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文化部員と帰宅部員とコーヒー

 見渡す限り真っ白な世界で、島居劉生しまいりゅうせいは地べたに這いつくばっていた。地べたと表現したが、這いつくばることが出来るということは、床と呼べるようなものは存在していることになる。

 しかし、白で塗り潰されているので壁があるのか、天井があるのか、この空間がどこまで続いているのかどうかは判断がつかない。

 かと言って、それが彼にとって不安要素になることは無かった。心はとても穏やかで、指先すら動かせない状態だというのに特に焦るでもなく、ゆっくりと瞬きをし不思議な感覚に身を任せていた。

 何故自分自身がこのようにうつ伏せの状態になっているのかについて思考を巡らせても、全く検討もつかない。考えても分からないことに、いつまでも思考を巡らせても仕方がない。無駄なことなのだ。と、彼は考えることを止めようとしていた。

 顔だけを横に向け、この白い世界の一部として溶けてしまうのも良いかもしれないと思った、その時だった。


 耳元で目覚ましとしてセットしていた携帯電話のアラーム音が鳴り響く。


 ――今日から休みか・・・ 


 劉生は、乱暴気味にアラームを止め、上体を起こす。


 時間は、朝の7時30分。彼のいつもの起床時間である。

昨日、学校から帰ってきた彼は制服から着替えることもせずに、そのままベッドに突っ伏した状態で寝てしまっていた。ずっとうつ伏せで寝ていた為、ところどころ体が痛むのか動きがどこかぎこちない。

 

 ――あぁ、制服に皺がつくと、母さんに煩く言われるかな


 もぞもぞとベッドから起き上がり、大きく伸びをする。ピキッとどこか関節の鳴る音が聞こえた。


 ――それより、何か口にしないと


 とりあえず制服を脱ぎ、足元に散乱していた服の山の中から適当なTシャツとスウェットを選び着替える。脱いだ制服は、なんとなく見栄えが良くなるようにハンガーにかけておく。休みのうちに部屋の片付けもした方が良さそうだと思いながら、彼は部屋をのそりと出た。

 足裏に廊下のひんやりとした冷たさが伝わる。ひどく喉が乾いていることに気付き、変な夢を見ていたせいだからだろうか、と思うも、普段は夢など滅多に見ない、もしくは憶えていないことが多いので、今回見た夢については妙に引っかかる。けれど、ただ単に疲れているだけかもしれない。


 ――そうだ、制服のまま寝たりするから。気をつけよう。


 なんとか、ふらつく体でキッチンまでたどり着き、冷蔵庫を開け、常備されているリンゴジュースを取り出す。劉生は朝食をとらずにジュースなどを飲んで済ますことが多いので、冷蔵庫の中には常に数種類の果汁100%のジュースが入っている。彼の妹や弟が劉生の食生活を真似するからと出来るだけ朝食をとらせたい母なのだが、なんだかんだ言ってジュースの在庫を切らさないでおいてくれている。

 冷蔵庫の扉を閉めた時にマグネットで留められていたメモ書きが視界に入った。

家の中に劉生だけが残された状態の時に、彼の母はこのようにメモを残し伝言してくる。今日も両親は働きにでかけ、妹や弟は林間学校でしばらく家には帰ってこないと言っていたっけ。どうやら一人だけ夏季休暇に突入してしまったらしいことに気付いた劉生は、長期休暇が始まっても、何か予定があるでもないし、日常が劇的に変化することも無いので、さて、これから何をしようかと寝起きの頭でゆっくりと考えている。

 コップにジュースを注ぎ、喉を潤しながら、そのメモの内容に目を通す。


 『制服はちゃんと脱いでハンガーにかけること。』


 母には制服のまま寝ていたことはお見通しだったようである。

このまま家にいてもやることは無いので、(自室の惨状から思い切り目を背け)とりあえず出掛けることに決めた劉生は、シャワーを浴びて身支度をすることにした。

 彼がキッチンからリビングを経由し、浴室に向かう僅かな時間の間で、絵の続きを描きに学校の美術室へ足を運ぶという今日一日の予定を決める。美術室の鍵は、職員室で借りることが出来るだろう。


 劉生は学校で唯一の美術部員なのだが、現在は部員が一人ということもあり自ら「美術部員」と名乗ることは無い。それに加え、部活顧問も名目上存在はしているが名義だけであり、普段は吹奏楽部を担当している。美術室に顔を出すことも無い。

 それは、一年前に起きたある事件が原因であり、学校側も<美術部>は過去に存在したものにしたいと思っているからだ。

 劉生が入学し美術部に所属した数ヶ月後に、顧問は懲戒免職になり、1人の美術部員が自主退学をした。美術部に所属していた他の生徒たちは自然と美術室に足を運ぶ回数が減り、気付いたら劉生を残して全員が退部していた。

 彼自身も詳しくは知らないが、顧問が生徒と肉体関係を結んでいたと噂で聞いた。顧問は男性であったし、生徒も男子生徒であったことが、学校側がこの件を最初から存在していなかったことのように扱わせているのだろう。

 劉生はそんな噂を耳にした時も、これといった感情も湧いてはこなかったが、もし美術室が使えなくなってしまったら困るなという素直な気持ちだけがあった。

 彼にとって美術部に所属していることよりも、日本画を描くことのできる環境があることの方が重要なので、<美術部>の存在が宙ぶらりんになっていることはさして問題ではない。新たに部員を募ることも無いが、学校側も劉生が美術室を使い続けることについては、何も言ってはこないので卒業まではこのまま美術室の使用が許可されているのだと理解している。それに、先輩後輩と言った部活生活の基礎となる部分が無い分、劉生は清々しいとまで思っている。面倒なことからは極力遠のいて生活をしていきたいタイプの人間なのである。


