その69 「じゃあ今も頑張ってよ」
陽が燦々と降り注ぐ夏の住宅街。玄関をくぐって外に出たボクを待っていたのは、耳をつんざく蝉の声と、アスファルトから立ち上る陽炎だった。
「あつっ……」
突き刺さるような日差しに顔を顰める。たった三時間半ちょっとでこの変わりよう。朝の心地よさはどこへやら。太陽の仕事の早さに呆れてしまう。少しはサボれば良いのに。
誰かに見られないよう赤い方の目を閉じて家の敷地を出る。もたれようと思ったコンクリート製の門柱も予想通り熱くなっていて、背中を預けるには少々辛そうだ。我慢大会をするつもりはなく、座れそうなところもないので、仕方なく門の前に立って颯さんを待つことにした。後ろ手に組み、片足をぶらぶらとさせながら、定期的に颯さんが来るであろう方向を見やる。すっかり夏の様相を呈している住宅街は休日ということもあり、人通りはなかった。
「あら司ちゃん。こんにちは」
「こんにちは、おばさん」
数分後、通りかかった近所のおばさんと挨拶を交わす。おばさんは小さな女の子を連れていた。服装からして、どこかへ出掛けるのだろうか。
「ほら、真由美。外国のお姉ちゃんよ」
「外国のおねえちゃん、こんにちは!」
「はい。こんにちは」
女の子が礼儀正しく頭を下げる。外国ではないんだけどなぁ……見た目がそれっぽいだけで、一度も日本から出たことないんだし。目をキラキラとさせてボクを見上げる女の子にちょっと申し訳ない気持ちになる。今からでもアメリカに旅行に行こうか? いや駄目だ。英語喋れない。
「司ちゃんはそんなところで何をしているの?」
ぎくっ。聞かれたくないことを……。内容が内容だけに詳しくは言えない。
「えっと。ひ、人を待ってるんです。おばさんはどこかへお出かけですか?」
追求される前に話題を変えよう。
「ええ。クレナタへね。この子が映画を見たいって言うものだから」
「パチモン見に行くの!」
女の子が楽しそうに言う。そういえば今日から劇場版が公開されるんだっけ。
パチモンとはパチパチモンスターというアニメの略称だ。見てはいないので詳しい内容までは分からないけど、たしか手のひらくらいの大きさのボールからモンスターを取り出して対戦を行い、パチモンマスターになることを目指すとか、そんな話だったような……。略称の通り、当初は既に人気を博していたハンドバッグモンスターの(良くいえば)オマージュアニメとして短期的に放送されたものが、意外に人気を得てしまって劇場版まで作成してしまいましたという変な経緯を持つ。ちなみにパチパチモンスターのパチパチは、ボールが開くときの音から来ている、としているらしい。若干こじつけすぎると思うのはボクだけかな。
「パチモンかー。いいなあ。連れて行って貰えて良かったね」
「うん!」
ニコニコと本当に嬉しそうだ。
「お姉ちゃんも一緒に行く?」
「うーん。行きたいけど、今日はやることがあるから。ごめんね」
「そっかあ……。じゃあまた今度行こうね。ばいばいっ」
「うん。ばいばい」
女の子は残念そうな顔をしたけど、すぐに笑顔を取り戻し、手を振りながらもう片方の手をおばさんに引かれてバス停のある方へと歩いて行った。
さっきの女の子、可愛かったなあ。見えなくなるまでずっとボクに手を振ってるから、ついつい最後まで相手をしてしまった。子供なんて、以前はせいぜい電車とかバスで騒いでるのを見て煩い程度にしか思ったことはなかったけれど……なんて言うんだろう。こう、胸の奥に暖かさがじんわりと染み入ると言うか、凄く優しい気持ちになれると言うか……とてもとてもいとおしく思ってしまった。
……ハッ。まさかこれが愛!? いやいやさすがにそれはない。ボクにロリとかペドとかいう素養はないし、強いて言うならばシスコンのきらいがあるくらいだ。ちなみにシスコンと言っても美衣、お姉ちゃんと危ない関係になりたいだとかはないのでご安心を。
これはあれだ。愛は愛でも母性愛のほう。女性が持つとされる、母親として子供を守り育てたいという強い願望、本能的特質。母性本能ってやつだ。いよいよボクも女になってきたってことか。なんか変な気分だ。
いいなあ、子供……。親戚や知人に子供がいないからなおさらそう思う。ボクも将来は一人、いや二人はほしいかも。一人は男の子で、もう一人は女の子。兄と妹が個人的には理想。妹想いのお兄ちゃんに、お兄ちゃんっ子な妹。二人ともボクによく懐いていて……って、あれ? ちょっと待って。子供がほしいって、それはつまり子供を授かるって事だよね。子供を授かるには、その、まあ、アレなことをするわけで……。ボクは一応女だから、もちろんアレなことをされる側であり、産む側でもあるわけで……。となると、もちろん相手が必要――……。
ううわわわっ!? 何をボクは考えてるんだ!? 早いまだ早いよそんなこと! いやいやそもそも早いとかそういうんじゃなくて、それ以前に、
どうして頭に浮かんだ相手が颯さんなんだよっ!?
「ああもう、ほんと何を考えて――」
「よお、司。お待たせ」
「うひゃあぁっ!?」
ふいに肩を叩かれて素っ頓狂な声を上げた。慌てて振り返り、その人物と目を合わせる。目を合わせた途端、頭の中で何かがボンッと音を立てて爆発した。
「は、颯先輩!? じゃなかった。お、驚かせるなよ颯! ――これでもない! うわーん颯さんのことなんて呼んでたっけ!?」
「ちょっ、何を慌ててんだ? 今更呼び方とかどうでも……」
そうじゃないそう言う問題じゃない。今の颯とはどのボクで相手してたんだっけ? 親友? 後輩? 赤の他人? ああもう颯が急に現われるから頭の中がぐちゃぐちゃだ。ええと……そ、そうだ。恋人役だ!
