162 風の過ぎ道
それは風の教典に記された、風の教団始まりの物語。
風の教団の教祖となる人は、故郷というべき場所をもたず、土地から土地をあてどもなく放浪していたのだという。
共にさすらう仲間を率いて、安住の地を求めての長旅。
しかし彼らはどこにも受け入れられず、あてどもない旅を続けた。
疲れ、路傍に屍を晒そうかと思い始めた頃……。
神が現れた。
神は名乗った。
風の神クェーサーであると。
風を司る神は、安住の地を与えることはできない。しかし旅路に追い風を吹かせ、旅人を守ることはできる。
自分を主神とし、崇め奉るならば、自分は旅人を守る風を吹かせよう。風の先へ導く者を遣わそう。
のちに風の教祖となる者は、その申し出を受け入れ、ここに流浪の民は風の教団となった。
奇跡はすぐさま起きた。
神託を受け取った直後、長く子を宿すことのなかった教祖の妻が懐妊し、壮健な男児が生まれた。
教祖にとって初子となるその男児は、幼い頃から英邁にしてすくすくと長じ、成人になると教団の中で誰よりも強く賢い、優れた指導者となった。
風の教団が実質的に組織だって活動を始めるのは、この男性が教主となってからとなる。
その頃には既に地水火光の教団も、教団としての原型を作り始め、新たな教徒を求めて武力を伴った勢力拡大を推し進めていた。
その中でもっとも弱く小さかった風の教団は、本拠地を持たぬことを逆手にとって、あらゆる場所に現れては消え、敵となる他教団を翻弄した。
時代が流れてなお、風の教団は優れた教主を数多く輩出し、五大教団がせめぎ合う中で独自の立ち位置を確保し続けた。
やがてエーテリアルが発見され、当時の教主の判断によりいち早く研究開始。
歴代教主の指示により積み重ねられた様々な分野のノウハウが重なり、ついに最新の教主の代になって移動都市ルドラステイツが完成した。
その時ついに風の民は、安住の地を手に入れた。
風は、ゴールに届いたのだ。
* * *
「……シバさんは、この移動都市が完成してから最初の教主なのだそうです」
カレンさんは、ヒュエという女性から聞いたのであろう話をそのまま僕にも伝えた。
「何もかも新しくなった教団を率先して導き、流離うことをやめながらいまだ流浪の民である風の教団をまとめてきた人。ルドラステイツの人々にとって、シバさんはとても人気のある教主さんだって……!」
一方、当のシバの方は、妹のヒュエとやらに縋りつかれていた。
「兄上様! どうか拙者たちに本当のことをお話しください……!」
妹の突然の登場に、シバは押し黙ったままだ。
「ここ最近、各地に放った風間忍が情報を持ち帰るごとに、兄上様の表情が険しくなっていくのが見るからにわかりました。そして今回の他教主からの呼びかけが来た時、いよいよかとばかりに……!」
二人の話に、一つ引っかかるフレーズがあった。
「ふう、ま……?」
「風の教団の武力、旋風遊撃団の正式名称らしいです。風の間者と書いて風間。戦いもこなしますが、それよりも他教団に潜伏し、情報を盗み取ることを主な任務にしているそうで、おかげで私たちは風の教団のことを何も知らないのに、風の教団は私たちのことを色々知っているそうです」
そんなシステムが……。
ではもしかして、ここ最近立て続けに起こっていた炎牛ファラリス戦や、大海竜ヒュドラサーペント戦。グランマウッドとの死闘も、シバの耳に入っていたとしたら……。
その中で、黒い物質を操る男にも言及されている情報もあったとしたら……。
「兄上様が、何故それほどまでにあのクロミヤ=ハイネという男に拘るのか、拙者にはわかりません。でも兄上様は、これまで間違ったことは一つとして言ったことがありません。だから今回も兄上様の指示通り、二人の一騎打ちの場を作るため、他教団の教主勇者を足止めする役目を務めました。ですが……!!」
ヒュエの表情が悲痛にゆがむ。
意を決したように、言葉を続ける。
「外の者たちが言っています! 『風の結界』の正体が……凶悪なモンスターであると! それをもって兄上様が世界を滅ぼそうとなさっていると! 拙者はそんなこと信じられません。ですが、ですが……!」
「ヒュエ……!」
さらに何か言おうとしていた妹を、シバは制した。
有無を言わせない仕草であったが、相手を傷つけまいという気遣いも感じた。
「俺は、務めを終えようとしているのだ。ずっと長い間続けてきた務めをな。……エン、……いや、クロミヤ=ハイネよ。貴様が知りたいのはベルゼ・ブルズを止める方法だな?」
「え?」
言葉を向けられるのが僕へと代わり、答える。
「止めること自体は簡単だ、俺が命令を発せば、ヤツらは従う。しかしそれだけでは事態は解決しない」
「何……!?」
「ベルゼ・ブルズは数千万という大群を擁しながら、それで一個のモンスター。個体一つ一つに自我はなく、互いに神気の波動を送り合いながら意思を共有している。大群でありながら、俺からの命令に一斉に従うのもそのためだ」
「だから、何だって言うんだ? 勿体ぶらずに……!」
「しかしその神気による意思共有も完璧ではない。群れから離れて、共有領域から外れると、その個体はベルゼ・ブルズとしての意思を失ってしまう。何かに閉じ込められて、共有波動を遮断されても同じ状態となる」
「なッ!? じゃあ、まさか……!?」
今一番問題になっている、人体に侵入した魔蠅は……!?
「お察しの通り、人間を乗っ取った個体は、人の体内にいるがゆえにベルゼ・ブルズ全体の意思から離れている。そうした個体は、最後に受け取った命令を忠実にこなし続けるだけだ」
「乗っ取った人間に卵を産み付ける、という命令にか!?」
「そうだ、ヤツらが人間の体から出てくる時は、命令を遂行した時。つまり、体内に産み付けた卵が孵化し、生まれたモンスターと共に体を食い破って出てきた時だ」
それじゃあ意味がないじゃないか!
ルドラステイツの外では、待機していた各教団の護衛隊の大半が既に、ベルゼ・ブルズ乗っ取りを受けているはずだ。
その人たちはもう、ハエの苗床になって死ぬしかないというのか!?
「一つだけ方法がある。ベルゼ・ブルズをコントロールするのではない。消滅させるのだ」
「消滅!? そんなことができるのか!?」
「ベルゼ・ブルズは個にして群。何千万というハエの一匹一匹が体の一部のようなものだが、たった一個体だけ、すべてのハエより優位に立つ上位個体がいる。……いわば女王蠅というべきヤツがな」
「それさえ倒せば、ベルゼ・ブルズの全個体もすべて死んでしまうということですか? 外の人間たちを乗っ取ったハエも例外なく? ならその女王蠅を見つけ出して倒しましょう! 一刻も早く!」
共に聞いていたカレンさんも、示された打開策に飛びつく。では次の問題は、女王蠅とやらがどこにいるのか……?
「探す必要はない」
シバは言った。
「女王蠅はここにいる。俺の体内、心臓の中だ」
そう言ってシバは、自分自身の左胸を指さした。
「クロミヤ=ハイネよ。ベルゼ・ブルズを滅し、外の者どもを助けたければ、俺の心臓を射抜き女王蠅を消滅させるがいい。それですべてが終わる。すべてがな」




