百合営業声優の受難
【登場人物】
神楽愛依:新人女性声優。21歳。羽衣とコンビを組んでいる。ツンデレ百合担当。
天遣羽衣:愛依と同期の女性声優。羽衣と活動するうちに恋心を抱く。おっとりS系百合担当。
近年、百合市場は拡大の一途を辿っている。
昔からある程度の需要はあったのだけどここ最近ではマンガやアニメへの進出が目覚ましい。それはおそらくSNSやマンガ投稿サイトに気軽に作品が投稿でき、またそれを共有する同士が集まりやすくなったという、ユーザーの利用メディアの変移によるところが大きいだろう。
この波にあたしたち声優も乗らないのはもったいない。
事務所の指示によってあたし神楽愛依は同期の新人声優の天遣羽衣とコンビを組むことになった。
コンセプトはずばり、百合好き声優二人によるいちゃいちゃ、だ。
百合アニメのダブル主演という華々しいデビューを飾ったあたしたちは、一躍人気とまではいかなくても新人としては多くのファンがついてくれた。主題歌や円盤の販売数も上々で、あたしたち自身のグッズも色々と発売することが出来た。
そのアニメが終わったあとも百合モノのドラマCDに呼ばれたり、仲のいい女友達二人を任せられたりと今のところは仕事も順調だ。けれどそれは今のうちだけ。
声優は仕事を始めてから三年間、ジュニア期間という一番安いギャラでのみ働ける期間がある。どんな短いアニメの端役でも長尺の洋画のヒロインでも一律一万五千円。マネージメント料で20%ほど引かれたりして手取りはもっと少なくなる。
そしてその三年を過ぎると単価が上がったり長尺での補正がついたりでギャラが高くなる、いわゆるランクがつくというやつなんだけど、これが仕事が減る原因でもある。少ない製作費のなか現場が安い声優を求めるのは当然なわけで。ランクがついてしまった声優を呼ぶよりかは安いジュニアを二・三人呼ぶ方がいいと考える人もいたりするくらいだ。有名になった中堅以降の方々ならまだしもデビューして数年なんて技術もそこまで変わるものではない。だからジュニアの声優はランクがつくまでになんとしても監督や音響監督の人達とコネを作り、ランクがついて以降も呼ばれるように努力をし、また技術以外――容姿や歌唱力やキャラクターを磨き少しでも自分の価値を上げていかなければならない。
私だってこの世界で長くやっていきたいと思っている。今は百合声優として売れていてもそれでずっとやっていけるわけでもないし、百合声優を足掛かりに色んな仕事をこなして人気を確かなものにしていきたい。
BLで人気が出て現在活躍している男性声優も結構多いが、言うなればそれの百合版を目指せばいいわけだ。
道程は険しく長いがやってやれないことはない。
「お疲れさまでしたー。お先に失礼します」
web配信のラジオ収録を終えた夕方、マネージャーと別れてあたしたちは駅前のファストフード店で反省会をすることにした。
「あのお便り読むとこはもうちょっとうまく絡めたよね」
「愛依のツンが弱いとこあったからもっとメリハリつけてもよかったって思う」
百合声優コンビとしてあたしと羽衣はそれぞれがキャラをつくっている。
あたしはツンデレ百合。普段は愛依に対してツンツンしているが時々デレを見せて愛依といちゃつくのが役割。
羽衣はおっとりS系百合。マイペースに振る舞いながらもあたしの精神を攻め、デレを引き出すのが役割。
元から特徴的なキャラを持つ人ならそのままでいいんだけど、あたしたちみたいなザ・普通の人が普段どおりに喋っていても面白くない。
百合声優というキャラ付けさえあれば話の展開も作りやすいし何よりリスナーやファンの人達に楽しんでもらえる。もちろんあたしたちの百合がただのキャラ付けに過ぎないことを分かっている人ばかりだけど、それでも楽しんでくれている彼ら・彼女らの期待に応えるのはプロとして当然のことではないだろうか。
