夜会(1)
それは王宮主催の夜会が始まる直前のことだった。
兄のエスコートで会場に入り友人を見つけたので近寄ろうとする。そこへ一組の男女が近づいてきた。行き交う貴族はみな彼らに道を譲り、頭を垂れた。
その二人はどうやらこちらに向かっているようで、その二人のうち男性を認めてわたしと兄も礼の形を取る。
もう一人は小柄な見知らぬ少女だ。
「私、ティリシス王国第一王子ヘルムート・ビシュケンスはパトリツィア・ラインマイヤーとの婚約を破棄する!」
わたしの目の前で、なにかの舞台俳優のように高らかに宣言したヘルムート殿下。
彼の明るいブロンドヘアがシャンデリアの明かりを反射していた。翠の瞳は自信にあふれ輝いている。
そのかたわらの少女は、ふわりとウェーブした柔らかな蜂蜜色の髪をハーフアップにしていた。ドレスは高級感のあるゴールドのドレスで、胸を強調するようにデコルテが広く開いている。
よく見ればヘルムート殿下はその少女のはしばみ色の瞳と同じ色を礼服の随所に使っていた。
そんな二人をしげしげと眺めつつ、ヘルムート殿下の言葉の意味を考えていた。
婚約破棄をしたい? どういうことだろうか。
ヘルムート殿下はわたしが状況を理解できていないことに気づかない。
そのまま話を進めようと隣に立つ庇護欲を誘う可憐な少女と目を合わせて頷き合う。そして彼女を守るように肩を抱き寄せた。
「お前は、」
「あの、お待ちください、ヘルムート殿下。確認したいことがございます」
不敬ではあるが、お言葉を遮ってでも確認しなければならない。
この夜会は長らく国交断絶していた西の隣国ルセアノ皇国の皇太子ディーデリヒ・ラムブレヒト殿下を歓迎する場なのだ。
ヘルムート殿下に余計なことを言われて事を大きくしてよい場所ではない。
「確認したいことがございますので、まずは別室へ参りましょう」
「不利を悟ってこの場から逃げる気か? そうはさせない」
不利ってなんのことだろう。ますます意味が分からない。
「お前が嫉妬からマヌエラ・レーヴェンを苛烈に虐めていたことは分かっている」
えぇ……?
まずマヌエラ様とかいう女性とは初対面で素性もよく知らないのですが。まあ、十中八九いま眼前で殿下に肩を抱かれ目を潤ませている少女がマヌエラ様なのでしょうけれど。
マヌエラ様は一見したところ殿下に贈られたものなのかドレスは豪奢で手の掛かったものを着ているが、記憶にないので伯爵以上の家の令嬢ではなさそうだ。
我が家は王家の血を汲む公爵の家で高位貴族たちとばかりの付き合いだ。あとは珍しい特産品を持つ男爵や子爵がいくつか。その中にいなかったのは間違いない。
「学園や寮での悪辣な嫌がらせの数々、忘れたとは言わせない。証拠もあるからな」
「本当に……怖かったんですっ。パトリツィア様は……その、何人も他の女生徒を引き連れて、教室にまできて……わたしっ……」
涙をぽろぽろと溢しながら必死に言葉にするマヌエラさんには悪いけれど、本当に何がなんだか分からない。
身に覚えも全くない。あるはずもない。なんせ初対面だ。
「お前は婚約者の立場を失うのを恐れたのだろう。王太子妃、ひいては王妃の座を奪われ、何よりも俺自身を奪われることになるのだからな」
殿下もどうしてそんなにも自信がお有りでいらっしゃるのか。
第一王子ヘルムート殿下の下にはあと二人の弟がいらっしゃる。第一王子ヘルムート殿下は王妃のお子だが、正直なところ色々と難ありだ。
第二王子、第三王子は側妃様のお子で、優秀な王子たちである。
第二王子のヨーゼフ殿下はヘルムート殿下の五歳年下で十七歳。
剣を振るうことがお好きで騎士団に入っており、王位に興味はないようで王位継承権を放棄されたい旨を表明されている。
そして十六歳の第三王子フェリクス殿下は武の心得もあり、何よりも勉学に秀でていて人心掌握もヘルムート殿下に優る。
さらに側妃様のご実家は侯爵であり、王妃陛下のご実家はもとは子爵。もとは側妃様の方が現国王の婚約者だった。
けれど現王妃陛下は現国王陛下の寵愛を受け、その子爵の本家にあたる伯爵に養子になったという事情がある。
本来なら今の側妃様が王妃となり現王妃陛下が側妃となるはずだったが、当時王太子だった国王陛下は側妃はとらないとおっしゃったのだ。
結局、ヘルムート殿下の誕生後の五年間、王妃陛下のご懐妊がなく側妃様が嫁がれた。
それゆえに、貴族や平民問わず王妃陛下よりも側妃様の方が人気がある。
王位継承についても宮廷内どころか国内全体で第三王子を王太子に推す声も大きい。
ラインマイヤー家は先代国王の次男、つまりは王弟である父が賜った公爵位を持つ家だ。そのラインマイヤー公爵は宰相である。
