83 女神の悔恨
「ワレは、闇の神、エントロピーなり」
僕――、クロミヤ=ハイネと黒影との対決は佳境を迎えていた。
最初ばかりは、その面妖さに戸惑ったが、落ち着いて対処すれば決して捉えきれない動きじゃない。
カレンさんやヨリシロを襲わないように暗黒物質で壁を作って囲い込み、さらにその範囲をジワジワ狭めて、ヤツの持ち味である素早さを封じる。
本来ならば闇属性に対して絶対的な優位性をもつ光属性だが、『影』に変質したことによって、その優位性は失われたようだ。
暗黒物質が掠るたびにヤツは体積を奪われ、今ではもうすっかり遭遇時の大きさに戻っている。
「ワレは、闇の神、エントロピーなり」
コイツが元々何者だったのか、大方の想像はつく。
元は人間だったのだ。しかもこの土地――、ヨミノクニをこよなく愛し、戦ってまで守ろうとするほどの。
戦士だった。
コイツの郷土愛、理不尽への怒りは、あの石碑の文面を通じて痛いほど僕へ伝わってきた。
自分自身を変えてしまうほどの怒り、悲しみ。それほど激しい感情を持てる人間は、そうザラにはいない。
「そう、この子は本当に。飛び切り豊かな感情を持つ子でした」
「!?」
気づけばヨリシロが、僕のすぐ隣に立っていた。
暗黒物質の包囲網の中に、どうやって!?
「驚くことはないでしょうハイネさん? 闇が光に勝てないことはアナタも先刻ご承知のはず」
ヨリシロが妖しく微笑む。
暗黒物質の隙間から外の様子を窺うと、カレンさんが意識を失ったように、ぐったりと倒れていた。
「ご心配なく、カレンさんには眠ってもらっているだけです。あの方はわたくしの友だちになってしまいましたから、これからやろうとすることに、きっと反対なさいます」
「何をする気だ?」
すぐさま僕は問うた。
「大体は察したぞ。ヨミノクニを興したという女王イザナミはお前だろう。今の体――、ヨリシロ以前の転生者だ。この土地でエントロピー信仰を広めたのもお前。光の神力を『影』に変質させる技法を伝えたのもお前だ。この地に、僕を中心とする理想郷でも作り上げようとしていたのか?」
「さすがはハイネさん。……いえ、我が敬愛する闇の神エントロピー。すべてお見通しなのですわね」
その名を出したということは、神としての会話をしようということか。
「お前の言う罪とは、これのことか?」
「そうです。わたくしはアナタを失った寂しさを紛らわせるために、アナタに代わって人々を導こうとしました。人の歴史が、まさに始まらんとしていた頃の話です」
それを四元素のヤツらにぶち壊しにされた、と言ったところか。
あの石碑に書かれていた災厄は、まさにヤツらの得意としそうな世界の荒らし方だった。
それに加えてヨミノクニを襲ったという外の人間は、後の地水火風の教団の原型にでもなったのだろう。
「あの影も元は、ヨミノクニに住む一人の人間でした。善良、と言ってよかったと思います。孤児でしたがわたくしの手元で育て、同じ境遇の兄弟姉妹ととても仲が良かった。成長して類稀なる才能を開花させ、影の勇者の称号を与えられるほどに強くなりました」
「つまり、アイツが世界最初の勇者ってわけか」
「しかし、その強すぎる『影』の力が、却ってあの子を害してしまった。『影』に取り込まれ、『影』そのものになったあの子は、光を食らうために光の神力は通じません。他の地水火風の神力も、あの子を絶命させることはできません。あの子を止められる唯一の望みがあるとすれば、それはハイネさん、アナタの闇の神力のみ」
「僕に、アイツを殺せと?」
「アナタにしかできません。このままではいつかあの子はこの地底都市から這い上がる。太陽の下に出れば、その光を吸収して無限に肥大化するでしょう。世界はあの子に覆い尽くされます。神にすらそれを止めることはできません」
だろうな。
アイツは、悪しき神を殺したいと願って人であることを捨てたんだ。なのにその力が神に及ばなかったら、あまりにも悲しいじゃないか。
「最初からこれが目的だったのか?」
「そうです、アナタの封印を解いたその時から、こうしてもらうことを望んでいました。闇の神エントロピーの名を漏らせば、アナタ自身かカレンさんが調査していずれヨミノクニにたどり着く、そしてあの子に出会う。そう期待していました」
なるほどな。
ヨミノクニという名前を発見してから、ここにたどり着くまでの流れがあまりにも順調すぎたこと、これで腑に落ちた。
思えばヨリシロは、僕たちが黒影に遭遇するまでの道順を。これでもかと言わんばかりに整えていたではないか。
きっとヨリシロは、今すぐにでも僕のことをヨミノクニに連れてきたかったに違いない。
でもそれなら……。
「何故そんな回りくどいマネを?」
復活したその時に頼み込んでもよかったじゃないか?
「アナタには、この世界の成り立ちを理解してからあの子を殺してほしかったのです。この世界に巣食う愚かさ、滑稽さを知った上で、あの子が世界の災厄ではなく被害者であることを知った上で殺してほしかったのです。でないと、あの子があまりに可哀想だから」
ヨリシロの視線が、あの黒い影に注がれている。
その横顔はやはり美しいが、いつか前にも感じたような、生きるのに疲れ果てた老婆のような面影も見て取れた。
今ならその印象の正体もわかる。
彼女はその時、光の女神インフレーションでも光の教主ヨリシロでもなく、滅びたヨミノクニの女王イザナミになっているのだ。
「ワレは、闇の神、エントロピーなり」
ヤツにもう思考とか理性といった面はないのだろう。
ただ神と世界への憎しみだけで動く、薄っぺらい影。
「ごめんなさいね、こんなに時間をかけてしまって」
その影に、ヨリシロは――、光の女神インフレーションは――、ヨミノクニの女王イザナミは話しかける。
「こんなに暗い場所にずっと一人で、さぞ寂しかったことでしょう。でもそれも今日で終わりです。アナタの敬愛していた闇の神エントロピーがやっと来てくださいました。アナタの苦しみに幕を下ろすために」
「ワレは、闇の神、エントロピーなり」
影が、彼女の言葉を理解しているとは思えない。
それは多分、彼女自身の懺悔の言葉なのだろう。
「でも安心して。せめて死ぬときぐらいはアナタに寂しい思いはさせません。わたくしも一緒です」
「? おいッ……!」
「これはせめてものけじめなのです。生憎神であるわたくしは死ぬことはできません。だからせめてこの体を、ヨリシロとしての体を手向けとしてこの子に沿わせたいのです。ハイネさん、どうかわたくしをこの子ごと暗黒物質で押し潰してください」