「あ、写真あげなきゃ」
羽衣があたしにスマホを手渡してきた。「はいよ」とそれを受け取って、カメラを起動し羽衣に向ける。
昨今の声優やタレントはSNSでも積極的にアピールやファンサービスをするのが当たり前になってきている。あたしたちも出演したアニメ関係のリツイートや感想を頻繁に呟くほか、日々のちょっとしたことでも呟いたり写真をアップロードすることでフォロワーや新規ファンの確保を狙っている。チェックが面倒だったりもするけれどこれも仕事だと考えれば全然苦じゃない。
羽衣がポテトを咥えてカメラに向かってピースをした。後ろの客の顔が入らないように調整して羽衣を画面の中央に捉える。
おっと忘れるところだった。
「羽衣、手、こっちに伸ばして」
テーブルの上に羽衣の空いている方の手を持ってこさせる。その指にあたしは自分の指をそっと絡ませた。
再度スマホの位置や角度を調整してあたしたちの指が画面の端っこに映るようにする。あくまでも偶然映りこんでしまった風を装うわけだ。
よし、良い感じ。
「じゃあ撮るよ」
数枚連続で撮ってから羽衣にスマホを返す。一番映りの良かったのを羽衣がツイッターにアップしてくれる。
今度はあたしのスマホを羽衣に渡して逆のことをする。
けれどここでも自分のキャラを忘れてはいけない。にっこりとカメラに映ってはツンデレとして失格だ。あたしはシェイクのストローを咥えたまま視線をカメラから外してむすっとしてみせた。嫌々撮られているように見せるためだ。しかしあたしの片方の手は机の上に伸びて見切れている。これがどういう意味を持つかは、二人で一緒のタイミングでツイートをすることで分かるというわけだ。
『ラジオ後の反省会にて』とそれぞれが写真つきで呟くと瞬く間にリプやファボの通知が飛んできた。
案の定『指がいちゃついてますよ!』とか『はいはいツンデレツンデレ』とか『二人の反省会を近くで眺めたい……』といった反応ばかりだ。こちらの予想通りの反応を返してくれるのは嬉しい。それだけファンの人達が喜んでくれているということだから。
やるべきことも終わってあたしは背伸びをした。
「じゃあそろそろいこっか」
「うん。このあとどうする? 今日からうちに来てもいいよ」
明日に予定されていた仕事が急にキャンセルになり、あたしは羽衣の家に遊びに行くことになっている。家デートとかそういうことではなく台本を読み合わせたり今後の仕事の打ち合わせをする為だ。
うちに来てもいいよとは今日から泊まりでもいいよと言ってくれているわけなんだけど。
「あー、そのことなんだけど」
あたしはカバンにスマホをしまいながら続ける。
「高校の時の友達がこっちに来るらしくって、久しぶりに会うことになったからやっぱりナシでいい?」
「……え」
「まぁ読み合わせは直前でも出来るし問題ないよね」
「…………」
「羽衣? 聞いてる?」
「え、う、うん」
羽衣の様子がどこかおかしい。そんなに打ち合わせをしたかったのだろうか。
「もし確認したいことがあったらラインで聞いてくれれば答えるからさ」
「それは大丈夫だけど……えっとね、明日の分のご飯の材料買ってあって……」
「あぁそういうこと。ごめんごめん、いくらかかった? 折半するから教えて」
「お金はいいよ。それでね、もしよかったら今日作るから食べにこない?」
「え、いいの?」
「もちろん」
なんて良いやつなんだとあたしは感激した。ご飯の材料を用意していてしかもそれを無償で振る舞ってくれるなんて。あたしは羽衣の好意に甘えることにした。
「なんか手伝うことある?」
「じゃあ野菜剥くの手伝ってもらっていい?」
「了解」
そのまま羽衣の家に行ったあたしは夕飯を作るのを手伝った。
