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文化部員と帰宅部員、さらに

 空に浮かんでいる太陽は、地上の生き物を全て焼き殺すのではないかという勢いで照りつけていた。蝉の声も心なしか力弱く、さすがの暑さにバテているようだった。

 島居劉生(しまいりゅうせい)は、美術室の本棚の前で、そこに並んでいた『日本紋様集』と題された本のページをパラパラとめくり、中身を見るともなく流し見ていた。

 昨日、一枚の絵を描きあげたので、今すぐにでも次の作品に取り掛かりたいのだが、彼は題材を決めあぐねていた。今回の絵は、必然的にコンクールに応募する作品になる。この<応募作品>という普段とは違う要素が、妙な緊張感を生み出していて、普段のように次の題材をすんなり決めることが出来なくなっていた。

今まで描いたものを応募作としても良いのだが、その選択肢は最初から除外していた。なんとなく、その方が良いのだろうと思っていた。


 ――こんなにも自分がプレッシャーに弱いタイプとは思わなかったな


 ため息を漏らしながら本を棚に戻す。視線を傍らにある机の上に移すと、真っ白なままのページが広げられたスケッチブックと削りたての鉛筆が、今すぐに自分たちを使えと言わんばかりの威圧感を放っているように見えた。なんとも言えない居心地の悪さを感じた劉生は、ゆっくりと窓の方へ歩いていき、外へ一歩踏み出す。

 まだ軒下なので日陰だが、室内に比べるとやはり暑い。室外に出て数秒しか経っていないはずなのに、湿度の高い不快な空気に全身を少し撫でられただけで、汗が滲んできているのがわかる。

 息を吸い、生暖かな空気を肺に送り込りこんで、意識的にゆっくりと息を吐き終える頃には、美術室内に漂う妙な重圧感からは解放された気持ちになった。


 ――スケッチを描きに出かけるのも良いのかも


 きっとこのまま教室にいても題材が決まる確率は低そうだ。そう思って教室に戻り、時計をみやる。時刻は、11時をまわるところだった。

 劉生は、昨日初めて出会い(ただしくは、一昨日だが)、ひょんなことから一緒に珈琲を飲んだ仲になった同じ学年の鳥居創とりいはじむのことを思い浮かべた。受けるべき期末試験を丸ごとすっぽかし、代わりに夏季休暇中に再試験を受けることになったという彼。両瞳に晴空の色をたたえた彼。

 初めて会話を交わした時から、クラスメイトたちとはどこか違う印象を受けていた。ただ人見知りをしない明るい性格ということだけでは片付けられないような何かを持っているのだ。まだそれは予感めいたものであり、確信までは至らないが、夏季休暇という特別な時間の中では十分すぎるものだった。

 劉生は、好奇心のかたまりのような創のくるくるとした瞳を思い出して、表情を和らげた。


 昨日の時点では、昼前ぐらいに再び此処、美術室に足を運ぶと言っていたが試験の問題に手こずっているのか、なかなか姿を現さない。

 空腹感も覚え始めたし、このまま校舎を出て適当にふらふらとスケッチを描きにでかけてしまおうかという考えが劉生の頭を過ぎったのと、廊下の向こう側から『りゅーせー!』と名前を呼ばれたのは同時であった。バタバタとこちらに駆けて来る賑やかな足音もセットだ。

 劉生は教室の入口に体を向けた。

 そのすぐ後に、大きめの皿を両手で抱えるように持った創が登場した。皿の上には、食べやすい大きさにカットされたスイカが山のように盛られている。


  「山村先生にスイカもらったから一緒に食べよう!」


 獲物を捉えてきた猫のようにどこか誇らしげに、創が言った。

 唐突過ぎる展開に教室の真ん中で立ち尽くす劉生。それから数秒後に、あぁと短く返事をして、俯きながら小さく笑った。


 創は、彼の中で定位置となりつつある教室後方の窓際の席に腰掛けて、スイカの盛られた皿を机上に置く。


 「あー、やっぱ、ここが一番涼しいやー」


 だらりと四肢を投げ出し、今にでも溶けてしまいそうな声を出したかと思うと、次の瞬間に目の前にあるスイカのことを思い出したのか、背もたれから勢い良く体を離し皿に手を伸ばす。


