131 思い知れ
ハイネさんたちが恐らく目的を達している頃。
わたくし――、ヨリシロの下に訪問者が現れました。
「ドラハ」
「はい、ヨリシロ様」
最近は常にわたくしに寄り添うドラハに声を掛けます。
彼女がいてくれるお陰で、近頃のわたくしは寂しい思いをすることもなくなりました。
まるで生まれ変わる前の、イザナミだった時代が戻ってきたかのようですが、今はこの子に傍にいられては困ります。
「少しの間一人にしてください。わたくしがいいと言うまで、誰も部屋に入れぬよう」
「かしこまりました」
素直なドラハは、すぐさまわたくしの私室を出ました。ドアが閉まる音を最後にわたくしの周囲は静寂に包まれました。
「……いつまで隠れているつもりです? 用があるからここまで忍び込んできたのでしょう?」
わたくしが言い放つと、部屋の壁に、何か小さなものがペタペタと這いまわるのが見えました。
四本足で長い尻尾をもつ、イモリとか、トカゲとか、そういう生き物だと思います。
ですが、そういう類の生き物で例えるならば、トカゲよりもイモリの方に近いでしょう。
肌はヌラリとぬめり、水気をたっぷり含んているように見えました。
つまりそれはイモリにとてもよく似た、小型の水属性モンスターなのです。
「水の神コアセルベート」
一目見てわかりました。
四元素の一角。その中にてもっとも智に富むと自称する、陰険姑息の神。
あの小さなイモリに神の魂が宿っていること、同じ神であるわたくしだからこそ感じ取ることができます。
「こたびはまた実に矮小な姿で現れましたね。ハイネさんに前の体を潰され、新しいものの作成が間に合いませんでしたか」
『光の女神インフレーション様。数百年のご無沙汰をしております』
イモリは――、正確にはイモリ型の小モンスターに転生した水の神コアセルベートは、いやらしくわたくしに語り掛けてきました。
『まさかアナタが再び人間に転生されていたとは、しかもみずからを信奉させる光の教団の教主に。一言お知らせいただければ、私も走狗たる水の教団に命じ、色々と便宜を図らせていただきましたものを……』
「そんなことを言うために、わたくしの前に現れたのですか? かように醜いトカゲの姿になってまで」
『手厳しい……! では早速ですが本題に入らせていただきましょう』
イモリは声色を改めました。
『地母神マントルが消滅しました』
大声ではありませんが口調は硬く、一大事であるということをしっかり匂わせた声色でした。
「……でしょうね。ハイネさんの放つマイクロ・ブラック・ホールの重力波がここまで届きました。アレを使ったということは、神の一人ぐらい消滅していなくてはおかしいでしょう」
『悠長なことを言っている場合ではありません! 神が! 神が消えたのですぞ! 創世の頃より永遠不滅であるはずの五大神が欠けたのです!!』
小さなイモリは、神にだけ共振する精神の波動で語りかけてきます。
この神の声は、空気を介しようと精神を介しようとひどく耳障りです。
『闇の神エントロピーが、これほどの暴挙に出るとは! やはりあの神は、我々の理解の外にいるのです! 彼のすることは……!』
「世界のバランスを崩し、最後には崩壊させるかもしれない。危険で、制御などとてもできない悪神。……と言いたいのですか?」
『は!? はい……!?』
「こうなれば早急に残った五大神の力を合わせ、創世の時代同様に団結して戦い、エントロピーを倒し、再び封印しよう。アナタはそう言いに来たのですね。水の神コアセルベート」
『はい、はい! まさにそうです! さすが光の女神! 私と同じ懸念を既に持って……!』
「だから何だと言うのです?」
わたくしの決然とした言葉に、コアセルベートは息を詰まらせました。
そうした気配が漂ってきました。
「たしかに闇の神エントロピー――、今は人間クロミヤ=ハイネさんは、五大神の一角たる地母神マントルを滅ぼしました。……だから何だと言うのです?」
『あん……! その……!?』
「アナタは狂喜したのでしょうねえコアセルベート。目障りなエントロピーが復活し、どうにかして排除したいけれども、アナタ単独ではどうにもならない。闇の力に絶対的優位性を持つ光の女神が味方にならねば、どうにもならない」
しかしわたくしと四元素の神々は、数百年前の闇都ヨミノクニの一件以来ほとんど絶縁状態。
気軽に手を貸してくれなどと言える間柄ではなくなっていました。
それでもマントルを消滅させたとなれば、神々全体を揺るがす一大事。光の女神たるわたくしも事態を重く見て、古き蟠りを忘れて対エントロピー陣営に再び加わってくれる、とでも思ったのでしょう。
アナタにとってマントルの消滅は、事態の流れを変える好機だったというわけです。
「ですが、もう一度言います。神が消滅したからとて、だから何だと言うのです?」
『ご……!?』
コアセルベートはまだ失語状態でした。だからわたくしの方から畳みかけます。
「この世界はもう神を必要としていません。ですから神が死のうが生きようが、そんなことどうでもいいではないですか。……いいえ、人や世界に害なす神がいるならば、それを滅ぼすことはむしろ善でしょう。エントロピーは……」
