夜を飲み込む物語
午後五時、つまり、部活が終わる時間。窓のロックを確認してから部室を閉めて、早急に下校しなければならない時間。僕と先輩はいつも通り鍵をかけて、先生に返して、校門をくぐる。そのまま駅前までの短い道程を喋りながら帰る。はずだった。
「浅川、このあとヒマか?」
「まあ、はい。なんですか?」
「心優しい先輩があんまんを奢ってやろう」
「え」
真っ白な美しい髪を揺らして、先輩は微笑んだ。嫌かね?と不敵に。
「いや、もちろんいいんですけど。え、いいんですか?」
「もうじき君ともそうそう会えなくなるからね。最後くらいはカッコつけさせてくれたまえ」
どきりとした。そうだ、もう10月。文化祭が終われば、先輩が部室に来ることは、ない。憧れてきた文章を読むことも、なくなる。わかっていたことだけど、どうしようもなく寂しかった。
「……ありがとうございます」
「なんだ、嬉しそうでないな」
「そんなことないですよ」
赤い瞳が僕の顔を覗き込む。別れを含めた未来を受け入れ、むしろ期待すらしているその瞳が眩しくて、つい逸らした。
「……まあいい」
何か言いたげだったが、彼女は一人で頷いて、僕の学ランを引っ張った。
「そうと決まれば、急ぐぞ。勉強の時間を減らし過ぎるわけにはいくまい。駅前のコンビニまで競争だ」
「え?」
「先に着いた方が勝ちだ。ヨーイドン!」
「ちょ、まっ!」
夢の中で遊ぶ天使の姿がみるみる遠ざかる。慌てて走り出す。もちろんスタートの差はあれど、やはり男女差はあるわけで、駅が見えてくる頃には先輩を抜かしてしまった。スピードは緩めず、そのままコンビニの前まで全力で走る。
ゴール。
他学校の生徒やサラリーマン、それに、居酒屋の客引きなんかがたむろしているそばで、僕は息を整える。体育の授業以外で走ったのはいつぶりだろうか。
来た道を眺めていると、先輩が走ってきた。透き通るような頬を薄紅に染めて、血の色の瞳をきらきらと輝かせて、純白の髪を後ろへなびかせて。真ん中で分けたはずの分け目も乱して、夢中になって。
「ゴールッ!」
「おめでとうございます」
「君、早すぎだろ。文芸部、の、くせにっ」
「文芸部でも男子ですからね。さすがに女子に負けません」
「負けるわけにも、いかない、だろうね!」
「まずは呼吸を整えてください。そのあとに髪も直した方がいいですよ」
「そうかね、ありがとう」
造形の神がいるのなら、そいつが全力をあげて作り上げた最高傑作はこの人だろう、というくらい美しい先輩は、周囲に好奇の目で見られているのも気にしない。自分の思うままに振る舞うのだ。そんな格好よさにも憧れた。
「ふう、落ち着いた。さあ、あんまんを食べよう」
「ああ、はい」
コンビニのお菓子コーナーでわずかに立ち止まって、目を逸らす。僕は知っている。先輩はチョコレートが好きなのだ。
「先輩、僕、これ買いますね」
「あんまんを奢ると言っているだろう?」
「先輩への合格祈願です」
「早すぎるし受験を思い出させるな!」
「あはは」
コンビニを出て、あんまんの片方を渡される。僕も板チョコを先輩に渡す。
「ありがとうございます」
「何、大したことではないさ。君こそありがとう」
「いえ。あ、いただきます」
「ん。いただきます」
薄暗くなって来た。日暮れが近い。けれど、夜にはなって欲しくなかった。あんまんにかぶりつく。真ん中に黒いあんこが見えた。
「なあ、浅川」
「なんですか」
もごもごと先輩があんまんを飲み込む。
「あんこって、夜みたいだな」
「夜?」
「真っ黒で、甘い誘惑を持っていて、美味しい。それでいて、どこか懐かしい寂しさを感じさせるんだ。夜と似ているだろう?」
「……ええ、そうですね」
あんこ。僕は白い皮を見つめた。先輩の肌と髪の色。もう一度かぶりついた。夜を飲み込む。甘くて、寂しくて、懐かしくて、思い出になる味がした。
「さて、お先にごちそうさま」
「早いですね」
「美味いものはつい、早く食べ過ぎてしまう」
「まあ、そうですね。ごちそうさまでした」
小さく手を合わせて、紙を折りたたんで鞄にしまった。先輩は伸びをする。
「それでは、帰ろうかな」
「はい。では」
「またな」
またな。それも少し苦しい。あんこのように、夜のように息を詰まらせる。会釈して駅の中に足を進めた。地下鉄の駅に潜って行った先輩はもう見えない。夜は、もうすぐそこに来ていた。
Twitterの一時間で書く「ワンライ」の一つです。「夜を飲み込む」というお題でした。
この二人の物語は別の本編があります。しかしどうなるかはわかりません。もしここで書くならば、その時はまた読んでくださいませ。
楽しんでいただければ幸いです。
では、またお会いできる日まで。