 「夏と言えばこれだよね! 劉生も食べなよ」


 創は楊枝を突き刺して、スイカを口に運んだ。シャリっという音がして、口内に瑞々しさが広がったのか両口角をあげた。


 「ありがとう」


 劉生は近くにあった椅子を寄せて、創と向かい合うような形で座る。その間にも創は、また一つ、また一つとカットされたスイカを嬉しそうに口に運んでいく。

 劉生がやっと一つ目のスイカに手を伸ばそうとした時だった。口いっぱいに頬張ったままの創が唐突に立ち上がり、何度か咀嚼をしたかと思うと、窓の外をキッと見つめ、そして、プッと口をすぼめた状態で息を吹き出した。弧を描く黒い小さな物体。種だ。スイカの種が宙を舞う。

 さらにプププッと連続で発射する。なかなかうまいもので、窓の外に広がる世界の遠くまで飛んでいく。しかし、あまりにも唐突すぎる出来事に劉生は呆気にとられていた。


 「スイカと言えばこれだよね! 劉生もやる?」

 「いや、遠慮しておく」


 ある程度飛ばし終えて、満足気な顔をして振り返ってきた創だが、反射的に断ってしまう劉生。

 創は不満気に口を尖らせながら席に戻り、スイカに楊枝をさした。


 「劉生はスイカ嫌いなの?」

 「そういうことじゃないよ」


 教室に吹き込んできた風がカーテンを穏やかに揺らし、そして、創の前髪も揺らす。

 そんなことなど気に留めることなく創はスイカを口に運び、目の前に座っている劉生を真っ直ぐに見つめる。いや、違う。劉生も視線を創に向けてはいるが交じることはなく、彼は劉生の肩越しの何かを見ているようだった。


 ――なんだろう。本当に猫みたいだな。


 猫が時折、何もない空間をジッと凝視するかのように、創は数秒間どこか遠くを見つめていた。劉生はそれをスイカを食べながら眺めている。甘い果汁が口いっぱいに広がる。今年に入って初めて食べたな、なんて考えながら。


「あ」


 創が声を発した状態の口の形のまま、瞬きを二、三回忙しくおこなった。視線は相変わらず劉生の肩越しのどこか遠く。瞳が右に、左と僅かに動いた。確かに何かを目で追っている。


「どうかしたの?」


 自分の背後に何があるのだろうと思いつつ、怪訝そうに声をかける。幽霊や怪奇現象の類を一切信じていないというわけでもないし、あんなに猫のように何にでも興味を示し、忙しなく動いていた創がピクリとも動かず大人しくなってしまった。さすがに、不気味さを感じたが、もしかするともともとこういう変わったタイプなのかもしれないと思い直そうとした。S組の生徒は、少し世間とズレたような生徒が多いと聞く。もしくは、猫なのかもしれない、と。


「いや、なんでも、無いよ」


 声をかけられ我に返ったのか、それとも劉生が目の前に座っていることを思い出したのか、視線を慌てて外し、スイカを見つめはじめた。

 明らかに不自然。

口元はもごもごと何か言いたげだが、それが出来ない理由が彼にはあるようであった。


 ――鏡花(きょうか)鏡太郎(きょうたろう)のように分かりやすい……


 鏡花、鏡太郎と言うのは、劉生の妹と弟のことだ。彼らは双子で、今年小学校の四学年にあがった。双子だからなのかどうかはわからないが、隠し事をする時に決まって、二人とも視線を外し口元をまごつかせる。こういったことがあるので、創にも言いたく無いこともあるのだろうと劉生は深追いしなかった。いつもそうやって双子を相手にしてきた。


