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記憶転移〜たとえ君が君じゃなくなったとしても僕は僕でいる〜【まとめ版】

作者: 深田 水深

 この世の生き物はみんな平等に不幸である。ここに生まれた時点でそれは決まっている。物事には決まって始まりと終わりがある。それは命も同じことである。全生命最後には最大の不幸()が待っているのだ。

 故に全員が不幸と言えるのではないだろうか。


 ……誰も運命には逆らえない。



 --------------------



 この道も今回で何度目だろうか。葉山楓(はやまかえで)は病院へと続く道に沿って、迷いなく足を進めていた。

 彼は今年受験生だというのに家にも帰らず制服姿で病院へ向かっていた。受験生ならば学校が終わるやいなや一目散に家に向かうか、学校に残って放課後学習とやらに励むのが普通ではないだろうか。

 しかし彼の心中には大学受験に対する焦りなどほとんどなかった。あったとしても米粒ほどだろう。

 それには明確な理由があった。彼は今から自分の好きな子に会いに行くからなのだ。

 誰だって好きな子と会う時は勉強とかその他のことなんてこれっぽっちも考えないだろう。



 右手に籠を持ちながら歩いていた楓は彼女との出会いを振り返ってみる。


 二年と少し前の入学式の三日後、楓は初めて彼女の存在を認めた。所属している教室が異なっていたため、ほとんど接点がなかった二人はそれから何日もの間他人でいた。

 いつだっただろうか。楓の心には彼女への関心が微かに芽生え始めた。しかし彼女と話すことすら困難であった。というのは楓が人見知りで他人と話すことが苦手だから、という理由だけではなかった。彼女は学年で一、二を争うほどの頭脳と容姿の持ち主だったのだ。

 それから楓は友達に自分が彼女を好きだということがバレてからは、開き直って彼らからの助け舟を要求した。

 彼らのおかげで彼女と初の会話もできたし、友達、いや親友と呼べるくらいの存在にはなった。

 その頃には既に楓の気持ちは彼女にしか向けられていなかった。

 二年生になってすぐ、友達の後押しもあって楓は彼女に『告白』をした。返事は

「ごめんなさい。私そういうの慣れてなくて……だからごめんなさい」

 であった。

 初めは仕方がないと思った。けど何日経っても彼女への気持ちは、一向に向きを変えることはなかった。

 楓は諦めきれず、再び『告白』をした。

 返事は

「ちょっと考えさせて……」

 保留だった。

 それから少し待ったが全然結果を言い渡されない。当然のことだけれど。そして今に至る。




 数分、いや数十分が経っただろうか。どでかい病院が姿を現し始めてきた。だというのに楓の顔は一般的な、好きな子に会うそれとはまるで違っている。

 救命救急センターの出入口まで来ると自動ドアが開いた。

 瞬間、まさに病院、といったような香りが漂ってきた。楓はその匂いが好きではなかった。理由はあるけれど話すと長くなるため、機会があれば話すことにしよう。


 中は人はいるものの静かであり、人の足音だけが微かに響いている。そして人々からは全体として負のオーラさえ感じる。当たり前といえば当たり前のことなのだが。

 楓は入ってまっすぐ進んだところにあるエレベーター向かうと思いきや、その途中にコンビニエンスストアに入った。

 そして彼女の好きな雑誌である、ジャンプやその他をいくつか購入し颯爽とでてる。彼は知っていた。彼女が少年漫画を好きだということくらいは。


 コンビニエンスストアを出てエレベーターに向かう。ボタンを押すがなかなか降りてこないエレベーターに少しイライラする。これがエレベーターだけに対する苛立ちなら、あまりに大きすぎた。


 チン、という音と同時に開いたドアの中から、点滴をぶら下げたイルリガートル台を転がすパジャマを着たおじさんがゆっくりと出てきた。そして扉の前に所在なく佇んでいた楓に対して静かに恫喝する。

「邪魔だ、どいてくれ」

 普段の楓なら怒りで言い返していたかもしれない。しかしこの時は不思議とそちらに対する怒りを待つ余裕すらなく、むしろ同情してしまうほどであった。この人も苦しんで多大なストレスを感じているのだから仕方のないことだ、と。おじさんは足を引きずるようにしてゆっくりゆっくりと出て行った。


 閉まりかけのエレベーターにぴょんと飛び乗る。十階まであるボタン。そのうちの九と書かれたボタンを点灯させた。

 エレベーターが上に加速して体が余分に重たくなる。この病棟で感じるそれはやはりどこよりも重たいように楓には感じられた。


 チン。

 九階で止まり、扉が開く。

 彼女の部屋番号は931。

 部屋の位置をすっかり覚えてしまっていたので、彼はその番号の部屋の前まで簡単にたどり着く。

 間違えててはまずいと思い、一応名前を確認。

 そこにはしっかりと

 朝倉香(あさくらかおり)

 彼女の名前が書かれていた。

 楓は緊張や不安な面持ちを隠すような作り笑顔でそっと病室の扉を開けた。


 --------------------


 朝倉香は一般的に言って美少女である。頭上の烏さえも嫉妬するような黒髪のロングヘアに包まれて一際輝く美しい顔立ち。そして清らかなる心も兼ね備えた彼女は、まさに美少女という言葉にふさわしい存在だった。いや、逆に美少女以外の言葉が見当たらない。街頭調査をしたならば、おそらく相当捻じ曲がった感性の持ち主以外なら美少女というだろう。

 そんな彼女も普段は誰とも変わらない普通の生活を送っていた。とは言っても、人気者だった彼女は周りの人よりも多少は嬉々たる人生を送っていたのかもしれない。それもこれもどれもあの日までは。


 香はいつものように学校に行き、いつものように学校生活を楽しんだ。この日少し違っていたことといえば、ある一人の友達から『告白』されたことくらいだ。しかもその人からは以前にも『告白』されており、その時は断っている。その友達というのが、つまり葉山楓だった。

 彼女は一度目の『告白』の時よりも困惑してしまった。というのも、彼女は賢明で容姿端麗であったため、あらゆる男子から『告白』を受けたことがある。そのため彼からの一度目は別段驚くこともなく、他の男子と同じようにあまり傷を与えないように「そういうの慣れていないから」という決まり文句で断った。本当は誰よりも慣れているだろ、と言いたいところだが。しかし、二度も彼女に挑戦してきたのは楓が初めてだったのだ。

 そのため香は楓から受けたまっすぐな気持ちに、少しまごついてしまった。と同時にとても嬉しかった。二回も『告白』をしてくれるほど私のことを好きなんだ、そう思った。

 彼女に告白を申し出てくる男子生徒は、尽く見た目だけで判断して、彼女の本当の中身なんて見てくれやしない。だから、一回で断念する。

 けど彼は違った。本当の彼女を見据えていた。本当にそうなのかどうかは彼自身にしかわからないが、彼女にはそんな風に見えた。少なくともそう思わせるだけの何かを感じた。

 この時初めて人を好きになった。そして彼女は人生で初めて『告白』に対して保留を呈した。

 その場で彼の手を取るのも良かったのだが、念のために保留したのだ。返事をする機会が今後もう無いかもしれないなんてことも考えずに。



 その次の日、楓は受験生らしくいつものように朝早く来て朝学習を始めた。この日は大粒の雨が降っていて正直朝学習はやめようという考えもよぎったが、香も朝学習をするはずだから、という軽い理由で自分を納得させて学校へ向かった。


 苦手意識の高い数学に手をつけていた楓は、尿意を感じたので自席を立ち、トイレへ行く。

 この階のトイレは楓の所属する一組からは最も遠く、途中で他の組の前を通ることを強いらている。そのため楓は気になるあの子の姿も確認することも兼ねていた。

 チラリと彼女の教室を覗くがそこに彼女の姿は無かった。

 そういう日もあるのかな、なんて思いながら小便を済ませる。

 鏡を見て彼は呟いた。

「雨のせいで髪がうねってるし」

 こういうことになるから雨は嫌いだ、彼は改めてそう思った。

 髪型を気にするのは自己満足のためではないだろう。少し髪を整えてからトイレを出て、再びあの教室を覗く。やはりいない。

 彼はなんだか妙な胸騒ぎを感じたが、勉強に集中するよう努めた。

 が、数学が手につかない。その日の朝はほとんど何も進まず朝礼のチャイムが鳴ってしまった。


 朝礼では先生からの要らないお話がいつもあるのだが、この日のお話は少しわけが違っていた。

 担任の先生は少し間を置いた後口を開いた。

「もしかしたら知っている人もいるかもしれないが。昨日の放課後、うちの学校の一生徒が車に轢かれるという不慮の事故があった…………」

 瞬間、まるで南極にいるかのような寒気が楓の体を襲った。

 先生はこう続けた。

「原因は運転手の居眠り運転らしい」

 なにがなんだかわからない。楓が必死に理解しようとしていると、彼は最後呟くように告げた。

「容態は………ぼそぼそ」

 それは聞こえるか聞こえないか際どいほど微かな声だった。

 でも、一番前の席の楓には聞こえていることに違いない。


 朝礼後、彼は先生の元に行って尋ねた。勿論、その生徒というのが朝倉香のことなのかどうかを。楓は願った。違っていてくれ、と。

 しかし現実というものは実に残酷だった。

 先生はほんの少し頭を縦に振った。

 楓は無理矢理にでも先生から彼女のいる病院や部屋番号などの情報を聞き出した。

「今日僕学校休みます」

 その言葉だけを残して重たい足を懸命に動かす。背中から彼を止める声が聞こえて来たが、彼の気持ちはそんなもので止められるほどやわではない。

 鞄も持たず全力疾走で昇降口まで駆けた。廊下は走るな?この時の彼に言っても無駄だろう。

 靴を適当に履き、昇降口から飛び出す。

 先生から聞いた情報を信じ、向かうは市内の総合病院。外は土砂降りで、制服もせっかく整えた髪もびしょ濡れ状態。

 靴紐がほどけ脱げそうなスニーカーを恨んだのはこの時が初めてだっただろう。おかげで道中、転びそうにもなった。


 急いでいた楓には病棟の自動ドアすら遅く感じる。勿論エレベーターさえも。そんな状態の彼でも僅かな理性は残っていたらしい。病棟内はさすがの彼も走らなかった。速歩きが走るに入らないのであればの話だが。

 931という数字探し。

 見つけた。そこには〈朝倉香〉という文字。分かってはいたが彼は再び落胆した。


 病室の扉の取っ手を掴み横にスライドさせる。十センチくらい開いたときだっただろうか、中から遠慮なしの泣き声と嗚咽が聞こえた。大人の声だった。彼女の両親だ。

 そう、そこにはもう彼の入る余地など無かったのだ。悔しかったけど彼には扉を閉めることしかできなかった。


 彼はその間病棟9階のデイルームにて貧乏ゆすりをして待っていた。それから数時間、彼女の両親が部屋から出てくるのが見えた。

 楓はこの時を待っていたと言わんばかりに、両親に駆け寄って言った。

「娘さんの友達です。面会に来ました」

「……あの子、事故の後すぐにここに運ばれて処置してもらったの。手術には成功したのよ。でも、でも………」

 でも?楓にはその後に続く言葉が何なのかはよくわからなかった。


 まだ泣の止まない両親は無言の了承を彼に受け渡し、夫が妻の手を引いて先導した。やがて彼らの背中は姿を消し、楓はその病室へと足を踏み入れた。

 少し進むとすぐに香の顔が見えた。

 大きくも小さくもないベッドの側まで寄り、彼はベッドの上に横になっている彼女の変わらぬ美しい表情をじっと見つめた。その時彼の頬に伝う幾筋もの雫は髪から滴った雨水だろうか。


 彼女の体の各所には管が繋がれている。けれど、彼女は息をしているし鼓動もしっかり聞こえる。彼女は寝ているだけだ。それを知っただけで、楓は脱力感を覚えた。

 起こすといけないとも思い、その日はすぐに抜き足差し足忍び足で病室から退出した。


 今では毎日欠かさず放課後に彼女のお見舞いのため、ここに訪れることが習慣となった。


 --------------------


  別の日。

 楓はそっと扉を開ける。

「ごめん待った?できるだけ急いで来たんだけど、遅くなっちゃった」

 ベッドに近づきながら微笑んで言った。

 側までくると、横にあるテーブルに、幾つかフルーツが入った竹材の籠と雑誌の入ったコンビニ袋を置く。

「こんなにやせ細ってあんまり食べてないでしょ。フルーツ持ってきたけど何か食べる?りんご?オレンジ?バナナ?……………僕は神様じゃないんだから言ってくれないとわからないよ………」

 彼の顔がだんだんと曇ってゆく。

 今となってはお世辞にも美しいとは言えない顔を上から眺める。



 ベッドの横の椅子に腰を掛け、再び笑顔を取り戻すと、オレンジを一つ取り、剥き始めた。そして両手を働かせながら言うのであった。

「今日はね、色々あったよ。まず朝さぁ、斉藤が座ってた椅子の脚が急に折れ曲がったんよ。あいつどんだけ太ってるんだよって話だよな、ははは」

「…………」

 剥き終わったオレンジをさらに並べる。

「あとさ、この前受けた期末テストが返却されたんだけど、数学で91点取ったんだよ!数学では高校生になって最高点かも。まぁそう言っても、君が受けていたらきっと僕なんかより上の点数を軽く取っちゃうんだろうなぁ。でも僕知ってるよ。君ってめちゃくちゃ努力してること。え、なんでわかるかって?そりゃわかるよ、性格的に」

「…………」

「それと今日体育があってさ、百メートル走だったんだけど変に緊張しちゃって足動かなかったや。でも、安達が5.5秒だった。本当化け物だよな。さすがインターハイ選手は違うなって感じ」

「…………」

「でもやっぱり物足りないな、君がいないと…………。早く帰っておいでよ。みんな待ってから……」

 彼は一人でオレンジをつまみ、食べている。

「あとこれ見てよ。君の好きなジャンプ。少年漫画がある好きなんだよね。それは知ってるよ、何回か話したしね」

 床に積まれた無傷の雑誌を一瞥する。やっぱり見ていない。

 そこの一番上に雑誌をまた一冊積み重ねた。最終的にこれがどれくらいの高さになるのだろうか。楓は低くあってくれと強く願った。


 そして笑ったままこう言った。

「君は最低な人間だね。覚えてる?僕の二度目の『告白』。あんなに勇気振り絞ったのに君はまだ返事すらくれやしない。これならいつもみたいに軽くふってくれたら良かったのに。ははは、冗談だけどね。いつまでも返事待ってるよ。どんなにかかってもずっとずっとずっとずっと」

 楓の瞳が窓から差し込む夕日で一層キラキラと淡く橙色に輝く。

「オレンジも食べ終わっちゃったし、そろそろ帰ろうかな」

 そう言うと彼は席を立ち、真上から彼女を見る。

 なんて細い手なのだろう。元から細く美しく綺麗な体をしていたが、今ではどこかにぶつけたら折れてしまう、まさに枝のような腕に変わり果てていた。


 彼女を見るために下を向いていたためだろうか、いくつもの涙が彼女の体に滴り落ちる。

「あれ、なんで僕は泣いてるんだろう」

 涙が止められない、次々と流れ落ちていく。拭っても拭っても。

 まるで枯れ果てた木に水を与えるかのごとく。


 涙が枯れ果ててしまった時。

「じゃあ、そろそろ帰ろうかな」

 そして最後に一言。

「好きだよ」

「…………ッ…」

 彼は病室の扉に向かっている時、先生の言葉を思い出した。

「容態は………植物人間」

 そう、彼女は植物人間。

 事故にあって車に轢かれた時、頭を強打した。その衝撃で彼女の脳の大半は活動を休止してしまったのである。

 大量の血も流していたが、すぐに救命救急センターへと運ばれて、すぐに高度な技術を要する手術が行われた。そしてなんとか一命はとりとめた。糸一本で繋がったような命。いつ切れるかわからない命。彼女はいまそんな状態だったのだ。

