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やさしいふたり

作者: 秋沙美 洋

 やれやれ、日直である。

 ホームルームが終わった後は、誰とも顔が合わないように素早く教室を出るのが毎度のことだ。しかしその日はそういうわけにもいかず、教室の戸締りやら学級日誌の記帳やら、面倒事をせねばならなかった。クラスメイトが去った教室で適当に仕事をし、職員室にいる担任に学級日誌を渡し終えていざ下校という段になった時、時刻は四時半を回っていた。

 下駄箱には何も置かないようにしており、上履きは鞄にしまう。ローファーを履いた私は、吹奏楽部の練習を聞きつつ学校を出た。

 校門に続く石畳の通路は両サイドに植え込みがある。植え込みの向こうには、学校のゴミ捨て場だったり、あまり使われなくなった用具倉庫がある。

 そちらの方から、数人分の談笑が聞こえてきた。普段の私なら気にも留めずにスルーしてしまうところだけど。

「オラ、なんか言えよコラ」

 かすかに聞こえてくる話し声の断片は、明らかに楽しげなものではなかった。さすがに気になったので、植え込みに隠れながらチラリと向こう側を覗いてみた。

 そこにいたのは二、三名の男子生徒。ジャガイモのような顔をした、それでいてゴリラのような連中(ここでは仮にジャガリラと呼ぶことにする)だった。その中心に、見知った顔の少年がうずくまっている。

 ジャガリラたちが、少年を小突いては罵りの言葉を投げかける。少年はそれに反抗せず、困った表情を浮かべるばかりだった。反撃しない少年に調子づいたジャガリラたちの行為はやがてエスカレートし、小突くだけでなく、割と強めの殴る蹴るが始まった。

 どうしよう、先生を呼んできた方がいいのかな。でもそんなことしてジャガリラたちの怒りを買うのは嫌だ。けど、あの少年も全くされるがままだし……うーん。

 私が膝をガクガク震えさせながらその様子を見ている間も、ジャガリラたちは止まらなかった。


 結局、それから五分ほどジャガリラたちは少年を殴ったりして、やがて満足したのかその場から帰っていった。

 私はずっと動けなかった。

 後に残された少年は一人、用具倉庫の壁にもたれかかって肩で息をしている。殴られた頬を痛々しげに押さえて。

 一つ隣のクラスの……確か日向井とかいったっけ。去年は同じクラスだった。

 私は彼に歩み寄った。すぐそばまで行くと、彼は私に気付いたようで、俯いていた顔を少しだけ上げた。

「あの……大丈夫?」

 白いシャツが土で汚れ、頬から血を出すなどして見るからに大丈夫そうではない。しかし、コミュの私が繰り出せた言葉はそれしかなかった。

 私は日向井のとなりに腰を下ろした。すると彼は、カラリと乾いた笑いを浮かべた。

「あ、キツネちゃんか。なんだか変なとこ見られちゃったね、あは」

 キツネちゃんというのは私のあだ名だ。キツネのような無表情が、いつの間にかそう呼ばれるようになった。

 それにしても日向井、なんで笑ってられるんだろう。痛いし、辛いだろう。彼が口角を上げるたび、切れた頬から血が滲んでいた。

 背の高い彼が私と並べば、必然的に彼の方がこちらを見下ろす形となってしまう。そうしてみると、意外とまつげ長いんだなとか、どうでもいいことに目がいってしまった。そんな彼と合わせている視線をそらすようにして、私は鞄に手を突っ込んだ。

「これ、使う?」

 持ってて良かった絆創膏。お節介かもしれないけど、常備してる物をここぞとばかりに出してやる私。彼の返事を聞くより早く、その手に絆創膏を握らせた。

 女の子の絆創膏だからといって、必ずしも花柄だったりするわけじゃない。そういうのを持っている女の子は、大抵私と対に位置する、漫画における野球部のマネージャーとかマジメな委員長タイプ。私のは何の面白みもない、市販の無地のやつである。

 そんな108円の絆創膏をマジマジと見つめ、彼はこう言った。

「こういうの自分じゃ難しいからさ、貼ってよ」

 ――ちょっと待て……だから言ってんじゃん、そういうのは野球部のマネージャーとかマジメな委員長とか、俗に言うメインヒロインの仕事なんだよ! 私にそういうことやらせたら指先のウィルスが貴様の傷口から侵入して大変なことになるってーの。

