九鬼焼太の異世界は砂糖にまみれました
異世界転生。いや異世界転移と言ったほうが正しいのだろう。
僕こと九鬼焼太は見慣れぬ世界で途方にくれていた。
最初に僕が目を覚ましたのは、およそ都心に住んでいれば見る機会の無い、鬱蒼とした森の中であった。
歩道を歩いていた僕は、おそらく操縦手の意思を離れたであろう車が凄まじい勢いで此方に突っ込んでくるのを見ていた。一瞬の内に来たるであろう痛みに備えて視界を覆う。しかし僕を絶命させるに十分であろう速度で突っ込んでくる車は、僕に痛みを齎すことはなかった。
訝しんで、覆った視界を恐る恐る開いてみればそこは森の中。通学の暇な時間にネット小説を読んでいた僕は、すぐさま自分が置かれたこの状況が『異世界転生』なのだろうと辺りをつける。
確定した死を前にしていた故に転生と表したが、僕は車に轢かれる直前と同じ姿をしていた。ならば異世界転移の方が正しいかと、浮かれた頭で考える。
現在地が地球ではないということは、球を象る半透明の生物──スライムが目の前に現れることで確信した。
早速最初の戦闘かと戦闘態勢を取る僕。確か僕はまずはお約束を試そうとこう叫んだ。
「ステータスオープン!」
異世界に転生した学生達、あるいは社会人が最初にやったりやらなかったりするアレだ。
自らの戦力を把握するための情報に繋がる、僕だけのウィンドウ 。
今思えばここが異世界だとしても、ゲーム系世界だと判明していない状況でこれを叫ぶのはだいぶ痛い子だという気がしたが、まあそれは良かった。
結論から言えば、ステータスウィンドウは出現したのだから。
ステータスウィンドウに表示されているのは、思ったよりも簡潔な情報だった。
名前、年齢、性別、種族。これらは後から確認したことだが、おおよそ戦闘には関わりがなさそうな項目だ。このあたりは充実していたが、問題はその戦闘に関する項目の方。
戦闘に関連しそうな、僕の頭が情報を処理した項目はただ一つ。
「戦闘能力……」
戦闘能力の四文字。力とか魔力とか、そういった項目ごとの表示はできないのだろうか。そんな疑問を浮かべたのもこれまたあとのこと。おそらく個人の総合的な戦闘力を表しているであろうその項目には、僕の予想外の数字が付属していた。
「戦闘能力……1ぃ!?」
戦闘能力1。一である。異世界に転生……転移した主人公はなんらかの能力を得る。文字通りその瞬間から物語の主人公となれるだけの力が与えられる場合が多いのだ。
しかし僕の戦闘能力はたったの1だった。某宇宙人が農夫を指して戦闘力たったの5か、ゴミめと言ったことを考えると、ゴミ以下だという事だ。いや、健康的に仕事に励んでいる農夫で5なのだから案外妥当ではある気がするが。
それはさておき。この戦闘能力1という事実に僕は焦った。
目の前にはスライムが要る。1というのは僕が知るかぎり0を除く最低の自然数だ。スライムの戦闘能力が僕以下だとは考えづらい。
スライムには目や鼻といったパーツは見当たらない。だが僕はスライムが戦闘能力1──おそらくこの世界の最下層の存在を見つけ、睨めつけるように笑った気がした。
スライムの身体が縮み、そして膨れ上がる──次の瞬間にはスライムが、僕の顔めがけて飛びついてきた。早い、そう思いながらも、僕の視界はスローだった。
スライムは体当たりを狙っているのか、取り付いての窒息死を狙っているのか。これも後者だと知ったのは後のこと。
どちらにせよ不味い。早速死を覚悟する僕だったが──これを回想としている以上は、今でもモノを考えることができる状態にあるということだ。
とっさに防御の姿勢を取る僕。しかし僕の顔めがけて飛んでくるスライムは、突如として爆ぜた。
小規模の爆発で弾き飛ばされたスライムは草の上に落ちて、数度痙攣するように動いてから、蒸発していった。
「君、大丈夫か? ……随分変わった格好をしているが、道化師のたぐいではない……よな?」
突然の展開の連続についていけない。だが頭は思考を停止させながらも、僕に声のした方を振り向かせた。
「スライムの戦闘能力は15程度だが、取り付かれると危ないぞ。……ええと、言葉はわかるか?」