メニューは肉じゃが。本当は明日のお昼ごはんを肉じゃがにして余ったのを夜にカレーにするつもりだったらしい。
羽衣は圧力鍋で肉と野菜を炒めてから調味料を入れて蓋をした。蒸気が噴き出ると共においしそうな匂いが広がった。
少ししてから羽衣が火を止める。
「このまま十五分くらいすれば出来上がりだけど、ご飯が炊けるの待ちだね」
「すっごい手慣れてんじゃん。羽衣ってそんなに自炊とかしてたっけ」
「練習したの。愛依に食べて欲しいから」
「あは、そのセリフいいね。今度のラジオで使おうよ。あたしはどうしよっかな。『まぁまた食べてって言うなら食べに行ってあげてもいいけど』とかよくない?」
手を洗う羽衣の後ろを通り、あたしは居間に戻る。
――突然後ろから押された。
「っ!」
肩を掴まれて反転させられ、背中を壁にぶつけた。急に何が起こったのか。戸惑うあたしの目の前には両手を逃げ道を無くすように壁につけた羽衣の姿があった。手からはまだ滴が垂れている。
「どうしたの羽衣……?」
伏せがちの羽衣の目には前髪がかかっており、あたしを射竦めるような眼差しはどことなくホラーっぽさを感じさせる。
羽衣がかすれた声で呟いた。
「……なんで」
「え?」
「なんで私よりも他の子を大事にするの……?」
「えっと……」
これは明日の予定のことを言っているのだろうか。さっきまで和気藹々と料理を作っていたギャップにたじろぐ。
「私と一緒にいるよりもそのお友達と一緒にいる方が楽しい? ねぇ、私とは一緒に居たくない?」
「違う、別に羽衣をないがしろにしてるわけじゃなくて――」
「私がこんなに愛依のことを想ってるのに愛依は他の女にうつつを抜かすんだ……ひどい、ひどいひどい」
顔が近づいてくるにつれてどんどん恐さが増してくる。邦画のホラーでよく見るやつだ。
「う、羽衣、ちょっといったん落ち着いて」
「ふふ、うふふふふ、うふふふふふふ……」
不気味な笑い声をあげる羽衣。情緒が不安定すぎる。
あたしはしばらく笑い続ける羽衣を観察し、やがて笑い疲れて真顔に戻ったところであたしを囲む腕をぽんと叩いた。
「で、どしたの? それ何のキャラ?」
「最近同人誌で読んだヤンデレ百合の女の子」
羽衣は腕をどけてけろりと答えた。すでにいつもの様子に戻り、濡れた手をタオルで拭いている。
「確かにヤンデレっぽかったけどやりすぎるとただのホラーになっちゃって微妙かもね。もしやるならたまにヤンデレをみせるくらいがいいかも」
演技に対してダメ出しをするのは役者の性だ。そうでなければ芸事は上達しない。
「愛依は恐かった?」
「ちょっとね。電気消して羽衣が黒髪ロングの白装束姿だったらもっと恐かった」
「それもう貞子だよね」
「ホラー百合声優として活躍できるかもね。マネージャーがオッケー出してくれるかは知らないけど」
「絶対出さないと思う。っていうかホラー百合ってなに?」
「そりゃ恐い話と百合を掛け合わせたまったく新しいジャンルよ」
「ヤンデレサイコレズみたいな?」
「うーん、サイコとホラーって似てるようで違う気が。まぁサイコも怖いのは怖いんだけどさ。ちなみにそのヤンデレ百合の同人誌ってここにあるの?」
「うん。愛依も読んでみる?」
「せっかくだし読んでみようかな」
「そこの本棚の一番下」
「ありがと」
あたしは四つん這いになって本棚を探し始めた。後ろから羽衣の声が聞こえる。
「そのヤンデレ百合って、好きになり過ぎた女の子が友達を監禁しちゃうんだけど」
「ちょっと先にネタバレしないでよ~」
苦笑交じりに背中に言葉を投げる。けれど羽衣の声のトーンは変わらない。
「それを読んで気付いたんだ。そっか、勝手にどこかに行ってしまうなら手元に置いておけばいいんだって」
