02 會田と殺し屋
X月Y-1日 19:00
「いや、やめて! 誰かたすけ……ガッ」
ひどく乱れた衣類。女は髪を引っ張られながら人気のない薄暗い細い路地を引きずられていた。これから何が行われるのか理解しているのだろう。涙を流しながら必死に懇願し、助けを乞う。
髪を引っ張るのは黒いスーツに身を包んだサングラスの男たち。人気はないが、どこで誰が女の声を聞いているか分からないと思ったのか、男は女の顔に一発蹴りを入れた。華奢な女の体は小さく吹き飛ぶとともに、男の持っていた髪がブチブチッと音を立ててまとまった束で抜ける。女の口は切れ、血が地面へと下垂れ落ちる。
大きくガタガタと震えるケガだらけのその体を気遣うことなく、サングラスの男たちは女を無理やり立たせると細い腕を強引に引っ張り、誰もいない路地を進む。
少し光が見え、女は眩しさで目を窄める。それが車のライトだということに気付くのに少し時間がかかった。
運転席にひとり、助手席にひとり、それぞれ男が座っている。車の窓を開け、サングラスの男たちと話し始めたが、どこの国の言葉か分からないため理解が出来ず、女は更なる恐怖に包まれ呼吸も荒くなる。
すると突然、車に乗っていた2人の男が同時に降りてきた。恐らくひと通り話が終わったのだろう。大きなワンボックスカーの後部座席から出てきたのはひとつの大きな黒い箱。女性であれば膝を曲げれば何とか入ってしまうのではないかという程大きい。2人の外国人と見える男が箱を開けると、そこには箱に固定された拘束具、酸素ボンベなどが入っていた。
その後は一瞬の出来事。女は男たちに取り押さえられ、膝を曲げた状態で箱に横向きに押し付けられると、両手、両足、腰回り、大腿部をそれぞれベルトで固定される。一切の身動きが取れなくなった女はそのまま目隠し、耳栓をされ外からの情報が一切シャットダウンされる。
女はあまりの恐怖にパニックに陥り、過呼吸気味となるが、そんなのお構いなしと言わんばかりに、口元には酸素ボンベが取り付けられた。女は恐怖とパニックと無理やり体を曲げられ固定された痛みにより意識を失った。
そして女は船に乗せられ、他国へと渡る。
強制的な人身売買である。
女の名は美咲。六本木のキャバクラでナンバーワンの実力を持つ人気のキャスト。
その美咲が働くキャバクラを経営しているのは関東地方では名を知らぬ者はいないと言われる、かの有名な會田組。
會田の経営するキャバクラでの料金設定、請求書には見たことのない金額が並ぶことも多く、抵抗する者にはひどい拷問で金を毟り取る。キャストの女性たちも指名がとれないと別のやり方で金を稼ぐように強制されることが当たり前の世界。
そんな會田のやり方に震える者も多い中、美咲は毎日笑顔で接客に励んだ。他の女の子たちを励まし、ひたむきに頑張る姿は自然と客を寄せ、あっという間に店のナンバーワンに上り詰めた。
実家がとても貧しい生活を強いられていたため、稼いだお金のほとんどを実家に仕送りをした。月に1度、普通のOLが稼ぐ給料の数倍の仕送りがあるため、驚きの連絡が入ることも多かったが、家族が健やかに笑って生きていてくれたらそれだけで美咲は幸せであった。
そんな美咲は會田のお気に入りでもあった。店が終わると毎日のように屋敷へ呼ばれ、男女の営みを強要される。嫌だと思っていながらもここで拒否をすると何をされるか分からない、そんな恐怖と闘いながら會田の愛撫を受け続けた。
一晩中体を貪られ、ようやく解放されると、マンションに戻り日が昇るまで泣く毎日であった。
