その62 「ぬあー。頭が揺れるー」
『ちゃんと常日頃から彼氏彼女してるところを見せないといけないでしょ?』
茜先輩が言い放ったこの発言は、どうやら本気だったらしい。おかげで今のボクは恥ずかしいやら落ち込みたいやら、やるからには張り切ろうと意気込むやらと、なかなかに複雑な心境だった。
茜先輩発案の『彼氏彼女な嘘から出た実作戦!』が始まってから、初めての週末。ボクは学校近くにある商店街アーケードの中ほどにある公園にきていた。
日曜日ということもあり、周りは多くの人で賑わっていた。平日は大人しい噴水も、今日は何本もの水柱が円状に立ち上がり、その中心に位置する水柱はさらに高く、傘のように広がっている。微細な飛沫が風に乗って、イタリアチックな街灯の下にいるボクのところまで届き、日に当たって火照った肌をひんやりと涼めてくれた。
……などと落ち着いた雰囲気を醸し出しつつ、頭の中はこんな感じだったりする。
まだかなー。来ないかな-。まだ来ないかなー。ああもう早く来て欲しいなあ。いやいや、やっぱりまだ心の準備ができてないからもう少し、もう少ししてから来て貰った方が……でもやっぱり今すぐ来て欲しいような気もするし、どっちがいいかなあ。ああもうとにかくまだかな-。
ひっそりと脳内でソワソワ。落ち着きの欠片もない。別に一人でいることが寂しいとか、人恋しいとか、まったくそんなことは一切ないけど、人間誰しも一人より二人がいいので、こうして早く早くと待ち人の姿を求めてしまうのだ。人間だから仕方ない。
携帯で時刻を確認してはキョロキョロと辺りを見回し、目的の人物を見つけることができず、小さくため息をつく。ハンドバッグから手鏡を取り出して覗き込み、髪が跳ねてるような気がする箇所を手櫛で直し、鏡を仕舞う。他にやることもないので、さっきからそれの繰り返しだ。そう何度も見ようが時間の進みが早くなるはずもなく、スマートフォンに表示された数字に大きな変化はない。むしろ心なしか右端の数字の進みも遅いような気がする。こういう時、ふとアインシュタインという昔のお偉い人の名前が頭に浮かび、なるほどなーと彼の偉大さを改めて実感する。実感した気分になれるだけ。
時計は十一時まで35分ほど足らない。ボクが早く来すぎてしまった。この時間じゃ、さすがにまだ来るはずがないじゃないかと苦笑しつつ、それでももしかして、なんて思うのは都合が良すぎるだろうか。こう人通りの多いところで一人ぼっちというのはやっぱりさび……なんでもありません。
「ふふっ」
近くで笑い声が聞こえた。何気なく目をそっちに向けてみれば、ボクより2、3歳年上だろうか、ショートの黒髪にモデルのようなスラッとしたスタイルのカッコイイ女性がいた。キャミソールにジーンズという姿の彼女はボクと目が合うと「ごめんなさいね」と笑みを浮かべたまま謝った。
「あまりにも可愛らしかったから、つい」
「可愛い、ですか?」
ボクの後ろに誰かいるのだろうかと思い、振り返る。人は大勢いるけど、立ち止まっている人はいなかった。通り過ぎてしまったのだろうか。
「どこ見てるの? あなたのことよ」
向き直ると、まだ彼女は笑っていた。
「あなた綺麗ね。髪もだけれど、肌はもっと。こういうのを抜けるような肌って言うのかしら。これならお化粧なんていらないわね。羨ましいわ」
自分のことを褒められるのは素直に嬉しい。「ありがとうございます」と返すと、「こちらこそありがとう」と何故かお礼を言われてしまった。
「あなたも誰かと待ち合わせ?」
「はい」
「彼氏?」
「え、えっと……」
返答に困って言い淀む。なんて答えるのが一番正しいんだろう。はい、それとも、いいえ? どちらとも言えるから困る。それともどうなんでしょうと濁すとか? うーん……。
「……はい。一応そんなところです」
逡巡した結果、曖昧さを残しつつ肯定することを選んだ。あくまでも彼氏彼女のふりなのだからいいえが一番正しいのかもしれないけど、それを選んでしまうのはなんとなく嫌だった。
「一応、ね……。It is heartless of him to keep such a cute girl」
日本語ではない流暢な何か(たぶん英語)を彼女が紡いだ。なるほどなるほど。何を言ってるのかさっぱりだ。分かっていないのがバレないようそれっぽくうんうんと頷くと、笑われてしまった。
「待ち人が来たみたいだから、私は行くわね」
携帯を片手に女性が数歩前に出て振り返る。
「大丈夫。今日のあなた、凄くかわいいわ。自信持ちなさい」
「え、あ、はい。ありがとうございます?」
褒められたのでとりあえず礼を言うと、女性は微笑みながら手を振って公園を出て行った。初対面なのに『今日の』ってどういうことだろう。
今日のボクは、衿にレースのあしらわれた真っ白なマキシ丈キャミソールワンピースに、かかとのところが厚底のパンプス。首には颯さんからプレゼントされたシルバーのペンダント。手には花柄のハンドバッグ。髪は首筋の少し下のところで、灰色と白のストライプの大きなリボンで結んでいる。顔に化粧はしていないけど、爪は手も足も磨かれてキラリと輝いている。
素晴らしい気合の入りようだ。……もしかして、この今日に限って着飾っていることが彼女に見抜かれたとか? 「この子、気合はいってるなー」って見られてたのかな……?