 そして今なら彼女の母親の言いかけていたこともなんとなく分かる気がした。




 次の日は休日だったため、昼頃にお見舞いに行った。

 彼女の病室の扉の取っ手に手をかけると、いつもよりも軽く横にスライドする気がした。

 それもそのはず。病室から出てくる彼女の母親とちょうど同時に扉を開けてしまったのだから。

 楓は彼女の母親と鉢合わせてしまい、狼狽してしまっている。反対を見てみると、母親も同じく狼狽えている。

 けれどここはさすが大人。彼女が口火を切る。

「すみません。あの少しお話いいですか?」」

 楓は突然何を言い出すのかと思ったが、あまりにも真剣で真っ直ぐな瞳に、

「は、はい」

 そう答えるしかできなかった。



 二人はデイルームに行き、向かい合って一つの丸テーブルの椅子に座った。

「香にお見舞いに来てもらえるのは嬉しいんだけど、来月からもう来なくてもいいから」

「は?」

 突然のことで彼はつい間抜けな声を発してしまった。

 後一週間で来月になる。本当に突然のことだ。

「あ、いや、そういう意味じゃないの」

 そう言う意味ってどう言う意味だよ、と言いたくなったが、彼女からの続く言葉を待った。

「香の臓器を提供しようと思っているのよ」

「……」

 楓は目を見開くだけで、何も言えなかった。本当は言い返したかった。でも家族でもない彼に決定権はない。故に何も言えなかった。

 しかも多分彼女なら、他人に尽くすタイプの彼女ならそれを望むだろうとも思ったからだ。


「わかり……ました」

「ごめんなさい。話はこれだけなの」

「あなたが謝らないでくださいよ。後、だけ、なんて言わないでください」

 できる限り微笑んでそう言った。本当に笑えていたかはわからないが。

「そうね。では、これで」

 彼女は椅子から立ち上がり、会釈してその場を後にした。


 楓は座ったまま右手を握りしめ、机を叩いた。仕方ないことだが納得できなかったのだ。


 彼も椅子から立ち、香の病室へと向かった。

 前で一度深呼吸。笑顔を作る。してから、中へ入っていった。


 この日は何も持って来なかった。

 彼女を見ると日に日にやせ細ってきていることがわかる。

 楓はいつも通りたわいもない事を話し始める。

 相手はもちろん無言。それでも話す。もしかしたら聞こえているかもしれないから。


 そして、

「ねぇ、いつになったらあの返事くれるの?やっぱりもう待てないや。もしかして忘れたとかないよね?」

 彼女には時間がない。返事は貰えないかもしれない。

 それでも、

「忘れてたらいけないからもう一回言うね」

 そう前置きをして、

「僕は君が好きです。君がどんなことになっても、僕は朝倉香、あなたが好きです。付き合ってください!」

「…………ッ…」

「無反応、だよね。何か言ってよ、一人でバカみたいじゃん僕。えへへ」

 そんなことはない。だって、今の楓をバカにできる人なんて誰一人いないのだから。

「でも、それでも僕は君が好きだよ。君がもしこのままだとしても……。君が笑えないなら僕が二倍笑うし、君が泣けないなら僕が二倍泣くよ。あ、やっぱりあまり泣きたくないから泣くのはなしで。その代わり三倍笑顔でいるから」

「…………」

「じゃあね僕そろそろ帰るよ。またね」

  そう言って楓は彼女に背を向けた。

  瞬間、香の指が微かに動いたのは見間違いだっただろうか。



 それから五日間、毎日のように彼の『告白』は静かな病室に響き渡った。


 --------------------


 臓器提供予定日前日。

 この日もいつもと変わらず楓は学校に通った。彼女のいない学校は、彼にとっていちごのないショートケーキも同然だった。

 けれど笑った。一際笑顔で過ごした。



 学校が終わり放課後、誰よりも早く教室を出て、誰よりも早く学校を後にした。そして病院まで走る。別段速くもない足をこれでもかというくらい回して。

 この日は一週間前とは真逆の快晴である。

 追い風が背中を懸命に押す。とは言うものの、左肩にスクールバッグを掛けているため、おもいっきり走れないのは悔しいところではある。彼は道道鞄を捨てようかとも思った、と言うのはさすがに言い過ぎか。


 病棟までやっとの思いでたどり着いた。自動ドアの向こうへ。

 そして早歩き。

 やはりこの日もエレベーターは彼の味方をしてはくれないようだ。楓はここらで切らした息を整える。



 今日もまたエレベーターの中では体重が重く感じた。楓はなんだかその感覚が日に日に大きくなっているような気さえした。


 931号室。彼女の病室。

 まだ肩で息をしていた彼は、その前で一度深呼吸をする。そしてもう一度。

 内心に宿る負の気持ちを一掃するように両掌で頬をパンと叩く。

 若干火照り、ジンジンと痛む顔を笑顔へと変えた後、扉を開いた。



 今日もやはり寝たきりである。

 あぁ、可哀想に。この時期が一番青春を謳歌でき、楽しい時でもあるのに。

 もう見目好かった昔の彼女は鳴りを潜めている。

 頬はこけ頬骨は突出しシワも増え、唇は青紫色に染まっている。

 でも楓は彼女からの目を逸らそうとは思わない。むしろ必死に向き合おうとしている。少しの刺激でも思わず溢れ出そうな涙を抑えながら。


 楓は椅子に座った。何を話そうか少し悩んだ。だってもう残りわずかかもしれない命なのだから。

 悩んだ結果、いつも通りに振る舞おう、という結論に至った。彼が普段通りじゃなかったら、彼女が不安になるかもしれないと思ったからだ。

 彼は寝たきりの香に意識があると思っている。いや、そう信じているのだ。


「そうだねー、今日は……」

 何もなかったとは言えない。

「そうそう今日は球技大会だったんだ。種目はバスケ。で、僕中学生の時バスケやってたじゃん。て、知らないかそんなこと。まぁ、やってたんよ。それで今日の球技大会は……結構…………活躍できたよ。…………君にも…………………見て欲しかったなぁ……」


 もちろん今日は球技大会なんてなかった。


「実はさ、明日から僕もうここには来れないんだ」

 明日は彼女の臓器移植。明日は家族水入らずの時を過ごすべきだと思っていた楓は、今日が彼女と過ごす最後の日かもしれない。


「そう、母さんに怒られて受験勉強に本腰を入れないといけなくなったんだよ」

 苦しい嘘だった。だけどこれは彼なりの優しさでもあったのだ。


 少しの間沈黙があった。というか唯一話せる楓が黙り込んでいた。

 この時彼は天井を見ていた。涙を流さないように。


「結局返事もらえなかったなぁ。まぁ、どうせ返事をもらったとしても結果は見えてるんだけど」

「……ッ……」

 窓からの夕日がだんだん彼女の体を染めていく。だからだろうか。心なしか彼女の唇が素の赤色に戻っていくように思われる。


 楓はもう我慢ならなくなり、目の前に彼女がいるというのについ思いをぶちまけてしまった。

「神様は酷いやつだ。僕よりもずっと才能のある香をこんな状態にして。みんな平等にしたいからこんなことしたの?それならこの子は生まれた時からこうなる運命だったの?どうしてそんなに僕から奪っていくのさ」

 楓の拳はももの上でギュッと握りられ、微かに震えている。

「神様は酷いやつだ。僕がこんなに嘆いているのに姿すら見せてくれない。今も……昔も……。神様は酷いやつだ」


 少しして落ち着いてから彼女の顔を眺めた。

 なんて穏やかな顔なのだろうか。夕日を浴びてとても気持ち良さそうだ。



「もう日も沈んできたし、これで最後にするね」

  立ち上がった。

 目を閉じ一度深呼吸をする。

「僕は前も今も変わらず。君がどんな姿になっても、どんな状況になっても君のことが好きです。僕と……付き合ってください!」

 それはいつもの倍、いやそれ以上の気持ちを乗せて発した精一杯の『告白』だった。


 刹那、彼女の右手の小指がビクッと動いた。

 楓はその一瞬を今度こそ逃しはしなかった。

「え、今………」

「……ッ……うッ」


 この時楓は初めて本当の奇跡というものを目の当たりにしたのかもしれない。


 今まで微動だにしなかった彼女が氷が溶けていくようなスピードで両目を半分くらい開いた。

「香……?」

 その呼びかけに彼女は首を少し彼の方に傾け、

「楓…………君……」

 そう呟いた。

 本当に楓の『告白』が彼女の心に届いたようだった。


 彼女の目覚めは彼の涙腺を刺激するのには十分すぎるくらいのちからを持っていた。

 楓の目からは今までの人生で流した涙の総量に匹敵するくらいの涙が溢れ出ている。

「ああぁぁ!」

  制服の袖で流れ出る涙を拭う。

 慟哭する彼に香は少し口角を上げて言った。

「楓君……泣いてるの?」

「目にゴミが入っただけだよ」

 込み上げてくる声を抑えながらくしゃくしゃの笑顔で答える。

「ふふふ」

 彼女も笑顔で答える。

 この時をどれほど待っただろうか。



 その後、彼は急いで病院の先生の元へ行き説明は後回しで病室へと呼んだ。もちろん彼女の両親にもすぐに連絡は回った。


 医師が横たわった香の体を診ている時、彼女は楓に言った。

「いいよ」

「え?」

 彼には良く理解できなかった。なんのことだろうと思ったが、答えを見つけ出すことを遮られた。

「体は衰弱しているがこれから半年ほどリハビリをすればすっかり元どおりになると思うよ。奇跡だね」

 本当に奇跡だ。神様はいたのかもしれない。


 間も無くして彼女の両親が駆けつけた。

「かおりー!」

「ただいまお母さん、お父さん。心配かけてごめん」

「こっちこそごめん。怖かったよね」

 母親は泣きながら香に抱きついている。

「怖かった。ずっと暗闇の中で終わらない悪夢を見ているようだった。でもね、悪夢の中でも良い夢を見たの。お父さんとお母さんに言わないといけないことがあるの」

「なに?」

「この男の子、楓君は私の彼氏」

「えっ?」

 誰よりも驚いてしまったのは他でもない楓だった。何が何だかわからないけど嬉しかった。

「言ったじゃん。いいよって」

 さっきのは『告白』への返事だったのか、と今理解した。

 両親は二人とも異論はないといった顔で頷いている。

「私が見た夢。それは楓君が何度も私に『告白』してくれる夢。あの夢は暗闇の中に光を与えてくれた。気がついたら意識があったの」

 夢なんかではない。確かに楓の声は彼女に届いていた。彼女の迷い込んだ暗闇を夕日のように照らしていたのだ。


 神様なんていない。奇跡なんて起きない。そんな考えを持っていた楓は思った。奇跡は自分から掴みに行くものなんじゃないかと。



 そして彼と彼女は正式に付き合うこととなった。

 そして彼女のリハビリ生活も同時に始まった。


 --------------------


 香が目を覚ましてから一週間ほどが経った。

 この日は日曜日だったので、楓は学校がない。

 そのため楓は今起きた。十時だ。

 アラームの賑やかな声に少し苛立ちを覚えた楓はベッドから上体を起こし、机に置いてあったスマホに手を伸ばす。

 ぎりぎり届かない。

「あー!うるさいなぁ!誰だよこんなところにスマホ置いたのは」

 そんなの一人しかいない。彼自身であろう。

 だけど今の彼にそんなこと言ったら多分「知ってるよ!」と返されることは間違いない。誰だって朝は苦手だ。

「もう……すこ……し」

 諦めれば良いものを無駄に頑張るから、

 ドシャン!

 ベッドから落ちた。

「いてぇ〜」

 なんだかんだこれがベッドから落ちるのが一番の目覚ましなのかもしれない。


 ぱっちり目を覚ました楓は下に降りて、朝食が準備されているであろうリビングルームに顔を出す。

「あんた遅いわね。死んだかと思ったわよ」

「バカ言え。やり残したことばかりなのに死ねるかっての」

 彼は椅子に座って、わざわざ麦茶の注がれたコップを口に運ぶ。

「やり残したことって、彼女のこと?」

 ボフッ

 親は怖い。息子以上に息子のことを知ってるんだから。

「どこから仕入れてきた情報だよ」

 否定はしない。香との関係で嘘はつきたくないと思っていたからだ。

「さあね」

 なんて嫌な笑顔だ、と思ったけど楓は母親のそういう顔が嫌いではなかった。


「今日お父さんのところ行くけど楓も行く?」

 楓の父親。もうここにはいない父親。

「いや、俺はまた今度行くよ。昼頃から用事あるし」

「そう。頑張ってね」

 やっぱり見透かされているようだ。


 朝食か昼食かわからない、いわゆるブランチを軽く終わらせて再び二階へ上がる。

 するとすぐに車の主発する音がした。どうやら母親はもう出かけたらしい。


 必要そうなものだけ適当に肩掛けバッグに詰めこむ。

 歯磨きも軽く済ませ、いざ出陣。

「鍵を閉めないと怒られるからな」

 ガチャ

 基本インドアな彼にとって、徒歩で病院まで行くのは良い機会だった。

 日光が実に気持ち良い。光合成すらできそうである。

 それだけではない。

 空気が美味しい。風が心地よい。自然が美しい。小川が輝く。地球には色々なものが詰まっている。

 今の彼には全てが鮮明に彩豊かに見える。


 自然を感じながらの散歩は、普段より早く時計の針を進めた。


 病棟に到着。

 からの彼女の病室到着。

 扉を開けると彼女はくすくす笑いながら楽しそうにジャンプを読んでいた。

 楓が入ってきたことさえ気づいていない様子である。

「何読んでるの?」

 ゆっくりと首をこちらに回し可愛らしい笑顔で答えた。

「『斉木楠雄のΨ難』っていうやつ。すっごく面白いの」

「あぁ、君は前からそれが好きだったよね」

「覚えててくれたんだ」

「当たり前だよ。忘れるわけない」

 香は楓を気遣ってか、ジャンプを閉じた。

「読んでても良かったのに」

「良いの、ちょうどキリが良いところまで読んだから」

 楓は彼女のそういうところに惹かれたのかもしれない。


「リハビリはいつからだっけ」

「さっき昼ごはん食べたから、多分もうすぐかな」

「僕も手伝うよ」

 彼女は少し困った顔をした。

 何か悪いこと言ったかな?と思ったが思い当たらない。

「どうしたの?」

「楓君は優しすぎるよ。私が困るくらい」

「褒めてもらってる気しかしないんだけど」

「褒めてるよ。でも、何でもかんでも頼ってるとこっちが申し訳なくなるのよ」

「気にしすぎ。あと少し違うよ。君のためじゃない。僕のためだよ。僕がしたいからするだけだよ。僕は僕なんだから」

 彼女がクスッと笑った。

「らしいね」

 彼女の機嫌が戻ったようで、楓は嬉しくなった。嬉しくなった自分に気付き、自分が言いたかったことはつまりこういうことなんだと改めて思った。



 コンコン

 丁寧なノックに二人はすぐにリハビリの先生だとわかった。

 ドアが開き小声で、

「失礼します」

 男性で実に優しそうで紳士的な方だ。

「そろそろリハビリルームへ行きましょうか」

「わかりました」

 彼女はベッドの脇に備えられている車椅子に移ろうとする。

「手伝うよ」

 楓が言うが

「いい。これくらいできるようにならないと。こういうところから一歩ずつ」

 楓は思い出した。そうだ、彼女は自分なんかよりよっぽど努力家で頑張り屋なんだ。


 少しばかり時間はかかったが、どうにか体を車椅子に移すとコロコロ車輪を回して先生と部屋を出た。なんだか寂しい気持ちがして、楓も後を追った。


 リハビリルームにはもうすでに複数人の患者がリハビリをしている。老若男女問わず。わずか十歳ほどの女の子までいる。

 こんなにもたくさんの人が苦しい思いをしているのだと知ると、健全な体の楓は罪悪感を覚えた。

 彼もまた精神的に苦しんでいる一人だというのに。



 まずは香はソファに座る。その彼女の右足を先生がしゃがんで曲げたり伸ばしたりする。

「痛くないですか?」

「大丈夫です」

 同様にして左足も。


 ここまでは順調だ。

「少し休憩しましょうか」

 楓は、もう休憩?とも思ったがさすがプロ、

「座ってるだけで疲れちゃった」

 そう言ってソファに横たわった。

 ちょうど彼女は疲れていたようだ。

 考えれば当たり前のことだ。何ヶ月も寝たきりで筋肉を全く使っていなかったのだから。健康体にはわからないかもしれないが、ただ座るだけと言っても多少の筋肉は必要になる。