カチャ、と音がしてあたしの左手首に冷たいものが触れる。
それは手錠だった。
きょとんと止まってしまったのが悪かった。羽衣が背中から抱き着いたかと思うとあたしの両手を取って後ろに持っていった。バランスを崩してあたしは肩と顎を床に打ち付ける。
「――ぃった! ちょっと羽衣!」
再びカチャ、と音がした。嫌な予感がして両手を引っ張ってみると何かで繋がれているのが分かった。
「羽衣! なにこれ!? 離してよ!!」
思いきり体を捻って抵抗すると羽衣が背中からどいて軽くなった。立ち上がりたかったが後ろ手で固定されているためうまく動けず、仕方なく突っ伏したまま肩越しに振り返った。お尻を突き出すような体勢でなんとも不格好だ。
「羽衣、今度はなに? またキャラの真似? 返答しだいでは怒るからね」
あたしが凄んでみせても羽衣は眉ひとつ動かさなかった。
「悪いのは愛依の方だよ」
「は?」
「私がこんなにも愛依のことを想ってるのに気付いてないフリなんかして」
「またさっきのヤンデレキャラ? それはもういいって」
「キャラじゃないよ。私の本当の気持ち。愛依のことずっと好きだった」
「…………それはネタとかじゃなくてマジで?」
「大マジだよ。でも愛依もおんなじ気持ちなのは知ってるから」
あたしは肩の痛みも忘れてぽかんと羽衣を見返した。
「あ、あたしたちの百合好きはそういう設定でしょ?」
「最初はね。でも仕事を通して一緒に活動するうちに愛依も恋心が芽生えていったんだよね?」
「芽生えた覚えないんだけど」
「嘘! この前だってラジオで『私のこと好き?』って聞いたら顔を赤らめて『言わなくてもわかるでしょ』って言ってくれたのに!」
「だ・い・ほ・ん! 羽衣だって打ち合わせいたでしょ!?」
「そんなごまかし聞きたくない!」
「いや頼むから聞いて……」
不意にあたしの腰に羽衣が触れた。羽衣の指先があたしの腰からお尻の方へと移動していく。
「素直になってくれない悪い子はおしおきしないといけないなぁ」
身の危険を感じてあたしは拘束された腕を振り回しながら叫んだ。
「くっ! いやらしいことするつもりでしょ!? エロ同人誌みたいに! エロ同人誌みたいにっ!!」
「えぇ……愛依めっちゃノリノリじゃん」
「いやー、こんな状況一生に一度あるかどうかだし、どういう感じの声になるか試そうと思って」
これは声優としての性だ。マイク前での演技をする際、体を大きく動かすとノイズが入ってしまう。アニメ収録なんかだと演者の入れ替わりが激しかったりするのでそもそも体を動かすことが出来ないことも多い。だからあらかじめ『腕を拘束されたときに出る声』なんかを覚えておけば、同じような場面を演じるときに役に立つ、というわけだ。
「よかった。愛依がそっちの趣味なのかと思っちゃった」
若干引いていた羽衣がほっと胸を撫で下ろした。自分からこんなシチュエーションに持っていったくせに。
あたしは気持ちを切り替えて提案する。
「羽衣もやってみたら? ほら、エロゲとかで活かせる機会あるかもよ?」
「その手には乗りません。今のところはまだそっちの仕事はやるつもりないし」
ちっ、と胸中で舌打ちした。引っ掛からなかったか。
ちなみにゲームの仕事のギャラは喋るワード数に応じて決まるのでエロゲのように文量が多いものだと一本で数十万円というのも珍しくない。そっちを本業として活動している人もいるくらいだ。
それはともかく。
さっきからあたしのお尻を撫で回している羽衣に向かって言った。
「肩痛いから体起こして」
「あ、うん」
座椅子に座りとりあえず落ち着いたところで――いまだ手錠を掛けられているので落ち着けるわけはないのだけど、とりあえず。
「羽衣がどれだけあたしのことを好きでいてくれても、あたしにはパートナー以上の感情はないの? わかってくれる?」