ある日、美咲はある一大決心をする。『店を辞める』店長にそう伝えたのだ。會田のやり口をよく知っている店長は美咲を気遣い引き止めたが、決意の固い美咲の気持ちは揺らぐことなく、店長に感謝の気持ちを伝えて更衣室へと向かった。
店の荷物を鞄に詰め込み、美咲はある場所へと急ぐ。『辞める』と伝えたからには會田の手の者が必ず美咲の元へとやってくる。
その前にやりたいことがあった。美咲の視界の先には警察署。
あの店は存在してはいけない、法を無視し會田の言いなりとなるしかないみんなを守るためにも警察に相談しよう、そう思ったのだ。
美咲は走った。警察は目の前。
あと1分ほど走れば到着する。
美咲の顔が安堵に包まれた瞬間、頭部に走る激しい痛みとともに視界が真っ暗となり、美咲は気を失った。
その後美咲は激しい拷問にかけられた。たくさんの男たちに殴られ、蹴られ、数十人の男たちに無理やり輪姦された。
そんな日が1週間休むことなく続けられた後、美咲は他国へとあっさり売られてしまったのである。
「うぅ……ひっく。ほんとに……いい子だったの……っ。それが……こ、こんな形でいなく、なって……、やだよお、美咲ぃ」
ここは通りの外れにある隠れ家Bar【Eccentric】。20時オープン、3時閉店。従業員はマスターと呼ばれる店主がひとり。テーブル席はなく6人ほどが座ることのできる小さなカウンターのみという小さな飲み屋だ。
ここには今日も、悩みを抱えたつらい人生を送っている人々が聞き上手な店主に話をしにやって来る。
今日はとあるキャバクラで働く女の子が〝友達〟の話をしにやってきた。話を始めた直後より、女の子は声を上げて泣きじゃくる。
「みんな、美咲のこと……だい、好きだっ……たのに! うわああん!」
*
X月Y日 19:50
ここは六本木に存在するとある路地裏。街灯もほとんどついておらず、人の立ち入りもないこの場所に、スーツを着た大勢の男たちに囲まれた巨体で腹の出ている金持ちそうな男が、帽子を深く被った顔も見えない男とニヤニヤしながら話をしていた。
「そうかそうか、あいつはあっちへ渡ったか」
唾を巻き散らし大笑いする腹の出ている男と行われているのは、多額の金のやり取り。
私服の男から巨大なトランクケースがスーツ姿のひとりの男の手に渡ると「會田さん、御確認を」と腹の出た男の目の前でケースを開く。
「ひひぇひぇ! 愉快だ。あの女、美咲にもこれだけの価値があったか」
男の名は會田。あの名の知れた會田組の組長である。先程『美咲』という商品の取引を終え、その報酬を受け取っている真っ最中であった。
「あのバカ女、あれだけ目を掛けてやったのに簡単に裏切りおって。次期にあいつの家族にも手が回る予定となっているからな、裏切られた分酷い目に遭わせてやらないとな。そういえば、あいつには妹がいたような……。ひひひ、またたくさん可愛がって売り飛ばしてやろうじゃないか」
會田の口元から涎が垂れる。人間の命を何とも思っておらず、自分さえ良ければ良い卑劣な男。
「さて、取引も終わりだ。さっさと帰るぞ」
會田がスーツの男たちに指示を出した。それとともに私服の男も暗闇に紛れて姿を消す。會田がスーツの男に囲まれ、路地裏の先に待機してある車に向かって歩き出したその時――
「あが⁉︎」
背後から聞こえる不気味な悲鳴。
次の瞬間、會田から一番離れたスーツの男の頭部が斜めにずり落ちる。突然の出来事に皆がその場に固まった。「ひえっ!」と會田の情けない悲鳴とともに、男の頭部は大量の血を吹き出し、前のめりに崩れ落ちた。
「な、何事だ⁉︎」
スーツの男たちは會田の周りを囲み、一斉に銃を構え、発砲する。しかし目標に撃たれたはずの弾はすべて壁にめり込み、代わりに黒服の体が次々と切り刻まれ、會田の目の前は大量の血痕で血の海と化す。凄まじい現場に吐き気を催しながら、會田は大量の脂汗を流した。