ハイネさんは……。
「正しいことをしたのです」
『バカな! そんなことはありません! 神を殺す! 世界にこれ以上の悪行がありますか!?』
「愚かなコアセルベート。策士を気取り、世界のすべてを知っているつもりだったのでしょうが、一つ重要なことを知らなかったのですね」
『なっ!? それは……!?』
「闇の神エントロピーは、六神の頂点に立つ者です。地も水も火も風も、光であるわたくしですら、闇の深淵から生まれた。ですからあの方は、みずから生み出したものを、気に入らなければ消し去る権利があるのです。その権能の体現こそがブラックホール」
すべてを消し去る闇の穴。
実のところ、闇属性に対して絶対優位と言われる光の神力すらブラックホールには敵いません。
光の力が、ブラックホールの核たる超々圧縮暗黒物質に届く前に、それが発生させる超重力が光を捕え、シュワルツシルト半径の中に永遠に閉じ込めてしまうからです。
本気で世界を壊す気になったエントロピーは、誰にも止められないのです。
「ですが、あの方は優しい。自分の意に添わぬものを、だからと言って即座に消し去るなど、狭量なことはなさらない。……コアセルベート。アナタはバカですから、エントロピーの優しさを、愚鈍と勘違いしました」
優しいあの方の前で好き放題に暴れ回り、あの方がもっとも大事にする人間の尊厳を踏みにじってきました。
そうしてあの方を嘲笑い、侮辱し尽した挙句、あの方が神をも消滅させることができると知った。
今更に。
アナタのバカさ加減に失笑すら出ません。
「コアセルベート。アナタは狂喜すると共に恐怖もしているのでしょう。エントロピーがアナタを消滅させられるとも知らず、散々あの方に狼藉を働いてきたのです。あの方の堪忍袋も、今や破れる寸前かも……」
だからこそ今、コアセルベートからは、あの疑問符交じりで聞く者をイラつかせている口調も消えている。
それだけ余裕がないのです。
「実際アナタよりも、よっぽど許されるべきマントルにすら、あの方は容赦しなかったのです」
『インフレーション……! 光の女神インフレーション様……!!』
「策士を気取り、人間を惑わせ、無駄に殺し合わせてきたコアセルベート。祈りのエネルギーが枯渇する今の時代にすら人間を弄ぶことをやめないのは、いざとなればマントル同様、人間から無理やり精神エネルギーを収奪するシステムを構築するつもりだったのでしょう?」
いよいよ祈りの力が足りなくなれば、そのシステムで人間から祈りを搾り取ればいい。そう思っていたのでしょう。
モンスターと教団のマッチポンプは、それまでの間アナタ自身を楽しませる遊びのつもりだったのでしょう。
水の神コアセルベート。
「……でも、そのシステムを実行に移したマントルは、エントロピーによって消滅させられました。コアセルベート、アナタも彼女と同じ末路を辿りたければ、彼女と同じことをなさい」
いずれ枯渇し、足りなくなる祈り。
それを解決するために水の神が用意しているだろう最終手段は、間違いなく闇の神の逆鱗に触れるものです。
つまり水の神を待ち受ける運命は、人に忘れ去られひっそりと消えていくか、闇の神の怒りで潰されながら消滅するかの二つに一つ。
『光の女神! インフレーション様! お願いです……!!』
小さなイモリから無様な鳴き声が届きました。
『私をどうか助けてください! 私はエントロピーを何度も怒らせてきた! だからアイツは私を許さない! ……でも私は消えたくない、消えたくないのです!! どうか光の女神。すべての神の母たる存在よ!! この私をお救いください! 凶悪なる闇の神からお守りください!!』
「神が、神に祈るのですか?」
これまで人々がアナタに捧げてきた祈りを、散々弄んでおきながら。
「恥知らずとはアナタのことを言うのです水の神コアセルベート。己が賢明だと勘違いするバカほど始末の悪いものはありません。バカなアナタは気づかないのでしょうね。アナタの愚行によって怒らせた相手が、エントロピー一人だけだとまさか思っているのですか!?」
『助けてくださいインフレーション! 助けてください……!!』
「失せなさい。もはやアナタの声を聴くだけでも不快極まりない。最後に一つだけアドバイスしてあげます。そんなに消えるのが嫌なら深海の底にでも隠れていなさい。神のプライドを捨て、人々が僅かに注ぐ祈りの力で食いつないでいけば、零落した妖魅として細々と存在していくことは可能でしょう」
『インフレーション様! 我が母……ッ』
バチッ! とほとばしる光の神力が、小さなモンスターを四散させました。
不快な雑音が消え、部屋に静寂が戻りました。
もはやコアセルベートは何もできないでしょう。
いかなる姦計を企てようと、闇の神エントロピー――、ハイネさんによって消滅させられるという恐怖に打ち勝つ勇気は、あの愚物にはありません。
また一つ、肩の荷物が減ったような気分になりました。
そのあと私は、室外に待機していたドラハを呼び戻し、しばらくの間ただ彼女を抱きしめるだけで過ごしました。
 