「そう」

「うん」

「スイカ、久しぶりに食べたよ」

「あ、俺もー」

「午後も試験?」


 ここは、なんともない会話を続けるのが正解だ。そう思った劉生が続ける。


「これ食べ終わったら、スケッチをしに出かけようと思ってるんだ。もし使うなら鍵を渡し……」

「俺も一緒に行く!」


 言い終える前に、目の前の創が身を乗り出し気味で遮った。つい先程までの、まごついていた彼の姿はどこかへ消え去って、好奇心で瞳をきらきらと輝かせる猫のような創に戻っている。


「試験は?」

「さっき全部終わらせてきたよ。少し時間かかっちゃったけど」


 あまりにも予想していなかった展開に戸惑いつつも、断る理由もないので了承の意味で頷いた。それを見た創の表情がさらに明るくなる。今すぐにでも教室を飛び出したくて仕方がないといった様子で、上半身を小刻みに左右に揺らし始めた。


「じゃあ、早く片づけちゃおうぜ。どこに行くのか決まってるの?」

「いや……鳥を、描きたいなとは思ってはいるんだけど。こんな暑いと鳥もどこかに隠れてるかな」

「鳥かー。良い場所知ってるから、そこなら会えるかも。そこでも良いなら、案内するよ」


 いよいよ待ちきれなくなった創が腰をあげ、いつの間にか空になった皿を片手に持った。視線の先は、劉生の道具が並べられた机に向けられている。そして、座ったままの劉生に視線を戻して無言で要求をしてきた。


『さぁ、今すぐに出かけよう!』


 風が、創の前髪をいつものように揺らし、そして、劉生の艶やかな髪の毛も揺らした。夏の香り。何かが動き出す予感。


********************************


 校舎を出て、ぐるりと迂回し10分ほど歩いたところに創の目的地はあった。

『鎮守の杜』と地元では呼ばれるそこは、今ではあまり人が寄り付かなくなってしまった神社を取り囲む鬱蒼とした森林で、昼間でも薄暗く、参道の入り口も手入れがされていないので雑草が生え放題だ。

 このような状況だから人が寄り付かないのか、人が寄り付かないからこうなってしまったのかは分からないが、連れて来られた劉生自身もこの場所に足を運び入れるのは初めてだった。


「ここ、今の時期でも涼しいんだぜ」


 そう言って創はずんずんと楽しげに参道を進んでいく。その後姿は、まるで探検隊の隊長のようだ。

 劉生はそんな創の背中を見つめた後に、自分の足元に視線を落とす。膝のあたりまで伸びた名前も分からない草たちが行く手を拒んでいるかのようにも思える。

 足を踏み出すのを躊躇っている劉生のことなんて気にせずに、ただひたすら前進していく創。劉生は、置いていかれないように慌てて駆け出した。


「創くん、ちょっと待って!」


 声を聞いた創は歩くのを止め、そこで初めて隊員がついて来ていないことに気付いたのか、後ろを振り返る。

 どのタイミングで手に入れたのか分からないが、創は右手に握りやすそうな木の枝を持っていた。それは絵本に描かれた魔法使いが持っていてもおかしくないような古ぼけた魔法の杖のようで。彼は機嫌が良いのか、その枝を振って見せる。

 何の変哲もないただの枝だということは分かっているのに、その先から星屑がキラキラと光り輝くイメージが劉生の脳裏には浮かんでいた。


「一本道だし迷うことはないと思うよ。もう少しで広場だし」

「こんな道歩くの久しぶりで、なんだか慣れなくて……」


 舗装されていない荒れ放題の道をスケッチブックを片脇に抱えながら歩くのは一苦労だ。一本道だと彼は言うけれど、両脇に生えている木々の間が他のところに比べて背の低い草むらが続いているようなレベルだ。獣道と呼んでも良いものかも一瞬躊躇ってしまいそうになる。こんなところを一般の人は歩こうとはしないだろう。

 