「ぐえっ!」
「ぎゃあ!」
街灯の届かない暗闇から聞こえてくる無数の叫び声と、多量の血が噴き出る音が路地の狭い壁に反射し辺りに響く。
「な、な……何が……、いったい、何が起こっているんだああ⁉︎」
全身の震えと腹の揺れが止まらない。街灯のほとんどが意味を成していない状況のため、何が行われているのか全く理解ができない。
ただひとつだけ分かるのは、何者かにより自分の部下たちが次々と殺されているということ。
「あ゛」「おげ」と聞き慣れない悲鳴と共に男たちが次々と血を吹き出しながら倒れていく。ひとり、またひとりと、時には3人同時に道路や壁を血痕で染め上げることもあった。
視界不良の中、一心不乱に放たれる銃音。味方である黒服のこめかみに当たってしまうこともあり、現場は一瞬で混乱状態。
そしてついに最後まで會田を守っていた部下も會田の目の前で上半身と下半身が真っ二つに切断された。
すべてが一瞬。ひとりになった會田は腰を抜かし、重たい体重で支えられなくなった体はその場に崩れ落ち、大きな音をたて尻もちをつく。ガタガタと大きく震えたその巨体のせいで、自慢の腹も肉だまりの頬も顎も小刻みに揺れた。
急に静かになった現場で、犯人らしき人の足音が響く。
「ひぃぃ!」と叫ぶ會田。逃げ出したいが思うように体が動いてくれず、大金の積まれたトランクケースを抱え、お尻を地面につけた状態で後退する。
そんな會田に気遣う様子は全くなく、足音は少しづつ會田に向かって近付いてきた。
誰だ、何者だ、と會田の脳裏には入れ代わり立ち代わりたくさんの人の顔が浮かぶ。それだけ周りに恨みを買うほどの悪行を働いたことを詫びることなく、必死に言い訳と自分が助かるための交渉内容を考える會田。
大パニックを起こす會田であったが、ついに會田が目視できる程の明るさのところまで犯人の足が入ってきた。
そして、會田は見ているものを疑った。
これはまるで子供の足。決して成人していると言えないほどの細く幼い足だった。
自分は夢でも見ているのか、実は犯人はもういなくなり子供が迷い込んできたのかと頭の中で思考がぐるぐると回る。
しかし會田はしかと見ていた。この子供が、自分の部下たちを次々と殺していく様を。
「だ、誰からの依頼だ! この前肉親を海外に売り飛ばしてやったせがれか⁉ これともゴミのような会社を潰してやったら借金まみれのまま首を吊りやがったあのクズ野郎の関係者か!?」
やっとの思いでぶつけた今の思い。
しかしここまで言葉を吐き出した後、猛烈な吐き気に襲われ、その場に先程食べた料亭の懐石料理をすべてぶちまけた。
そこら中から臭ってくる血の臭い、殺された部下たちの悲惨な姿、見えている足は子供の足。もう訳が分からず我慢していたものがこみ上げてきた。
大量の冷や汗で服はびっしょり濡れており、唇は酸素が足りず青紫色となっている。殺されたくない會田は、スラックスがすり切れるほどコンクリートの地面を這うように必死に後退した。
そして犯人の足が更に一歩前へ出た時、切れかかっていた街灯が一瞬強い光で点灯し、子供の姿を明るく照らす。
會田は目を疑った。
とてもきれいな少年の姿がそこにはあった。
虫さえ殺せないのではと思う程、澄んだ綺麗な瞳。
そんな少年の容姿に、會田はすべての恐怖心と絶望感が吹き飛ばされ、女神様でも見ているかのように心の中で懺悔し、瞬きもせずに見入った。
そして次の瞬間、會田の視界は逆さまになっていた。
「さようなら」
これが會田の、人生最後に聞いた言葉である。