 シャワーを浴びて、髪をタオルで軽く乾かした後、腰にタオルを巻いたままの状態で自室に戻る。母がいる時に、この状態で浴室から出ると弟が真似するからと注意されるが、今日は家に誰もいないので気にはしない。


 ――あ、制服を着ないといけないのか


 ベッドに腰掛け、先程ハンガーにかけたばかりの制服たちを見上げる。学校へ行くなら、夏季休暇中であっても制服を着用しないといけない。これはこれで面倒だなと唸るが、重い腰をあげ、衣服を着ることに成功する。

 劉生の学校の制服は、紺を基調としたブレザータイプで、パンツは紺や深緑のラインが入ったチェックとなっている。冬服はブレザーで、胸元に校章が刺繍された白のシャツに臙脂色のネクタイを結ぶ。女子の場合は、ネクタイかリボンタイプかどちらかから選べるようになっているが、リボンタイプの方が人気のようだ。そして男女共に学校指定のクリーム色のカーディガンを中に着ても良いことになっている。いたってシンプルな制服のデザイン。

 今の時期は夏服仕様なので、半袖の白シャツにネクタイ、下はパンツを履くことにる。ネクタイは暑苦しいのでしたくないのだが、ちゃんと結んでいないと生徒指導の教諭が口うるさい。目をつけられるのも面倒なので、劉生は手慣れた手つきでネクタイを結ぶ。さすがに暑いので、一番上のボタンは開けた状態にした。

 ベルトを締めながら、机の上に並べてあるガラスの小瓶に視線を向ける。それは、日本画を描く際に使用する岩絵具が入った瓶で、2年前に亡くなった劉生の祖父が残してくれたものだ。

 ガラス瓶の中には、天然のラピスラズリが砕かれたものが入っている。いわゆる『天然岩絵具』と呼ばれるもので、自然界に存在する鉱石を砕き、それを絵の具として扱う。もちろん高価だが、ガラスの粉末と金属酸化物を配合して作られる『新岩絵具』よりは天然独特の深みのある色が出せる。

 この瓶は劉生にとってのお守りのようなもので、いつもこの場所で見守っておいてもらっている。いつかこの絵具を使って絵を描く時がくるだろうかと、ぼんやり考えながら瓶を見つめた。

 

*******************


 学校指定の通学鞄を手に取り、玄関へと向かう。ローファーを履き、鍵を手にし、ドアを開ける。髪の毛はまだ濡れているが、太陽は容赦なく照りつけてきているし、すぐに乾くだろう。

 ドアの鍵を閉めて、一歩踏み出した瞬間、やっぱり家に引きこもっていようかとも思える気温に足取りは重くなるが、徒歩25分の道のりを学校に向けて進むことにした。すでに額にはじわりと汗が滲んでいる。


 ――次からは自転車で来よう。


 まだ午前中とはいえ、カンカン照りの中25分も歩いたので、前髪は汗で額に張り付いてしまっている。苦行のような道中をいくらか楽に出来ないものかと考えた劉生は、本来なら許可されていない自転車通学を次から選択することにした。そうだ、もうそれしかない。夏季休暇中だ、学校に来ている生徒と言えば大会前の運動部の生徒がメインだろうし、そこまでうるさく言われてはかなわない。という結論を出す。そのぐらいの暑さだった。

 

 学校の正門は閉められていたので、ぐるりと校庭をまわり通用門まで歩く。校庭では、サッカー部や野球部が練習をおこなっていた。


 ――よくこんな暑いのに動き回れるな・・・


 叫び声とも奇声ともとれる声を発しながら校庭を走らされている各部活の一年生であろう一群を横目にそそくさと校舎に入る。


 校舎の中はさすがにひんやりとしていて心地が良い。

 

 ――コンクリートの塊万歳だ。コンクリート様は偉大だ!


 外を歩いていた時よりも足取り軽く、美術室の鍵を受け取りに職員室へむかう。校舎に人影は無く、どこからか聞こえる管楽器の音色と廊下を歩く自分の足音だけが響き渡る。

 吹奏楽部が音楽室で練習をしているようだ。この学校は毎年コンクールで全国大会に出場するようなレベルで、運動部にも負けないような体力づくりプログラムを取り入れ、練習量も引けをとらない。

団体行動と運動は極力避けたいと思っている劉生からしてみれば、先輩後輩の関係性が重要視されているような部活動の代表である吹奏楽部に所属している人はみな頭がおかしいか、マゾヒストにしか見えない。


 ――なんで面倒なことに頭から突っ込みたがる人が多いのだろう。


 職員室の前に着き、ノックをして中に入る。節電のため冷房は入っていないが、少しだけ開けてある窓から心地の良い風が吹き込んでいた。揺らぐカーテン、コーヒーの香り、コピー機が稼働する音。

 誰か室内にいないかとキョロキョロと見回したところ、もぞもぞと動く白い物体を机上に山のように積まれたプリントの間に見つけた。


「山村先生、おはようございます」


 白い物体に向けて声をかける。山村と呼ばれた白い物体は、一瞬動きを止めて、ゆっくりとした動作で体を起こした。


「ああ、島居くんか。おはよう」


 それは薄汚れた白衣がトレードマークの化学を担当している山村教諭だった。劉生の姿を確認し、眼鏡の奥の瞳が微笑んだ。たくさんの皺が刻まれた目尻、おっとりとした口調。


「絵を描きに来たのかい?」

「はい。家にいてもやることが無いので」


 山村は立ち上がり、職員室で校舎内の鍵が管理されているボードの前まで歩いて行く。それを目で追う劉生。


「好きなものに熱中できることは良いことだよ」


 目の前で立ち止まり、美術室の鍵をそっと差し出す。休み中に劉生が現れたということは美術室に用があるのだろうと、何も言わずに鍵を手渡してくれた山村だった。


「これしか取り柄がないだけですよ」


 劉生ははにかみながら、大事そうに両手で受け取る。

山村がよくいる化学室は、美術室の隣にあるので普段からなにかと交流のある二人なのだ。

 放課後、山村が絵を描いている劉生に声をかけ、休憩と称しアルコールランプを使って淹れたコーヒーをご馳走し軽い雑談をする。

 こういった交流が始まったのは、美術部が空中分解した直後からなので、当初は美術部生き残りの劉生のことを気にかけてくれていたのだろう。だが、今では古くからの友人のように接してくれている。劉生も山村の雰囲気や物腰が祖父に似ている気がして、彼のことは教諭以上の存在のように感じていた。