「パートナーって同性愛者の間でも使うよね」
「ビ・ジ・ネ・ス、パートナーね」
「うぅ……」
「いいからそろそろ手錠外してくれない?」
あたしが言うと羽衣は鍵を取りだした。そして自分の胸元のボタンを二つ外してその鍵を胸の間に入れた。
得意げな羽衣をみてあたしは率直な感想を呟く。
「羽衣……挟めるほど胸あったっけ」
「ほっといて! ほら、欲しかったら口で鍵を取ってみなさ――」
言葉が終わる前に顔から羽衣の胸に突っ込み押し倒した。そのまま胸の間を唇で探す。
「ちょ、愛依! 躊躇なさすぎ!! もっと恥じらいとかないの!?」
「恥じらいで手錠が外れたら苦労せんわ!」
羽衣の嬌声にも似た叫びを聞きながら五分くらい格闘し、ようやく鍵を手に入れた。
「ん」
唇で鍵を咥えたまま羽衣に見せる。早くこれで手錠を外せと。
羽衣は仰向けに倒れ込んだまま息を荒げていた。
「……はぁ、はぁ、愛依、結構激しいんだね……」
げしと羽衣を蹴る。
「痛い!」
「んんー!」
いいから早くしろ、とあたしが口を突き出すとその鍵を羽衣が奪い取った。
「鍵を取れとは言ったけど、取ったから手錠を外すとは言ってませーん」
「はぁ!? ずっる!」
「知りませーん」
「遊ぶのもいい加減にして。あんまり遅くなる前に帰りたいの」
「それで明日は別の女の子と遊ぶんでしょ? じゃあヤダ。帰さない」
「羽衣……」
「『そんなにあたしのことが好きだなんて……あたしも羽衣のこと好き!』ってなった?」
「いやならんけども」
「えぇ~。そろそろ私の愛の大きさに気付いてほだされる頃合いじゃないの? あ、愛って愛依の名前のことじゃなくてラブの方だからね」
どうしたものかと考える。羽衣のこの様子だと少なくとも明日の予定をキャンセルしない限りは帰してくれそうもない。いや、家に帰すと結局あたしが遊びに行く可能性があるから明日までここで拘束しておくのが目的だろう。
ちょっと精神的に揺さぶってみようか。あたしは口を開いた。
「……羽衣の気持ちはすごく嬉しいよ。嫌われるよりは好きでいてくれる方が何倍も嬉しいし、百合声優として売っていくなら仲が良い方が絶対良い。でも――」
意識して真剣な表情を作りまっすぐ羽衣を見つめる。
「こうやって自由を奪って閉じ込めることで、あたしに羽衣への愛が芽生えるって本気で思ってるの? 愛情っていうのはもっとこう、一緒に過ごして相手のことを知り徐々に積もっていくものじゃないの? 少なくとも羽衣はそうやってあたしを好きになってくれたんだよね?」
羽衣がこくりと小さく頷いたのを見て、あたしも頷く。
「じゃあこんなやり方じゃ相手を好きになるどころか嫌いになるかもしれないってことも分かるよね? こんな拘束なんかなくたってあたしは逃げないし羽衣とちゃんと向き合っていくから。だからお願い。この手錠は外して? 実はさっきから手首が痛くって……」
「…………」
羽衣が目を逸らした。よっしゃ、効いてる効いてる。いくらヤンデレっぽくしていても羽衣の性格的にあたしを傷つけるようなことをしたいわけがないんだ。
「愛依」
「なに?」
「手錠外しても逃げない?」
「逃げるわけないじゃない」
嘘だ。速攻で逃げる。
「もし逃げたらコンビ解消だからね」
「え……」
予想外の言葉に作っていた表情が固まってしまった。まずったと思ったがもう遅い。羽衣があたしを見て頬を膨らませる。
「嘘つき」
どうやら今日はもう家に帰れないらしい。
羽衣に頼んで明日会う予定だった友達に急な仕事が入ったから、とキャンセルの連絡を入れてもらった。それで解放してくれるかと思いきや、『どうせあとでまた会う約束するだろうから帰さない』と突っぱねられてしまった。まぁその通りではあったのだけど。