 彼はそこまで考えが至らなかった自分を殴りたいと思った。

 本当に殴るアホはいないけど。


 二、三分が経過した。

「よし、じゃあそろそろ次行こうか」

 その声で香は上体を起こす。ここでもやはり少し時間を食う。

 彼女の気持ちもわかるが、楓の心にはどこか自分を頼って欲しいと思う部分も確かにあった。


「僕の方を支えにして立ってみようか」

「はい」

 右手を先生の方に置き、亀の歩くスピードで腰をそっと上げる。

 が、

「きゃ!」

 足が顫動して、終いにはソファに倒れこんでしまった。

 彼女の骨と皮だけの枝のような足には厳しかったようだ。

「大丈夫⁉︎」

 楓が体を支えて上げると、この状況では彼女も彼の優しさに甘えるしかなかった。

「ありがとう」


「まだ難しそうかな」

「いや、できます」

 ここで折れないのが彼女である。

「じゃあ楓君左側頼めるかな」

「あ、はい」

 やっと役に立てると思い、嬉しかった。


「せーのっ」

 ゆっくりと立ち上がるが、逆に楓のバランスが崩れかけた。

「ッ‼︎」

 踏ん張る。手助けをしている彼が足手まといになってどうするんだ、とわかっていたからだ。

 リハビリの先生も舐めたもんじゃないなあと初めて感じた瞬間でもあった。


 彼女の足は震えているものの、左右に支えがあるためしっかりと立てている。

 その後先生の号令で彼女をソファに下ろす。

 立って座るだけで彼女は息を切らしていた。

 そこらの人から見たら演技にしか見えないだろう。


 最後にまた足や手を曲げたり伸ばしたりしてほぐし、今日のリハビリは終了した。


 楓は「確かにこれは半年くらいかかるかもなぁ」と感じた。


 病室に戻り先生が別れを告げてから、ベッドに座る彼女は初めて弱音を吐いた。

「いつになったら前みたいに学校行けるようになるのかなあ。みんなに会えるかなあ。みんなで遊べるかなあ。……それとももしかしてもう元には戻れないのかなあ」

「戻るよ。きっと、いや、絶対戻るよ。戻してみんなに元気な姿見せようよ。またみんなでバカしようよ」

 笑顔でそう言った。

「そうだね」

 彼女の顔には涙が浮かんでいた。

「いっつも私楓君に助けられるな。……君でよかった」

 これが僕の役目なんだ。彼がそう確信した瞬間だった。




「香がもし暗闇に迷い込んで自分の居場所すら見失ってしまったら、太陽()()を照らし続けるんだ。それでも君は新月に(見えなく)なっちゃうかもしれない。そしたらまた僕が君を満月(見えるように)にしてあげるよ。焦らなくたって良い。だって(みんな)はずっと待ってくれてるんだから」

 彼は照れ臭く笑った。

「なにカッコつけてんのよ。でも……ありがとう」

 彼女の目にはいっぱいの涙が浮かんでいた。そして声も微かに震えていた。

「なに?もしかして泣いてるの?」

 少しからかって言ってみた。

 彼女は首をふりふりと横に振って、

「目にゴミが入っただけだよ」

 いつかの楓が言った言葉を今度は彼女が言った。


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 あれから幾日か経った。

 今日は月曜日。まただるいだるい一週間の始まりである。

 しかも実力テスト付きという最低な月曜日である。特に最近勉強方面で右肩下がりの楓にとっては。


「一時限目から体育とか午後のテストで寝ろって言ってるようなもんだろ」

「ほんとだよ。全然勉強もしてないし」

「わかるー。休みの日は本気で勉強しようと思うけど、結局やらずに月曜が来ちゃうよね」

 まだ朝だというのに次々と不平不満が飛び交う。テストの日の恒例行事と言っても過言ではないだろう。

 それに必ずいる勉強してない星人は一体なんなのだろうか。保険でもかけているのだろうか。


 楓自身も前はテストが億劫だと思っていた。前は。今はやっと受験生だという自覚を持ったのか、不思議とやる気に充ち満ちていた。それとも理由は他にあるのかもしれない。


 間も無くして担任の先生が教室に入ってきた。

「静かにしろよー。今日もまた面白い話を持ってきたぞぉ」

 でたでたとみんなの顔があからさまに呆れ顔になる。

 と言うのも一組の担任の先生は毎朝何かしらどうでもいい話をする、と言う習慣があるのだ。

「今回は面白い話だ。昨日テレビを見てたんだけどな、ある男性の臓器がもう一人の他の男性に移植されたんだよ。そしたらな、レシピエントの男性は性格がドナーの男性に似てきたらしい。それだけじゃない。レシピエントの人ががなぜか、ドナーの人の家族や友人の顔まで認識できるようになったんだって」

 クラスのみんなは、ぼけーっと話を聞いていたが、楓だけはなぜな興味を持って聞いていた。

「臓器を移植するってことは少なからず相手のDNAも一緒に移植されるから、それで記憶が移ったんじゃないかって言われてるんだけど。不思議なものだねぇ」

 夢の詰まった話だ。

 久しぶりに面白い話を聞けたと楓は思った。

 それから朝礼は終わり、体操服に着替えるために全体が動き出す。



 午前中は間間に仮眠を挟みながらなんとか乗り越えた。

 ここからだ。ここからが本番である。


 午後一番は英語のテストである。

 しかし仮眠はしたと言っても、体育の疲れに昼食が加勢すると、集中できるはずもない。リスニングで流れてくるネイティブな発音すらも子守唄に聞こえてくる。

 そんな状態でどう高得点を狙えと?と、やる気があっただけに反動も大きかったのだ。


 次の国語のテストでも同様、活字が眠気を誘う。出席番号順に並んで後ろの方だったとはいえ、楓の視界に入ってる人だけでも、船を漕いでいる人が三人と完全にノックダウン状態の人が二人はいた。

 ここは本当に三年生の教室なのか?もしかしたら二年教室に迷い込んでしまったのかもしれないと、彼が本気で心配するくらいだ。いや、まだ二年生の方が真面目に問題に向かっていると思うが。

 そんなことを考えている間にテストも終わり、皆んなが絶望の声をあげた。

「時間なさすぎかよ」

「ほんとそれ!あんな問題量できっこないよ」

「英語のリスニングとかちょっと発音おかしくなかったか?」

「あーわかる」

 終いには彼ら純日本人よりも何十倍と上手なネイティブの発音にすらケチをつけ始めた。何を言おうと言い訳にしか聞こえてこない。にしてもさすがにリスニングを指摘するのは無理があるのではないかと思う。同情したあの子もあの子だ。


 クラス中が賑やかな中、一人項垂れているのは楓だった。

 実は楓は専有教師に勉強を教えてもらい始めたために自信があったのだ。いや、自分の実力というよりもその家庭教師を過信していた。


 という話も今になっては昔のことである。

 彼は既に例の病室に至ろうとしていた。彼女に会いに行く高揚感はあったが、先ほどの敗北は彼堪えていたらしく、少し釈然としない様子である。


 ガラガラ


 なんだか一瞬憂懼するような顔つきだった気がしたのはきっと気のせいだろう。彼女は楓の顔を見た香の第一声は「テストどうだった?」である。

「察してくれよな」

「ダメだったんだ。せっかく校内トップレベルの私が教えてあげたのに」

 そう、楓専有教師とは彼女のことである。

 楓が授業ノートを見せてあげるかわりに、香が勉強を教えるという契約を交わしていたのだ。


「そんなすぐには上がらないよ」

 自信があったことは内緒にして、冷静に答えた。

「なんでそういうこと言うかなぁ。もう教えないぞー」

 香は少しお怒りのようだ。

 続けて彼女が言う。

「そんなこと言って、このままもう上がらないんじゃないの?」

「おいおい、失礼なことを言うんじゃない。君が教えてくれてるんだから君くらいの学力にはなると思うよ」

 すると彼女はクスッと笑って言った。

「私だって努力してるんだから、そんな簡単には追いつかれないもーんだ」

 確かにそうだ。楓も彼女が努力の天才だということは重々承知の上だった。

 けれど負けず嫌いの彼は彼らしい答えをもってきた。

「ノミって知ってる?」

「寄生虫の?それがどうかした?」

「ノミってのは実に興味深いんだよ。ノミをコップに入れたらどうなると思う?」

「ジャンプして出る」

 とても簡潔な回答が返ってきた。

「正解。じゃあその後コップに蓋をするとどうなるかわかるよね。ノミはジャンプした時に体を蓋にぶつける。だからぶつからない程度にジャンプするようになるんだ。次にコップから蓋を取ったらどうなるか知ってる?」

「ジャンプして出る?」

「実は違うんだ。蓋を取ってもノミは蓋があった高さまでしか飛べなくなるんだよ。最後の質問。このノミを外に出させるためにはどうしたら良いと思う?」

「んー、わかんないや」

「正解は、他のノミを新しく一緒にいれる。そうすると当然そのノミはジャンプして外に出るよね。ここで不思議なことが起こるんだ。元からいたノミも、まるで自分の限界を忘れてしまったかのようにジャンプしてコップを飛び越えられるようになる」

 最後に楓はこれらを踏まえて結論付けた。

「つまりね、自分の限界を作っちゃいけないんだよ。そうは言っても作っちゃうことがある。そしたら仲間と切磋琢磨していけば良いんだよ。で、今の僕がその状態ってこと」

 彼は満足そうな面で、立派なことが言えた、と自画自賛していると、彼女からの不意打ちがきた。


「でも人間はノミじゃないよ」

 それを言っちゃ終わりだろう。

「う、うん。そう言う考えの人がいても良いと思うよ……」

 何も言い返せなかった。


「そうそう、はいノート」

「あ、ありがとう」

 目的のページまでペラペラめくる。

「個性的な字だね」

「下手って言っても良いんだぞ」

「まあ、字が汚い人ほど頭が良いっ言うしね」

「嫌味かな?」

「うん」

 笑顔でそういこと言うのはずるい。




 今日受けた教科のノートを書き取った後は明日の残りの模試に向けての勉強だ。

 加えて明日は課題の数学である。

 正直楓は数学だったらこの前まで眠っていた彼女にさえ負ける自信があった。


「だからなんでそう計算してんのよ!ここをこうしてこうでしょ⁉︎」

 本当に頭の良い人の説明は総じて分かりづらい。全てが当たり前のように説明してくる。

「そうとかこうとかばっかりでわかんないよ」

「もう教えてやんないよー」

「あー、ごめんなさい!」

 こんな感じで彼女に屈してばかりの彼だが、最近前みたいに明るくなってきた彼女を見て実は嬉しくなっていたり。


 勉強タイム終了。

「よっしゃ、なんか明日いける気がしてきた」

「よーし、その調子その調子。楓君ならできるって。たぶん地頭は私より楓君方が良いんだから、自信持って。ふぁいと!」

 香は両拳を握って胸の前でガッツポーズ。

 好きな人からの応援ほど力になるものはない。

 彼はいやがうえにもやる気がみなぎってきた。



 彼は幸せを感じた。

 こんな幸せがずっと続けばどんなに良いなろうか。


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 次の日。火曜日。

 この日も引き続きテストが実施された。

 最後の教科は数学。

 一応言っとくが、今日終わった教科の中でこれといってできたものがない。いつも通りといったところだ。

 故に数学だけはせめて彼女に良い報告がしたかった。数学を特に教えてもらったという理由もある。



 間も無くしてテストが始まった。



 そしておよそ二時間後テストが終わった。

 結果から言うと、割とできた。けれど、絶対の自信を持って言えるほどでもない。

 だから「楓はできた?」という、とある友達からの質問には「まあまあかな」と返すので精一杯だった。

 けどみんなも知っている通り、自信を持ってできたなんて言えるテストなんてそうそうない。あったとしても他人に「できたよ」なんて返す人の方が稀だ。





 楓は病室の前で躊躇っていた。

 彼女から発せられるであろう質問の返答をあらかじめ考えてから、そーっと顔をのぞかせたが彼女はすぐに彼の姿に気づいた。

「お、来た来た。今日のテストはいかがでしたか?」

 楓は先ほど考えておいた返答をまるでいま考えたかのように少し間を置いていった。

「過去の話はどうでも良い。未来の話をしよう」

「あ、逃げた。まいっか、優しいからきかないでいてあげるね」

 楓はついふふっと笑ってしまった。



 そして今度は本当に未来の話を始める。

「今度の休みの日どこか行こうよ。どこか行きたいところある?」

 いわゆる初デートってやつだ。

 こういうのはさりげなくいうのがポイントである。


「そうだねぇ。海とか、水族館とか、遊園地とか、お花畑とか、お買い物とか、どこでも良いから外に出たい……かな」

「多いね。平日は学校があって、休日しかいけないと思うから長期スパンで一つひとつ行こう。まずは……水族館でどう?」

「賛成!じゃあ土曜日で」

 ほら成功。あまり恥ずかしがったりして引いた態度を取ると、話は進まないわ結局曖昧なまま終わるわで良いことなしである。それをわかってて楓がこんなにあっさりと約束したとは思えないが。何せ彼にとって香は初ガールフレンドなのだから。

「あ、まって。日曜じゃダメかな?土曜はちょっと用事があって」

「全然良いよ。逆に日曜の方が良いくらいだよ」

 最後の一言。なんて優しいんだろうか。女神なのだろうか。おそらく楓にとっては女神だろうが。


 そんなこんなで話はまとまり、二人は漫画を読み始めた。もちろん一緒に同じ漫画を、っていうことではなく、個々で読み始めた。

 二人とも漫画や小説が好きな文学少年、少女組のため本の世界に行くことは容易い。

 どうして二人でいるのにわざわざ漫画を読むのか?

