって膝をつきわたしの手を取る。
「踊っていただけますか?」
「はい、よろこんで」
ディーデリヒ様が手の甲に口づけると宮廷楽団がゆったりとしたワルツを奏で始めた。
ディーデリヒ様のエスコートでゆっくり階段を下りると、自然と大階段の下からは人が捌けスペースが円形に広がった。
ダンスホールに下りればディーデリヒ様の手が背中に回る。
「ちょっと緊張してるね?」
北部セトレア共和国への留学中、学園の親善舞踏会などでディーデリヒ様とは何度か踊っていた。
ディーデリヒ様がティリシスへいらっしゃってからの二日間でも何度か合わせているし、いままでダンスに緊張したことはなかったけれど。
「さすがに、ここまで注目されるなかでファーストダンスを踊るのは初めてですもの」
そう告げればディーデリヒ様はその柔らかな蓮の薄赤の瞳を細めて笑った。
「あなたが緊張しているのは、僕を意識してくれていることの証のようで嬉しいよ」
耳元で囁かれて首筋が熱くなる。次のステップが頭の中でこんがらがって、ディーデリヒ様の足を踏みそうになった。
けれどディーデリヒ様のリードでなんとか持ち直す。周囲に分からないように睨め付ければ、ディーデリヒ様はクスクスと嬉しそうに笑った。