 と、そんな心の叫びがあったことなど露ほども知らぬ様子で、日向井は早速こちらに頬を差し出した。あーもう分かったよ貼るよ貼ってやるからいちいち目を閉じるな。ペタ。

「さんきゅ」

 この年頃の男子にしては珍しく、ニキビの一つもない肌は白くて柔らかかった。

 さっきの、痛かったんだろうな。

「ねえ日向井」

「ん、なーに」

「またなの?」

 彼は大きな身体をしておきながら気は小さい。なので知能の低いゴリラのような連中からは標的になりやすく、今回のような出来事も今に始まったことではない。

「うん、まただよ。でも今回も僕の勝ちさ」

「どうして?」

「最後まで手は出さなかったからね」

 一体何が面白いのか、日向井は小さく笑った。そんな彼に対し、私は今日何度目になるのか分からない重いため息をついた。

「……反撃とかすればいいのに」

 あんた、身体だけは恵まれてんだから。

「そんなことして相手にケガでもさせちゃったら嫌じゃないか」

「自分がケガするのはいいの?」

「そりゃあ、相手がそうなるよりはね」

 呆れるのを通り越して、哀れになってくる。

 同じクラスだった去年にも、数回ほど彼と話したことがある。その時は、何だかフワフワした奴だなーという認識だったが、殴られ過ぎて頭がおかしくなったのだろうか。

 あるいは、優しすぎる性格? それも考えものだ。

「帰ろっか」

「うん……うんっ?」

 日向井からごく自然にそう提案され、私もまた自然に頷くところだった。頷ききる直前、私は思わず素っ頓狂な声を上げた。

 日向井はといえば、慌てふためく私を不思議そうに見ている。私と対照的なその態度を見ると、ドキドキしている自分がどうにもバカらしくて、ちょっとだけ悔しい。

「わ、私と?」

「嫌かな」

「べ、別にいいけど。あなたってけっこう不意打ちかましてくるのね。日向井のクセに」

「それじゃあ、ほら」

 よいしょ、と言って彼は立ち上がった。私たちは二人並んで帰路につく。

「今日も疲れたねー」

「うん」

「給食、ハズレだったねー」

「うん」

「いつも見てるテレビがさー」

「うん」

 ――といったように、特に大した会話があったわけではない。それでも日向井が吹っかけてくる話題は尽きることがなく、とりとめのない会話がいつまでも続いた。

「マルチーズとダックスフント、どっちが可愛いと思う?」

 それはいくら何でもとりとめなさすぎるだろう。女子小学生かお前は。

「ダックスフント」

 楽しかったわけではないが、日向井といると、少なくとも退屈することはなかった。三つ目の曲がり角で別れるまで、多分私、何回か笑ったと思うし。

 自宅に辿り着いた頃には会話の内容なんて忘れてしまってもよかったのだが、日向井が話してくれたマルチーズの魅力をいつまでも反芻している自分がいたのは、否定できない事実である。


 それから日向井とは、何度か帰途を共にする仲となった。

 彼はどこか私に似ており、決して私が好きになるタイプではないのだが、一緒にいるとまあ落ち着いた。

 当たり前だけど、私は彼がイジめられている現場に一度も止めに入ることが出来ないでいる。イジめられて倒れている彼に絆創膏を貼って、それから一緒に帰るのが弱虫キツネちゃんの精一杯だった。

 一緒の下校も片手で数えられる回数を超え、ちょうどそれくらいから、コミュ症の私が奇跡的に軽口を言える相手に日向井は昇格した。

 彼は毎日必死に戦って、それでも笑顔だ。

 だから、私も、弱音を吐かない。日向井にだけは、なおさらそういうところを見せたくなかった。


 今日も戦いが始まる。

 とりあえず下駄箱を開けると、やはりいつものように、そこには色々なものがパンパンに詰まっている。本日の日替わりメニューは、筑前煮と牛乳のミックスオレ。私への悪口を書き連ねた紙を添えて。

 私はといえば、こんなことには慣れっこだった。どれくらい慣れっこかというと、迷惑な贈り物はもう日常過ぎて、それを処理するための道具まで用意している始末。ビニール袋と雑巾。私はゴミをまとめてビニール袋にかきこみ、雑巾で下駄箱の中をサッと拭いた。ビニールの口をきつく縛る。

 私の朝はクラスメイトの誰よりも早く、職員室で教室の鍵を受け取るのは当然私の務めだ。鍵を受け取り、人の少ない廊下を小走りで往き、教室の鍵を開ける。先ほどのゴミをゴミ箱に捨て、自分の机へと向かう。