「そう?大丈夫だよ、蛇とかは出ないから」

「え!?」


 劉生は、条件反射的に足元に注目してしまう。そこには変わらずまとわりつく名前の知らない草たちが、風に吹かれて面白がるように揺れていた。


「だから、蛇は出ないって」


 ハハハと軽く笑って再び歩みを進める創。必死に追いついていく劉生。失態を見せてしまったことが、妙に気恥ずかしく思わずスケッチブックを持つ手にぎゅっと力を込めた時、「ほら」という声が前方から聞こえた。


 昼間だというのに薄暗かった木々のトンネルを抜けた先に、先程創が宣言していたように広場が存在していた。

 一気に視界が開き、今までの獣道はなんだったのかというぐらい明るく穏やかな空間が広がっていた。日差しが直接差し込んでいるのに、そこまで暑いと感じないことが不思議に思えた。まるで、この広場だけ綺麗に切り取られ別の空間に隣接しているかのような、今までいた場所とは明らかに違う何かを感じる。


「ここ、人は来ないから静かだし、昼寝に最高なんだ」

「昼寝って…まさか、授業に出席せずにここにいるの?」

「んー、睡眠学習ってやつだよ」


 悪戯げに微笑んだ創が尚も歩みを進める。劉生は広場の入口で、不思議なこの空間で立ち尽くすことしか出来なかった。神社という場所だからなのか、今まで通ってきた道とは明らかに違う雰囲気に包まれ、呼吸をすることさえも忘れそうになっている。

 円形に広がる空間の中央には朽ちて崩れてしまっている建物らしきものがあった。恐らく神社の本殿だったのだろう。今ではその面影すら無い。人が滅多に訪れないとは言え、いくらなんでもこんなに崩壊した状態のまま放置されてしまうものだろうかという疑問が劉生の胸に浮かぶ。

 そんな彼の心境に反応するかのように、一陣の風が広場を駆け抜けた。突風と言っても良いほどのそれに、思わず目を閉じて右手で顔をかばう姿勢を取る。ほんの一瞬。風はすぐに治まり穏やかさが辺りを包み込む。


「劉生、こっち!」


 創の楽しそうな声がして、劉生はそっと右腕を下ろし視線を彼に向けた。広場の中央に創は立っていた。それだけでも、何かの宗教画かと思えるほどの神々しさがあった。さらに、彼の右腕には、カラスほどの大きさをしていて、全身が白く、尾がスラリと長く伸びた今まで見たことのない鳥が一羽とまっていた。

 自分のいる日陰から、創の立っている陽の当たる場所を見つめているからだろうか。柔らかな日差しに照らされた創は、まるでテンペラで描かれたかのように優しい色彩で、繊細で、神聖さを持ち合わせていた。陽光によって栗蒸し色の髪の毛がキラキラと輝く姿に、いつか祖父が見せてくれた神の御使いが出てくる絵本の挿絵を思い浮かべていた。


「劉生?」


 声をかけられて、慌てて口を開こうとするも、頭のなかで言葉がうまくまとまらない。その間も、白い鳥は身動き一つせずに、ただひたすらこちらをジッと見つめている。視線が合った瞬間に、さきほどまでの焦りなどどこかへ消えてしまったように、するりと言葉が自然と出てきた。

 

「すごく綺麗だね」


 余計な考えが剥がれ落ち、心のままに、素直な気持ちがそのまま言葉となっていた。

 その言葉を聞いた瞬間に、創の表情が一気に明るくなる。まるで自分が褒められたかのように喜んでいるのが手に取るように分かった。

 先程の、心から直接言葉が溢れてきたような感覚が、じわりじわりと胸に広がる。それを噛み締めながら、創と彼の右腕にじっと留まったままの白い鳥に視線を向けた。


「だろ?劉生もこっちにおいでよ」

「あぁ」


 スケッチブックを握る手に力が入る。一歩一歩近づいて行く。鳥は静かにこちらを見つめたままだ。純白の羽に、漆黒の瞳。劉生は心のなかを覗かれているような錯覚を覚える。いや、錯覚ではなく実際に覗かれているのかもしれない。