 それは彼らは同じ空間を共有しているだけで幸せを感じられるようになった印なのだろう。

 それに、同じ空間から別々の世界に旅立ち、再びこの世界で再会する。こんなにロマンチックなことがあるだろうか。


 彼らは読み続けた。時間も忘れて。

 楓がふと我に返ると香はまた別の世界に足を踏み入れていた。今度は夢の世界だ。

 香は足を伸ばしベッドに座っている。顔は斜め下を向いて、左手には閉じかけの漫画。

 どうやら今はこちらの世界で再会することはできないらしい、と楓は悟った。

 もうすぐ暗くなるし帰ろうかとも思ったが、こんな機会ももうないかもしれないと思って彼は彼女の穏やかで安らぎの表情を見守る。

 それを見てると彼の方も幻想世界に行ってしまいそうになる。



 彼女の寝顔を見て彼はこんなことを思った。

 確かに香の交通事故は不幸だ。今日のテストだって自分からしたら不幸なことの一つなのかもしれない。ものをなくしたり、先生に怒られたり、寝坊することだって。現実は沢山の不幸で満ちている。しかしそれ故に幸福が輝くのもまた現実である。


 そしてその幸福(輝き)を放っているのはやはり(みんな)なんだ、と。



 このとき彼は気づいた。

 無意識に椅子から立って、彼女に近づいている自分に。自分でも何をしているのか把握できていない。

 そしてなぜか心臓が高鳴る。

 体内で誰かが大太鼓を懸命に鳴らしているような鼓動。目の前には美しい横顔。そこに位置する柔らかそうな唇。

 目の前の全てが彼を誘惑する。

 思春期の若者にこの状況で何もするなという方が無理ってものだ。思春期ってそういうものでしょ?


 静寂のなか少しずつ彼女の唇が近づいてくる。

 ほのかに彼女の芳香が匂っている。それがまた彼の理性をも乗せて飛んで行く。

「……」

 もう少し。幸い彼女はまだ夢の住人。

 彼の中には彼を急かす何かとそれを善しとしない何かが存在していた。

「……」

 飛び出そうな心臓を抑える。

「……」

 香の吐息が彼に届くくらい。逆に言えば楓の吐息が彼女に届くくらい。

 距離にしておよそ五センチ。

「…………」

「………………」


 コンコン


 唐突なノックに驚いて楓は椅子の位置まで身を引いた。香もうっすらと瞼を持ち上げた。

 この時の楓の驚きというのは突然のノックに対するものと、自分の無道な行いに対するものが入り混じっていた。

 驚きだけではない。彼の抱いていた淡い期待が一瞬にして理想や幻想や空想に変わり果てたことに対する怒りもあった。羞恥心も確かにあった。

 彼の感情は驚き四割、羞恥心四割、怒り一割の混合物だったのだ。



「夕ご飯をお持ち込みしました」

 テキパキと仕事をし終えた看護婦は颯爽と病室を出て行った。

 楓はその人の背中を見ていることしかできなかった。だってその看護婦に悪気はないし、楓のことなんて知る由もないのだから。


「ごめん寝ちゃってた。帰っても良かったのに。どうしたの?なんか元気なくない?」

 がっくりと項垂れていた楓に香は問うた。

「ううん、なんでもない。僕も晩ご飯食べないといけないしそろそろ帰るね」


「じゃあねー。ばいばい」

「じゃあね。また今度」


 楓の背中は普段よりも小さく縮こまって見えた。

 彼がなけなしの笑顔で病室から出て行った。


 夕日が白飯をケチャップライスに変えて美味しそうに見える。

 箸で似非ケチャップライスをつまみながら彼女は思った。

 そんなに凹まなくても次があるかもしれないのに。




「でも私もちょっと期待しちゃった」


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 楓は朝から自転車をこいでいた。今日は土曜日だから、学校に行くためではない。

 彼が向かっていたのは墓場。今は亡き父親の墓場。


 あれは確か三年ほど前の夏のこと。彼が中学三年生の頃の話だ。



 楓の父親ができるだけ優しい口調で朝からゲームしている楓に言った。

「楓はゲームをしすぎじゃないか?そろそろ勉強をした方が良いんじゃないか?。楓のために言っているんだよ」

 嘘だ。楓のためとか言って、それはただの押し付けになっている。

 少なくとも今の楓のためにはなっていない。今のゲームに夢中になっている楓のためには。

 勉強すれば将来成功するとも限らない。


「うるさいなぁ。わかってるよそんなこと」

「そんな言い方しなくても良いじゃない」

 母親は大体父親の見方をする。弱い方につきたくなるのはやはり日本人だからだろう。

「ごめんごめん。わかってるなら良いんだ」

 父が笑顔で謝る。

 彼の父は優しい。特に我が子には強く言えない性分である。それに楓は彼らの唯一の子どもだから。それを良いことに楓は父の言うことをほとんど聞かない。



 父は軽く朝食を食べながらテレビをつけて画面に集中している。

「バスの横転事故か。大丈夫か?」

 楓とは違って父は正義感の強い男である。画面に映る自分とは関係のない人たちのことさえも心配するくらい。


 ニュースがひと段落すると、歯磨きや身支度を整え玄関に向かった。

「じゃあ俺そろそろ行くから。ゲームはほどほどにね。じゃあね」

「行ってらっしゃい」

 母は玄関まで見送りに行っていた、一方で楓はゲームをしたまま無視。

「……」

 この歳の子はみんな反抗期なのだろうか。



 一日中ゲームというのも飽きるため、楓は昼過ぎから少し机に向かった。もしかしたら父がやれと言ったからかもしれない。

「はぁ、わからねーしつまらねーしだるいし。やっぱりやめよう」

 机に向かっていたのもたった一時間ほど。

 すぐにまた漫画や小説を読み漁り始めた。


 午後七時ごろ、母は買い物か知らないがどこかに行っていたようで、帰ってきた。

「あれ?まだお父さん帰ってきてないの?」

 一階のリビングルームで読書していた楓に質問した。

「いや、まだ帰ってきてないよ。そんなのよくあることじゃん」

 父は消防士で二十四時間体制であるため、一日帰らないことは稀ではなかった。

「でも連絡が入ってないわよ」

 そういう日は総じて彼は母に帰れないというような連絡を入れてる。

 しかしそれがないという。

 忘れているだけだろう、とこの時の楓は楽観的に考えていた。それよりも本を読んでいる時に話しかけないでほしいとまで思った。

 最低な人間である。


 すると、家の電話から大きな音が鳴り出した。

 連絡し忘れていて、いつもより遅い時間に電話してきたのだろうと楓は思った。


 当然母が電話に出る。

「はい、葉山です。え?お父さん……が?」

 何かいつもと様子が違うような気がしたのは気のせいではないだろう。明らかに母は動揺している。

「今すぐ……向かいます!」


 ガチャ!

 少し豪快に電話を元の位置に戻した母は

「楓、来なさい!」

 楓は正直ゲームをしていたかったが、母の顔を見て改心した。怒っているような悲しんでいるような、なんとも言えない表情をしていた。

 母は車の鍵を握りしめ、外に出た。楓もそれに続く。


 母が運転席に座り、楓は助手席に座った。


 母らしくない、スピードで車を走らせていく。

 ここまでくるとさすがに何があったのか聞きたくなり、楓は母に問うた。

「どうしたの?らしくないよ」

 言った後母の横顔を見て楓は失敗したと思った。

 彼女の目にはいっぱいに溢れる涙があった。

 こんなに流したら運転に支障が出てしまうのではないかと心配してしまうほどの量。


 彼女はゆっくりと噛みしめるように言った。

「……お父さんが、春之さんが、火事に巻き込まれて亡くなったっ…………て」

 瞬間、楓のはものすごい寒気を感じた。鳥も驚くような鳥肌が立つ。冷や汗が身体中から吹き出す。


 その後二人は終始無言のまま県内一の大きさを誇る総合病院が持つ、どでかい駐車場のできるだけ救命センターが近い位置に車を止める。

「急ぐよ!」

 言うが早いか、彼女は車を出て運動不足の足を躓かせながらも動かした。

 楓もその少し後ろをついて走る。


 自動ドアが開き、中は慌ただしい。

 当たり前のことだが、命がかかった仕事をしているだけあって、医師は真剣な面持ちで彼ら二人を迎え入れた。


 そして誘導された先には「手術中」と言う文字の点灯した部屋。つまり、手術室だったのだ。


 その部屋の近くのソファに腰を下ろした二人はこの時もなんの会話も交えなかった。

 そんな二人にも医師は必死に火災や、父の身体、手術の説明を丁寧に続けた。

 最後に医師が誓った言葉は「必ずと成功させます」であった。

 楓たちはその言葉を信じて待つことしかできなかった。



 数時間に及ぶ大手術。

 やっとの事で「手術中」の文字の明かりが消えた部屋から出て来たのは笑顔の彼ら、ではなかった。

 どんよりとした重苦しい雰囲気の漂う医師たち。楓はその光景で既に察した。

 まだ自分の目を信じきれていない母は、

「どうだったんですか?成功したんですよね……?」

 そう言う彼女の目はもう赤く、少し腫れている。

 多くの医師が二人に向かって深々と頭を下げて言った。

「……すみません………でした……」

 その声はかすかだったものの、確かにその言葉には力のこもった、悔恨を感じさせるものがあった。

 上げた顔の頬には涙が伝っていた。

 なんで医師の方が泣くんだ、と楓は思った。



 この時楓は諦めたていた。が、母は違った。愛するものをなくした気持ちなど、誰にもわかるわけがない。

「嘘つき……、嘘つき!あなたさっき必ず成功させるって言ったよね?なんで……なんで成功させなかったのよ。返してよ………………私の春之さんを。あ゛あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁぁぁ!返してよ!」

 母は彼らに成功を誓った医師の白衣に捕まり、膝をついてもう一度力なく言った。

「ねぇ…………返して?」



 楓は思った。

 あぁ、病院は嫌いだ。遺族が泣けば、医師も泣く。涙ばかり貯まる場所。

 僕はここの匂いが大嫌いだ。


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 父は家を出て彼の勤める市内の消防署に車で向かった。車で約30分。遠くも近くもない微妙な距離。


 車の中では今日も音楽を聴きながら気楽に運転していた。下手くそな口笛を吹きながら。


 消防署内でも彼は実に能天気に過ごしていた。

 訓練や筋トレはするものの正直出動する機会が少ないため、あまり切羽詰まった状況になることなんて滅多にない。


「今日も何もないといいですがねぇ」

「あったとしても小規模火災でしょう」

「はっはっは、そんなこと言ってたら急に呼ばれたりするんですよ」

「今日に限ってそんなことありますかね?」

 暇があるとこんな会話をしたりしている。

「じゃ、ちょっと俺トイレ行って来ますわ」

 そう言って仲間の一人がトイレに行く。それを見送る春之はるゆきには、なぜか彼が何処かに行ってしまう気がしてならなかった。



「ちょっと眠くなって来たな」

 目がしょぼしょぼする。机に突っ伏し、目を閉じる。

 そんな時、春之を起こしたのは人間ではなく、消防署内の電話だった。

 とっさに気がついた、できる上司が電話に出る。

「はい、あ、はい……わかりました。今すぐ向かいます」

 ガチャ


 署内の視線が一様にその人へ集まっている。

「至急着替えて××町に向かう。マンション一階で火災が発生したようだ。規模はよくわからないが、とにかく急ぐように」

「「はい!」」

 皆は一斉に、着替えにはいる。


「やっと来たよ。俺らの仕事」

 春之の同僚はなぜか嬉しそうにそう言ってきた。

「ほんと、何日ぶりだか」

 そう言いながら、まだ少し眠たい目をこすり、春之も着替る。

 周りに遅れないよう流れについて行く。



 一人ひとり消防車に乗り込み、火災現場に向かった。

 今回はやけに多くの消防車が出動している気がするのは気のせいだろうか。

 そんな違和感もあったが今はマンションまで急ぐことに専念しようと思い、勢いよく消防車を発進させた。



 目的地に近づくにつれて空気が薄汚なくなっていく。

 しかもまだ少し遠いのに圧倒的存在感を放つ炎。これはいつもとは話が違うとやっと気づいた。

 春之は炎の立ち上る現場の前に駐車し、急いで降りた。メラメラ燃える火は周りの住宅街まで燃えうつり、もはや大規模火災と言って良いほどの勢いを持っている。

 重たいホースを三人がかりで出し、準備を進める。

 その時大勢の人が既に避難を完了する中、残る住人の中に泣き叫ぶ母親がいた。一向に現場から離れようとしない。

 不審に思った春之はそばまでより

「早く逃げてください。それともどうかされました?」

 性格上あまり強くは言えない春之らしい言葉に、女性は

「助けてください……まだ、まだ娘が……家の中に。まだ火が完全には燃え移っていないの。きっと娘は生きているのよ」

 どうやらマンションではなく、その側の一軒家にまだ人が残っているようだ。


 このような展開はドラマとかで見たことはあったがまさか自分が言われる日が来るとは思っていなかった。

 しかし、正義感の強い春之がここで断るわけがない。


「わかりました。俺が助けます。絶対に助けます。だからここで待っていてください」

 柔らかい笑顔の裏には恐怖が見え隠れしている。正義感が強いからと言って怖くないわけがない。


 震える足を見られないように急いで燃え盛る家に突っ込む。

「おい、どこいくんだ!」

 背中から同僚の声が聞こえてきたが、一刻を争う状況でそんなのにかまっている暇はない。


 二階建ての家。一階は完全に炎が移っていて、通るには困難であることは一目瞭然だった。



「これはやばいな」

 顔の皮膚が溶けそうになるくらい熱い。玄関から少し遠くに階段を見つけた後、慎重に二階へと向かう。

 その間も少しずつ少しずつ、建物が崩れていく。天井が落ち、壁が崩れ歩くのさえ難しい。


「あっつ!」

 消防士の服装は火が移りにくい性質になっているが、それでも春之は体の何箇所かに既に火傷を負っている。


 眼球が熱い。意識が朦朧とする。それでも彼は二階を目指す。



 やっとの事で着いた二階。女の子の泣き声が微かに耳に届く。

「おーい、どこにいる!助けにきた!返事をしろ!」

 あまり大声を出すことを得意としない彼の精一杯の声だった。

 ある部屋から少女の声が聞こえてきた。すぐにその声の方へに向かう。


 どうやら娘の部屋のようだ。

 そこのドアの取っ手を握るが、猛烈な熱さで手の皮膚がただれてしまった。

 でもどうにかして救い出さないと。

 彼は無理やりドアに体当たりしてドアを壊して中に入った。


 中には驚いた表情をする女の子が一人。

「なんで私なんか助けにきたの?……どうせ私なんかすぐに」

 何を言っているのだこの子は。どうして第一に助けを求めないんだ、と春之は思った。

「これが俺の仕事だからだよ」


 その少女はスカートをはいた、およそ彼の息子と同い年くらいだった。

 部屋の隅に身を寄せているが、そこの床もいつ落ちるのかわからない。危険はすぐそばに潜んでいる。


 彼女は当たり前だが、何もはいていなかったので、彼が少し強引にお姫様抱っこをして運ぶ。

「早くいくよ!」

「……」

 彼女は春之の手の中で縮こまっている。



 階段を危険がないようゆっくり降りる。が、危うく足を滑らせて、転倒寸前。意識が朦朧としているからだろうか。焦った彼はものすごく冷や汗をかいたが、ここではそれもすぐに蒸発してしまう。