「帰る時は、あの場所に返しておいてくれれば良いから」


 さっきまで鍵がかかっていたボードを指差す山村。そして、ゆっくりと元いた席に戻りもぞもぞと作業を再開した。劉生の立っている位置からは確認できないが、試験の採点でもおこなっているのだろう。

 ほとんどの教科の試験は、端末を使った選択制の回答形式なのだが、山村のおこなう試験だけはプリントに記入をさせるアナログなタイプのものになっている。山村自身が学校が取り入れている端末の使用に不慣れということが一番の要因らしい。多くの生徒からは不評だが、劉生は紙の質感が好きなので、記入式の試験形式の方を好んでいる。なにより、答案用紙の隅に毎回書かれている山村からのコメントを読む度に心が暖かくなる。


「はい。ありがとうございます」


 劉生は小さく礼をして、職員室を後にした。


*******************


 美術室は、3つある校舎のうちの一番西側の一階に位置する。午前中のこの時間ならまだ日陰だろう。廊下を歩く自分の足音のテンポが速くなっているのに気付く。早く道具に触れたい一心で美術室に向かっていく。


「あ・・・」


 美術室のドアがほんの少し開いているのに気付き、思わず声が出た。鍵は自分の手の中にあるというのに、誰かが締め忘れたのだろうか。軽く疑問に思いながら、横開きのドアに手をかけ部屋に入る。


 その瞬間。


 開け放たれた窓のすぐ近く、机に突っ伏して一人の生徒が気持ちよさそうに居眠りをしているのが見えた。


 劉生は自分の鼓動が高鳴っていくのが分かった。


 その生徒は、昨日、教室から見た天色の瞳をした彼、本人だったからだ。うつ伏せになっている為、顔は確認は出来ないが蒸栗色の柔らかそうな綺麗な艶をした髪の人間がこの学校に複数人いるとは考えにくい。


 ――どうして、こんなところに・・・とりあえず、そっとしておいたほうが良いのか


 彼が何年に在籍しているのかも、彼がなぜ美術室で居眠りしているのかも、全く想像がつかないままだったが、とりあえず当初の学校に来た自分の目的を果たすことにした。


 彼とは対角線上の位置に、背を向ける形で机と椅子を並べ、イーゼルを傍らに立てておく。なるべく物音を発生させないように。静かに静かに。

 廊下側にある棚から小皿を数枚手に取り、乳鉢と乳棒も一緒に持っていく。一度、机の上に置いた後、再び棚に向かい胡粉と岩絵具の入ったケースを取り出す。それらを手慣れた動作で机上に並べ、今度は教室の隅に設置してある小型冷蔵庫に近付く。扉を開けると、そこにはビニールに包まれた物体とジュースの缶が数本、あと何か液体の入った粉コーヒーの空き容器。


 ――ニカワ、新しく作るかー・・・


 冷蔵庫の中からインスタントコーヒーの空き容器を取り出した。その中には、水と小金色した細長い物体が入っている。三千本膠サンゼンボンニカワだ。日本画を描く際、紙に岩絵具を定着させるのに欠かせない画材である。

 それを片手に机に戻る途中、今度は違う棚からアルコールランプと金属製の小さなボールを手に取った。


 ――一晩漬けてたけど、まぁ、良いか


 昨日、放課後に美術室に寄り、膠を水に漬けていた。

長時間水に漬けておくと接着力が落ちてしまうが、劉生が今描いている絵は終盤にかかっていたので問題は無い。日本画は粘着力の強い状態からだんだんと弱い状態の膠を使う。

 道具を机上に並べ、足りないものはないか確認した後、教室の後方に静かに鎮座する乾燥棚から一枚のキャンバスを取り出す。


 背景は灰に近い青、その中心に紫がかった紅色の紫陽花が描かれている。全体的に暗いトーンでまとめられているが、紫陽花の葉の上、一粒の雫が輝いているように一段と明るく描き込まれていた。


 ――すっかり梅雨が明けてしまったな


 雫のあたりを愛おしそうに撫でながら、イーゼルに立てかけた。

椅子に腰掛け机に向かう。膠を瓶から取り出し、手で短くちぎり少量の水とともに金属製のボールに入れていく。それを三脚に乗せ、傍らに置いていたアルコールランプにマッチで火をつける。十分に燃焼しているのを確認し、三脚をランプの真上になるようにずらしていく。金属のスプーンを使い丁寧に膠を溶かしはじめる。熱が全体に伝わり、膠が次第に溶け出して、独特の匂いが微かに漂いはじめた、その時だった。


「んんー・・・ん・・」


 後方から何やら声が。

劉生は自分でもわけがわからぬ程に緊張し、体を強ばらせていた。暑さが原因ではない汗が額に滲む。意識をそちらに向けないようにしようとするが、微かに発せられた衣擦れの音に、さらに身動きが取れなくなる。ただただ、膠が焦げないようにスプーンを動かし続けることしかできない。カチャカチャという金属音と、後ろにいる彼の気配。