 

「その鳥は…」


 続くはずの言葉を遮ったのは、創と劉生の間に突如舞い降りた光の塊のように白く輝いた何かだった。その何かを純白の鳥だと認識するのには瞬きをする程の時間で十分だったが、それがいつ二人の間に現れ、また、自分がそれを視覚で捉えたのがこの瞬間だったのか、それともこの広い空間に足を踏み入れた時からだったのかの感覚が全く分からなくなっていた。まるで自分を取り巻く時間の流れが今までのものとは異質なものになってしまったようだった。

 冷や汗が首筋を伝う。しばしの沈黙。声を発することも、指先を僅かに動かすことすらも出来ない。ただひたすらに、自分の目の前に突然舞い降りたように感じる白い鳥から視線を外さず、やっとの思いで立っていることしか出来なかった。

 決して不快ではないが体にまとわりつくような静寂を切り開いたのは、鳥の向こう側に立っていた創の嬉々とした声。


「すごいよ劉生! 俺にだって滅多に会ってくれないのに”王様”が来てくれるだなんて!!」


 その声を合図にしたように、創の腕に留まっていた方の鳥が羽ばたき、二人の間にいた鳥のすぐ横に降り立った。二匹はつがいのようで、後から認識した一匹の方が一回り大きい。恐らくこちらが雄なのだろう。


「劉生は気に入られたみたいだね」

「そう、なの?」


 金縛りにあったかのように動かなかった体が、創の言葉によって自由を取り戻していく。指先に力が入る。徐々に呼吸を整える。気持ちを切り替える為に、数秒目を瞑り、ゆっくりと開いていく。


「そうだよ!だって、こんな風に姿を見せてくれることなんて無いんだよ!まあ、俺が他の誰かを此処に連れてきたのも初めてだけど」

「よく分からないけど、喜んで良いことなのかな……」

「もっと喜んで!そして、王様たちに挨拶を」


 仰々しく、まるで本物の玉座に座る王に謁見をするかのように膝をつき、頭をさげる創。それに倣い、横に並び同じく片膝をついて頭をさげた。

 森の奥で出会った鳥に、こんな風にかしこまった形で挨拶をしたのは生まれて初めての経験だなと思いながら、この場にふさわしい言葉を探す。胸が高鳴るとはこういうことを言うのだろう。スケッチブックを持つ手に力が入る。

 横にいる創が顔をあげた気配がしたので、自分も目の前にいる白い鳥を視界に捉えた。


「初めまして。僕は君たちを描いても良いと受け取って構わないのかな」


 創に『王様』と呼ばれた方が両翼を広げたかと思うと、すっと地面に腰を下ろしこちらを見上げてきた。この場合、腰を下ろすという表現が正しいのかわからないが、劉生の目の前におとなしく座ってくれたのだ。まるで言葉の意味が、これから劉生がおこなう行為について全て知っているかのようだった。


「ありがとう」


 微笑みながら声をかけ、地面に腰を下ろした。右手には削りたての鉛筆。左の膝の上に、まだ真っ白いままのページを開く。白い鳥と白いページを交互に見やり、鉛筆の炭素を滑らせ乗せていく。 座っていてくれている王様のカタチを記憶し、白いページに輪郭をザザッと大胆に落としこむ。

 

「おお、王様だー」


 いつの間にか後ろから覗きこんでいた創が、何もなかった場所に黒炭で描き上げられていく王様を見ながら感嘆の声をあげた。

 肩越しに振り返り声の主を見る。肩には最初に出会った鳥が乗っていた。どうやら創とこちらの鳥は仲が良いらしい。


「どうして"王様"なの?」

「だって、頭の毛が王冠みたいだろ?」


 そう言われ、視線をもとに戻す。確かに頭部のあたりがちょこんと束でハネていて王冠のように見える。


「あ、ほんとだ」


 でしょ、と笑いながら創は正面に周り胡座をかいて座った。視界の端にそれを見ながら、なおも鉛筆を走らせる。鉛筆で描くことの出来る点を意識しながら、輪郭をなぞる。あたかもそこに最初からいたかのように、プライド高くどこか遠くを鋭い視線で見つめる王様の姿が描き出されていく。