その娘――現状、貴族の令嬢で最も身分が高く、ヘルムート殿下と同い年で従妹のわたし――が第一王子に嫁ぐことになるだろうと目されていた。
そんなわけで、宮廷内ではかろうじて第一王子派と第三王子派で均衡を保っている状況なのだ。
とは言っても、わたしの婚約は王家に王女が生まれなかったが故に、政略で他国へ嫁ぐ可能性もあるので、結婚適齢期ぎりぎりまで保留にされていた。
だからヘルムート殿下の婚約者候補の筆頭とされていただけのこと。
そして一ヶ月ほど前にようやく正式に婚約を交わした。それも正式には発表されないままだった。
「そうですね、ここまでお話されてしまっては……」
殿下は勝ち誇った顔をしているが、殿下の思った通りには話は進まないだろう。
「確認なのですが、殿下はわたしとの婚約を破棄したいということで、よろしいでしょうか」
「当然だ。お前のような女とは結婚できないからな。私はこのマヌエラ・レーヴェンと結婚する!」
わたしへ向けた言葉の後半は他の貴族たちにも知らしめるためなのか周囲を見渡しながら声を張り上げての宣言だった。
「それは殿下の好きにすればよろしいかと思いますが、一点だけ申し上げますと殿下とわたしの婚約は十日ほど前すでに解消されております」
「どういうことだ」
「国王陛下や貴族議会議長コンラート様からはお聞きではありませんでしたか……?」
まさかそんなことはないだろうと思いつつたずねる。聞いていてこの騒ぎを起こしたにしても、聞いてないにしても問題だけれど。
「やはり、別室に移りまして話をさせていただきたく思うのですが」
発表されないままだった婚約の話を今ここでされるのも問題がある上に、そのことをあまり公にできない事情もある。
この夜会が隣国の皇太子一行を歓迎し、国交回復を祝う式典の一環ともあって多くの貴族が集まっていた。
そもそもなら、こんな話は隣国の皇太子を招く前にするべきだったし、それができなかったのなら夜会のあとにするべきなのだ。
けれどヘルムート殿下は引かないだろう。それなら別室でコンラート様も招いて話をするのが妥当と思われた。
本来ならコンラート様でなく宰相である父がその立場なのだろうが、ヘルムート殿下はわたしが有利に事を運ぼうとしていると受け取りそうなので、ここはコンラート様が適当だろう。
「別室に移るにしても、まずはお前がマヌエラへの謝罪をするのが先だ」
「身に覚えのないことを謝罪することはできません」
「なっ……!!」
謝罪をきっぱりと断る。
ヘルムート殿下は言葉も出ないほど怒り心頭のようだが、わたしはマヌエラ様とは初対面でその存在すらも知らなかったので虐めようもない。
謝罪など断じてできないことだった。
「そもそもですが、わたしはマヌエラ様とは面識がありません。失礼ながらお名前も存じませんでした」
「そんなはずないだろう。父親が男爵ながらも薬草に関する論文を認められ、試験にも合格し学院に編入したのだぞ」
この国の王立学院は学力試験も難関ながら、入学前に何かしらを研究してその論文も提出しなければならない。
編入となればその難易度は更に上がる。学院内でも話題にもなるだろう。下位貴族ながら成し遂げたのなら宮廷内でも噂くらいにはなるかもしれない。
「それは素晴らしい方でいらっしゃるのですね。それで、その編入とはいつ頃のことでしょう」
「昨年の秋だ。そんなことも知らないとは、やはりおまえは王妃に相応しくない」
なんとかため息を堪えた。
ヘルムート殿下と結婚したとて王太子妃、そして王妃になれるかは五分五分どころか、それ未満だ。
さらに周囲から期待されてはいたものの、別にわたしがそうなりたかったわけでもない。
「そうですね、確かに情報収集に穴があったようでございます。ですが昨秋のこととなると、やはりお会いすることは無理があります」
「なぜだ」
「なぜもなにも、わたしは昨年の春から隣国北部セトレア共和国に留学をしておりました」
なぜ、とはこちらが聞きたい。
なぜ仮にも将来結婚する可能性の高い婚約者候補の筆頭だったわたしが留学するのを知らなかったのか。
なぜわたしが国を空けていることに気づかないのか。
学院に所属する貴族子女について情報に抜かりがあったのはわたしの落ち度だけれど、ヘルムート殿下のそれとは比べ物にならないはずだ。
「ヘルムート殿下、ご納得いただけましたか?」
「俺は知らなかった! 留学の証拠はあるのか!? お前はマヌエラが嘘をついたと言うのか!?」
今度こそため息がもれる。
ヘルムート殿下は昔から思い込みの激しい性格だった。この様子ではわたしがなにを言っても納得されないだろう。