その74 「う、うん」
昨日の夕方から発生したこの落ち着かない感じ。言うなれば体の中に、心にモヤがかかり、重くて狭くて息苦しくて、気持ちが悪い。それは朝起きたときでさえ昨日よりも濃度を増していたのに、休み時間に見てしまった出来事のせいでさらに濃くなり、そのままお昼を迎えた。あるはずがないのに、休み時間のことで何か話があるかなと淡い期待を描くも即崩れ、立夏同様に体調を心配される以外はいつもと変わらない雑談だけをしてお昼休みを終えた。
午後の授業を全て終え、夕方になる頃には本当の意味で頭痛という名の体調不良に至るまで、心のモヤは大きく重くなっていた。
けど、それはすぐに晴れた。
「颯先輩。朝の休み時間のあの女はどこのだれですか!?」
茜先輩が両手でローテーブルを叩き、颯さんに詰め寄る。
「な、なんだよ突然。休み時間? ……ああ。クラスの女子だよ名前はたしか……忘れた。用事を済ませて第二校舎から第一校舎に戻るときに、窓から何かが落ちるのを見て取りに行ったら、同じのを取りに来たソイツと出くわしたんだよ」
颯さんが茜先輩を押し返しつつ答える。
「ほお。そのわりには楽しそうでしたけど?」
ソファーに座り直しながら、茜先輩が目を細める。
「一方的にあっちが話しかけてきたんだよ。俺は拾ったものを渡せたらそれで良かったんだ」
「ちなみに拾ったものは?」
「ボールペンだよ。何かのキャラクターの」
「そのキャラクターは?」
「さあな。見たことなかった」
「なるほどなるほど……」
茜先輩はポケットから取り出した手帳にシャーペンを走らせる。
「それを聞いてどうするんだ?」
「いやとくには」
そして後ろに投げた。何がしたかったのか。
「とにかく、自分は相手にするつもりなんてまったくなかったのに、相手が一方的に無理矢理にべったべたと邪魔くさくくっついてきたと?」
「言い方がかなり悪いな……。まあそうだったけど」
「そして『怖い人だと思っていたんですけど、良い人なんですね』と好感度アップイベントが発生。そんな感じですか?」
あの女の子を真似て声色を替えたつもりなんだろうけど……ただ音が高くなっただけで真似るとか以前の問題だった。
「まさかお前……あそこにいたのか?」
「失礼なっ。さすがのあたしも颯先輩をストーカーするほど暇人じゃないです」
「受験勉強があるものね。期末テストの勉強さえしていないけれど」
「うっ……」
あらぬ方向から攻撃を受け、茜先輩が胸を押さえて蹲った。というかまた勉強していないのか。あれだけお母さんに怒られると怯えていたのに……。
茜先輩はともかく。そっか、あれはただのクラスメイトだったんだ。良かった。
ほっと胸を撫で下ろす。
……ん? 撫で下ろす? 何で?
いつの間にか朝から続いていたもやもやも幾分すっきりしていた。その原因も分からなくてさらに疑問が増す。
なんだろう……。ううむ。
考えても答えは出てこない。ただ、颯さんに関わることだと言うことは分かる。
「そういうことだから、茜、千沙都、今日は勉強よ」
『えぇ~~……』
茜先輩とちさが不満げな声をあげるなか、トントンと颯さんがボクの肩を叩いた。ドキドキしつつ「なに?」と口を動かす。
「良い店を見つけたんだよ。今度の週末に二人で行こう」
「う、うん」
今度の週末。脳裏にあの時とのことがフラッシュバックする。
『ごっこは次のデートで止めよう』
いつもなら心を躍らせるのに、颯さんのその言葉でも、今のボクはもやもやを膨らませるばかりだった。
◇◆◇◆
「な、凄いだろ?」
「う、うん……」
たしかに凄いけど、これは……。
山の急な傾斜に沿って作られた住宅地。その一角にある有名な喫茶店。そこのテーブルに鎮座するのは、お店イチオシのメニューであり、この街でも評判の高いふんわりプリンパフェ。味もさることながら量も多く、テーブルの上でそびえ立つそれは間違いなく二人前以上の大きさはある。しかしこれを注文するお客は大抵一人で完食するらしい。それだけこのパフェが美味しいと言うことなのだろう。
甘い物好きの女の子であれば可能なのかもしれない。甘い物は別腹だと言うし。実際、今目の前で同じ物を注文した同い年くらいの男女のペアは、女の子だけがそれに手を付けていた。美味しそうに食べるその女の子は、ツーサイドアップの長い髪をふるふると振りながら、時折「めっちゃ美味しい!」と声を上げながら凄い速さで食べ進めている。凄い。
プルンと震えるプリンを掬い、口に運ぶ。たしかに美味しい。このプリンは手作りだろうか。コンビニやスーパーに置いてあるものとは格が違った。どちらかというとケーキ屋のプリンだ。
「旨いか?」
颯さんは飲み物だけ頼んでいた。ブラックコーヒーの砂糖もミルクもなし。ブラックなんだから砂糖はなくて当たり前なんだろうけど、ミルクも入れないんじゃ本当に苦い汁だ。……こんなこと言うとコーヒー好きに怒られそう。
「うん。美味しい」
「それは良かった」
「でも、量が多いかな。たぶん食べきれない」
「あー。そうかもな」
颯さんがパフェを見て苦笑する。
ボクは余っていたスプーンを颯さんに差し出す。
「颯さんもどうぞ」
「え、俺も?」
「うん。残すの勿体ないし、颯さんも食べてみたら? 美味しいよ」
颯さんはスプーンを受け取ったものの戸惑っていた。まあたしかに、他人の食べかけに手を伸ばすというのは躊躇してしまう。
「無理にとは言わないけど」
「た、食べる食べる」
「だから無理はしなくても――」
「無理はしてない。大丈夫。ちょっとその……恥ずかしいと思っただけだ」
恥ずかしい……? あっ。そういうことか。
ここは喫茶店。それなりにボク達のような男女のお客さんもいるけど、一つのパフェを分け合って食べている人は見る限りは誰もいない。……うん。それは恥ずかしい。
「じゃあお皿貰って分けようか」
「いやいい。このままいく」
そう言うとスプーンをボクの前にあるパフェまで伸ばし、プリンとクリームを大きく掬った。
「……旨いけど甘いな」
大きな口でひとくち。すぐにコーヒーに口を付けた。甘いパフェに苦いコーヒー。ちょうどよさそうだ。
「胸焼けしそうであまり食べられないな……。司、頑張ってくれ」
「うっ。食べられるかな……」
ボクも今日のデートに至るにあたり、溜まり続けたもやもやで、食べるまえから胸焼け気味だったりするのに。
『ごっこは次のデートで止めよう』
颯さんの言葉が頭の中に響く。その度に左胸の辺りがぎゅっと締め付けられて、痛みが体中に広がる。
次のデート。それが今日だから。