371 顧みて
「俺は、もっとも邪悪な神なのかもしれない」
風の教主トルドレイド=シバが言った。
「四元素……、いや創世六神の中でもっとも」
彼がそう言うのは、人間としての彼自身にではなく、もう一つの彼の出自に由来する。
人間トルドレイド=シバに宿る魂には、シバ以外のもう一つの名前があった。
風の神クェーサー。
この世界を創り出した六人の神の一人。
風を司るその神は、神の頂点へと登るためにみずからを鍛え高めんとした。
そのために取った方法が、人に交わり、人に学ぶこと。
神にはない可能性を持った人間。その人間の可能性を神に取り込むことこそ神の頂点――、闇の神に近づく手段ではないかと。
そのために風の神は人の身に転生し、しかもそれを何度となく繰り返し、人生を体験してきた。
その末として今、風の神の転生者トルドレイド=シバがいる。
「しかしそれを繰り返すうちに、俺は人間に魅了された」
シバが沈痛な面持ちで言う。
「人間たちの、日々をささやかに生きようとする健気さ。ふとした時にこぼれる素朴な笑顔。無意味と思える小さな出来事の数々、人間の素晴らしさはそこにこそあるのではないかと思えるようになった」
神でありながら、神を越えることを目指した、ある意味もっとも真面目な神クェーサー。
「皮肉なものだ。俺は強くなるという、意味あるものを求めて人間に近づいたというのに。無意味こそがもっとも強であるということを人間から教えられた。そして俺は、今なお人間の体に宿り、人間の生を楽しみ続けている」
生まれ、育ち、恋し、生み、育てる。
人間としてのシバはつい先日結婚式を挙げ、まさに人の生を謳歌していた。
「しかし、それは本当に正しかったのか?」
シバは、みずからの手に抱えられた兜を見下ろしながら言った。
ボロボロに傷ついた空っぽの兜。
そこには当然、生命の光など宿ってはいない。
「風の魔王ラファエルは、神としての俺が生み出した風属性モンスターの集大成だ。火や水や地の連中がそうだったように、たとえ最初は神の道具として生み出されたのだとしても、自分の生まれた意味を自分で見つけ出すことができたはずだ」
しかし、それは成されなかった。
風の魔王ラファエルは、今や完全に消滅。愛用されたこの兜だけが、遺体となって残っただけだ。
「俺は人間であることを楽しみすぎて、自分の楽しみに没頭しすぎて。神の務めを怠ったのではないか? ノヴァやコアセルベートやマントルがしたように、神として魔王たちの存在を受け止めるべきではなかったのか?」
しかし風の神クェーサーには、人間シバとして同胞を魔王の脅威から守る義務があった。
そのためにもシバは、自分の体を半壊させてまで断固として魔王と戦った。
みずからが脅かされまいと徹底して魔王を脅かした。
「だから俺は、創世六神の中でもっとも邪悪な神なのかもしれない。俺こそが、自分の快楽にかまけて神の義務を怠ったのだ……!」
「神の義務とは……」
僕――、クロミヤ=ハイネが言った。
この病室に、シバと同伴して見舞うことを許されたのは僕だけだった。
それは僕もまたシバの同類――、闇の神エントロピーの転生者であることによる。
「世界を創り出すことだ。世界を創り、生命を創り、そこで神の仕事は終わりだ」
だから本来、世界を創り終えた時点で神は世界からいらなくなる。
「そこからは完全に、神それぞれのプライドの問題なんだ。いかにして神でいられるか? 自分の創造した生命に対してどのように神らしく振る舞うか? それはもはや自己満足でしかないんだよ」
「だが……!」
「神に、自分の生み出した生命を愛する義務はない。その中で風の神よ、お前は人間を精一杯愛してくれた。だから僕はお前を心から尊敬する」
そして今やその愛は、モンスターにまで向けられようとしている。
「同時に二つ以上を愛するということは、とても難しいことだと思うよ。特にお前は、神としてだけでなく今は人でもある」
トルドレイド=シバとして愛さずにはいられない家族や恋人や仲間がいることだろう。
その上でお前が人間として魔王との戦いに臨むのは避けられないことだった。
「あの時とったお前の行動は正しかった。お前がそうやってウジウジ悩んでいたら、彼女の戦いにもケチをつけるということになるぞ」
僕とシバは並んでベッドを見下ろした。
病室。
僕たちが今訪れている場所こそ、そこだ。
その病室の主は、風の勇者トルドレイド=ヒュエ。
激戦に疲れ切った体を、ケガの治療を済ませた上で病室のベッドに横たえ、今は傷を癒さんとばかりに深い眠りについていた。
「まさかコイツが、俺に無断で戦いに臨むとは」
教主と勇者、そして兄と妹でもあるシバとヒュエ。
魔王ラファエルとの決着のため、彼女は同時期に行われたシバの結婚式を欠席した。
「それが彼女なりの決意だった。戦いによって起こった憎しみを外に漏らさないように、あえてヒュエとラファエルは二人だけで戦ったんだ」
シバがその事実を知ったのは、結婚式の日程をすべて終わらせたあとだった。
知らない間に行われた魔王強襲、そして殲滅に彼は驚き、結婚式の正装のままで駆けつけてきたのだった。
「俺は……、いつでもコイツを神勇者化させる用意があったというのに。コイツはそれすら拒んだというのか?」
「それがけじめなんだよ。ヒュエと、そしてラファエルの」
そう、けじめ。
それこそ無限に伸びていくかに見える憎しみの連鎖を断ち切る唯一の方法。
際限ない感情の伸張をどこかで叩き切る理の大鉈。
それがけじめという儀式。
ヒュエは、そのけじめを取る方法をみずから考えだし、実行したんだ。
「それは彼女にしかできないことだった、何故なら……」
今やこのヒュエこそが。
「風の勇者なんだから」
「そうだ、ヒュエこそが真の風の勇者だ」
シバのその言葉は、自分に言い聞かせているようでもあった。
「いつもまでも可愛い妹だと思っていたが、頼もしくなったものだな。もはや完全に俺もジュオも用済みか……」
「ヒュエだけじゃない。人間は皆そうさ」
人間は強い。
いちいち神が助けてあげなくては何もできないなんてことはない。
逆に人間の方が神を助け、神を諭させるということもあるのだ。
「あまり気負いすぎるなよ、人としても、神としても」
「お前からそんな風に励まされるとはな。千六百年前には想像もしていなかった」
時の流れは、あらゆるものを変えてしまうんだ。
人も神も、そしてそれ以外のものも。
「……そういえばヤツらはどうした?」
ふと思い出したように、シバが彼らのことを尋ねた。
「ああ……」
その彼らとは。
ラファエルを追って風都ルドラステイツにやって来た。三人の魔王。