否定したい。間に合うなら今からでも追いかけて「違います」と否定したい。気合が入っているのは紛れもない事実だけど、これを選んだのはボクじゃなくて、お母さんとお姉ちゃんの二人。ボクはその二人に無理矢理着せられただけだ。だからボク自身が気合入ってるかと言われたらそうでもないと思うし……。
ああもう! なんでこんなことで悩まなくちゃいけないんだろう! それもこれもお母さんとお姉ちゃんのせいだ!
それは今朝のこと。いつもよりゆっくりとした時間に起きたボクは朝ご飯を食べて身だしなみを整えた後、鏡の前でどんな服を着ていこうかと悩んでいた。一応形式上はデートなのだから少しくらいは女の子らしく着飾った方がいいのかなと考えていた時に、あの二人が部屋に乱入してきたのだ。
『つかさぁー、一人部屋の中で鏡に向かって何してるのかなあー? うんうん。言わなくても分かってる。学校であれだけ噂になってるんだもんね。学年が違ってても私の耳まで届いてるよ。颯先輩と付き合ってるんだよね? え、違う? ごっこ? またまたあ。恥ずかしがらなくても良いって。司と先輩、お似合いだと思うよ? もう、そんなに必死になって否定しなくても分かってるよ。お姉ちゃん分かってるから。それで今日は初めてのデートなんだよね? だからそんなに必死にならないでって。初めてのデートは緊張するよね。よーし、ここはお姉ちゃんに任せなさい。颯先輩を惚れ直させてあげる!』
『話は盗聴――げふんげふん。廊下で聞かせて貰ったわ。司、今日デートなのよね? 顔をブンブン振ってもお母さんには分かるわ。ちょうどあなたに似合うだろうと靴も買ってきたところなのよ。ほらこれ。かわいいでしよ?』
『お母さんグッジョブ! じゃあこれに合わせてコーディネートしようかな。颯先輩は清楚な女の子が好みだと思うから……』
『はあ……はあ……。今月分の司アルバムが厚くなるわね……』
……何を言ってもこっちの話は聞いてくれなかったもんなぁ。結局あれよあれよという間にこの格好をさせられて、半ば強制的に家を追い出されてしまった。化粧だけでも阻止できたのをよしとするしかないかな……。
携帯のスリープモードを解除する。十一時まであと25分。思っていたより進んでいるようで、進んでいない。まだ25分もある。10分前には颯さんが来るとしてもあと15分。小さくため息をついた。
「こんにちは。君、今一人?」
ふいに頭上から声が聞こえた。顔を上げると、知らない男の人が立っていた。大学生くらいだろうか。彼は目が合うと歯を見せてニコッと笑った。笑顔と歯が眩しい。
「はい、一人ですけど……?」
なんだろう。街頭アンケートかな。ありえる。大学には卒業研究というものがあるから、それかもしれない。もしくはバイトか。困っている時はお互い様。答えられる範囲で答えよう。
「ああ、そうなんだ。俺も一人なんだよ」
だと思います。アンケートは複数人でやってると効率悪いだろうし。
「君、かわいいね。名前は何て言うの?」
「吉名司です」
「髪、綺麗だね。肌と目も。ハーフか何か?」
「クォーターです」
アンケートのはずなのに、彼の手にはあるべきはずのメモ用紙やペンがなかった。……ああそうか。あとで聞いたことをまとめて書くんだ。記憶力に自信があるらしい。羨ましい。
しかし、なんだろう。この人と話していると変な既視感がある。彼とは初対面のはずだ。はずなのに、どこかで会ったことがあるような、そんな気がする。いや、会ったことがないのは間違いない。……そうだ、雰囲気だ。この人の雰囲気がボクの知っている誰かに似てるんだ。……うーん、誰だっけ。
「髪、触ってもいいかな?」
「? あ、はい、どうぞ」
少し遠慮がちに彼が銀色の髪に指を差し込む。髪質のアンケートかな。彼が指を通しながら「おぉ、すげーさらさらだ」と感嘆の声を上げる。全然絡まないこの銀色の髪はこっそりボクの自慢だったりするので、そういう反応をしてくれると嬉しい。