台所の炊飯器からご飯が炊き上がった音が聞こえた。すると思い出したようにあたしのお腹が鳴った。あたしの腹の虫の声を聞いて羽衣が微笑んだ。
「ご飯食べたい?」
「そりゃあね。本当はその為にここに来たんだし」
精一杯の皮肉を込めたが羽衣には効果はなかった。
「そうだなぁ、じゃあ私のこと好きって言ってくれたらご飯食べさせてあげる」
「好き。大好き。愛してる」
「セリフ走り過ぎ。感情が薄い。もーいっかい言って」
「……羽衣、大好き」
こちとら伊達に百合アニメで主役を張ってない。瞬時に気持ちを切り替え感情を込めて呟いたあたしの告白に羽衣が悶えた。
「あぁっ、演技だって分かっててもこんなに嬉しい……!」
「はいはい、じゃあご飯食べよ。手錠は外さなくていいからせめて腕を前に持ってこさせて」
「え? 食べさせてあげるって言ったんだから私の手で食べさせてあげるんだよ?」
まじかこいつ。
あたしの眉間がぴくぴくと動くなか、羽衣が鼻歌交じりに晩ごはんを用意しにいった。
食事中はまるで幼児になったような気分だった。
どれが食べたいかをリクエストして羽衣がそれを箸で掴みあたしの口へ持ってくる。熱いものはふぅふぅと冷まし、大きい野菜は箸で崩してくれた。お茶はストローで飲み、口元が汚れるとその都度ティッシュで拭ってくれた。
食事が終わると羽衣がにこやかに聞いてきた。
「おいしかった?」
「味はね。それ以外の要素のせいで台無しだったけど」
「私は愛依に食べさせるの結構楽しかったけどなぁ。病気で寝込んだりしたらおかゆとかまた食べさせてあげたい」
「手錠さえなきゃ自分で食べるよ……」
「またまたー」
いやまたまたじゃなくて。
食器を片付けていた羽衣をぼんやり見ていたとき、不意に自身の体のとある予兆に気が付いた。
まずい。これは非常にまずい。
緊迫に拳を固く握り、あたしは羽衣に呼びかけた。
「う、羽衣」
「なに?」
「ひ、非常に由々しき事態が近づいてきているので、手錠をほんの数分だけ外してもらえない? 家を出ていったりしないし、心配なら財布預けとくから」
「由々しき事態……、――!」
あたしの状況に気付いた羽衣がいたずらっこのような笑みを浮かべて近づいてきた。
「どっち?」
「え?」
「だから、どっち?」
なんという辱めだろうか。あたしは顔を背けてごにょごにょと口を動かし、「し、しょ……の方」とだけ答えた。
「そっかぁ、じゃあトイレ行こうか」
立たされてトイレへと連れていかれる。
「え、あ、手錠――」
「大丈夫大丈夫。私が拭いてあげるから」
「ふ――」
まじか。まじかこいつ。こいつまじか。
「う、羽衣さん、それはあの、人としての尊厳がですね……」
「どうせあと六十年くらいしたら誰かのお世話になるかもしれないんだからその予行演習ってことで」
「本番まで長すぎるでしょ!」
「それにほら、うちウォシュレットだから」
「ウォシュレットだからなに!? いや言いたいことは分かるけど!」
「お互いの恥ずかしいところを知ってこそ仲が深まると思わない?」
「深くなりすぎて割れるわ!」
あたしの叫びもむなしくトイレへと押しやられ、そして……。
…………。
トイレから戻ったあたしは水の流れる音を聞きながら心で涙を流した。
「もうお嫁に行けない……」
「私が貰うんだから心配しなくていいよ」
「あーはいはい」
「もぅ、別にじっくり見たわけじゃないんだからそんなにダメージ受けなくても」
「見る見られるの問題じゃないでしょ! ふ、ふ、拭かれて――」
「そんなに言うなら私に同じことする?」
「羽衣の場合は喜びそうだからヤダ」
「えぇー」
そのとき玄関の方から電子音が聞こえてきた。羽衣が音の方向を見たあと満面の笑みを浮かべた。
「お風呂沸いたみたい。その状態じゃ危ないからもちろん一緒に入るよね?」