 ――なんで、こんなに緊張してるんだ


 呼吸だけは止めないように、ゆっくりと息を細く吐き出す。瞳をつむり、自分を落ち着かせる。今は膠を用意して、紫陽花の絵を仕上げることに意識を集中ー・・


「んー、君、何してるの・・・?」


 まさかいきなり自分に声がかかるとは思っていなかった劉生だったので、必要以上に動揺し手にしていたスプーンから手を放してしまう。金属製のボールに一度は落下するもバランスが崩れ、スプーンはカランと音を立てて机の上へ。その際に、熱せられた膠が飛び跳ね、劉生の腕にかかってしまった。


「っつ・・!」

「君、大丈夫!?」


 先程まで寝ていたとは思えない素早さで、窓側にある筆洗い用として使う水道の前まで移動し、蛇口をひねり、劉生に向かって手招きをしている。


「念のため、流水で冷やした方が良いよ」


 日陰になっている教室とは言え逆光気味である為、本来ならば瞳の色まで認識など出来ないはずなのに、劉生の目にはっきりと、彼の双眸の色が写った。自ら光でも発しているかのように輝き、少しくすんだような空の色をした瞳が劉生のことを心配そうに見つめている。


「そんなに高温でなかったから平気だと思う・・・」

 

 真夏の空をガラス球に閉じ込めたらこんな風に光るのだろうか。

水道に歩み寄りつつ、ずっと彼の瞳を見つめ続けていたことに気付き、慌てて目線を外し、膠が飛んだ部分を見下ろす。少し赤くなっていた。


「だから、念のためだって」


 と、天色の瞳をした彼は劉生の手首をグイと引っ張って火傷した箇所を自分の手ごと流水にさらす。ひやりと心地の良い冷たさが腕に伝わるが、彼が握っている部分だけはなぜだか火照っているように熱く感じられる。


「ありがとう…えーと」


 助けてくれているとは言え、初対面である人間に手首を握られ腕を流水にさらしている状況がうまく飲み込めず、火傷している箇所を心配そうに見つめる彼に向けてとりあえず声をかける。それに気付いた彼がこちらを見上げながら、何か気付いたように口を開く。


「あ、俺は2年の鳥居創(とりい はじむ)だよ。よろしく」

「俺は2年の島居劉生(しまい りゅうせい)。あの…ありがとう…手、濡れてる」

「思ったより冷たくて気持ち良いから、つい」


 創と名乗った彼は、そこでやっと手を離し、ポケットからハンカチを取り出して手を拭きだした。そして、また劉生を真っ直ぐに見つめる。どこか楽しげに、好奇心旺盛な猫のような瞳で。


「島居くんは、何してたの?補習じゃないよね」

「僕は、美術部員だから」


 クルクルと彼の瞳が一層輝き劉生を見つめている。


「絵、描くところだったの?」

「そう・・・あ!」


 ――アルコールランプ!


 気が動転して忘れていたが、アルコールランプに火を灯したままだったはずだ。慌てて、机に視線を向けるのとほぼ同時に後ろから創の声が聞こえる。


「大丈夫だよ、消えてるから」


 キャップがされ、初めから火などついていなかったかのようにアルコールランプは鎮座していた。消火した記憶は無い。軽く混乱しはじめた劉生の気持ちを遮断するかのように気にせず創は続ける。


「絵を描くのに、あんなに道具が必要なの?薬の調合に使う時の道具に似ているけど」

「あ、うん・・・日本画は使うんだ」

「へー!日本画!」


 言い終えるのとほぼ同時に、創はイーゼルの方に歩き出していた。劉生はどうしようと思ったけれど、もう少し冷やしておくことにし、体を創の方に向けるだけに留めた。

 改めて自分の描いた絵を人にまじまじと見られるのは気恥ずかしさがある。


「これ君が描いたんだよね?すごく綺麗な紫陽花」


 腰を屈めじっくりと眺めている。のを、見ているだけなのだが、鼓動が速くなっている気がする。耳の後ろのあたりがくすぐったい。もしかすると赤面すらしているかもしれない。

 下唇をぎゅっと噛み締めつつ、創に視線を向けた。


「もうすぐ完成?」


 勢い良く顔をあげるものだから、思い切り見つめ合う形になってしまった。好奇心にきらりと輝く瞳。触り心地の良さそうな髪の毛。瞳の色や髪の毛にばかり気を取られていたが、すっと通った鼻筋など、よくよく見ると端正に整った顔をしている。異国の血が混ざっているのかもしれない。


「ねえ」


 声をかけられ、我に返り、所在なげに視線を火傷した箇所に戻す。


「ああ、ええと、たぶん、今日中に描き上げられると思う」

「なら、それまでここにいてもいいかな?邪魔はしないから」

「え、あ、うん・・・え?」


 予想だにしていなかった質問が飛んできたので、声がうわずってしまった。何を、急に、言い出すのだろうと目を白黒させるが、創はお構いなしに続ける。初対面の人間に対しても自分のペースをひたすら崩さないタイプのようだ。


「やったー!ここ、学校の中で一番涼しいんだよ。グラウンドから離れてるから静かだし」


 足取り軽く、再び劉生の横に戻ってきた創は、ちょっといいかなと声をかけながら劉生の腕を流水から外し、自分のハンカチで傷口に触れないように濡れてしまった周辺を拭く。傷口を見つめ、うんうんと満足気に頷いたあと、そっと手を離す。


「軽い火傷だから、傷も残らずに治ると思うよ。良かったね」

「あ、ありがとう。なんで、」


 なんでそんなに良くしてくれるのか、と続けようとしたが、


「俺ね、保健委員なの。あとね、上級救命講習の認定証も持ってるから応急処置は任せて」


 遮るように返答。そして、人懐こい笑顔。


 ドキリとした。心のなかを見透かされたかのような感覚だった。けれど、嫌悪感は全くなく、自然と彼自身に興味が湧いてくるような、今まで味わったことがないような感覚が全身を駆け抜けていた。