 下駄箱と同じく、机の中にも毎日贈り物が届くので置本なんてご法度だ。机の中にあった本日の二品目は、牛乳と麦ご飯のリゾット。牛乳の風味とお米が見事にマッチし、食欲を掻き立てる香り……なんて立ち上らせるわけないね、うん。とりあえずこちらも生臭い。ビニール袋二つ目、そして雑巾選手も二度目の活躍。先ほどのミックスオレでヘトヘトの様子だが、私が生ごみの匂いと戦わなければなくなるので、雑巾選手にはもう少し頑張ってもらわなければならない。

 机の表面には私へのメッセージの数々。油性は落ちづらいからやめてほしい。更に厄介なことに、彫刻刀でのお便りも追加されている。プリントに字を書く際とても苦労するこれは、直しようがないので勘弁願いたい。

 ――勘弁願いたいが、しかし贈り物をくれた人たちに、私が直接何か言うことはない。無駄に刺激しないように日々を過ごすのが、私にとって上策なのだ。

 皆が私を攻撃し、私はそれにじっと耐える。言わば、これは我慢比べだ。タイムリミットは二年後、この中学校を卒業するまで。それまで攻撃に屈することなく耐えることが出来たら私の勝ち。何も難しいことはない、実に単純な話じゃあないか。


 その日の放課後。

「キツネちゃん、さっさと帰っちゃうなんて冷たいじゃん? 一緒に帰ろうよ」

 声と同時に、後ろから強引に肩を掴まれた。学校の玄関を抜け、家路を辿ろうとしていた時だった。

 振り返ると、そこにいたのはクラスメイトのリカコ。彼女とは小学校の四年生で同じクラスになって以来、中学に上がってからも何かと付き合いが続く。彼女こそ、キツネちゃんというあだ名を私にくれた張本人である。

 今日も今日とて男受けしそうな笑顔、それをロングの黒髪が縁取っている。しかしその笑顔の裏で、私を不幸のどん底に陥れるための策を日々練っているのだからタチが悪い。

 これから何をされるのだろうか。リカコのニタニタ笑顔を見て、私の心は重くなった。


 大半の生徒が下校し、静かになった廊下をリカコと歩いた。やがて連れて行かれたのは女子トイレ。そこにはリカコの取り巻きたちが待機していた。

「聞いたよキツネちゃん。最近、隣のクラスの日向井とよく歩いてるんだってね」

 リカコは携帯を開き、ご丁寧に証拠写真まで提示してくれた。ズームされた画面に映っていたのは、並んで歩く私と日向井の姿だった。リカコ部隊隠密班の仕業か。

「えっと……うん」

 歩いていたのは事実。写真まで撮られては否定しようがない。

「もしかしてキツネちゃん、日向井と付き合ってんの?」

 マジウケルンデスケド。そう言って大笑いするリカコに合わせるようにして、取り巻きたちも爆笑した。

「そんなんじゃないよ。たまたま、帰り道が一緒で……」

「いやーしかしキツネちゃんも随分色気づいちゃって。これからはキツ姐さんって呼ばなきゃ。ねぇ、みんな」

 爆笑の渦。私は何も笑えない。

 何でこんなことになっちゃったんだろう。私が日向井にお節介したせい?

「で、キツネちゃん。もうヤッたの?」

 下品な笑いを浮かべながら、リカコは指で輪っかを作りそこに人差し指を抜き差しする。今時オッサンでもやらない仕草だ。

 私は首を振る。もう声を出すのもしんどい。

「それじゃあまだ処女だよねー。どうするの? 処女だと日向井も引いちゃうかもよ」

 そう言いながらリカコは自分の鞄の中をさぐり、何か取り出した。

「何……それ」

 惨たらしさすら感じられる形に、私は言葉を失った。週刊誌の広告とかでしか見たことのない、俗に言う大人のオモチャという奴だった。それにしたって明らかに日本人向けのサイズじゃない。

