プロローグ:夏のはじまり
※他サイトに投稿したものを加筆・修正したものです。
※同性愛(BL)要素を含みますのでご注意ください。
文化部員と帰宅部員の二人のプロローグです。
-このまま僕が呼吸を止めたとして、この空間にいる誰がそれに気付くだろうか。
教室の中に存在する大多数の人間の視線は画面に釘付けで、映し出される文字を認識し解読、その回答をキーボードで打ち込むことに必死のようだ。
ひと通り解答し時間を持て余していた僕は、目の前のディスプレイから視線を外し、窓の外を眺めながら、答えが出たとしても特段面白くもないことを考えていた。人間はなぜ空を飛べないのか、とか、無意識を意識した瞬間にその無意識はどこへ行ってしまうのか、とかそういうことを。
アクリル絵の具で染めたような不自然なまでに鮮やかな色の空(僕が描くならラピスラズリに藍白を混ぜてもう少し品の良い色を出す)の、確認出来る範囲には雲は無い。
そこから下に広がる世界は見慣れた学校の敷地・・・校舎の影、それと校庭を横切る一人の生徒。
-遅刻者か・・・。
あと5分で午前の授業が終わる。つまり、前期の期末試験から全生徒が解放され、9割5分の生徒が待ちかねている長期休暇が幕を開ける。
僕はと言えば残りの5分にカテゴライズされる人間で、同級生たちと青春を謳歌する予定などなく、学校の課題をこなした後は、ただひたすら時間を浪費するだけの毎日を送ることになるだろう。食事をして、呼吸をして、睡眠をして、排泄をしての繰り返し。
まあ、こんな狭い教室に閉じ込められずに済むのは、少し嬉しいかもしれない。そうだ、岩絵具を買いに隣町まで出掛けてみようか。日本画のことを考えている時だけは、この閉鎖された空間の中でも心が少しだけ躍る。
-それにしても、こんな時間に登校してくる人もいるんだな。何をしに来たのだろう。
窓際の席だからと言っても、3階から校庭を見下ろしているので遅刻者の表情まで把握することはできない。けれど、なぜか校庭の真ん中を横断し校舎に近づいてくる彼から目が離せなかった。
-蒸栗色の髪の毛・・・
後ろめたさなども感じさせず、足早になるでもなく、彼自身のペースで歩いてくる。ただそれだけの動作なのに、ずっと目で追ってしまう。なぜだろう。
あと数分で試験時間が終わってしまうことなど、全く気にしてなどないようだ。
-あ・・・
目が、合った。
いやいや、ここは3階だ。地上から、こちらが見えるのだろうか。見えたとしても、窓際に座っている僕の視線に気付くものなのだろうか。そんな、まさか。
距離はそれなりにあるはずなのに、彼の仕草が、表情が、眼前で確認出来たような感覚にとらわれている。
でも、確かに、天色の、僕が一番描きたい空の色を湛えた瞳が、こちらを見上げて立ち止まっていた。
口角があがり、そして、左手の人差し指を立て、そっと唇にあてたのだ。
瞬間。目の前でパチリと何かが光ったような感覚。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴る。視線を自分の席のディスプレイに戻す。生徒全員の回答の提出を確認した試験監督が教室を出ていく。扉が閉まる音。各々に騒ぎ出すクラスメイト。
全てが一瞬で駆け抜けていった。
ここで、やっと、自分が呼吸を忘れていることに気付く。
周りにバレてはいけないという強迫観念めいたものに襲われつつ呼吸を整え、もう一度眼下を見下ろす。そこにさっきの天色の瞳をした彼がいることを期待している自分自身をおさえながら。
-いるわけないじゃないか。
彼の姿はどこにも無かった。校舎の影のみが存在する校庭を眺め、なぜか少し安心した自分に驚きつつも、帰宅の準備をはじめる。耳の奥で鼓動が聞こえるような錯覚。ディスプレイの電源を落とす指が震えていた。
-僕が呼吸を止めても、誰も気付きやしなかったな。
どうでも良いことで思考回路を使い切ってしまいたかった。自分でも分かる程に上昇した体温、心拍数、乱れがちな呼吸、なぜこんなに動揺をしているのか、理由など考えたくなかった。考えたところで答えなど出ないことも、頭の隅では分かっていた。
とにかく冷静な自分を取り戻さなければならない。目を瞑り口許を右手で抑える。
明日からしばらくの間、学校に来なくて良いのだから、日常を消化していくうちに、きっと、さっきの彼のことなど忘れてしまうだろう。そんなものだ。
-ああ、でも、絵を描きに美術室には顔を出したいな。
鞄を手に取り、僕、島居劉生は足早に教室を後にする。廊下には夏の香りが充満していた。