もう好きにしてくれ。あたしは口から乾いた笑い声が漏れ出ていった。
ポジティブに考えよう。
このご時世、手錠を後ろ手に掛けられたままお風呂に入った人間がいるだろうか。いやいないはずだ。特殊なプレイを除いて。
希有な体験というのは将来何かしら役に立つ。芸事においては演技に活かせるほか、トークのネタとしても使うことができる。
そも使う機会が来るのかどうかは別にして。
お風呂から上がり、体の隅々を羽衣にタオルで拭かれ、羽衣の下着とスウェットを着たあたしは今羽衣の膝の上で歯を磨かれていた。
「まるで愛依のお母さんになったみたいだね」
のんきに笑っているけど後ろ手で仰向けになっている身としては体勢がきつくて仕方がない。
「ん~!」
いいから早く終わらせて、と訴えるが羽衣は慈愛の笑みを浮かべるばかりだ。
こうなれば無理矢理終わらせるしかない。
あたしは口を閉じて歯ブラシを強く噛んだ。これでもう歯磨きは出来まい。
「こーら、まだ終わってないんだから口を開けなさい」
ぺちぺちと頬を叩かれる。あたしは駄々をこねる子供か! 二十歳越えてるんだっての!
無事歯磨きも終わり、残すところは就寝だけになった。
さすがに寝るときに後ろ手だときついと分かってくれたようで、ようやく手錠を前側に変えてくれた。手錠を嵌めたまま寝るのがそもそもきついという意見は通らなかったが。
シングルのベッドにあたしと羽衣は顔を向かい合わせで横になった。
あたしの顔を見て羽衣がふふと笑う。
「なにが面白いの?」
「面白いんじゃなくて嬉しいの。愛依と一緒のベッドで寝られて」
「変なことしたら叫ぶよ。あたしの本気の声量知ってるよね? 殺人現場見たのかレベルのハイトーンで壁貫通させるから」
「しないよー。でも愛依は私に変なことしていいよ」
「するわけないでしょ」
「えぇ~」
「ほら、電気消して。さっさと寝るよ」
「はぁい」
部屋が暗くなり常夜灯の橙の光がほのかにあたりを照らした。
あたしは目を瞑りしばらく待った。目の前から一定のリズムで小さな寝息が聞こえ始めたのを確認してから目を開ける。
思っていた以上に早く寝てくれたようだ。普通こういうときはドキドキして眠れないとかなるんじゃないかと思ったけど、さっさと寝てくれるならそれに越したことはない。
寝たフリのことも考えて行動に移すのはもう少し待った方がいいだろう。
手錠をしたままでもスマホが使えるならなんとかなる。まずはベッドを抜け出してマネージャーあたりに連絡して――。
「逃げるの?」
さっきまで眠っていたはずの羽衣が、あたしを見つめていた。暗さに慣れたあたしの目は少し寂しそうな羽衣の表情を見逃さなかった。
「いいよ、逃げても。私がやってることがただの独りよがりでしかないって分かってる。でも、愛依の気持ちを確かめたかったの」
羽衣が胸元から手錠の鍵を取り出した。
「はい、この鍵もあげる」
「……いいの?」
「うん。もし愛依が出ていったとしてもコンビ解消なんてしないから安心してね」
あたしが鍵を受け取ると羽衣はかすかに微笑んだ。
「高校のお友達、まだ間に合うなら今からでも連絡して。それと迷惑を掛けてごめんなさいって謝っておいて欲しいな」
そう言って羽衣があたしに背を向けた。
顔が完全に向こうを向いてしまう直前、確かに見えた。羽衣の目尻に溜まった水の粒が。
羽衣の泣く演技は今まで何回も見てきたし、実際に泣いているところを見たこともある。けれど涙を流しているのに声は泣いていないというのは初めて見た。それほどまでに今の会話は自然だった。
あたしは持った鍵を所在無く弄んでから、息をゆっくりと吐いた。
今日の羽衣の行動に対しては色々と言いたいことはある。たとえあたしへの好意が理由だとしても相手の気持ちを無視していいわけがない。