「司……お前、なにしてんだ?」
「ん? あ、颯さん」
待ちに待った声に嬉々として目を向ける。何故呆けた表情の颯さんがそこにいた。男の人に「すみません」と一言謝ってからそこを離れ、颯さんの前に立ち、見上げる。しかし颯さんはボクに目もくれず、ただでさえ怖い目をさらにつり上げて男の人を睨み付けていた。
「なんだてめー」
「いや僕はただ彼女と話していただけだよ。な、なんだ、人を待ってたんだ。そうならそうと言ってくれればいいのに。そ、それじゃ僕は用事を思いだしたからこの辺で」
男の人は顔を引きつらせながら急いで走り去ってしまった。あれ、アンケートはまだ途中なんじゃ……もう見えなくなってしまった。せっかくアンケートに答えていたのに、颯さんのせいで無意味になった。彼にも悪いことをしたかな。
ジロリと颯さんを見上げ、非難する。
「颯さん、なんで睨んだの?」
「……はあ~」
颯さんは大きくため息をついた。額に手を当てて、ボクを見下ろす。
「お前なあ。自分が何をしていたのか分かってるのか?」
「アンケートに答えてただけだけど?」
「あれのどこがアンケートなんだよ。髪まで触ってたじゃねーか」
「髪ぐらい触られたって別に気にしないよ」
「……ったく。だからなー」
颯さんがボクの頭に手を置き、クシャクシャと雑に撫でる。あー、せっかくセットした髪がグシャグシャに。
「お前ホンット鈍感だな! ナンパされてたんだよ!」
……。
「……はい?」
意味が分からず、きょとんと颯さんを見つめる。さらに頭をクシャクシャされた。
「ナ・ン・パ! ナンパされたんだよ!」
「あっ、あー、ああー。ナンパね、ナンパ。うん、たしかにナンパされてたかも」
「かもじゃなくされてたんだよ間違いなく!」
「ぬあー。頭が揺れるー」
グリングリンと颯さんの手の動きに合わせて頭が回る。もしかして颯さん、ちょっと怒ってる?
「次から気をつけろよ」
「う、うん」
どうやって? と聞き返そうとしてやめた。怒られそうだったから。でもまさかあれがナンパだったなんて。絶対アンケートか何かだと思ってた。……あ、今やっと既視感の正体が分かった。さっきのナンパの人、出間だか出雲だかの先輩の雰囲気に似ていたんだ。
やっと颯さんが頭から手を離してくれたので手櫛で髪を整え、手鏡で確認する。うん。直った。
そういえば颯さんに一つ聞きたいことがあるんだった。
「颯さん。いちずはーとれすおぶひむとぅーきーぷさっちゃきゅーつがーるってどういう意味? さっき女の人に言われたんだけど」
合ってるかな。たしかこう言われた気がするんだけど。ちょっと自信ない。
「その発音の悪さはどうにかならないのか……」
「無理です」
胸を張って言い切ると苦笑された。颯さんは「ちょっと待てよ」と言うと眉間に皺を寄せて腕を組んだ。そうして数秒後、皺の消えた颯さんの顔は赤くなっていた。
「分かった?」
「お、おお……その、まあ、あれだ。司はかわいいなってことだよ」
「へ? それだけ?」
「あ、ああ。それだけだ」
なんだ。そんなことか。少し拍子抜けだ。もっと何か別のことを言われてたのかと思ったのに。どうしてわざわざ英語にしたんだろう。外国語専門だったとか?
「……よし、そんじゃ行くか」
「はい」
まだ顔の赤い颯さんが手を差し出してくる。ボクはその手に自分の手を重ねる。少し強引に手を引く颯さんの隣に並び、ボク達は公園を出て商店街へと向かった。
「……司」
「なに?」
その道中、ふいに名前を呼ばれた。なんだろうと彼を見る。前を向いたままこちらを見ない颯さん。聞き間違えかと思い、視線を前に戻した。
その時だった。
「……き、今日のお前、すっげえかわいいぞ」
それはあまりにも不意打ち過ぎた。意味を理解するのに数秒かかり、途端にやってくる嬉しいやら恥ずかしいやらという感情の波に顔から火が出そうになる。
「あ、ありがとうございます……」
言えたのはその一言で精一杯だった。