「よし、もう少し」

 階段の小さな踊り場からもう一度階段を降り始める。


 その時、頭上からギシギシと嫌な音がなった。無意識に上を見る。

 その瞬間の天井の模様はまるで彼らを見て笑う顔のようだった。


 気づけばその顔がだんだん近づき、目の前まで迫っていた。

 もう少しなのに。もう後階段三段ほどだったのに。

 それでも彼はなけなしの力を振り絞って腕の中に抱えている彼女を前方へ投げた。

「きゃ!」

 顔を上げた彼女はたいそう驚いていた。

 投げられたことよりも目の前で人が炎の下敷きになっていることにだ。


 今度は自分が助けたい。でも彼女にそんな能力はなかった。それでも見捨てることはできず、外を目指すことを躊躇している。


 一方春之は崩れてきた天井の下となり体が動かない。おそらく何本か骨が折れている。


「何やってんだよ。早く行けよ!」

「だってあなたを見捨てていくことなんて。なんで私を生かしてあなたが死ぬのよ」

「何言ってんだよ。俺は後から追うから大丈夫だよ」

「助けてくれなくてよかったのに……」

「もっとポジティブにいこうよ。そして自信を持てよな」

 それは自分に向けての言葉でもあった。

「……ありがとう……」

「強く生きろよな……」

 こくりと頷き涙を拭いて彼女は外に向かった。

 上から次々と炎の塊が落ちてくる。

 彼の内臓もぐちゃぐちゃの状態に違いない。



「あぁ、ごめんな未有みゆう、楓。俺ちゃんと父親できなかったわ。休みの日にもっと遊んであげればよかった。もっと家事手伝えばよかった。もっと宿題教えてあげればよかった」

 涙は蒸発して消えて、天に消えていく。

 そして彼の魂も天に昇ろうとしている。

「もっと生きたかった。もっとみんなと一緒にいたかった…………。いつまでも待ってるから、できるだけ遅く来るんだぞ。間違えても早く来ることだけはないようにずっと見守っとくよ。ありがとうな、未有、楓…………」

 誰も聞いていないその言葉だけを残し意識を失った。


 --------------------


 楓が数十分ほど自転車をこいで到着した先には、たくさんの墓が密集した、墓場があった。


 実は今回が楓のここへの初訪問だった。

 静けさだけが彼を迎え入れているようだ。なのに少し緊張する。

 彼は駐車場の一角にある駐輪場に自転車を置いて、先ずはバケツに水を汲みに行く。


 今日の太陽は恥ずかしがり屋さんらしい。

 今にも雨が降りそう。

 そんなことを考えているうちにバケツに十分な水が溜まり、それを持って墓に向かった。



 誰もいない墓場。霊が出そうな雰囲気が漂っている。もしかしたら父親の霊も、とか考えてみたり。


 父の墓は、何百とある墓のちょうど中央付近。


 墓の数以上の涙が、人の死によって生み出されたことになるのか。楓は自分のような人が何人もいると思うと胸が締め付けられるような気がした。


 父の墓の目の前まで来る。

 左には誰の墓もなく空いている。所々にそのような場所が見られる。これからそういったところも埋まっていくのだろう。

 悲しい現実。なぜ人間には「死」が待っているのだろうか。不思議だけど当たり前。

 何にせよ始まりと終わりはつきものである。


 少し水を下にこぼしながら、久しく運動をしていない彼からしたら重たいバケツを持って父の墓までくる。

 最盛期を迎えたまだ若い花は、楓の母がこの前供えたものだろうか。それにしてはついさっき供えたばかりのように美しい。

 汲んできた水を石碑や花立にそっと、水をかけた。


 それが一通り終わってから、

「父さんの言っていたこと、今ならわかるよ」


 葉山春之がかつて楓に語った言葉。

「自分は主食で家族が主菜、友が副菜で恋人がデザートみたいなもんだ。全部揃って初めて楽しい人生って言えるんじゃないのか?」


 今考えれば感慨深い言葉である。

 これほどまでに的を射た表現があるだろうか。


「僕もね、愛する人ができたよ。父さんにとっての母さんみたいな、大事な大事な存在」

 その言葉と共に朝倉香の顔を思い浮かべる。自分にはこの人しかいないのかもしれないとも思う。


「あと父さんには本当に申し訳ないことをしたと思ってる。反抗期だからとは言え、なんで僕はあんな態度取ってたんだろう。あの日も『言ってらっしゃい』すら言えなかった。父さんより僕にバチが当たるはずだったのに」

 天にいるはずの父を見るように空を仰いで言った。


 するとその時、真上を覆う雲がだんだんと薄くなり、とうとう太陽が顔を出し始めた。

 それはまるで楓の今の姿を見ているぞ、と言わんばかりの笑顔のような太陽。

 眩しすぎる。眩し過ぎて直視できない。楓にとって父親のようなヒーローは実に眩し過ぎた。

 自分とはかけ離れた父親。今は姿すらも離れてしまった父親。彼は間違いなく楓の目標であった。



 夏にしては涼しすぎる風が楓の髪をなびかせる。

「きっと父さんが守った女の子は今も元気に暮らしているはずだよ」

 どこの誰なのかは誰にも、いや、亡き父以外誰もわからない。

 だけれど楓はなぜかそう確信していた。



 日が当たってきたためか、石碑やその周りにかけた水は少なくなってきていた。


 楓は軽く手を合わせて再び感謝の言葉を今度は心の中でささやいた。


 もう用は済んだと、彼はバケツを水道のところまで持って帰る。

 たくさんいれた割にあまり使わなかったため、まだ十分重たい。焦らず両手で運び、捨てると、なんだか彼は随分と軽くなった気がした。

 重たかったのはバケツだけではなかったのかと彼は思った。



 それから楓は乗ってきた自転車にまたがって帰路をマイペースに進んだ。

 途中で、暑さのせいかアイスが欲しくなって道中のコンビニに立ち寄った。

 自転車をろくにロックもせず適当に止めてから店内に入ると、中は冷房がかかっていて楓は生き返る。


「おっ、楓じゃん。こんな昼間から何してんのさ?あ、俺?俺はただ今日親がいないから飯を買いに来たんだよ」

 コンビニにに入ってすぐ横の本棚の前で小説を片手に一冊、急に楓に話しかけてきたのは同じ一組の友達だった。

 ちなみに楓との接点を作ってくれた立役者でもある。


「僕はちょこっとアイスでも買おうかなと思っただけだよ。あと君のことなんて聞いてもないし聞こうともしていないぞ」

「お、アイス良いね。俺にも買ってよ」

「自分で買えよな。僕もあんま金持ってないし」

 そう言うと、楓はアイスが置かれている冷凍庫から迷うことなくコーヒー味のパピコを選んでレジへ持って行き、友達を置いていくように店内を出ていった。友達も何かを購入した後楓について出た。


 糖分を欲していた楓は我慢できず、店内を出てすぐに楓はパピコの片方にかぶりついた。


「お前パピコが好きだったんだな」


 ふと気付く。そう言えば何気なく楓がとったが、確かこれは父が生前大好きだった食べ物だ。

 彼曰く

「真夏に愛する人と分けあうのが至高だ。アイスだけに」

 だそうだ。冗談なのか本音なのか少しわかり難いが、恥ずかしさを隠すためにシャレを入れながら言ったのだろう。


 それを思い出すと楓は自然と笑みがこぼれた。

 それに続くように自然と涙もこぼれた。


 楓は涙もろい。最近の彼は少し泣き過ぎているような気がする。

 それでも彼は思う。

 それでいいのだと。

 もし泣きたかったら泣けば良いと。



「お前何泣いてんだよ。何かあったか?」

「何もないよ。強いて言うなら……けじめがついた、のかな?」

「なんのこっちゃ俺にはわからんな。まあ良い。俺のアイスの実やるよ。ピーチ味はうまいぞ」

 楓はそれを受け取り、パクリと口の中へ放り込む。冷たい。

「……うま」

「だろー」



 もし泣きたかったら存分に泣けば良い。

 友にその涙を拭いて貰えば良い。その代わり友が涙を流していたらそれを拭いてやれば良い。

 それができるやつが本当の友達ってもんではないか、と彼は思った。


「俺のパピコも半分あげるよ」

 分けたのは愛する人ではなかったけれど、それでも充分だった。

「サンキュー」



 そう言えば昔楓の父親が彼にパピコを一つ分けてくれたことがあった。

「父さんは相変わらず優しいね」

 楓が言うと。

「違うぞ。お前と母さんにだけは分けてあげるんだよ」

 と父が言った。

 あの言葉は言い換えれば「俺は楓と未有を愛している」と言う意味だったのだ。

 今頃気がついた。

 直接そう言えばよかったのに。彼はそう思った。


 そしてこの時食べたアイスは今食べているアイスと同じ味がした。いつもとはまるで違う味。

 アイスなのにどこか温かさのこもった、甘くて優しすぎる特別な味。


「ありがとね、昔も今も」

「なんの話だ?」

 本当にわかっていないようだった。


「じゃあ僕そろそろ帰るから。じゃあね」

「おう、じゃあな!」


 楓は、間違いなくこの人は僕の最高の友達だと思った。


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 今日は日曜日。約束の日曜日。


 ブーブー

 午前中、家の中でゴロゴロしていると、スマホが楓のポケットの中で震えた。

 ポケットから出して確認してみると、香からのラインだった。

「……なんだろ」

 内容を確認する。


『昨日から病室が931から444に移動したからくれぐれも間違えないようにね〜』

 だそうだ。

 これは間違えたら恥ずかしい。しっかり記憶しておこうと彼は思った。



 一応出かけた先で何か食べるかもしれないので、消化の早いうどんを早めにずるっと食べる。

 まだある程度の時間が残されているので、いつものショルダーバッグに財布やイヤホンを入れ鞄の準備は済んだ。

 それから洗面所に行き、鏡に映る自分を見て服装と髪型チェック。

 そこまでできて初めて準備万端整ったと言える。


 鞄を肩に提げ、玄関で真新しいブーツを履き、

「いってきまーす」

 扉を開いていざ、出陣!

 今日の天候は幸い快晴であったため、いつだったかのように髪型が崩れることはないだろう。


 それなのに楓の顔は曇りがかっていた。

 と言うのも、今日がデートへの初陣となる楓は少々緊張していたのだ。

 当たり前のことだ。初デードじゃなくても緊張する人は多いだろう。

 好きな人と二人きりでお出かけ。そんな夢のようなこと、緊張しない人がいないわけがない。

 おそらく香だって今緊張しているはずだ。


 しかし彼の心には少々の緊張だけがあるわけではなかった。

 少々どころではない大部分を占める、喜び。

 もしかしたら緊張も喜び故のものかもしれないが。

 病院まで、道道心臓が走った後のように素早く体に鼓動を響かせていた。普段は聞こえない、というか意識しない鼓動も今は鮮明に聞こえる。心臓が肋骨を突き破って前に出てきそうな勢いだ。

 こんなに動いていたらヘモグロビンも疲れるだろう。ヘモグロビンに意識があったらだが。


 それなのに病院が近づいてくればくるほどより心臓が早く強く脈打つ。



 数十分してあの病院に無事到着した。


 病棟の中はやはり静かで、コツコツと足音ばかりが反響する。

 楓も足音を鳴らしながらエレベーターの前まで来る。

 以前の楓からしたらエレベーターすらもストレッサーだったが、今の彼には心にも時間にも余裕があったためか、なんとも思わない。

 逆にいつまでも待ってやる、といった心持ちでいた。

 こんなこと言ったらなんだが、正直心にも時間にも余裕を持たないでほしいと母親は言うだろう。勉強面で。


 下に降りてきた、エレベーターの9のボタンを押そうとしたところで思い出した。

「っ、あぶな。間違えかけた」

 彼は危うく931号室に向かおうとしていた。

 すっかり忘れていたようだ。

 9のボタン軽く触れていた指を4のボタンまで移動させて、力強く押した。


 エレベーターはだんだん加速していく。

 してすぐに、今度は逆向きに加速したため体がふわっとした。あまり目を向けていなかったが、楓はこの感覚が好きだった。


 エレベーターを出てから、スマホで忘れかけていた部屋番号を確認。

 444号室、それが彼女の新病室である。

 楓は部屋の位置を探すのに少し時間がかかってしまった。これから慣れればいいさ。


 入り口付近に書いてある名前を念のため確認すると、そこには知らない名前がいくつかあった。確かに朝倉香と言う名前もあったのだが。


「たちばな ふうか?せと かずひさ?」

 ……なるほど三人部屋らしい。


 早速中に入ると、三つのベッドのうち二つはカーテンがしてあり、もう一つはカーテンが開いていた。そのカーテンをしていない一人こそ朝倉香本人だった。どうやら彼を待ってあえて開けといたようだ。


 彼女は楓の姿を認めると、ニコッと綺麗な歯を見せて彼を呼ぶ。

 ほっとして楓の顔も自然と和らぐ。

 香の元へ近づき、やはりベッドのそばに置いてある椅子へ腰を下ろした。


「病室間違えかけちゃってさ、ごめん待った?」

「いや、全然。早すぎるくらいだよ」

 確かに本来予定していたよりも少し早い到着であった。家を出るのがそもそも早かったおかげだ。


「最近リハビリは良い感じ?」

「一人で立てるようにはなったけど、少しだけ」

「大変そうだね。まあ、少しずつ直していけば良いよ」

「……うん」

 香は不安な表情を見せる。

 楓は気を遣って話を変えることにした。

「なんで今頃病室変えたの?」

「前まではあまり私が元気じゃなかったから一人部屋にしてもらってたんだけど、もう元気になってきたからお母さんが三人部屋でも良いでしょってことで」

「なるほどね」

 それから程なくして、

「じゃあ約束通り、水族館行く?」

「うん、行こう!」


 彼女は車椅子に体を任せ、それを楓が押して行く、と言う形で病室の外に出た。

 ここから水族館まではあまり遠くはない。楓は歩いて行くことにしていた。


「そういえば、勝手に外に出て良いの?」

「担当医からおっけーもらったから大丈夫。昨日もお父さんとお母さんと外に出たし」

 楓は、どこにいったんだろうか、と思ったが自分が家族の話に突っ込こんでも良いものかと思い、

「そうなんだよかった」

 とだけ返した。


 その言葉を聞いた時、ちょうど病棟の外に出るところだった。


 自動ドアが開くと、涼しい風が頬をかすめる。

 彼女の黒髪もサラサラとなびき、日光を浴びることで、より美しさを増している。


 この病院は水族館に近いことから分かるように、住宅街ではなく自然に囲まれている。

 故に外は色鮮やかな自然で溢れかえっている。


 彼らは自然を感じながら、水族館へ向かった。

 道中色々な話をした。

「そういえばさぁ、私と同じ病室に橘さんいたでしょ?」

「いたね。それが?」

「あの子私たちと同じくらいの歳なのに、重症心不全なんだって。あの子とあの子の親の話が聞こえちゃったの」

「重症心不全って重症ってついてるくらいだし結構やばいんじゃない?」

「そう、実際やばいのよ。カーテン閉まっていたからわからなかったと思うけど、橘さん機械で心臓を動かしてどうにか生きている状況なの。かわいそうでかわいそうで……。助けてあげたくなっちゃう」