 笑っていたリカコは、目だけが真剣だった。

「コイツで一発、処女失くさせといてあげよっか」

 彼女がしようとしていることをようやく察し、私は血の気が引いた。冗談じゃない、そんなんで喜ぶのは一流のマゾヒストくらいだ。

「リカコ、やめようよこんなの……」

 ようやく絞り出せたセリフは蚊の鳴くような声だった。しかしリカコはとまらず、取り巻きにアイコンタクトを送る。次の瞬間、私の身体は二人がかりで押さえつけられた。

 大人のオモチャ片手に迫りくるリカコ。その口元は醜く歪み、私に恐怖を植えつける。B級映画の悪役を張っていてもおかしくない。

 リカコが屈み、スカートをたくし上げられ、冷たい手が私の太ももに触れ、そして下着を下ろされたところで。

 私は叫んだ。

「やめてってばっ!!」


 結論から言うと、私の処女は無事だった。処女なんて捧げる予定も相手もないけど、あんな形で失くすものではないはずだ。

 押さえつける二人をよく振り払えたとは思うけど、火事場のナントカってやつだろう。脱がされた下着はそのままに、私はリカコたちからダッシュで逃げた。風がスースーして気持ち悪かったけど、とにかく必死だった。

 そして今。私は自室で泣いていた。

 今日ほど自分という存在を嫌いになったことはない。自分の無力感が情けない。何も出来ない自分が、とにかく憎らしくて仕方ない。

 自分を嫌悪すればするほど、涙と嗚咽が溢れてくる。それが極力外部へ漏れないよう、部屋の鍵はちゃんとかけて、カーテンも閉めた。蛍光灯の明かりも消し、陽の沈んだ後の暗い部屋で、私はタオルを噛んでひたすら泣いた。

 なんで私はこんななんだろう。何か前世で悪いことしたの? だったら死ねばいいの? 今死ねばそういうの色々リセットして幸せな来世を用意してくれんだろうなあ、神様よ。

 勉強机から取り出したカッターを手に持ち、その刃を押し出すと、キルキルキルと心地良い音がした。試しに腕に当ててみた。刃は思いの外冷たくて、びっくりして手から取り落とした。すると足の甲にちょっとだけ刃が刺さり、ほんのちょっとだけ血が出て、あまりの痛さにまた泣いた。

 痛いのは人より苦手だった。それにしても、少し血が出たくらいでこんなに痛いのに、死ぬ時ってどれくらい痛いんだろうか。やっぱり痛い死に方は却下だ。

 いっそのこと、眠りから覚めなければいい。

 眠りにつく際いつも思っているのは、このまま私の世界が終わってしまえばいい、ということ。誰にも悟られることなく、ある日の眠りを境に私は空白の存在になっていて、世界から私の痕跡だけきれいさっぱり消えてしまう。

 そういう風な消え方が私には望ましい。よし、そうと決まれば早速寝よう。おやすみなさい。ぐー。


 翌朝。

 考えてみれば当たり前なんだけど、やっぱり私の身体は当たり前のようにある。夕方から数えてかれこれ十二時間近く眠った計算になるが、寝すぎると良くないらしい。私の身体は倦怠感に抱きしめられていた。

 笑えるぜ。なあ神様よ、どうして私はこんなに醜く生きているのでしょうか。

 それでもやっぱり学校には行っていた。なんでだろうね、休んじゃえばいいのに。でも長らく休んで久しぶりに登校する時って、なんか辛いじゃん。

 リカコたちが登校してくるが、意外にも昨日のことについてはあまり絡んでこなかった。

 それでも放課後になったら、また昨日みたいなことしてくるのかな。そう考えると憂鬱だった。


 昼休み、給食が終わると教室から避難するようにしている。リカコたちの追跡を逃れるため、避難先は日によって変わる。この日選んだのは図書館に併設されているトイレだ。

 図書館司書のオバサンがいつも入念に掃除しているので、普通のトイレと比べると居心地が良く、なんなら良い匂いもする。それでいてココを利用する人は少ないので、私は密かにこの場所を気に入っていた。

 とりあえず手を洗った。それから、個室に入って時間が過ぎるのを待とうと思った。

「あ……」

 聞き覚えのある談笑が――ジャガリラたちのウホウホとうるさい鳴き声が、聞こえてきた。またしても、楽しげな会話には似つかわしくない蔑みなんかも混じっていた。

 トイレの窓から、例の用具倉庫がバッチリ見える。用具倉庫の前にジャガリラたちがいて、日向井が彼らに取り囲まれていた。

 ――きっとまた、日向井は殴られるのだろう。それで反撃なんて一切せず、困ったように笑うのだ。

 コイツみたいにボコボコに殴られてヘラヘラしてるマゾ野郎、他にいますかっていねーか、はは。尊敬する人はガンジーですか?

