第100話、算数
両軍とも沈黙し、谷間には静けさが満ちていた。
「何とか助けることはできませんか……グラン将軍は共和国軍でずっと一緒だった上官なのですよ」
ジョンソン連隊長が哀願するように榎本さんを見た。
しかし、彼は首を振る。
「それは……できない相談です。敵の脅しに屈するということは共和国の滅亡を意味します。それは将軍も望んでいないはず……」
連隊長は口をギュッと結んだ。
気まずい雰囲気を切るように、敵側から声が発せられた。
「私はグラン将軍である! ジョンソン連隊長、今は君が軍をまとめているのだろう?」
双眼鏡で見ると、縛られている将軍が叫んでいた
「頼む、助けてくれ! 帝国の言うことを聞かないと、捕虜にされている五千の兵が殺されてしまうのだ」
顔を真っ赤にして将軍の必死の哀願だった。
連隊長が榎本さんに、すがるような視線を送る。
「軍師殿……何とかできませんか……」
しかし、やっぱり榎本さんは首を横に振るだけ。
「そんなに簡単に捕虜を殺すことはしません。交渉のカードとして役に立つし、共和国の情報を得るためのニュースソースでもあるからです。それに五千の捕虜を皆殺しにしたら共和国は激怒して徹底抗戦するでしょう。捕虜虐待など、戦歴の長い帝国軍が、そんなバカなことはしませんよ」
榎本さんは淡々と説明する。でも、もし、野田や香奈恵が人質になったら、俺は同じような判断をすることが出来るだろうか。
しばらく黙って敵を見ていた榎本さんが言った。
「攻撃しましょう」
「えっ!」
皆が一様に驚く。
「ジョンソン連隊長、攻撃の用意を」
しかし、連隊長は目を見開いて言葉が出ない。
「こちらに敵の要求を受け入れる余地がないことをはっきりと示すのです」
「ちょっと待ってください! 将軍を……味方を攻撃するというのですか……」
連隊長が詰め寄る。
「はい、そうです」
何事もないように榎本さんはうなずく。
「あんたは何を考えているんだ! 俺は味方を殺すことはできない。それも共和国の将軍だぞ。結局、あんたは部外者だからそんなことが言えるんだ!」
連隊長が怒鳴る。軍師に対する敬意は吹っ飛んでいた。
「しかし、ためらって攻撃しなければ、将軍には人質の効果があると敵に思われてしまいます。そうなれば、これから何度でも人質カードとして使われてしまうでしょう。そうさせないためにも弓矢で攻撃するのです」
冷徹だ。南極の氷のように冷たくて冷静な榎本軍師。
「攻撃すれば将軍は死ぬかもしれません。いや、死ぬでしょう。しかし、毅然として交渉を蹴ることにより人質の意味がなくなり、帝国は価値の低下した残り五千人の捕虜には手を出さないと思います。一人の犠牲で多くの命が助かれば良い、簡単な算数の問題なのですよ」
「しかし……」
うめくように言う連隊長。
ああ、ああ……榎本軍師は生まれながらにして軍師だったのだ。
非凡な人間には榎本さんのような真似はできない。人の命を足し算引き算で計算することなど、尋常な人間にできることではない。しかし、このような究極的な状況だからこそ簡単な算数として計算しなければならないのか……。