 彼女は優しい、楓の父親のように。父に似たその点も、彼が彼女を好きになった要素に違いない。


「でも、世界中にはそんな感じで苦しんでる人はたくさんいるんだよ。悔しいけど彼女はその中の一人なだけ。君もまたその中の一人。それが現実じゃないかな」

 楓は冷たいことを言ってしまった。でもそれが現実。

「違うよ楓君。私が世界中の苦しんでいる人たちの中の一人だからこそ、彼女を助けたくなるの」

 楓にとって強烈なパンチだった。彼女の言葉を聞いて、自分はなんて無神経なんだと気がついた。

「君はすごいね」



 夏だけあって外は蝉の大合唱が響いている。うるさいけれど、香は嫌いではない。

「楓君、なんで蝉はあんなに鳴くんだろうね。鳴いているんじゃなくて嘆いているのかな?自分や仲間が短命なことを」

「面白い答えだけど、本当にそうなのかな?蝉は自分たちが短命ってことを知っているのかな?」

「どういうこと?」

「蝉はすぐに死んじゃうから人間とかその他の生き物が長命かどうかもわかっていない、つまり自分たちの命の長さと相対するものがないから自分たちが短命だということもわかっていない気がする」

 楓の発想は実に豊かで、香を何度も楽しませる。

「でも人間はどの生き物が人間より長命だとかわかってるじゃんか」

「それは人間が特別なだけ。人間の総合能力はどの生き物をも勝るからね」

「じゃあなんで蝉はそんなに儚くて淡い命なの?」

「うーん、早く親の元へ行きたいから?」

 これは実際楓が思っていることでもあった。時々楓は父親の元へ行きたくなる。でも踏み止まれるのはきっと香のおかげなのだろう。

「楓君らしい答えだね。いっつも私を楽しませてくれる。でも私は蝉が短命なのはそういう運命だからだと思うの。そういう運命だから早く死ぬ。運命には誰も逆らえない。例え人類の能力が生き物一だとしても」




 運命とはこの世の理に等しい。故に誰かが替えるなんて不可能なことだ。

 彼女自身それは充分にわかっている。

 わかっている。


 けれど彼女は抗い続ける。強く生き続ける。約束したように。


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 水族館には休みの日だけあってそこそこ多くの家族やカップルが来場していた。

「結構人いるね」

「そうだね。ここ色々な生き物がいて人気らしいからね」


 楓はパンフレットを見ながらルートの確認をする。楓がわかってないと誘導する人がいなくなるからだ。


 ルートは一つになっていて、方向音痴の楓にも優しい作りとなっていた。


 昔『巨大迷路!』とかいう、実際に人間が巨大な迷路の中に入って、攻略していくというイベントが家の近くの大きな広場でやっていた。それに楓は友達と参加した。友達はみんなバラバラのところからの出発となったのだが、どうなったかは察しの通りだ。

 迷路は色々な道が繋がっていたため、楓はぐるぐる同じ道を回っていたのだ。それにも気づかず、友達が先にゴールしている中楓だけが迷いに迷い、結局友達に先に帰られたというトラウマがあるのだ。


 さすがに水族館で迷う人なんてそうそういないとは思うが。


「じゃあ行こうか」

「うん!」


 入り口と書いてあるところから中へ入ると、最初はサンゴやナマコやヒトデなどのあまり動かない生き物のコーナーだった。

 どうやら触れるものもいるらしい。


「うわっ、ナマコ気持ちわるぃ」

 楓はナマコの触り心地が好きになれなかった一方で、香は気に入っているようだ。

「すごい、良いね、この感じ」

「そうかなぁ。僕は苦手だよ」

「人には好き嫌いあるからね。仕方ない」

 こんなことを言わせてしまった楓は、少し申し訳なくなった。


「次行こっか」

 香がもう十分触ったと、次のコーナーに誘う。楓が車椅子を動かして進んだ。




 その後、色々なところを回り、クラゲ類のコーナーに来た。

「ベニクラゲってすごよね」

「透明だし綺麗だよね」

 香の言葉に楓があたり前のことを返すと、

「そこじゃなくて。ベニクラゲって不老不死じゃん。老いたら細胞が新しくなって、それが何回も繰り返されて何回も新しい人生が送れる。ずるいね。今の科学の力で人間もそんな風になれたら良いのにね」

「人間が不老不死なんて夢のような話だ。でも、ずっと生き続けるのも大変だと思うよ」

 もしかしたら本当に不老不死が実現するかもしれない。今の科学なら。今まで不可能を可能にして来たように。


「今の私には羨ましすぎる。生まれ変わったらベニクラゲになりたい」

「僕は生まれ変わったらもう一度人間になって、もう一度君と巡り会いたいな」

 楓は無意識に言った言葉だったが、自分が何を言ったのか気がつき、顔を赤く染めた。


「ふふっ、それは嬉しいね」

 香は弱々しい笑顔を、水槽に映る楓に向けた。

 その笑顔に隠された悲しみも知らず、楓は車椅子を動かした。

 ゆっくりと一つひとつの生き物に目を通していると、どうやら一番の注目らしいジンベイザメが泳いでいる水槽まで来た。


 ジンベイザメは一匹でさえ大きくて迫力があるのに、ここには三匹のジンベイザメが一つの水槽で泳いでいる。窮屈ではないだろうかと思うほどだ。


「うっわー、でっかいなぁ」

 楓の口からはつい詠嘆の言葉が漏れていた。

 誰もが初見はこの言葉が出てくることだろう。

「でっかーい」

 香からも似たような感想が聞かれた。


「こんなにでかかったら窮屈じゃないのかなぁ?」

「香はずっと病室にいて窮屈だと思ってた?」

 突然の質問に少し狼狽してしまった香だが、

「少し窮屈だったかな。それが?」

 と答えると、楓はクスッと笑って

「多分このジンベイザメたちも君と同じような思いなんじゃない?」

 香の方はゲラゲラ笑い、

「それはものすごくわかりやすい例えだね」

 と言って、嬉しそうにしていた。


 すると、職員の人と思しき男性が水槽上から中に入り、泳ぎ始めた。

 そしてジンベイザメと戯れる。

「あの人ジンベイザメに食べられたりしちゃわないのかなぁ」

 香は頭が良いのに天然だからか、たまにおかしなことを口走る。

 そんなところも楓は好きだった。

「そんなことあったら今頃ここの職員全員いなくなっていると思うよ」

「確かに、やっぱり天才だね楓君は。私は秀才だけど」

「それ自分で言っちゃうんだね。あと僕が天才なんじゃなくて君が天然なだけだと思うよ」

「まあ、否定はしない」

「「はははっ!」」

 二人で笑い合う。



「よし、じゃあ次行こうか」

 楓が再び車椅子を押して進むとそこにはもう水槽はなかった。

 そこは売店というかお土産やさんがあった。

 特に何も買う気は無かったのだが、香の顔ははっきりとわかるくらい「不老不死」と書かれたキーホルダーに向いている。

 心の中で分かり易すぎ、と叫びながら楓はそのキーホルダーを手に取り、レジに持っていった。

 約300円ほどのそれを買い終わり、香の元に戻ると、香は彼に言った。

「楓君キーホルダーとか買うんだね。あんまり付けるイメージとか無かったけど」

「僕のじゃないさ。君のだよ」

 楓は少し、ほんの少しカッコつけながら手に持つそれを香に差し出す。

「えっ、私?」

「香これ欲しがってたでしょ」

「なんでわかったの?私のことは全部お見通しってか」

 嬉しそうにニコニコしながら、か弱い掌で大事にしっかりと握る。

「まぁ、そういうことにしとくよ」

 それにしてもなんで香はそんなに生きることに執着しているのだろうか、と楓は思った。奇跡的な奇跡によって生きることができたというのに。


 二人は出口という字と矢印に従って簡易ルートから出た。


 どうもモヤモヤする。楓の心はすっきりしていなかった。前述したことに関してだ。

 どうにかして内心の雲をはらおうと、

「香ってさ、なんでまるで死ぬかのように生きることに執着するの?」

「えっ、……。そう?逆になんでそう思うの?」

「だって香最近少し変な気がする。よく説明できないけど、自分の命をまるで嘆いているみたい」

 自分でも何を言っているのか、どこからそう思ったのかはわからない。でも何か気持ち悪い。

「人間は必ず死ぬんだよ。生にすがるのは当たり前のことじゃないかな」

 楓は納得していなかった。だけど、このまま質問を続けるのも何か違う気がした。

「なるほどね。僕がおかしかったのかな。ごめん、なんか困らせちゃって」

 香は黙っていた。彼女の方こそ、申し訳ないような哀しそうな顔をしている。


 香は彼と彼女の間に流れる悪い空気を一掃するように、

「アイスクリーム食べたい!」

 と、元気一杯に言った。どこからどう見ても空元気にしか見えなかった。

 それでも楓は、

「おっ、良いね。僕も食べたい」

 楓は車椅子を前進させたが、なんだか重たい。いや違う、重たいのは楓の心。


 店の前まで来て、

「ソフトクリーム二つください」

「お二つですね」

 店員は機械から出るスフトクリームをぐるぐるととぐろを巻いて彼らに差し出した。

 楓は二つぶんのお代を出して、近くのベンチに座り、その隣に香の座っている車椅子を止めた。


「やっぱりなんだかんだバニラが一番美味しいよね」

 香は美味しそうにぺろぺろとソフトクリームを食べている。

「そうだね。変に味なんてつけなくて良いんだよ」

 美味しい。とても美味しい。濃厚で深い味がする。


 それでも楓はこの前友達と食べたアイスの方が美味しいような気がしてしまった。


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 一通り海の生き物を見終わった頃にはもう6時を回っていた。



 水族館は海に隣接することが多く、ここもまた、そのうちの一つである。故にこの水族館から大きな橋を渡って直接浜辺に行ける仕組みとなっている。

 その橋を渡るのも一苦労だが。


 楓は香と相談して、結局その浜に行くことになった。


「遠いねぇ。海が近づいてる気がしないよ」

 橋を渡っている香はそう言った。

 そんなことを言っている間も少しずつ確実に近づいている。

「あっつ、汗が吹き出る」

 息遣いも荒くなってきた楓は汗を拭ってもうひと頑張り。

 彼女の笑顔を見るために。


 七分ほどたった。

「よっしゃ、もうちょい」

「座ってるだけの私が言うのもなんだけど、がんばってー」

 楓は苦笑い。それでも少しはやる気が湧いてきた。



「とうちゃーく!」

 橋の端まで来たところで楓はこの言葉と共に思いっきり息を吐いた。

 まだここから海までの距離が残っていると言うのに。


 楓は何も考えずそのまま車椅子を浜辺へ押し出した。

 ズボッ


 車輪は案外深く砂にはまり、進みにくい。

「あらら。どうしよう」

 ここまできたら海のそばに行かないわけにはいかない。

 これは困ったと思い、彼はが思案した結果、一つの結論に至った。

『香をどうにかして持って、海の近くまで運ぶ』

 これしかない。

 思い立ったらすぐ行動。楓は車椅子の左前にしゃがみ、背中を見せる。

「乗って」

「えっ……」

「気を使う必要なんてない。海、一緒に行こうよ」

「じゃあ……お願いします」

 若干の躊躇いを見せつつ彼女は手を伸ばした。


 彼女の左手が彼の左肩に触れた時知った。香が今さっき彼の方に乗ることを躊躇っていた本当の理由を。

 それに気づいてから楓は落ち着くという言葉を見失い、血流のスピードがアップする。

 香のもう片方の手も楓の右肩にかかる。

 そして彼女はとうとう体全体を彼に任せた。


 左心室から血液が一瞬で全身を巡る。


 彼の気づいたこと。彼女の躊躇った理由。それは、おんぶ(・・・)にある。おんぶ、つまり香が楓に後ろから抱きつくということになる。

 彼らは、ハグはもちろん手を繋いだことすらない。

 しかし今現に香が楓に抱きついている。

 緊張しない方がどうかしている。


 楓は香を背負って浜辺に足跡をつけていく。彼女の胸が楓の背中に接している。楓は自分の鼓動と同時に香の鼓動も伝わってきていることに気がついた。

 緊張しているのは楓だけではなかったのだ。緊張していたからこそ彼女はさっき躊躇したのだ。

 楓はそれがどうしようもなく嬉しかった。


 心臓は誰にだって備えられている臓器なのだ。それは無意識に動く。意識でどうこうすることは許されていない。つまり、彼女の鼓動で初めて自分への本当の愛を確認できたのだ。

 嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しかった。


 楓は彼女の軽い足をより強く抱くと、それに答えるように彼女の方も楓の肩に回した両手を、ぎゅっとしめた。

 彼女の愛おしい香りと彼女の吐息が鮮明になるところまで二人の顔が近づいた。


 そうこうする間に、楓の足に波がかかる位置まで来ていた。

 香に向いていた楓の意識は冷たい海水に向く。

「下りる?」

「うん」

 楓は香を波が来ないギリギリのあたりに下ろした。彼女の体は、まだ肉が十分に付いておらず、簡単に下ろすことができた。


 楓も香の隣に座り、海に目をやると、そこにはまさに火の海のような光景だった。

 ちょうどこの時、水平線やや上には雲一つかかっていない夕日が浮かんでいたからだ。

 もうすぐ沈んでしまう。まるで一つの命の灯火が消えていってしまうようだ。

 そのため楓は絶景に感動すると同時に何かを喪うような哀しいような怖いような気持ちがした。その気持ちを隠すように、

「夕日が綺麗だね」

 と言うと、彼女は茶化すように返した。

「なにそれ我流の告白?」

「べ、別にそんなつもりじゃ……。てか、もう僕たちそういう関係じゃん」

 香はクスッと笑い、

「そういうって、どういう?」

「それは……彼氏彼女の……関係」

 夕日で赤い彼の顔は一層真っ赤に燃え上がり、香の顔すらもろくに見られない状態となる。

「そうだね。ごめんごめん」

 それから彼女は話を戻した。

「確かに綺麗だけど、少し怖いな」

 それは意味深な言葉だったが、なぜか楓は共感してしまった。

 それでも楓は香の怖がる理由を知りたくなり、

「いったい何が怖いのさ」

 尋ねる。

「私の命の恩人を思い出すの。私の代わりに、私のせいで死んでしまった人。優しく、穏やかそうだけど根は勇敢な人だった」

「……」

「彼は炎の中で死んでいった。どれだけ暑かったのか、どれだけ寂しかったのか、私には到底わからない。それでも一つだけわかったことがあったの。私に『俺のことは良いから』って、一丁前に格好良いこと言っときながら、彼の目は少なくとも生きることを望んでいた。本当は死にたくないと訴えていたの。…………目の前の光景を見ていると、その人のことが脳裏に浮かんでくるのよ」


