プロローグ
0. 神
2015年X月Y日
東京都六本木。比較的治安も良く、街並みの美しいエレガントな大人の街。高級時計を身につけた会社役員が携帯で話しながら高級車に乗り込み、オフィルカジュアルなファッションに身を包んだ清楚ある女性たちがカフェでお洒落なランチを嗜む。仕事を終えたセレブや芸能人が日々の疲れを癒す歓楽街としても知られ、お忍びで足を運ぶものも多い。
しかしこれらはすべて昼間の光景。
夜になるとバーやスナック、キャバクラなどがネオンの海を作り出し、不夜城の歓楽街と化す。そしてそれらの街に麻薬密売人や反社会勢力のクラスタが紛れ込み、今日も夜通しカモを物色する。
ある者は客を装い、またある者はバーテンダーとして働きながら、またある者は店のホステスとして店に出ながら、バーやスナックの店内で、あるいは店から出た路地裏の死角から獲物を探す。
美しい大人の街である表の世界とは違う、夜の裏社会ではこのような大変悪徳で法外な事件も多い。
そんな事件の中でひとつに、世の中を騒がせている不可解な事件があった。どんなに警察が調査をしても証拠がひとつとて残っていない完璧な殺人事件。普通の一般人ではなし得ないような豪快な切断された犯人の体。
そして殺されたすべての人に共通していることは、ニュースや新聞などで取り上げられた殺人犯や極悪人。世間を騒がせ、震え上がらせてきた人々が次々に謎の死を遂げているのだ。
そんな事件が噂として広まれば、それを崇める者も当然現れる。ちょっとした宗教と化した不思議な事件、人々はそれを〈神〉が起こした立派な制裁だと謳いはじめるようになる。SNSではよく騒がれ、〈神〉を支援する団体まで発足されていた。
そして今宵も、そんな〈神〉による制裁が実行されようとしていた。
・・・
同日 20:00
「ひい……っ! た、たすけっ!」
助けを乞う腹の出た金持ちそうな男。この辺りでは大変目立つ真っ赤なスーツに身をまとい、指についた高級時計やダイヤモンドの指輪が土埃で光沢を失っていく中、男は必死に目の前の黒い影に必死に命乞いをする。
男の視界の先にいるのは、全身黒づくめのフードを深く被った背丈の小さな子供だった。
そこはネオン街から少しだけ離れた裏路地。よく麻薬の密売などの裏取引が行われていると噂のこの場所は、一般人はほとんど寄り付かない。そんな冷たい空気が流れる路地の街灯のほとんどは電球も切れており、いくつも生えるその公共物は本来の機能を果たしていない。
等間隔に置かれたその街灯のひとつが、腹の出た男の上で今にも消えかけている命のように、ついたり消えたりと点灯を繰り返す。
そんな誰も近寄らず、行政すら手入れを怠るほどの場所で男の悲鳴がこだました。
「頼む! なんでもするから、いのっ、命だけは……! うっ、おええぇっ」
必死に頭を下げ、拝みながら命を乞う叫びを上げたが、男は現場の状況に耐え切れず、たまらず嘔吐物を吐き出した。
タイミングよく強く点灯した街灯の僅かな電力により、照らされた辺りの光景。まるで世界が赤く染まったのではないかというほど一面塗り上げられた多量の血液。そして、子供の背後に転がる無数の死体の山。街灯に照らされ、確認がとれるだけでも20名ほど。四肢を切断され、人間の形を失った護衛の男たちがなんとも無残な姿となって地面に転がっていた。
両端にそびえ立つ壁のおかげで空気の入れ替えがほとんど不可能なその場所では血の匂いが充満しやすく、金持ちの男は再びこみ上げる吐き気に両手で口を押さえ、そしてありったけの声量で叫んだ。
「だ、誰からの依頼だ! この前肉親を海外に売り飛ばしてやったせがれか⁉ これともゴミのような会社を潰してやったら借金まみれのまま首を吊りやがったあのクズ野郎の関係者か!?」
あまりにも思い当たる節がありすぎるせいか、思いつく限りの名を羅列する。
しかし子供はそれは誰だと言わんばかりに首を傾げ、小さい歩幅で腹の出ている男に向けて進みはじめた。同時に腹の出た男も吐瀉物の混ざった涎を垂れ流しながら腰の抜けた重たい体を動かし何とか後退する。
そんな生死が問われる非常事態にも関わらず、先程取引で受け取った多額の金が詰め込まれたトランクケースを後退の最中手に取り、これは渡さないといった険しい表情で前で抱きしめる。
そんな醜い肉の塊に何も言わずにゆっくりと歩み寄っていく子供。靴の音にさえ身を震わせるほど恐怖し、「来るなぁ‼︎」「寄るなぁ‼︎」と大量の唾とともに叫び散らす。
子供が右手で持つ小型ナイフの刃先についた血が下垂れ落ち、地面に血の跡を残していく。自分に歩み寄ってくる恐怖と戦っていた男はついに自暴自棄となり、トランクケースを子供に向かって振り回し始めた。
腹の脂肪を揺らしながら必死に抵抗する男。涙と鼻水にまみれた弱々しい表情で大声を上げながら何とか助かろうと最後の足掻きを見せる。
しかし少年の足は進み続け、そして男の目の前で止まった。真っ暗な闇で表情の見えない子供が自分を見下ろすほど距離を詰められ、死を目の当たりにしたのか上下の歯がガチガチと音を成すほど震え出す男。
そして次の瞬間、僅かな点滅を繰り返すだけだった街灯が強く辺りを照らす。逆光ではあったが、ぼんやりと映し出されるフードの中身。
「なんと……」
男は固まった。
殺人鬼の状態は、まだ幼い少年。中性的で整った顔立ち。容姿に似合わない真っ黒な衣装。
殺人鬼という言葉が似合わないほど、純粋無垢にあふれた雰囲気に、男はじっと少年を見入った。目が離せなかった。街灯も機能していない真っ暗な路地裏に差し込む光のような存在に、男は余すことなくこの目に焼き付けようとまぶたを開き、眼球を剥き出しに少年を見つめた。
まるで今までの悪事を〈神〉に反省するかのように脱力した体で膝をつき、だらりと垂れていた手を合わせようとした。
そしてそれは一瞬の出来事。
男の視線はぐるりと反転していた。「え?」という驚きの声が小さく漏れる。
少年はその場から一歩も動かず男の首をはねていた。少年の持つナイフから男の鮮血が地面に滴れ落ちる。
首の無くなった巨大な体はアスファルトに向かって重力の赴くままに倒れ、更に噴き出した血で辺りは真っ赤に染まっていく。勢いで倒れたトランクケースからは札束が飛び出て辺りを男の周りを金で覆い尽くした。
閃光の速さで断たれた神経はまだ体の異常事態に気づいていない。まだ意識がはっきりと残る男の首は、地面に転がり、近くのゴミ箱に当たると血が吹き出している自分の巨体に視線を向けた状態で止まった。
いったい何が起こったのか分からない男が瞬きを数回すると、少年は男の方を振り向いて小さく呟いた。
「さようなら」
そして男の視界は、この言葉を最後にブツンと音を立てて途切れた。