 なんて言ってる間にフルボッコの始まりですよ。これ、イジメられっ子のつらいところね。

 私はボーッと、ただ無関心にその様子を見ていた。

 白い頬があんなに痛そうなのに、こっちにその痛みが伝わってくることはない。私と日向井で痛みを半分コに出来たら彼も辛くないのかな。あ、やっぱダメ。例え半分でも私が痛いのは願い下げだ。


 やがてジャガリラたちが飽きて去っていくのを確認すると、私はトイレを出て日向井のところへ向かった。彼は用具倉庫の壁にもたれて空を仰いでいた。

 最初に帰った時と同じように、私は日向井と隣り合って座った。絆創膏を貼ってやるためだ。

「今回も勝ったよ、キツネちゃん」

 ヘラリ、と。

 ああ、またそれだ。

 分かってるよ日向井。それはいわゆる負け惜しみでしょ? 惨めな自分を認めちゃったらもう壊れるしかないから、そうやって必死に虚勢張って自分に言い聞かせてるんでしょ。

 私に言ってるんじゃなくて、泣きたい気持ちを押し殺しながらあんたは心の中だけで泣いて、毎度毎度同じ言葉で自分を叱咤激励してるんでしょ。

 分かってるよ。私がそうだもん。

 日向井、でもさ、それ限界があるよ。そろそろ容量オーバーだよ、あんたも私も。

 じゃあさ、殴り返せばいいじゃん。私にはない大きな身体をあんたは持ってるんだから、私の代わりにスカっとしなよ。

「ねえ日向井、私さ、あなたが殴られてるとこ見るの嫌だよ。お願いだからアイツらに反撃してよ」

「けど、殴ったら僕も痛いし相手も痛いよ。僕が彼らを殴ってるとこなんて、キツネちゃんも見たくないでしょ?」

「違うでしょ」

 珍しく、私は声を荒らげた。日向井は一瞬だけキョトンとした表情になり、その後うつむいた。その瞬間、私は彼に容赦することを忘れてしまった。

「それはあなたが優しいからじゃなくて、相手を殴るだけの勇気がないからでしょ。それを認めたくないから優しさを理由に正当化して、あまつさえ私の同意を求めて確かなものにしようとしてる。けど私さ、言っとくけどバカじゃないから気付いてんだ、あなたが弱虫でゴミ虫のクズ野郎ってことはとっくにね」

 何か人に言葉を言う時は、言われた人がどういう気持ちになるかよく考えなさい、というのは幼稚園の頃に先生が下さった教えだ。そんな教訓はたった今消し飛んだ。

 自分で言った言葉なのに、自分の胸がひどく痛んだ。武士が両刃の刀をあまり用いなかった理由、今だったら少しだけ分かる気がする。

 日向井は顔を上げていたが、私は必死に顔をそらし続けた。私は今どんな顔をしてるんだろう。怒ったキツネの顔? さぞ醜いに違いない。

 もう日向井に絆創膏を貼ってやることもなければ、一緒に帰ることもない。ぼっちのキツネちゃんは再びぼっちになりました。いいんだよこれで、一人だったのが元通りになっただけ、何も辛いことはない。