 創は照れたような笑顔を見せたかと思えば、軽やかな足取りで最初に寝ていた席に戻り、上半身をだらりと机に預けた。


「夏休みまで学校に絵を描きにくるだなんて真面目だねー」

「それは、鳥居君だって同じなんじゃ・・・」

「俺はねー、補習っていうか、再試験っていうか、そんな感じー。あと、トリイって呼びにくいでしょ?ハジムでいいよ」


 ――そう言えば、昨日、遅刻してきたな・・・


 昨日の出来事を思い出す。試験が終わる時間帯になって校庭に現れた創を劉生は目撃していた。3階にいた劉生に創は気づいていたようだったが覚えているだろうか。

 窓から入ってきた風が創の柔らかそうな髪をふわりと揺らす。


「久しぶりに学校に来たら試験とかさ、もう最悪だよー。あ、ごめんね。気にせず続けて続けて」


 ただ外を眺めているのか、また眠りにつくのか分からないがパタリと動かなくなってしまった創に、勧められたままゆっくりと席に戻り、膠の状態を見る。温めすぎたということも無く、このまま使えそうだ。


 気を取り直すように軽く深呼吸をし、道具に手を伸ばす。岩絵具を乳鉢に入れ、乳棒で細かく磨り潰す。粒子の細かい岩絵具を使い、仕上げにとりかかる。ある程度細かく出来たのを確認し、先程溶かした膠とともに筆にとり、キャンパスに置いていく。

 膠が乾くまでは色が少し濃く出るが、乾燥しきると下に先に塗っていた絵の具と調和していく。何回も何回も塗り重ねることによって、だんだんと完成へと近づき、現実とはまた違う世界が目の前に現れていく過程が、劉生は好きだった。

 劉生の祖父が日本画を描いていたということもあり、幼い頃から絵が完成していく様を眺めていた。その光景に、とても心躍らせていたし、何もない状態のキャンパスに新しい世界を構築していく様がまるで魔法使いのようだったので強く記憶に残っている。

 また、祖父の画風は現実にあるものを忠実に写実していくのがメインだったが、時折、抽象画のような、よく読み聞かせてくれていた物語の挿絵に描かれていそうな空想上の生き物などを描いた。ドラゴン、三つ頭のある生き物、人間の背丈以上に高さのある植物、そして、黒いローブに身を包み片手には杖を握り白い髭を蓄えた老人などを好んで描いていた。

 いつか自分も祖父のような画家になりたいと憧れめいたものを胸に抱いているが、このまま美術の道に進んでしまって本当に良いものかと歳相応の悩みもあった。10数年生きただけで、今後の人生を決めるなんてことを、勢いや憧れだけで決断してしまって良いのだろうか。


 ――だけど、それ以外で決めろって言われても、それはそれで迷うよな


今考えなければいけないことだが、この瞬間には必要のない思考だと考えることをやめ、筆先に意識を集中する。

絵具を膠で溶き、筆先を走らせ、乾燥するのを少し待ち、また筆を持つ。その動作をどれぐらい繰り返しただろうか。


今日このイーゼルに設置した時よりも、紫陽花の葉に乗った雫の輝きは増し、花がぼんやりと光っているかのような表現をとってみた。梅雨の時期、憂鬱になりがちな天候の中でも静かに綺麗な色彩をたたえ、どこか華やかな気分にさせてくれる紫陽花。

全体を眺め、そっと筆を机上に置く。息を深く吐き出し、椅子から立ち上がり、少し距離をとり、全体を確認する。そこから教室の前方にかかっている時計に目をやった。時計の針は午後2時を少し過ぎたところをさしていた。


 ――もう、2時っ


 劉生は反射的に自分の背後にいるはずの彼の方へ振り向いた。美術室に入ってきた時のように、彼は机に突っ伏して寝ているようだった。色素の薄い髪が光っているようにも見えた。

 窓の外では、燦々と太陽光が降り注いでいる。風を含んだカーテンが優しく揺れて、影を躍らせる。美術室内はいまだ日陰となっているが、室温は午前中よりもあがったような気がする。見慣れた教室のはずなのに、創がそこに寝ているだけで、まるで別の空間になってしまったかのように心がざわついているのが分かる。それがどういった理由なのかは全く検討がつかない。


 気持ちよさそうに寝ている創に声をかけようと口を開こうとしたその瞬間、開け放していた窓から一陣の風が勢い良く吹き込んできた。今までよりも強く吹き込んできたそれに、カーテンがバサバサと音を立ててはためきだす。


「もー、なんだよぉ・・・!」


 創が勢い良く起き上がり、バサバサと暴れるカーテンに向かって叫んだかと思えば、自分に向けられている視線に気付き、あの好奇心旺盛のクルクルとした瞳で劉生を見る。落ち着きが無いわけではないが、体のどこかが絶えず動いており、更に動きの一つ一つがしなやかで家猫のような印象を受ける。

 先程の風は、まるで、創を起こす為の突風だったかのようだ。今はいつの間にか穏やかさを取り戻した心地の良い風がさらさらと創の前髪を撫でていた。


「終わったの?」


 んー、と両腕を上に伸ばし、首を傾げながら尋ねる。


「うん。あとは片付けかな」


 今までの一瞬の出来事に、瞬きの回数を増やしながら劉生は答えた。


「じゃあ、もう夏休みは学校には来ないの?」

「次の絵を描きに来ようとは思ってるけど・・・」


 悲しそうに曇っていた創の表情だったが、劉生の一言で一気に明るくなる。それを見た劉生の頭の中では、弟や妹が大好きなケーキを目の前にした時の表情が浮かんでいた。


「明日も来る?」

「そのつもりだけど」

「俺もね、明日、また試験あるんだ」

「大変だね」


 今日初めて会話を交わしたはずなのに、どうしてこんなに親しげに話してくるのだろう。絵具で汚れた手を洗うために窓際の水道へと向かう。

 