 楓は思った。

『あぁそうか、君だったのか。僕の父さんが助けた命っていうのは。僕がかつて憎んだ少女っていうのは』

 彼は途中から心中を口に出していた。

「そんなことってねぇよ。なんで君だったんだよ。憎もうにも憎めないじゃないか……」

「ごめん……私あなたが葉山春之さんの息子ってこと、知ってた。だけど怖くて言い出せなかったの」

「謝らなくて良いよ。その代わり、君は父さんの分まで強く生きて、僕は父さんの分まで君の事を愛する。それが僕たちにできるヒーロー(葉山春之)への恩返しになるから」

 楓は静かに泣いた。香は声を出して泣いた。


 そして夕日は水平線に沈んだ。



 二人の涙が枯れ尽きた頃、楓は再び香を背中に端の方へと歩き出した。

「一つ聞いて良いかな」

「なに?」

 一つの確信を持って楓は香に質問する。

「昨日両親と出かけたって言ってたけど、何をしたの?」

「お墓参り。あなたのお父さんのお墓参り」

「それじゃあ、墓に供えてあった花って」

「そう、私が供えたお花」

 やっぱりそうだったか。



「僕の父さんが助けた人が君で、僕はその君に恋をした。僕はこうなる運命だったんだね」

「そうだね」


 運命は変えられない。人間は運命に沿って生きてゆく。

 けれどもこの先の運命もまた未来のことだ。誰にも知る由はない。人間は弱い。そう知っておきながら抗うのもまた人間の特徴なのではないだろうか。


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 水族館からの帰り道、ひぐらしの鳴き声が聞こえてきた。

 楓はこの声を聞くと心が癒された。

 香の秘密を知れたからかもしれない。しかし、本当に香と父が関係していたことだけが彼女の秘密なのだろうか。

 この時水族館内で発生した内心の雲は、まだうっすらと残っていた。


 病室に戻ると部屋には入院中の二人以外にも何人かいた。見ると、橘のベッドの周りのカーテンが少し開いている。どうやら娘のお見舞いに来た両親らしい。

 楓と香はできるだけその人たちの邪魔にならないように、静かにベッドのそばに行く。

 香をベッドに乗せると、二人はしばらくの間迷惑がかからないように小声で話した。


 その間橘家の父が、

「大丈夫か?もうすぐだから。もうすぐ順番が回ってくるから、もう少しの辛抱だ」

 すると母は、

「そうだ、元気になったらみんなでまた旅行でもしましょう。退院旅行ってことで」

「そうだね。楽しみにしとくね」

 橘ふうかは笑顔を見せる。

 それを見て母は泣く。不思議な光景だった。


 なんだかいて良い雰囲気ではなかったため、楓は香に言った。

「屋上行かない?」

「そうだね」

 彼女は苦笑いをして答える。

 楓は再び香を彼女専用車椅子に移すと、それを押してエレベーターに向かった。

「でもなんで屋上?部屋の外ならどこでも良いならデイルームでもよかったんじゃない?」

 香が適当な突っ込みを入れる。

「まあそれはあれだよ。馬鹿と煙は高いところが好きって言うだろ?つまりそう言うことだよ」

「なるほど楓君はおバカさんだから高いところに行きたい、と言うことだね?」

「あってるけど、改めて言うことに意味はあるのかい?」

 答えなどわかっているが一応楓は尋ねてみた。

「ないよ」

 クスッと笑う。

 ないと言いながら、その彼女の言い方が既に彼を馬鹿にしていた。

 最近香はよく笑う。その笑顔は宝石のように美しく見える。昔のような美しい姿に戻りつつある証拠だ。

「なら良いや」



 エレベーターで最上階まで上がると、扉が開き、短い廊下が見えた。ここをまっすぐ進むと屋上に出られる。


 迷わず屋上に出る。

「うわぁー、綺麗だね」

 香がため息をついたのも無理はない。そこには空一面に星が出ているのだ。ここは自然豊かなところで、周りにあまり明るいものがないからである。

「あれが北斗七星で、あれが北極星か。あとは……よくわからん」

「私わかるよ。あれが月」

 まさに月を指して香は言った。

「僕を馬鹿にしてるの?それくらい誰だってわかるよ」

「だって楓君はおバカさんじゃん。高いところが好きだし」

 何か香から違和感を感じる。最近の楓に対する態度がおかしい気がする。なんだかあたりがきついような、わざとっぽいような。

 でも彼はそれを彼女なりの愛情表現だとその時には勝手に自分自身を納得させた。


 香が急に悲しそうな顔になった。

「そう言えば、言っていいのかわからなかったから言ってなかったけど、橘さんって余命がもうすぐなんだって。医者から予告された余命はとっくに過ぎてるらしいんだけど、どうにか生きながらえている状態らしいの」

「……」

 楓は何も言えなかった。

 夜の涼しい風に鳥肌を立てた彼は、慈悲することしかできなかったのだ。


 それから静かに時間は過ぎていった。


「寒くなってきたね。戻ろうか」

 楓が切り出して、二人は病室に戻った。


 そこにはもう橘両親はいなかった。

 晩御飯は既にベッドに付属している台に置かれていた。

「僕もそろそろ帰るよ」

 扉に向かおうとする楓に香は声をかけた。

「楓君、もし私が嘘ついたら怒る?」

 香の方を振り返った彼の頭にはまさに、はてなマークが浮かんでいる。

「なになに?どうしたの?」

 彼女は笑顔を作る。まるで何かを隠すように。

「私ってさ、この通り嘘とかついたことないんだよね。だから、もし私が嘘ついたら楓君怒るのかなぁ?っていう純粋な疑問だよ」

「あえてツッコまないけど、君の嘘なら怒らないよ。誰だって嘘はつくし、そうしないといけない時だってある。君が考えてつこうと思った嘘なら僕が干渉することではないんじゃないかな」

「……ありがとう」

 そういった彼女の目には確かに涙が浮かんでいた。

 一体何だったのか楓は聞くに聞けず、「どういたしまして」とだけ言って帰っていった。



 気がつくと楓はリビングルームにいた。

 彼はリビングルームでスマホを片手に寝落ちしたようだ。

 壁にかかったアナログ時計に目をやる。

「8時?」

 右手の甲で目をこする。

「8時か。………8時⁉︎」

 即行で鞄の準備や制服を着る。

 今日は月曜日。もちろん登校日。

 超特急で家を飛び出し、通学路を走る。そこらの自転車よりも速かった。もしかしたら百メートル走の時よりも速かったのではないだろうか。

 そんなこんなで始まった今週も、何事もなく金曜日になっていた。


 やはり楓はこの日も病院へ向かった。

 しかしこの日はいつもと少し、いや、だいぶ違っていた。

 楓自身はこの日もいつも通り適当にノートを見せて、適当に勉強を教えてもらって、適当に二人で過ごすのだろうと勝手に思っていた。本当に勝手に。


 楓が病室に入って香に発せられた一言目。



「楓君……私たち、もう別れよう」


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 全く頭が追いつかなかった。

「おいおい、何の冗談だよ。全然笑えないよ」

 香は真剣な眼差しを向けている。

「楓君はやっぱり優しすぎるんだよ。私の心配ばっかで、私に尽くしてばっか」

「だからそれは僕のためだって……」

「そんなことより受験勉強に集中した方が君のためじゃないの?」

「何でそんなこと言うんだよ。最近僕に対して冷たかったのもそんなことだったのかよ」

 楓は寂しい気持ちで胸が苦しくなった。

「そんなこと?そんなことなんかじゃない。私のせいで君が君の人生を棒にふるなんてことして欲しくないの」

 そこには力強い気持ちが宿っていた。

「……わかった!じゃあ大学受験まで。それまで別れよう。受験が終わったらまた香を迎えに行くから!それまで待っててよね」

 相手の言葉も待たず彼は早足で病室を出ていってしまった。


「そうじゃないの……。その時じゃもう遅いの……」


 力ない彼女のその言葉すら、楓には聞こえる余地もなかった。


 カーテンを開ける音が聞こえた。

 瀬戸和久せとかずひさだ。

「橘さんのところもだけど、君のところもなんだか大変そうだねぇ」

 彼は五十歳くらいのおじさんで、重傷の骨折を左手に患っている。

「人間ってどうしてこうもすれ違うのですかね」

「そりゃあ人間だからでしょうね。人はそれぞれ意思を持っていて、人と人との間で生きるものだから人間って言うんだしね。だから人同士の相互作用によって嬉しくなるし、悲しくもなるさ」

「人間ってそんなもんですかね」

「そんなもんさ」

 香はその時ふとあることに気がついた。

「なんだか楓君みたいなこと言いますね」

「あぁ、朝倉さんの彼氏さんのことか。どんなところが?」

 和久は少し考えるそぶりを見せてから、答えを見つけたように言った。

「そうです。私の彼氏の葉山楓君。面白い事というか、興味深い事を言うところとか」

 香がそう言った時、和久は何か大事なことに気が付き、目をギョッとさせた。

 そして悲しみの映る笑顔で言った。

「たった今わかったよ。それは多分、俺もそう言うことをよく聞かされたから……かな」

「⁇」

 意味深な発言だったが、踏み入って良いのかわからなかったため、香は敢えて聞かなかった。

 このまま沈黙が続いてしまうのだろうかと彼女が思っていると、彼が静かに言った。

「大変そうだけど、まぁあれだ、……強く生きろよ。俺はこの辺で」

 彼はいたずらな顔をていた。

「はい」

 優しく答えた香は察したように、にこっと真っ白な歯を見せた。

 二人はカーテンを閉め、自分たちの世界に閉じこもった。




 楓はその日から勉強に励んでいた。

 自分でも不思議なくらいあっさりと香との一時的な別れを受け入れていたのだ。

 実は楓のことを気にしてくれていることが少し嬉しかったりしていたためだ。

 それに加え受験が終われば、また香と好きなだけ会える。

 ご褒美があれば人はより頑張れる。楓は今そんな状態だっだ。

 彼は学校が開放されていたら、休みの日でさえ学校へ勉強しに行くくらい真面目になっていた。



 学校では夏が少し過ぎてきたこの時期は、毎週テスト三昧になる。

 楓の学力ははっきりと目に見えはしないものの、着実に良くなってきていた。

 それは楓自身が一番実感していて、喜びさえ覚えていた。

 苦手意識の高い数学でさえマーク模試で8割を取れるほどになっていた。

 彼にとっては全てがうまくいっているように思えた。実際表では上手くいっていた。




 しかし。

 いつものように学校が解放されていたため、学校の自席に向かって頭を働かせていた楓のポケットが細やかに震え始めた。

 学校にいてもなお常備しているスマートフォンである。

 せっかく集中していたのに一体誰だよこんな時に。

 そう思ってしまった。

 どうせ母が何かしらの用事を伝えるために電話してきたのだろう、とポケットからスマホを出した。

 そこには「朝倉香」という文字が映し出されていた。

 以前互いの電話番号を交換しあい、登録していたのだ。

 自然と少し笑顔がこぼれた。

 ダッシュで誰にも邪魔されないトイレに駆け込んだ。

 通話のボタンを押し平常心を装って応答する。

「はい、もしもし」

「……って」

「え?何?」

 相手は震える声でぼそぼそと、楓には届かない声でしゃべっているようだ。

「……っ来て」

 その声の主が香だと認識するには無理があった。

「誰ですか?」

 恐る恐る訊ねる。

「早く来て‼︎」

 聞くが早いか彼は脊髄反射で足を動かしていた。通話終了のボタンを力強く上から押す。

 教室に鞄は置きっ放しで駆ける。

 さっきの電話で何ら諭旨はなかったものの彼は迷わなかった。

 どこに行けば良いのか、誰がどうなったのかなんていう質問をしなくても自然と足が彼を目的地まで運んだ。

 まだ完璧には理解できていなかったが、唯一確かなことは、良くない何かが起こったということだけだ。


 曇天の空の中、あまり車の通りの多くない道路を横目に、それに沿って走る。

 このスピードならオリンピックも夢ではない。道行く人が目を見開いて彼を見る。


 病院に着き、中へ入り、エレベーター前で時計を一瞥する。

 自己最高記録を達成したことに彼は何ら喜びすら感じていなかった。


 胸が苦しかった。それは走ったせいではない。近い未来を予想しての結果だ。


 エレベーターから左手に包帯を何重にも巻いた一人の男性が慈悲深い表情で降りて来た。

 不覚にも関係のないそんな人まで睨んでしまう始末。

 エレベーターはいつの日かも感じたものと同じくらいかそれ以上の重さを彼に課した。


 ゆっくりゆっくり扉が開く。

 重たい足を動かす。

 彼女の病室へ続く、曲がり角を曲がるとより一層重たい空気を感じ取ることができた。


 楓はその空間へ足を踏み入れた。

 最初に目に入ったのは電話越しの声の主であった香の母親。それと彼女の父親だった。

「何があったんですか?」

 掠れた声で発せられた楓の声に二人は答える代わりに、斜め下を俯いた。

 ベッドのそばまで駆け寄り二人の目線の先に目をやった。


 そこには静かに眠る朝倉香の姿があった。


 --------------------


「この子はもう目覚めない」

 香の父親は力なく言い捨てた。

 楓が両親の顔を見ると、二人の目の周りは赤く染まっていた。

 随分と泣いたんだと思う。

 しかし不思議と今は、優しい眼差しで動かない彼女を見張っている。

「何が……あったんですか?」

 父母のどちらかに訊ねたわけでもなく、口を開く。

「香は脳死状態。前回の植物状態とはわけが違うのよ」

「前のようにもしかしたら奇跡が」

「ないわよ。もう二度と目を覚ますことはない」

 改めてその言葉を聞いて楓の目からは涙が一粒、また一粒と次々流れ始めた。

 彼女の両親は気を遣って、彼を一人にするため病室から出てくれた。

 後になって気づいたことだが、この時の彼らはこの日が来ることを知っていたようであったような気がした。


 二人が去って、ここには楓と香、姿の見えない他患者二人となった。

 楓の頬から流れ落ちた雫は香のベッドを濡らしている。その速度はどんどん増している。

 池ができてしまうかのごとく滴り落ちる。


「どうして……。まだ僕たち別れたまんまじゃんか。本当に別れたらよりを戻すことも叶わないよ」

 彼女に被せられている布団が微かに動いている。

 楓がそれをめくるとそこには彼女の心臓。

 まだ心臓だけは動き続けていたのだ。

 そのことが彼を一層悲しみに浸らせた。

 側にいて、命もある。それなのに二度と会うことは出来ない。

 近いようで遥か遠くにいる。

 今の彼女はそんな存在なのだ。


「まだたくさん遊びたかった。まだたくさん話したかった。まだたくさん好きと言いたかった。まだたくさんやり残したことがあるのに」

 楓は側にある二つのうちの一つの椅子に腰をかけた。

 そして細くて綺麗な彼女の右手を両手で包み込んだ。

「僕たちたったの一回しかデートしてないよ?そんなの付き合ってたなんて言えないよ。……どうして別れようなんて行ったんだよ。別れるっていうのは本当はこのことだったの?」