「もう遅かったじゃないか! 恋人を待たせるなんて彼氏として失格じゃないの!?」
ぎゃー! これ昨日のドラマだ!
「すまん。一応時間通りに来たはずなんだが、司を待たせたのは悪かった」
「わわわ、ちょっと謝らないで下さい!」
ほとんど待っていないし、その待ってる最中も女の子と話してたから、まったくこれっぽっちも怒ってない! 落ち着け、落ち着けボク。颯先輩が変な目で見てるじゃないか。……颯先輩じゃない、颯さんだ。落ち着こう、もっと落ち着こう。ウニはウニ綱に属する棘皮動物の総称であり、そのなかで主に食用とされるものはホンウニ亜目の馬糞ウニ、蝦夷馬糞ウニ、北紫ウニ、赤ウニ、紫ウニなどで、沖縄ではサンショウウニ亜目の白鬚ウニが一般的で……。
よし、落ち着いた。
「颯さん、こんうにちは」
「司、少し落ち着け」
颯さんがボクの右肩に手を置く。
「落ち着いてる。もう落ち着いてる。素数の代わりにウニの品種について考えてただけだから」
「そんなんで落ち着くのか?」
「ウニが好きなので」
颯さんは何故か心配そうな顔をして両肩を掴んできた。が、すぐにハッと目を丸くして、食い入るようにボクの目を覗き込んだ。
「司、今日はコンタクトしてないんだな」
「へ? あぁ、うん。颯さん待つだけだから、付けなくても良いかなって。家の中じゃ付けてないし」
反射的に手で覆う。いつの間にか左目を開いていたらしい。
「へぇ~。久しぶりに見たけど、やっぱ綺麗だな」
「……そうかな」
褒められるのはなんであれ嬉しいが、面と向かって言われると恥ずかしい。
だと言うのに、
「それと化粧もしてるんだな。私服もいつもとは雰囲気が違うし、こっちも綺麗だ」
「そ、そそそうかなっ」
しれっと歯の浮くような台詞を吐かれ、心拍数が急激に上がっていく。自覚しているのか、それとも無自覚なのか。せっかく落ち着いてたのに、また頭の中がぐちゃぐちゃしてきた。
「き、今日の颯さんは落ち着いてるね。どうしたの?」
「別に落ち着いてねえよ。……落ち着いてるんじゃなくて、緊張してんだ」
そう言うと颯さんは目をそらして頬を掻いた。
緊張? そっか。これからボクの両親と会うことに凄く緊張していて、他のことは大事の前の小事になってるんだ。
改めて颯さんの見る。グレーのワイシャツにズボン。いつもより大人しめの服装だ。ワイシャツはきちんと一番上のボタンまで留められていて、苦しいのか、しきりに襟を引っ張っている。
「今日はいつもより大人しめの格好なんだね」
「そりゃまあ、相手が相手だからな。スーツはやりすぎにしても、こんぐらいはしないとな。ああくそっ。首がざわざわする」
「そんなにきつそうに見えないけど……あー、そっか。いつもネクタイとボタンをちゃんと締めないからだよ」
ボタンを上まで留めている状態に慣れていないのだ。日頃の行い、というやつだ。
「そんなんで将来スーツ着たときとかどうするんだか」
「うっさいな。そん時はそん時で頑張るんだよ」
「じゃあ今も頑張ってよ」
「ぐっ」
颯さんの手がピタリと止まり、名残惜しげに襟元から下ろされた。
「ふーむ……」
一歩離れて颯さんの格好を再確認。眉間に皺が寄っていることと、髪色が相変わらずの金であることを除けば、それなりに好青年に見えると思う。
「ちょっと前髪が伸びすぎだから……」
「お、おい」
「ちょっと動かないで」
颯さんの額に手を伸ばし、前髪を真ん中で左右に分ける。オールバックにしたほうがいいかなとも思ったけど、それはやり過ぎかと改めた。
「はい。これで好青年」
「金髪の好青年ねぇ……」
前髪に触れながら、含みのある物言いをする。
「ほー。自覚あるんだ」
「まあな。昨日は黒染めしようか結構悩んだ」
「でも染めなかったと?」
「自分を偽るのはやめた」
「なかなか男らしいことで」
「違う違う。あとで金髪を見られて指差されるのが怖いだけだ」
などと颯さんが言っているが、そんなことを怖がる颯さんではないだろう。きっと別の何かを思ってのことだと思うけど……なんだろう?
「んじゃまあ、中に入るか。そろそろ時間だろ?」
「え、もうそんな時間?」
慌てて携帯を取り出す。デジタルの時計が二十八という数字を刻んでいる。
「ほんとだ。あと二分」
ついにきた、という思いがボクの心臓を叩いた。見上げた先の颯に迷いは見えず、先ほどまであった眉間の皺もなくなっていた。根性がすわっている。こういうのは得意でないボクは内心酷い動揺だ。
と、ふいに右手に強い感触。見れば颯さんの大きな手に包まれていた。さっきよりも強く心臓が揺れる。けど、嫌な感じはしない。
「行くか」
「う、うん」
まるでこれから戦地へ赴くような心境。実際そうなのかもしれないけど。
そうしてボクは隣に颯さんを連れて、玄関のインターホンを押した。