此方に──飛びかかってきたスライムに──手をかざしたまま、そう問いかけてきたのは、弓を携えた金髪の美少女だった。よく見れば耳が長く、神秘的な雰囲気をまとったその様子はまさしくエルフ。幻想の代名詞。
「……はい、ありがとうございました」
しかし美少女の心配も今の僕には猫に小判。僕は地球じゃまずお目にかかれないような美しさよりも、その彼女が放った言葉に支配されていた。
15程度。15程度て。スライムは僕の十五倍強いってのかよ。15焼太かよ。
心の中で──僕は、泣いた。ひどく気落ちした僕の様子に美少女は、きっと何か深い事情があると思ったのだろう。焦り、僕を励ましながら、彼女は僕の手を引いて歩み始めた。
そうして導いて来られたのが、小さな森の監視小屋。今僕がいるこの場所であった。
「ええと、何を気に病んでいるかは知らないが、気を落とすな、な? 少し此方で身体を休めるといい。ちょっと茶を沸かすから、思いつめないで待っていてくれ」
少女の気遣いが、逆に心苦しい。だが僕は色々とこの世の終わりを感じていた。
そういえば、結局コレって異世界転移で良いんだろうか。だとすると向こうの僕は行方不明になってるのか? スライム以下として生きるくらいなら、いっそ向こうで死んで家族に賠償金でも入ったほうが良かったかもなあ……
所謂捨て鉢である。スライムといえば、現代日本人には最弱のモンスターという印象が強い。先程の少女の15程度、という言葉を考えると、それはこの世界でも然程変わらないだろう。
「……ステータスオープン」
少女がお茶を沸かす音を聞きながら、消え入るような声で呟く。
九鬼焼太:15歳 男
種族:人間
戦闘能力 1
……やはり、先程確認した情報に間違いは無い。僕はこの世界ではスライムの15分の1程の力しか持っていないのだ。
だが、もしかすると。もう消えてしまいたいような気分の中──先程は焦っていて気づかなかったのだろう──ある項目を見つけ、目を丸くしてからごく小さな希望を抱いた。
ステータスウィンドウには、タブが存在したのだ。現在表示されている『能力』の他に──『特殊能力』『実績』というタブが!
特に、僕は特殊能力の項目に目を惹かれた。戦闘能力がスライムの十五分の一でも、特殊能力さえ強ければあるいは──!
ごくりと大きなつばを飲んで、僕は恐る恐る特殊能力のタブをクリックする。
そこには──こうかいてあった。
『ジェネレータ:クッキーを一枚生成する』
「エンッ!!!」
「ど、どうしたっ!?」
思わず、身体をのけぞらし奇声を放った。言葉が出なかったのだ。
そこに書いてあったのは──絶望の二文字、をクッキー生地の様に引き伸ばした文字列であった。
クッキーの生成て。何なのこれ、どうすればいいんだよ。
心配して駆けつけた少女を大丈夫だとキッチンに返すと、僕はヤケクソでその能力を使ってみることにした。
能力説明の右には詳細のボタンがあったため、能力の使い方はすぐに理解できた。
『ジェネレータ:精神を集中し、念じることでボタンが現れる。ボタンを押すごとに、クッキーを一枚生成する能力。最初はプレーンクッキーしか生成できないが、能力が成長することで様々なバリエーションが追加される。ボタンを消す時は同じく念じること』
……らしい。無限にクッキーが出る。幼稚園児の頃だったらどんな夢のような能力かと思う。だがここはスライムですら僕の15倍の戦力を持つ世界。兵站能力としては優秀そうだが、強い魔物が魔力を発したりすればそれだけで僕は死んでしまいそうである。
まさか異世界にやってきて与えられるギフトがこんな夢のような能力とは思うまい。僕の力は可愛い女の子が淹れてくれるお茶にお菓子を添えるのが精一杯なのだ。
「……でろ」
ならばせめて役割を果たそうではないか。こんな絶望的な状況でも死ぬのは嫌だ。ならばクッキーを焼く機械として、この世界の人々の頬を綻ばせるのもいいだろう。
いでよ、できる限り美味しいクッキーよ。
命を救ってくれた少女へのお礼を思い浮かべながら、念じる。
すると──丸めた掌を打ったような軽快な音と共に、目の前にボタンが現れた。
無感動にボタンを押すと、カチリという乾いた音と同時に、目の前にクッキーが現れた。