「今日も3つあったのに、明日も3教科あるんだってさー」


 その一言に勢い良く蛇口をひねり過ぎてしまい、跳ね返った水がシャツを濡らした。そんなことお構い無しで、創の方へ振り返る。


「え、今日も3教科受けたってこと?いつ・・・」


 3教科分の試験を受ける時間などあっただろうか。もしくは、真面目に試験を受けていないのではないかと心配になる。


「劉生がここに来る前に1教科と、絵を描いている間に2教科。てか、だいじょうぶ?」


 創は自らのタオルを差し出すが、劉生がそれを手で制して、美術室備え付けのタオルで手を拭いた。シャツは、この天気だしすぐに乾くだろうと何もせずにしておくことにした。

 そんなことよりも、さらりと名前で呼ばれていることに遅れて気付き、後ろに一歩下がってしまった。人見知りという言葉など知らないのではないかというぐらいに、人の懐に飛び込んでくる。決して不快ではないが、戸惑いの方が強い。なぜこんなに親しげに話してくるのだろう。

 劉生は決して積極的に他人とコミュニケーションを取るタイプの人間ではない。かと言って、コミュニケーション能力が低いというわけではない。必要最低限のやり取りだけで済ますことを常に考えている。


「鳥居くんが出て行ったの気付かなかった」

「ほんと?すごい集中力だったし、終わったらすぐに戻ってきたしね。・・・だから、ハジムで良いってば。まあ、ハジムってのも呼びにくいけどさ」

  

 こちらは立っていて、創は座っているかたちなので、自然と向こうが見上げてくる格好になる。窓の外に広がる夏の空よりも鮮やかなのではないかと見紛う程の青さを湛えた瞳が、じっと見つめてきた。


「また明日も来てもいいかな。今日みたいに邪魔はしないし」

「別に、構わないけど」


 そう答えていた自分に驚いた。考えることよりも先に、ごくごく自然に発せられた言葉だった。絵を描く時は、いつだって一人の状況を好んできたというのに、無意識からこぼれ落ちたのは全く逆の回答だった。


「やったー!ありがとう」


 満面の笑み。ゆるやかに波打つカーテン。柔らかそうな色素の薄い髪の毛。窓の外からは夏の香り。額に滲む汗。遠くで蝉が鳴いているのが聞こえる。


「劉生は変わってるね」


 創が急に顔を下に向け、声のトーンが今までのものよりも低くなる。表情は窺い知れない。それを横目に小さく呟く。


「鳥居くんも相当だと思うけど」

「だーかーらー!ハジムで良いってば!」


 バッと勢い良く顔を上げたかと思うと、今まで見てきた人懐こい猫のような創に戻り、抗議の声をあげる。そんな姿を見て、一瞬暗い雰囲気を出した彼のことをあまり気にしないことにし、口角を少しあげ視線を交わす。


「ごめんごめん。創・・くんも変わってると思うよ。初対面だとは思えない」

「初対面ではないでしょ?昨日、窓際の席に座っていたのって劉生だよね」

「えっ?」


 想定していなかった返答に素っ頓狂な声をあげてしまった。そのことに驚いたように創も目を丸くした後、右手を顎にやり眉根を寄せた。


「そこまで驚かなくてもいいだろー?まあ、会話するのは初めてか。俺ね、人の顔を覚えるの得意なんだ」

「いや、まさか、覚えてるとは思ってなくて」

「ってことは、劉生も覚えてたってことでしょ?ひどいなー」


 まるで小学四年生の弟や妹が不機嫌さをアピールする時のように頬をふくらませた創を見て、思わず吹き出してしまった。


「えっ!?なになに!??」


 劉生は慌てて、ごめんごめんと繰り返す。けれど、笑いを堪えるのに必死なことはバレバレだ。冷静を装いたいのに、状況がうまく飲み込めないのであろう創が慌てる様がまた面白く、笑いが込みあげてくる。右手で口許を抑え、落ち着こうとしていた時、廊下から聞き慣れたおっとりとした声が聞こえてきた。


「おや、お邪魔しても良いかな?」


 教室の入口に優しく笑みを湛えた山村教諭が立っていた。呼吸を整えつつ、劉生はそちらに振り返る。


「山村先生、どうされたんですか?」

「化学室に寄ったら賑やかな声が聞こえてきたからね、ちょっと覗かせてもらったんだ。そこにいるのは鳥居くんだね」

 

 劉生は平静を取り戻しながら、いつの間にか横に立ち並んでいる創にチラリと視線を向ける。隣にいる彼は街中で友人にでも会ったかのように山村に向かって笑顔で手を振っていた。

 二人がどういった関係なのか想像出来ないが、創が人見知りなどしないタイプの人間だということが分かった。見た目通りに人懐こく、好奇心旺盛で、敵をあまり作らない。自分とは正反対のタイプなのかもしれない。


「君が美術室にいるだなんて珍しいね。二人とも、もし時間があるならコーヒーをご馳走するけどどうかな?」

「やったー!飲む!飲みまーす!」


 山村が言い終えるのと同時に創は嬉しそうに声をあげ、山村の元へ駆け寄っていった。その後姿は遊び相手を見つけた子どもか、ご褒美がもらえるとわかった時の子犬のようだった。