 おおまかなカタチを描き写したところで、創の方へ顔を向けると右肩に乗っていた鳥に、左手にうつるように促しているところだった。

 ちょうど周りを囲う木々の枝の影が途切れ、二人と二匹を中心とした部分だけ優しく陽光があたっている。真夏だというのに過ごしやすい気温、爽やかな風、そして、見たことのない美しい鳥たち。どこか自分の知らない世界に紛れ込んでしまったのではないかという気持ちが少しずつ大きくなるのと同時に、なんて楽しいのだろうと自然と笑みが零れていた。


「その子はなんて呼んでいるの?」

「シロだよ」

「そのまんまだね」

「だって、まさか王様もいるとは思わなかったんだよ。でも本人は気に入ってるみたいだよ。なあ、シロ」


 シロと呼ばれた鳥と戯れ笑う創を見ながら、劉生の頭には一つの光景が浮かぶ。以前読んだことのある、祖父が描いた絵本の一ページ。きらきらと光り輝く祝福の風を吹かす精霊たちと白い鳥を従えた小さな魔法使いが描かれたそのページのことを思い出していたら、いつの間にか作業をする手は止まっていたが劉生自身はそのことには気付いていなかった。


「魔法使いみたいだな」


 それは意識をせずにポツリと出た言葉だった。視線は目の前に彼に捉えられたまま。風が優しく周囲の木立を揺らす。視界の隅にきらり光るものがあったような気がした。そこでハッと我にかえった。


 ――まただ、また言葉が自然に

  

 先ほど感じたものと同じ感覚が、体の奥から溢れてくるのが分かる。いつもはもっと自分の感情と向き合い、言葉を何度か推敲してから話しているつもりであったが、ここではなぜかそれが為されない。ほんの少しだけ戸惑いながら、膝の上のスケッチブックに視線を落とす。少し先に王様が不思議そうな表情(のように劉生には見えた)でこちらを伺っている。


 ――本当にお前はおとなしいな


 そんなことを思むいながら再びスケッチを再開しようとしたところで、風が一際強く吹き抜けた。ページがめくれる音。それを慌てて押さえる。


「そうだって言ったらどうする?」


 風にかき消されてしまいそうなくらいの創の声。それを劉生は聞き逃しはしなかった。間を開けずに想いが、着飾ることを忘れた言葉となり口から飛び出していく。


「嬉しいかな」


 鉛筆を握ったまま、ゆっくりと顔をあげる。視線がぶつかる。


 二人を包んだのは沈黙。驚いたような創の表情。前髪が風に吹かれ、ふわり揺れている。


「あ…ごめん……」


 劉生は、このなんとも言えない居心地の悪い空気を打破する為の鍵となる、自分が言うべき言葉を必死に頭の隅々まで探したが、結局それは見つからずに無難な単語を口にするのがやっとだった。