 それじゃあ後十分くらいで午後の授業も始まるし、教室に戻ろうか。

 そうして私が立ち上がった、その時だった。数名の足音と笑い声。

 見ると、さっきのジャガリラ1,2,3たちだった。その中心にいるのはリカコだ。

「声がすると思ってきてみたら、やっぱりキツネちゃんだったんだ。今日は日向井君と痴話喧嘩の途中だった?」

 リカコスマイルを食らい、まさしく私は蛇に睨まれたカエルになった。

 私と日向井を取り囲むようにして、ジャガリラたちとリカコがスタスタこちらに歩み寄ってきた。一様に浮かべられたニヤケ面は、私を硬直させるのに十分すぎた。

 どうしよう、嫌だな。今日はいつもと違って男子のイジメっ子も一緒だ。私も日向井みたいに殴られるのかな。

 なんてことを思っていると、リカコがポケットから何かを取り出した。

「忘れ物だよ、キツネちゃん」

 リカコは私の顔に向かって、それを投げつけた。

 昨日の女子トイレの一件で私が逃げ出す前、リカコたちに脱がされた下着だった。

「キツネちゃんったら、パンツを忘れるなんてドジっ子さんなんだから」

 キャハハハハハハハハハハハハハ、なんて。

 これでもかとばかりにリカコは笑う。ジャガリラ達はといえば、笑うというより好奇の視線で私のことを見る。

 羞恥心とか惨めさが、私の中にぶわーっと広がった。私は慌てて下着をポケットの中に突っ込んだ。

 信じらんないわ。女子だけならまだしも、ジャガリラも、日向井もいるんだよ。もう恥ずかしさで死にそうです。

 ねえリカコ、さすがにちょっとこれは酷すぎるよ。

「ねぇキツネちゃん、それ日向井くんにあげたら? きっと喜ぶんじゃないかな」

 追い討ちが上手なリカコである。彼女は私の下着がしまわれたポケットに手を伸ばし、それを強引に引き抜こうとした。

「っ、ダメ……!」

 しかし、リカコの手を抑えようとした私の手はジャガリラ1に強引に掴まれる。大きくてゴツゴツして、とってもとっても気持ち悪い手である。

 もう何もかも嫌で仕方ないよ。


「んがぁっ!」

 私のことを押さえつけるジャガリラ1が、突然悲鳴を上げた。

 日向井が、ジャガリラ1をしこたま殴りつけたのである。

 困惑する残りのジャガリラたち、そしてリカコ、もちろん私も。地面に沈んだジャガリラ1を、日向井は無表情で見つめた。

 呆気にとられている間に、日向井はリカコをちらりと見やった。一瞬身体を震わせるリカコだったが、その表情に不安げな様子はない。それは、男である日向井が自分を殴るはずなどないという、常識的な確信があったことを伺わせた。

 しかしリカコの顔面には、強烈な右ストレートが放たれた。

「ぎゃっ!」

 ジャガリラ1と並び、リカコは地面に倒れた。痛々しげに顔を押さえている。何か言葉を放っていたが、聞き取り不能な呻きだった。

「行こうか、キツネちゃん」

 日向井はそう言って私の手を掴む。そこに割って入るのはジャガリラ2と3である。

「おい日向井お前、自分が何やったか分かってんのか!?」

 掴みかかるジャガリラ2の腹を蹴り上げて怯ませると、日向井は、私の手を取って走り出した。


「ああいう場合、僕の負けだと思うかい?」

 あの後授業をほっぽって、学校を離れて一キロほど歩いたところにある駅。日向井はまだ私の手を握ってくれやがっていた。いいかげん離せよと思って引き放そうとしたら日向井が更に強く握るので、私はそれが妙に心地よかったものだから、好きに握らせておくことにした。

「わかんないよ、そんなの」

 券売機で一番遠くまで連れてってくれる切符を買って、それから私たちは電車に乗った。私も日向井も行きの運賃しか持っていなかったが、日向井にあまりにも迷いがないものだから、こちらもそれにつられたという形だ。

「ねえ、キツネちゃん」

「うん?」

「僕らさ、今までずっと耐えてきたよね」

「うん」

「じゃあさ、このまま今日一日だけ、僕ら悪い子になっちゃおっか」

「うん」

「一日くらい、許してくれるよね」


 一時間ほど電車に揺られて、私たちが下された土地は見知らぬ港町だった。海岸のテトラポットに私たちは並んで座った。潮風が肌に心地よいけれど、日向井は頬の傷に染みるのか、手で押さえていた。

 その上からでも、日向井の涙は隠しきれていなかった。

 私も彼も、きっと、無理しすぎたんだと思う。だから今日は、皆の知らないこの土地でちょっとだけワガママになる。明日からまた二人はよい子に戻るから、今日という一日くらいは問題ないはずだ。

「泣く時は、声、出した方がいいよ」

 私は日向井にそう言った。すると彼は、まるで赤ちゃんがするかのように、私の手を握りながら大声で泣き出した。

 やっぱりずっと我慢してたんじゃん。それなのに自分を抑えつけちゃったりして。

 きっと彼は、優しさを求めている。だから私は日向井を抱きしめた。私が日向井にとっての優しさになってやれるから。そしてこれは私の場合も同じで、彼が、私にとっての優しさにもなるから。

 彼が泣くから、私も泣いた。潮風はいつまでも、私と日向井のことをこれでもかと言わんばかりに優しく優しく撫でてくれた。

お読みいただきありがとうございました。普段自分の小説って何度読んでも好きなんですけど、今回はあんまり…だったりします。多分、よく分からないエンドのせいだと思います。精進しますね。

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[一言] 読んでいて、月曜日にやっているスカッとジャパンにそのまま投稿してもらいたい物語だと思いました! 二人のこれからに期待です!
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