ただ、それら全てを反省して、さらには自分の泣いているのを悟られないように気丈に振る舞うその姿を、ちょっと、本当にちょっとだけ大切にしてあげたいと思ってしまった。
それが愛と呼ばれるものなのかは今のあたしには分からない。けれどこの気持ちに気付かないフリを出来るほどあたしは自分勝手に生きていない。
「羽衣」
哀しそうな羽衣の背中に話しかける。
「あたしって今誰とも付き合ってないんだよね。だからその、羽衣が良かったらあたしに好きな人が出来るまでって条件でなら、付き合ってあげても、いい、よ……」
言いながら恥ずかしさに顔が熱くなってきた。あげてもいい、なんて上から目線にも程がある。けどそんな言い方をしないとまともに伝えられそうもなかった。
羽衣が振り向いた。涙の溜まった目が大きく見開かれている。
「今の、本当?」
「本当――けど勘違いしないでよ。あたしに好きな人が出来たらすぐ別れるからね」
「それ、ツンデレのときのセリフみたい」
くすくすと笑われてあたしの顔の温度がまた上がる。
「うるさい。今のは意図してない」
「じゃあ天然のツンデレだ。そのうちデレ期が来てくれるかな?」
「そうなる前に別れてるかもね」
「なら別れる前に私のこと好きになってもらわなくちゃ」
「言うじゃん」
「でしょ~? 好きなった?」
「それは調子に乗り過ぎ」
えへへと笑う羽衣にふと思いついたことを話す。
「明日さ、もし向こうがオッケーだったら羽衣も一緒に行かない? それだったら他の女の子と遊んでるってことにならないでしょ」
「いいの?」
「それを決めるのはあたしじゃない。まずは聞いてからね。ってことで電気つけて。あと手錠外して。鍵だけ渡されても届かなくて開けられないっての」
明るくなった部屋で慌ただしく動きながら、これからの羽衣との仕事がどうなっていくだろうかと考えた。
百合声優としてはある意味望まれた結果ではあるけれど、じゃあそれをいつカミングアウトするのかという話で。やっぱりこういうのは言わない方がいいか。でもマネージャーには一応伝えておいた方がいいかもしれない。
まったく。仕事も仕事以外も大変そうだ。
友達からの返事を見せて喜ぶ羽衣を眺め、あたしはやれやれと息を吐いた。
百合声優をやるのも楽じゃない。
この日以降ラジオの掛け合いの最中に羽衣がたまにヤンデレを見せるようになり、それがまた好評でファンが増えたとかなんとか。
〈おまけ〉
羽衣と友達と三人で遊んだあと、夜の自宅でツイッターをチェックしていたあたしは「ん?」と眉をひそめた。
フォロワー数が千ほど増えている。今日は完全なプライベートだったしあまり呟いていないのに何かあったのだろうか。
タイムラインを溯っていて、原因を発見した。
『告白されて結ばれちゃいました』
その呟きと共に画像が一枚アップされていた。映っていたのはスウェット姿の女性の上半身。顔は見切れているので一見誰かは分からない。ただ、ベッドに横になって眠っているらしいのと、撮影者の指がピースで映りこんでいるのは見てとれる。
「羽衣ぃぃぃぃぃいい!!」
あたしは叫んだ。叫ぶしかなかった。あいつにはネットリテラシーのなんたるかを教えてやらねばならない。いや、これはむしろわざと呟いたのではないだろうか。こうやって外堀を埋めていき、あたしと恋人であることを公式でアピールしていくつもりなのだろう。なんという策士。
当然あたしもすぐにツイッターで否定したけど、否定すればするほど『はいはいツンデレツンデレ』『はいツン』『ツンデレ乙』としか返されなかった。
日頃のあたしのキャラが憎い。
今あたしに出来ることは、これを見たファンの人達がネタだと思ってくれるよう祈るしかない。
本当はネタじゃない、というのが一番問題なんだけど。
終