 ――本当に弟たちを見てるようだな


 苦笑しながら劉生も歩き出すが、視界の端に出しっぱなしの道具類が入り、すぐに立ち止まる。そうだ、片付けをおこなっている途中だったのだ。自室の片付けは苦手だが、日本画の道具の片付けに関しては毎回きちんとおこなっている。大切な時間を与えてくれる道具たちだから、ちゃんと誠実に向き合いたい。祖父がずっとそうしてきたように。


「すみません。僕は片付けをしてから行きます」


 机の横に立ちながら山村に告げた。それを聞いた山村はゆっくりと頷き、不満そうな表情をしている創の肩を優しく叩いたかと思えば、彼に耳打ちをする。みるみるうちに創の表情は明るくなり、うんと一度大きく頷いたと同時に廊下を駆けて行ってしまった。パタパタと廊下を走る足音が遠くなり、やがて静寂に包まれる。

 その様をひと通り見ていた劉生は目をぱちくりさせ、今何が起こったのか回答を求めるように黙ったまま山村に視線を向けた。


「じゃあ、お菓子を用意しておくから、ゆっくり片付けをすると良いよ」


 ひらりと手を振り、山村は何も無かったかのように隣の化学室に消えていった。彼は完全に創の扱いに慣れているようだ。

 きっと創に職員室かどこかにお菓子があることを教え、取ってくるように耳打ちをしたのだろう。


 ――あれじゃ完全に小学生を相手にしているようだ


 嬉しそうに駆け出した創の背中を思い出しながら、机上に並べられた道具たちに手を伸ばす。創が戻ってくる前に片付けてしまおう。不満そうな顔をさせない為に。そう思わせる何かが創から発せられているようだった。


*******************


 淹れたてのコーヒーの心地良い香りに包まれながら、目の前に並べられた高級そうなチョコレートたちに手を伸ばす。山村はいつもどこで手に入れてくるのか分からないが、こういった時間の時には海外ブランドのお菓子を出してくれる。どれも繊細なイラストや重厚なイメージのフォントが並んだ箱に入っていたり、とにかく高校生のお小遣いでは到底手に入らないようなものばかりなのだ。味も言わずもがな美味しい。


「やっぱり山村先生の淹れるコーヒーは美味しいねー」


 チョコレートを頬張りながら、創は本当に嬉しそうにニコニコと笑っている。意外にも口をつけているのはブラックコーヒーで、見かけによらず硬派のようだ。


「君はいつでも美味しそうに飲んでくれるね。ありがとう」


 細い目をさらに細めながら山村もチョコレートを口に運ぶ。まるで孫を見守っているかのような優しい眼差し。二人は普段からこうしてコーヒーとお菓子を楽しんでいるようだが、放課後にこのような場面に遭遇したことは無いし、一体いつこのお茶会は開催されているのだろうと劉生は思考を巡らせていた。


「美味しそう、じゃなくて本当に美味しいんだよ!ね、劉生」


 急に声をかけられ、一瞬言葉に詰まる。


「あ・・・うん。美味しいです」


 創はその言葉を聞いて満足そうな顔をしたかと思うと、再び山村に視線を戻した。なんだか急に気恥ずかしさを覚えた劉生は、コーヒーカップに口をつけながら二人の表情を代わりばんこに眺めてみたりした。二人の接点はどこにあるのだろう。


「ありがとう。ところで、二人は前から知り合いだったのかな?仲良さそうに話をしていたみたいだけれど」

「話したのは今日が初めてだよ」


 劉生が口を開くよりも先に創が真っ直ぐな視線のまま返していた。確かに会話を交わしたのは今日が初めてなのだが、改めて確認をすると実感があまりない。というのも、創が人見知りを全くせずに懐に飛び込んでくるような接し方をしてくるからだし、自分自身もそれをすんなりと受け入れてしまっているからだった。


「おや、そうなの。クラスも違うし不思議に思っていたんだよ。鳥居くんが美術室で涼んでいたとかかい?」

「え、なんで分かっちゃうの!でも、試験はちゃんと受けたし、邪魔はしてないからね。そうだよね」


 顔を覗きこまれ、劉生は頷くことしか出来なかった。気にせず創は続ける。


「先生、劉生の絵見た?すごく綺麗なんだよ。俺、日本画なんて初めて生で見たかも!」


 興奮気味に創が話し始める。積極的に他人に自分の描いた絵を見せたことも無かったし、他人に評価をしてもらうことにもあまり興味が無かったので、こんなにも自分の絵を褒められてどうして良いか分からず、ただただ視線を自分の手に落とすしかない間にも、創は話を続けていた。首の後がくすぐったくてたまらない。

 一通り話し終えたところで、それまではニコニコと孫の話に耳を傾けていた山村が口を開いた。


「島居くん、コンクールに応募してみる気はないのかな?」


 劉生は視線を手元から山村に向け、瞬きを二、三回続けておこなう。全く考えていなかったわけではないが、まさか山村からそのことを言われるとは思っていなかった。先程までくすぐったかった首筋が、今度は熱くなっていくのが分かる。興奮と不安と期待、それに妙な緊張感。

 

「いや、でも、美術部は無いようなものですし」


 そのことも心のなかで引っかかっている要素の一つであるのは間違いなかった。学校側が事件のことを無かったことのように扱っているのに、コンクールに応募をするという目立つことをおこなっても良いのだろうか。と言うのは真っ当に聞こえる言い訳というだけで、本当なら誰かに背中を押してもらいたかったし、挑戦をしてみたいという気持ちの方が強かった。

 それを相談する相手も、受け止めてくれる相手もこの学校にはいないだろうとさえ思っていたのに。劉生は平静を装うとしているが、こみ上げる嬉しさを隠すことが出来ず、それが表情として現れていた。