そのクッキーはゆっくりと僕の掌へと落ちる。
説明にあったとおり、プレーンなクッキーだった。ベージュの様な、優しい色合い。
現実に現れたそれは、どこまでも残酷なカタチをしていた。それは僕にクッキーを生成する程度の価値しか無いということをいたく知らしめたのだから。
「……」
もう、何も言えなかった。ボタンを押すたび、クッキーは気が抜けるような音とともに現れる。
お茶菓子にはこれくらいで十分だろうと十枚くらいを生成すると、僕は持っていたハンカチの上にクッキーを載せた。
「おまたせ。少しは元気が出たか、と。それはクッキーか?」
「ええ、たまたま持ち合わせがあって……お茶菓子にどうかなって……」
「それはいい。こんな森の中だと砂糖の甘味は貴重でな。ありがたくいただこう」
指で円を作ったような、簡素なクッキー。日本に住んでればありがたみも無いようなものだが、少女は──僕を気遣ってか──手を打って喜んでみせた。
淹れて貰ったお茶がテーブルに配膳されると、花のような香りが浮き上がる。
「こんな所にヒトがくるのは珍しいんでね。ひどく落ち込んでいたようだし、よければ話を聞くよ」
嗅いだことのない、しかしどこか懐かしい温かな香りと、美少女の優しさにまた涙が出そうだった。
ハンカチに載せたクッキーを一口齧る。僕がそうすると、少女もまたそうした。
……甘い。味はそこそこだ。売っているクッキー……を少し雑にしたような、手作りの味。
「美味しい。……うん、クッキーなんて久々だな」
その味は、飛び抜けたものでなくとも、素直に美味しいといえる程度の味だった。
つまり普通。敗北の味というのは、どうやらコレ以上無いくらいに普通の味らしい。
甘みを追いかけるように紅茶を一啜りすると、こちらは僕の人生でも一二に入るくらい良い香りだった。可愛い女の子が淹れてくれたから、だとかそんなんじゃないだろう。ただただ温かい香りで、安心する。
「はは……実は……」
そんな異世界の人情に、僕は自らの置かれた現状を話すことにした。
気がついたらこんな場所に居た。いきなりスライムに襲われた。そして──
「それで、ステータスを見てみたら僕の戦闘能力はどうやら──」
1であるということを。
話そうとして、ステータスウィンドウを開いた僕の口が止まった。
戒めるかのように忌々しい項目を確認しようとした僕の目には、先程に見た時とは違う数字が写っていたからだ。
「8……みたい……です」
「8か……それは、厳しいな。この森の魔物は弱い方だが、一番弱いモノでも13はある」
そう、そこに刻まれた数字は──大きくなっていた。その数悠に八倍。
何故、いつの間に? まだ僕は何もしてな──い、と言葉を綴る前に、ハッと息を飲む。
やはり僕はスライムよりも下等な存在であるということを知らしめる少女の言葉も、今は耳に入らなかった。
あれから僕は何をした? クッキーを出現させて、お茶とともに楽しんだ。戦闘能力は食事で上がる? あるいはお茶の効果?
いいや違う。
皿に残ったクッキーの枚数は──三枚。十枚作ったから、僕と彼女で七枚作ったことになる。
ならば、もしかして。
僕は、ウィンドウを開いたままクッキーを一枚齧る。数字は変わらない。
小さくなったクッキーを口の中に放り込んだ。
すると、ステータスウィンドウの中で最小の数字が、1上がった。
……まさか、そんな。
その現象に驚いていると、少女は訝しげな表情を浮かべながらもクッキーに手を伸ばす。やはり、彼女からステータスウィンドウは見えていない様だ。
クッキーが一枚、彼女の口に収まると──僕の戦闘能力は、10になった。
「あの、戦闘能力ってどうやって上げるんですか?」
「むぐむぐ……んっ。それはやはり地道な鍛錬が一番さ。だけど、強い魔物を倒したときにも上がるらしいぞ」
……少女の話を信じるなら、戦闘能力の上げ方というのは現実と大差ないようだ。
ならば、僕の本当の能力は──
……こうして、ここに僕の新しい世界での生活は幕を開けた。
全世界の人々が僕のクッキーを求めるようになるのは──そう遠くないお話。
リハビリがてら一発ネタの投稿です。
元ネタは懐かしくて今でもたまーにプレイしたりしてます。