「ーーー」

 沈黙。

 涙が彼女の乾いた手にこぼれた。

「君は一度だって僕に……。君は最低な人間だ」


 その時、シャーっという音と同時に一枚のカーテンが開かれた。

「その子は最低な人間なんかじゃないよ」

 優しく心地良い低音の声で発したのは和久だった。

 急な声に驚きを隠せないでいる楓に対し、続けて話す。

「その子、君の彼女さんだよね。君のいない間、彼女はずっと俺に君の話をしてくれた。君のことを話すときは総じて彼女は笑顔になるんだよ。今日は何々をした。こういうことがあって楽しかった、って具合にね。でもね、彼女は一回も君といる時間がつまらなかったなんて言ったことはなかったよ」

 楓の知らないところで彼女も一恋愛者として、彼のことを思い続けていたのだ。

「君と別れた後だって、俺の前では『これでよかったの』って笑顔でいたよ」

「そう……だったんですか」

「でもね、俺は知っていたよ。彼女がカーテンの中に一人でこもっているときに普段は見せないくらい泣いていたこと。彼女だって彼女なりに辛いことがあるんだよ。そんな子に、簡単に最低なんて言っちゃダメだ」

 まさにその通りだ。何も知らない楓が一方的に最低だの何だの言うことは間違っていた。

 そんなことを言う自分が最低だと思った。


「僕は最低だ」

 歯を噛み締めた。

「彼女はもう目を覚まさないかもしれない。ならば代わりに君が三人分の人生を歩んで行け」

「はい゛!」

「俺からはそんだけだ」

 和久はそっとカーテンを閉めた。



 楓は泣いた。

 たくさん泣いた。



 涙がついに枯れてしまった。再び香の顔を眺めていた。

 横には美しい彼女。

 楓は前回とは違って何のためらいもなく顔を近づけ、自分の唇と香の唇を重ね合わせた。唇は生温かく、柔らかく感じた。

 唇を通して互いの心臓が共鳴する。風の人と何ら変わりのない香の鼓動。

 香が眠り姫か白雪姫で、自分が王子様だったらいいのに、と思った。そんなグリム童話的展開があるわけもないのに。

 どれだけの間、接吻していたのかわからない。

 長かったのか、それとも短かったのか楓にもわからなかった。

 彼はゆっくりと唇を離した。

 その時見た彼女の顔は心なしかさっきよりも微笑んでいるように思えて仕方がなかった。


 これが彼らにとっての最初で最後のキスとなった。

 それでも彼は喜べなかった。悲しみの方がよっぽど大きかった。一体誰がこんなに不幸なキスを望むだろうか。


 楓は立ち上がって言った。

「今度は夢の中で会おうね」



 香は夢を見た。長い長い夢。一生覚めることのない夢。

 香が周りを見渡すと、そこは一種の楽園のように黄色い花が一面に咲いていた。

 彼女は気がついた。ここは現実世界じゃなく、夢の中なのだと。


「香!」

 誰かが背中の方から呼びかけてきた。

 声を聞いただけで誰なのかすぐに見当がついた。聞きなれた声。心地良い声。楓の声だ。

 彼女はすぐさま振り返る。

 やはりそこには楓が立っている。

「香、好きだ」

 率直な言葉と共に彼は彼女に近づく。

 目の前まで来たところで再び、

「大好きだよ」

 そう言って口づけ。

 香は心臓が飛び出てきそうなくらいの驚きと緊張を覚えた。おかげで夢から覚めてしまいそうだ。


 なんて幸せなのだろうかと思った。楓の体温が感じられる。

 楓はそっと唇を離した。

「またね」

 彼は言った。

 彼の姿がだんだんと薄れていく。

「まって。私からも言いたいことがあるの。一度も言えなかったこと」

「なに?」

 爽やかな笑顔で彼は訊ねる。

「楓君、私……」

 どうしても言いたかった言葉。

 しかしとうとうその前に楓の体は星屑となって消えて言ってしまった。


 --------------------



 楓は時々夢を見る。

 香と笑いあったり、遊んだりする夢だ。

 そんな夢を見ると、決まって彼は起きた時涙が出ている。


 大学が決まった彼は久しぶりにお墓参りすることにした。

 しばらく受験勉強があって行けなかったのだ。というのは建前で、彼女の「死」を受け止めることができなかったというのが本音である。


 朝のまだ涼しい時間帯、彼は家を出た。

 母親は基本放任主義のため、親にはなにも告げていない。それでも多分お墓参りだと察してくれるはずだ。そんなことくらいでしか外に出ないから。


 自転車お漕いだ。

 香は何らかの原因で脳死状態になった。その後の母親の話によると、彼女の臓器を日本中の人々に提供するらしい。というより今になってはもうしたのだろう。脳死は植物状態とは違って、目を覚ますことはほぼ0パーセントなのだ。ずっと眠った姿でいるなら、同じように苦しむ人の助けになりたい、と香自身も生前は言っていたらしい。母親もそれに賛同したのだろう。


 それにしても楓は彼女の「死」ついて、あまり多くのことを知らない。

 彼女の両親に聞こうにも聞けないのである。

 知らぬが仏なのかもしれないが、それでも少し知りたくなる自分が彼の中にいた。


 自転車に乗っていると、冷たい風が頬を沿って後ろへ流れてゆく。地面にはまだ雪が残っている。

 首に巻くマフラーは前に香が縫ってくれたもの。病室で特にやることがないからって、楓のために作ってくれたのだ。

 白いマフラーで、隅から隅まで綺麗に縫ってある。


 残り雪のせいで道中転倒しそうになったけれど、無事墓地に着いた。

 駐輪場に自転車を置いて、かじかむ手で鍵を抜く。

 まずはバケツに水を汲みにいく。

 蛇口をひねると、温かい水が出てきた。それは決して温かいわけではなく、彼がそう感じただけである。

 多くもなく少なくもないところで水を止め、お墓に向かった。

 向かった墓の位置は墓地のちょうど中央付近。

 そこには葉山春之、彼の父の墓があった。そこには季節に合った、水色や薄ピンク、白色の花が供えられていた。最近母親がここにきたということは聞いていない。

 一体どこの誰が供えたものだろうか、と彼は思った。そんな疑問も冷たい風に流されていった。

 水をかけ終わった後、十分に手を合わせ、空にいる父親と対面する。

 その後今度はすぐ左のお墓の前に立つ。

 そのお墓には〈朝倉香〉と彫られている。

 どうしてここに彼女のお墓が建てられたのかはわからない。それは偶然なのかどうか、神のみぞ知ることである。


 楓は彼女のお墓の石塔に少しだけ積もっている雪を手で払っい、こちらにも水をかける。

 終わってから、一歩下がり、再びそれに向かう。

 色々なことが思い出される。


 彼女に『告白』したこと。

 彼女がそれを断ったこと。

 再び『告白』したこと。

 彼女が眠ってしまったこと。

 何度も『告白』したこと。

 彼女が目を覚ましたこと。

 付き合い始めたこと。

 リハビリの手伝いをしたこと。

 キスをしそびれたこと。

 水族館に行ったこと。

 その後浜辺に行ったこと。

 別れたこと。

 彼女が目を覚まさなくなったこと。


 全てが楓の一部で、思い出で、宝物だ。

 楓は目頭が熱くなってきた。でもぐっと我慢した。泣いてる姿を彼女に見せるわけにはいかないと思ったから。

 手を合わせて目をつむる。

 長い長い拝みだった。

 最後に、

「好きだよ」

 とだけ呟いて目を開く。


「葉山さんですよね」

 それは突然だった。

 香に少し似た声が耳に飛び込んできた。

 誰かが後方から呼びかけてきたのだ。

 もしかして、と有るはずもない幻想を抱いて振り返る。でも、そこにいたのは見たことのない見知らぬ少女であった。楓からしたら赤の他人。それでもなぜか楓は彼女から香の面影を感じ取った。

 彼女もまた綺麗だストレートの黒髪の持ち主だ。しかし体は香よりも小柄。顔は正直かわいい。

「僕……ですか?」

 楓は人差し指で自分の顔をさしながら問うた。

 こくりとかわいらしく頷く。

「僕は葉山楓ですけど。君は?」

 少しためらう様子を見せてから彼女は自分の名前を言った。

「私は橘楓香(たちばなふうか)

「橘楓香か、良い名前だね。それでなんで僕を?」

 楓香は楓の質問に答えなかったが、代わりに一つの便箋を鞄から出して渡してきた。

「これを渡せって」

「誰から?」

 またも質問に答えない。

「開けても?」

 こくりと頷く。

 楓はシールを剥がした。中には何枚かの手紙が入っている。

 それを取り出し、一番上になっている紙から黙読する。




  『 楓君へ

 なにから書けばいいのか困っちゃうなぁ。じゃあまずは出会いから。

 私たちが出会ったのは君のお父さんのお葬式の時。あの時は本当に何も言うことができなかった。だって楓君の大切な人を一人奪ってしまったんだもん。大泣きしている君に話せるわけないよ。

 高校に入って、楓君と同じ高校だって言った時は正直焦った。絶対に嫌われるだろうなぁと思ってた。実際にその後何度も君の視線を感じた。でも今考えたらその視線も私が思っていたのとは違った。

 楓君は私に告白をしてくれた。めちゃくちゃびっくりして、ドッキリか何かだと思っちゃった。それでつい断っちゃった。本当にごめんなさい。

 それでも君は二度目の告白をしてくれた。そこが他の人とは違った。本当の気持ちが伝わってきたよ。でもまだドッキリの可能性が1パーセントあったから保留したの。


 でもそれから間も無くして私は事故にあった。大怪我。そしてなんと昏睡状態になってしまった。

 と言うのは嘘です。真っ白な嘘』


「は?」

 楓はつい間抜けな声を出してしまった。

 それもそのはず。そこには真実が書かれていたのだ。


『私はその時初めて嘘をついたよ。みんなに病気のことを知られたくなかったの。楓君に嘘をつくように両親に言ったのもうちです。許してください。

 私が昏睡状態になった本当の理由は脳腫瘍にある。私の脳腫瘍が見つかったのは中学生の時。火事にあう少し前だった。病院に行ったら。脳腫瘍があるって言われた。それも結構でかかったみたいなの。その時余命宣告された。あなたの余命はあと一年だって。すぐにでも死にたくなった。でも死ねなかった。死ぬのが怖かったから。それに加えて君のお父さんに助けられちゃったから。そのぶん生きないといけないと思ったから。

 けど君と出会って変わった。死ぬのが怖いから生きるんじゃなくて、生きたいから生きようと思うようになった。人の人生観まで変えるなんて、君はすごい人だよ。


 あれから私は何度も担当医を裏切ってきた。一年経っても私は元気だった。そのあと何回も余命は更新されていって、結局今まで生きてしまった。病は気からって本当だったんだね。ちなみに今っていうのは私がこれを書いてる時のことだから。』


 楓自身全く知らなかった。これが真実だったんだ。

 今考えれば、事故にあったとしたら、外傷がないわけがないのだ。けれども香は無傷だった。なぜそんな簡単なことにも気づかなかったんだろうかと楓は思った。答えは簡単だ。それどころではなかったからだ。

 楓は読み進める。


『それが全貌です。でも楓君、私が嘘ついても怒らないって言ってくれたからその言葉信じてるよ。


 あと、実はもう一つ嘘ついちゃいました。先に謝っとくね。ごめんなさい。

 それは私と楓が別れた理由。あの時私楓君の勉強がどうのこうのって言ったけど、本当はそんなことどうでもよかった。前述した通り、私は前から命はもう長くないと知ってた。君が私のこと好きなまま私がいなくなるのは楓君に申し訳ないと思ったの。そんなの君と私の立場を逆にして考えたら簡単にわかる。だから少しでも私のこと嫌いになってくれたらと思って別れの話を持ちかけた。でも楓君は受験が終わったらまた会いに来るとか言っちゃうんだもん。私の話も聞かずに立ち去るし。本当に君はおバカさん。その時には相当やばい状態だったからもうすぐ脳死になることは予想できてたから、受験終わってからじゃ遅いってわかってたのに。


 あー、死にたくないなぁ。怖いなぁ。生きたいから生きるようにはなったけどやっぱり死ぬのは怖いよ。

 あー、もっと一緒のいたかったなぁ。少しでも一緒に出かけられるように意味もないリハビリをしてきたのに』


(意味なくなんかないよ。少なくとも君の頑張る姿は僕に希望を与えてくれたんだから)


『あー、楓君が球技大会のバスケで活躍してるところ見たかったなぁ』


(あんなの嘘だよ。って言うかそれ聞いてたんだね)


『聞いてたのかよって思ったでしょ。ずっと聞こえてたよ。全部聞こえてた。楽しかったし嬉しかったよ。


 だから私からも言います。


 楓君。君のことが好きです。大好きです。だいだい大好きです』


 それはまさしく楓がずっと聞きたかった言葉だった。香は一度だってその言葉を言ってくれはしなかった。それもたぶん彼との距離を考えてのことだったのだろう。

(遅いよ。なんで今言うんだよ。俺からはもう言えないじゃんか)


『なんで今だよって思ったよね。楓君だって私が眠っている間ずっと言ってくれた。そのお返しです』


(バカ。何度でも言ってやるよ)

「僕も好きだよ」


『そろそろ締めにしようかな。頭が痛くなってきたから』


(頑張りすぎだよ)


『さようならとは言わないよ。

 またねって言う。

 ずっとそばで見守っとくから』


「きっとまた会えるよ。またね」


 涙が溢れる。手紙に落ちる。

 楓は大切に手紙を折って便箋にしまった。

 涙を拭った。

「ありがとう橘さん」

「楓香でいいよ」

「ありがとう楓香。でもどうして君がこれを?」

「まだ朝倉さんと私が同じ病室にいた頃、彼女がこれを葉山楓って人に渡して欲しいって言って私に託したの」

 それなら納得だと彼は思ったがもう一つ大事なことを聞かなくてはならない。

「どうして君は僕のことを知っていたの?どこかであったてたらごめん」

「私とあなたは会ったのは今回が初めて。でも君の後ろ姿を見ただけですぐにわかった」

 楓が訝しげな眼差しを楓香に向ける。

「だって私、あなたのこと知ってるんだもん。その手紙に書いてあったことも全部。朝倉さんのことも全部」


 より一層楓の頭にはてなが浮かぶ。


「私の記憶はどうやら私だけの記憶ではないらしいの。彼女の記憶も混じってる」

 楓はまさかと思った。

「もしかして……」

「そう。この心臓、朝倉香の心臓なの」

 鳥肌がたった。冬の寒さのせいもあって鳥以上の鳥肌がたった。


「だからつまり、その……………」

 長い沈黙があった。楓は楓香の言葉を待った。


「たった今、葉山楓のことが好きになりました」

 楓は思いもよらぬ形で、初めての『告白』をされたのだった。



 --------------------



「死」があるからこそ生きるのが楽しいと思えるのではないか。何かをするのが楽しいと思えるのではないか。不幸()があるからこそ幸福()が輝くのだ。

 みんながみんな最後には死ぬのなら、なおさら「生」を楽しんだ者勝ちだ。

 だから人間は抗って抗って幸せを手にしようとする。そして死ぬ時に悔いのないような生き方をしようとする。

 運命に逆らうことはできない。でも運命という道に、転がる幸せを拾うことはできる。


 人生は山あり谷あり。そこが面白いところじゃないか。

ありがとうございました。

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