「決まりだね」


 隣に座る創がキラキラとした天色の瞳を向けてくる。劉生の表情から答えを感じとったのか、まるで自分のことのように嬉しそうにしていた。

 そんな二人のやり取りを見守っていた山村が白衣のポケットから四つに折りたたまれた一枚の紙を取り出した。


「コンクールの案内だよ。締め切りは10月いっぱい」


 それを両手で受け取る。興味津々で覗きこんでくる創。


「ありがとうございます」


 背中を押してくれたことに感謝をし山村に向かって頭を下げた。

  

「良いんだよ。いつもこうして付き合ってくれるお礼みたいなものさ」


 山村は微笑んでチョコレートを、また一つ頬張る。案内の用紙を凝視していた創が勢い良く顔をあげる。


「俺には無いの?お礼とかー」


 孫の可愛いわがままに少し困ったように眉根を寄せるが立ち上がり、山村は後ろの本棚から一冊の本を取り出した。それをそっと創に差し出す。


「君はこれがお気に入りだったよね」


 それは、表紙に幼い兄弟の絵が描かれた絵本のようだ。兄弟の手には杖のようなものが握られている。


「いいの?この話、好きなんだ!」


 創もまたそれを両手で受け取り、愛おしそうに胸に抱きしめた。それから、机の上に置き、パラパラとページを捲っていく。劉生はそれを小学生より小学生のようだなと思いながら眺めていた。

 中身は英語で書かれているようだが、幼児向けの内容らしく翻訳するのは難しそうではない。ふんわりとしたタッチで描かれたイラストから、表紙で兄弟が手にしていたのはどうやら魔法の杖のようで、魔法を題材にした話であるということがなんとなく伝わってくる。


「先生、ありがとう」


 一通りページを捲り終えた創が顔をあげて、満面の笑みでお礼を伝えた。どこからか風が舞い込んできて、ふわりと創の前髪を揺らす。コーヒーの香りも揺らいで心地よさに包まれる。

 山村が微笑みながらコーヒーのおかわりはどうかと勧めてくれた。二人はおかわりをもらうことにした。


「聞いたんだけど、鳥居くんは試験の日に遅刻してきたんだって?いくらS組だからってそれはあまり感心しないな」

「だから、こうして夏休みに試験受けに来てるじゃん・・・忘れてたんだし、許してよ先生」


 コーヒーカップにあらたにコーヒーを注ぎながら山村が苦言した。それを聞きながら苦虫を噛み潰したような顔になった創は、チョコレートに手を伸ばし口直しをすることにする。

 二人の会話をなんとなしに聞いていた劉生だったが、聞きなれない単語を耳にして、えっと驚きの声をあげてしまった。S組・・・今、S組と山村は言ったのだろうか。


「どうしたの、劉生」

「君ってS組所属なの?」

「うん。そうだよ」


 何を不思議がることがあるのだろうかという表情で見つめてくる。劉生は目の前がクラクラとした。

 この学校でS組と言えば、試験の点数、運動神経の良さなど総合的な学業の成績上位者たちが集められたクラスとして知られており、一般のクラスが入っている校舎とは違う棟に教室があることでも有名だった。なので、まず一般クラスの生徒とSクラスの生徒の交流はほとんど行われてはいない。

 劉生も、S組所属の生徒に会ったのは初めてかもしれない。そんなに普段から意識しているわけではないから、実際には廊下ですれ違うことはあるかもしれないけれど。


「島居くんは知らなかったのかい。まあ、鳥居くんが学校に来ること自体も珍しいし仕方ないかな」

「先生、ひどい!もう一緒にコーヒー飲んであげない!」

「授業に出るのが本来の学生の本分だよ」


 意地悪そうに微笑みながら山村は再び席を立った。二、三歩進んだところでくるりと振り返る。横の創の表情を盗み見見たが、想像通り頬を膨らませているところだった。


「明日も来るようだったら美術室の鍵は島居くんが持っていてくれて構わないから」

「良いんですか?」

「明日の日直も僕なんだけどね、職員室に寄ってから行くよりも、その方が良いでしょ?他の先生には内緒だよ。あと、飲み終わったら適当に片づけしておいてね」


 ひらひらと手を振りながら化学室を出て行ってしまった。劉生は、この人も大概自由な人だなと半ば感心しながら背中を見送った。ポケットに入っている美術室の鍵を制服の上から触って確かめる。秘密基地の守りを任せられているようで嬉しくなる。


「劉生は明日何時頃来る?」


 おかわりでもらったコーヒーも飲み干しつつ創が訊いてきた。膝の上には先程山村からもらった絵本が大事そうに置いてある。カップを持っていない右手で表紙を愛おしそうに撫でていた。


「今日と同じくらいには来ようとは思ってるけど」

「じゃあ、俺も早く試験終わらせて向かうようにするね」

「見直しとかした方が良いよ」

「それ込みで早く終わらせるって話だって」


 夏休みに入ったからと言って日常が変化することなどないと思っていた。特別な予定など無いことに変わりはないが、いつもと同じ美術室に足を運び、いつもと同じように絵を描いていただけなのに、そこには鳥居創という同学年の生徒が寝ていて、火傷の手当てをしてもらい、今こうして一緒にコーヒーを飲んでいる。今日一日だけで、普段とは少し違う時間を送っている。こうやって日常とは変化していくものなのだろうか。

 横で絵本を膝の上に乗せている創の姿が、自分の弟たちと重なり思わず笑ってしまう。


「どうしたの?」

「なんでもないよ」


 皿の上にポツンとある最後のチョコレートを口に運び、窓の外を見た。照りつける太陽、鮮やかな夏の空、遠くで響く蝉の声。劉生はこれから待ち受けている何かに期待し、自分の心がほんの少し踊っているのが分かった。

 隣から『変なやつ』と呟く声が聞こえた。

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