 けれど、目の前に座る創はシロを肩に乗せたまま目を丸くして動作が止まってしまっている。

 次の言葉を、何か、切り出さなくては。


「そうじゃなくて…」


 全力疾走をした後のように激しく心臓が脈打つ。耳元のすぐ近くで鼓動が聞こえるようだった。視線をスケッチブックに落としながら劉生は続ける。


「ええと…」


 書くともなく走らせている鉛筆の線が、劉生の心境を描写したかのようにぐにゃりと曲がっていた。


「祖父が」


 思考は相変わらずまとまらない。


「そういうのが好きな人でさ。実は日本画も祖父の影響なんだけど」


 黒い線が幾重にも重なり、ぐるぐると渦を巻く。やがてそれは塗りつぶされた円を作り出す。


「そうなんだ」


 創の声。静かに、彼もまた少し動揺をしているのか、声が僅かに震えているように聞こえた。すぐ目の前にいるはずの彼の表情を確認する勇気は、まだ戻ってきてくれない。

 耳が熱くなっていくのを感じながら、劉生は次の言葉をゆっくりと見つけていく。


「その祖父が、絵本を描いていてさ」

「絵本?」


 先程よりもトーンの明るい声が返ってきて、内心ホッとする。

どこかに逃げていた勇気の尻尾を無理やり見つけ出し、勢い良く引っ張ってみた。顔をあげ、創を見る。

 彼の表情からは驚きや戸惑いのようなものも感じられたが、絵本への興味がそれらよりも優っているように見えた。初めて会話を交わした時のように、好奇心で満ち溢れた猫の瞳を輝かせていた。

 劉生は小さく深呼吸をして、会話を続ける。


「そう。創くんが山村先生にもらっていたような魔法使いとかドラゴンとかが出てくる絵本ばかり描いているような人で、それを読んで育ったからなのかな。……きっと日常生活とほんの少し違うところに、魔法使いもドラゴンも妖精もみんな存在してるんだろうなって思うようになったみたいで。…もう、高校生なのにおかしいだろ?」


 照れ隠しをするように鉛筆の背で頭をかく。ちらりと創を見やると、くりっとした瞳をさらに大きくさせ、頬も興奮で紅潮しているかのようだった。


「俺も…俺も、そういう話好きだよ!劉生、そういうのが好きなように全然見えないのにね」

「いや、なんていうか、現実と空想の境が分からないわけじゃないんだけど、そうだったら良いなっていうか…その……こんなこと言うのは、気恥ずかしいや」

「別に恥ずかしいことじゃないでしょ」

「そうかな」

「うん。”信じる”ってすごい力になるんだよ」


 創は、今まで見せたことのないくらいの笑顔を向けてきた。劉生には、彼の周りがきらりと光っているように見えた。この場に存在する全てのものから祝福されているかのようだった。

 そして、やはり祖父の描いた絵本で見かけた光景が頭の中に広がる。


「祖父も、そんなことを言っていたよ。それに……」


 これ以上を言うべきなのかという一瞬の戸惑いが、次に続く言葉を途切れさせる。なぜだかは劉生本人にも分からなかった。ただ、今はそうした方が良いような気がしていた。


「それに?」


 途絶えてしまった会話文の続きを不思議そうな表情で待つ目の前の彼。


――祖父の描いた絵本に空色の瞳をした魔法使いが出てくるんだ


 その言葉を飲み込み、すり替える。


「いや、なんでもないよ」


 少し、困った顔で笑う。


「えーなになに、気になるだろ」


 身を乗り出した創の頭の上には、シロがちょこんと乗っており、彼女もまた言葉の続きを知りたげであった。黒い瞳がこちらをじっと見つめる。その表情が美しくて、急ぎ鉛筆を走らせ描き留める。

 次の行動に写ってしまった劉生の姿を見て、言葉の続きを聞くのを諦めたのか、創は後ろに倒れ仰向けになった。「へんなやつ」と小さく呟いたのが聞こえた。

 王様とシロはいつの間にか距離を縮めて、地面に咲く小さな花を啄ばんでいる。


「ごめんごめん。こんなこと人に話したことなくてさ…もっと笑われるかと思ったよ」


 そんな二匹の姿をスケッチにおさめながら、劉生はこの場に働いている不思議な力の後押しのままに話を続ける。


「この”王様”たちとの出会いも不思議な感じがして、実は少しドキドキしてるんだ」


 絵本に描かれていたような仲睦まじい二匹の白い鳥。祖父は、この光景を見たことがあったのだろうか。新たにページをめくってもなお、自動的に鳥を描き出すように手がするすると動く。


