168 風光る
動かない、足。
ケガなんかしていないのに。わかっている。私の足を動かなくしているのは恐怖だ。
「しっかりしなさい……! 勇者でしょう……!! 私!!」
全身すべての毛穴から脂汗を流しつつ、何とか立ち上がる。
向かう先は一つ。
「ヒュエさん……! ヒュエさん! 大丈夫!?」
トルドレイド=ヒュエさん。
風の教主シバさんの実妹で、彼女自身優れた風の神力の使い手。
シバさんが最後に心を開いてくれたのは、彼女が一緒に来てくれたからだ。
その彼女も今は、魔王ラファエルの威圧に当てられ、体の自由が利かなくなっている。
「………………!」
チラリと向こうを窺う。
幸いというべきか、死力を振り絞ったシバさんへ魔王ラファエルの注意が向き、私たちから完全に意識が逸れている。
元から眼中になかったともいえるけど。
とにかくこの状況を有効に利用しないと……!
「ゴメンねヒュエさん。動ける? 立てる?」
「だ、ダメだ……! 自分の体が、自分のものじゃないみたい……! これじゃあとても逃げるなんて……!!」
予想通りだが、ヒュエさんの心は完全に折られていた。
これじゃあダメだ。
「ヒュエさん、よく聞いて。私たちは逃げないわ。逆よ、戦うの」
「えッ?」
「あの蝶々の子供を倒すの。でもそれは私一人じゃ絶対できそうにない。だからヒュエさん、アナタに力を貸してほしいの」
そう言われた途端、ヒュエさんの顔色が紙より白くなった。
彼女の気持ちは、今こうして魔王の威圧に晒されている者でなければわからない。
それでもあえて私は言う。
「お願いヒュエさん、力を貸して。私と一緒にラファエルを倒して」
「バカな! そんなことできるわけがない!! あんなバケモノの中のバケモノを倒せるわけがない!!」
泣き叫ぶように言うヒュエさん。
本当は私だって、その意見に大賛成したいことろだ。
「兄上様ですら手も足も出ないのに……! 勇者でもない拙者に何ができるというんだ!? 拙者は強くない……! 兄上様は無論、お前ほどにも……!」
「私だって強くないよ……。私より強い人は他にいくらでもいる」
ハイネさん。ヨリシロ様。ドラハさん。
少し考えただけでもこれだけの名が浮かぶ。光の勇者として情けないばかりだ。でもこれらの人は全員、今ここにはいない。
「今ここにいるのはヒュエさん。アナタと私だけなんだよ。だから私たちで何とかするしかないの」
「でも、でも……!」
「怖いのはわかる。でもね、ここで何もしなかったら、アナタのお兄さんの頑張りは無駄になってしまうんだよ!!」
その言葉に、恐怖一色だったヒュエさんの瞳に、ほんの僅か、何か別のものが浮かんだような気がした。
「シバさんは……! アナタのお兄さんは今、自分の命を引き換えするぐらいの勢いで、ラファエルと拮抗している。でも、あの人にできるのは多分それまで。シバさんは、そう遠くないうちに自分自身の放出する神気に体が耐えきれなくなって崩壊してしまう!」
あるいはシバさん自身、そうなってもいいと思っているのかもしれない。
あの人が狙っているのは時間稼ぎそのもの。
このまま拮抗状態が続けば、やがて四つの竜巻すべてを消したハイネさんが戻ってくる。そしてハイネさんがラファエルを倒してくれる、と。
でも、その時には確実にシバさんは消滅しているだろう。
あの人は、自分の命と時間を交換しようとしているんだ。
「それを避けるためには、今! 私たちが動かないといけないんだよ!!」
「…………ッ!!」
ヒュエさんの瞳から別の感情が湧きだし、恐怖の色を追いやっていく。
「どうすれば、いい?」
「……!!」
「そうは言っても、拙者と貴殿だけの力でバケモノを止める手立てが、拙者にはまったく見当たらない。どうすれば兄上様をお助けできる?」
正確には私とヒュエさんだけの力じゃない。実際に今、ラファエルを釘付けにしてくれているのはシバさんだし。
その状況を最大限に活かして、ラファエルを倒さなければいけない。
でもどうやって?
ラファエルは、シバさんの風双銃フウマコタロウの撃ち出した空気弾を何発も浴びながら、それを無効化してダメージ一つない。
あの子供の周囲を風の防壁が張り巡り、自動的にガードしているからだ。
ヒュエさんの銃身の長い銃を用いても、そこは同じだろう。私の『聖光斬』や『聖光穿』でも、一撃必殺は難しいと思う。
そして一撃で倒せなければ、かなりマズいことになると思う。
あのラファエルは、シバさんと力を拮抗させる片手間で私たちを一掃するぐらい、できそうだから。
「だから……、こういうのはできる?」
私とヒュエさんの力を合わせるのだ。
私は、光の神力を限界以上に凝縮する。本来そういう用途で使われる『聖光穿』よりもさらに強い、超高圧縮の光の神気を作りだす。
「それを弾丸にして、拙者に撃ち出せと!?」
「できる?」
「できる……、と思う。拙者専用の神具であるこの風長銃エンノオズノは、形なき神気を打ち出す銃だ。風の神気が光の神気に置き換わっただけならば、恐らく問題はないはず」
よし。
ヒュエさんとはついさっき戦ったばかり。その時に見せた正確無比な射撃は、今でも背筋が寒くなるほどだ。
すべての属性に対して、少しずつだが優位性を持つ光の神気。
その超圧縮弾ならば、ラファエルを自動で守る風の防壁を貫通できるはず。そしてヒュエさんの精密な狙いでラファエルの頭を撃ち抜く。
これならば一撃で倒せる望みは見えてくる。
「しかし……、もし外したら……?」
「何言ってるの。ヒュエさんは私たちと戦った時、ほとんど的を外さなかったじゃない」
正直な話、相性のいい火の神気で身を守ったミラクちゃんがいなければ、確実に私たちは負けていた。
「私は、ヒュエさんの射撃能力を信じている。絶対当たるって。信じなきゃ始まらないことに、信じるのを迷っても仕方ない」
今日会ったばかりの人に、そこまで信頼を寄せるのもおかしいかもしれない。
しかしこれまで何度も修羅場をくぐってきた私の直感に従う。
この人は信じられるって。
「……信じようとする気持ちを捨てるところから、真の信じる心は生まれる。そうでしたね兄上様」
「え?」
「肩を貸してくれ」
「え? こう?」
ヒュエさんは私の肩に風長銃の銃身を置いて、固定した。
撃った瞬間に銃身がぶれ、狙いを外すのを避けるテクニックだろう。
「……的射も同じ。当てようとする望みを捨てなくては、的の真央を射通すことはできない。全身から力を抜く。意を消し、すべてを体に任せる。日頃から修練している通りに。実相無相。呼吸しながら呼吸を止める。……霜が降りるように、引き金を引く」
その瞬間がわからなかった。
あまりにも自然過ぎたからだろうか。凄まじいことのはずなのに。私までそれが、熟した実が風で落ちるかのような、当たり前の出来事に感じてしまった。
気づいた時には。
魔王ラファエルの頭部が粉々に砕け散っていた。




