84 消滅と再生
パンッ!
暗闇の地底都市に響き渡る乾いた音。
それは僕が、ヨリシロの頬を思い切り引っ叩いた音だった。
「は、ハイネさん……!?」
ヨリシロは、余程ショックだったのだろうか、叩かれた頬を抑えて呆然と見返す。
「これぐらいで勘弁しろ……!」
絞り出すような声でそう言った。
「お前は僕のことが好きなんだろう? 好きな相手から叩かれるのは相当な苦痛のはずだ。それで罰になったろう。……お前は、長い間充分苦しんできた」
「ハイネさん……」
それに、本当に罰せられるべきは僕の方だ。
闇の神エントロピーを崇め奉る人たちがいたのに、神として僕はその人たちが大変な時に封印の眠りを貪って、助けることもなく見殺しにしてしまった。
知らなかったとか、そんなことはこの際問題にはならない。
僕は恐らく、神としての義務を怠ったのだ。
「ワレは、闇の神、エントロピーなり」
そうして僕らが揉めている間も、黒影は新たな動きを起こすことなく、地面に這いつくばったままだった。
これまでの戦いで消耗が極まっているのだ。暗黒物質に影の体を削られ、その体積は最初に出会った時を下回っている。
「……すまなかった」
僕は、その影に向けて語りかける。
「ワレは、闇の神、エントロピーなり」
「違う。キミは人間だ。人のために怒りを燃やすことのできる人間だ。その怒りが、キミをここまで変わり果てさせてしまった。その責任は僕にもある。すまない」
この上はせめて、終わりを告げることだけが僕に許された贖罪だ。
我が手から、暗黒の粒子があふれ出す。
「ワレは、闇の神、エントロピーなり」
「違う。それは僕だ」
手から放たれる暗黒物質が、影をくまなく覆い尽くした。
ここまで縮んだ以上、もはやもがきながら脱出することもできまい。
あらゆる神気を消滅させる闇に飲み込まれて、光の女神が描いた夢の残骸は、これにて一片残らずこの世から消え去った。
* * *
「終わったな」
「はい……! ありがとうございます……! ごめんなさい……!」
ヨリシロは泣きながら、礼を言ったり謝ったりを繰り返していた。
暗黒物質はいまだ塊となり、黒い影を一粒残らず消し去ろうと最後の咀嚼に入っている。
「闇都ヨミノクニ。お前が作った、僕の都か……」
その廃墟を改めて見回す。
かつてこの都市が地上にあった時、燦然たる太陽の下に照らされていた時代、どれだけの人々かここで笑ったり、働いたりしていたのだろうか。
それがもはや想像することしかできないのが、悲しかった。
「この街を地中深くに沈めたのもお前か?」
「はい、あの子を、一片の光もない場所に封じ込めなければいけませんでしたから。光の神力を吸収し、地水火風の神力も効かないあの子に対する手段は、それしかありませんでした。……彼女が、マントルが手伝ってくれました」
「マントルが?」
四元素の神の一人、地を司る地母神マントルか?
「彼女だけはヨミノクニを滅ぼすのに前向きではありませんでした。しかし他の四元素に迫られて仕方なく、といった感じで。元々押しには弱い子でしたから」
たしかに、創世の戦いでもノヴァやコアセルベート側についた時もそんな風だったなあ。
断りきれない女というか。
「彼女は渋々ヨミノクニに災厄をもたらしました。それが遅行性の砂漠化の呪詛。砂漠化は深刻ながらもゆっくりと進み、今まさに危急存亡を迎えんとしていたヨミノクニには、正直言って大した問題にはなりませんでした」
そしてそれが、思わぬ形で有利に働いた。
砂漠化によって地盤が緩んだために、都市ごと地中深くに沈め、あの黒影を封じることができたのか。
「……最初は、軽い気持ちだったのです」
ヨリシロが震える声で言った。
「封印してしまったアナタへの償いにしようと。アナタがいつの日か封印を解かれ、アナタの愛する人間が進歩し、アナタを敬うようになっていたら、さぞ喜ぶだろうと……」
でも、それが間違いの始まりでした、とヨリシロは言う。
「わたくし自身が人間となって、彼らと直に触れ合うことでわかったのです。アナタの仰ってきたことの意味が。人間は素晴らしい。ひたむきで、朗らかで、神すら超える敬愛と憎悪を併せもっている。わたくしはそれをヨミノクニで学ぶことができました。それと同時にアナタ同様、人間を愛するようになった」
「それで充分だ」
千六百年かけてでも、この気持ちを彼女と共有できるようになったなら。
この都市の営みが、女神に人を慈しむ心を育ませたか。
それはたしかなる偉業だろう。人が、神の心を動かしたのだから。
「だが、他の連中は度し難い」
創世の五大神において、光の女神インフレーションを除いた四元素の神。
今回過去を知って改めてわかったこと。
やはり神々は、人間にとって何の益にもならない存在ということだった。
気まぐれのような理由で都市国家を一つ滅ぼし、それどころか数百年経った今も、自分たちが高次な存在だと勘違いし、人を奴隷に、オモチャにしようとする。
「人と神を切り離す方策がいるな。それも早急に」
ちょうどその頃、黒い影を覆いつくしていた暗黒物質が晴れ上がっていく。
すべての『影』の神気を平らげたのだろう。
その跡には何も残らない……。
「ん!?」
なんか残ってた。
……人か? しかも少女だ。
十四~五歳程度の小柄な少女が、丸裸で横たわっていた。間違いなく彼女は、黒い影を覆っていた暗黒物質の中から出てきた。
つまりこれは……?
「ドラハ……?」
ヨリシロが掠れた声で言う。
「ウソでしょう? そんな、まさか……! アナタが……!」
少女は程なく目を開けて、身を起こすと、まず最初に視界に入ったのだろう、ヨリシロを見て言う。
「イザナミ、様……?」
「ああッ!!」
ヨリシロは、その少女に飛びかかるように抱きついて、そしてわんわんと泣いた。
ではつまりこの少女が、あの黒い影の正体。
数百年前のヨミノクニを生きた影の勇者?