「『見たことのないくらい綺麗な鳥に森の奥に誘われて、気付くと異世界にいました』みたいな?」

「そうそう、そんな感じ」

「そうだなー。俺も初めて”王様”たちが目の前に現れた時はそんな感じだったかも」


 言い終えるともぞもぞと上半身を起こし、一生懸命手を動かしている劉生に向けて言葉を放った。


「ねぇ、そうだ。劉生のおじいさんが描いた絵本、読ませてよ」


 声をかけられた劉生は、手を止め、顔をあげる。創は、きらきらと瞳を輝かせながら返答を待っていた。


「いいよ。今度学校に持っていく」

「やったー!ありがと、劉生」


 そうしてまた作業に戻る劉生と、王様とシロにちょっかいをだしながら楽しそうに笑う創の笑い声が広場に響く。風が穏やかに吹き抜けた。


***


 丁寧にスケッチブックを閉じ、鉛筆をペンケースにしまう。忘れ物がないかどうかひと通り自分の身の回りを確認し、視線を前方に戻す。


「君たちもありがとう。助かったよ」


 言葉をかけた先には、芝生にまみれうつ伏せになった創と、その上に優雅に佇む王様。シロはというと、心配そうに創の手の甲を優しくつついていた。

 王様に触れようとした創が見事に彼に遊ばれた続けた結果が、今のこの有り様だった。

 劉生の言葉が分かったのか、王様は羽ばたき、劉生の右肩にふわりと乗る。それはこの広場で初めて王様と対面した時のように、”今”目の前でおこなわれているはずなのに、それが果たして”今”なのか、それともずっと前から続いてきたのか分からない時間の流れの中で繰り広げられたような感覚が駆け巡っていた。右肩にいるはずなのに重さは全く感じられず、劉生は驚き反射的に顔を右に向ける。微かに花の香りがした。


「劉生だけずるいー!」


 地面にへばりついていた創が猛抗議の声をあげ、ごろんと寝返りをうち仰向けになる。


「あ、月だ」


 日が陰り、風がいつの間にか肌寒く感じるようになった時刻に差し掛かり、月もひっそりと空を昇っていたようだった。

創は仰向けの状態のまま、少し欠けた月を指差した。


 その時、劉生の肩にとまっていた王様が音も立てずに飛び立つ。そのすぐ後にシロも追いかけるように、森の奥へ飛び去っていく。二つの白い影がやがて小さくなり、まるで星になってしまったのではないかと思えるようなタイミングで夜空に一等星が輝き始めた。


「俺達も帰ろう。日が落ちると、この辺りは真っ暗になるから」

「こんな時間まで、付き合ってくれてありがとう」

「別にいいよ。劉生をここに連れてこれて良かった。王様たちにも会えたしね」


 頭についた芝生を手で払いながら起き上がり、二匹が飛び去った方角をしばらく見つめていた彼の横顔を、スケッチで描き止めたい衝動に駆られたが、スケッチブックを持つ手に力を込めただけで抑え込んだ。


 じゃあ行こうか、そう、創が呟いて、来た時と同じ様に劉生は彼の後をついていく。



 茜色から紫へ変わり、そして夜の始まりを迎えた空と、不思議な白い鳥たちの残した微かな花の香りが薄れた頃、森の入り口に辿り着いていた。

往路よりも、不思議と距離を短く感じ、思わず来た道を振り返ろうとしたちょうどその時、創の声がした。


「俺の家はこっち。劉生は?」


 慌てて彼の方へ向き直り、自分が帰るべき方向を指差した。


「僕は反対方向」

「そっか。じゃあ、ここで。またな」

「うん、また学校で」


 お互いに小さく手を振り、それぞれに歩き出す。3メートル程歩いた頃、小さな疑問と僅かな寂しさが湧き上がる。


――『また学校で』と言っていたけれど、彼はまた美術室に来るんだろうか


「また、か」


 別れを告げ、そしてまた、再会を約束する短い言葉。

使い慣れたはずの、その言葉がなぜか新鮮に聞こえて、劉生は自分でも気付かないうちに嬉しそうに微笑んでいた。

 左手にスケッチブック、空には星が煌きはじめ、優しく風が吹き、足取り軽く帰路につく。明日も晴れるだろう。


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