その59 「顔、近いですね」
どうしてこうなったんだろう。
小さな窓から光が差し込む薄暗い部屋の片隅に腰を下ろし、ふとそんなことを思う。座ったままグルッと周りを見回せば、跳び箱や平均台、サッカーボールやマットなど、体育で使用する様々な道具が所狭しと並んでいる。グラウンド用のそれらは多少汚れているけど、建物自体は綺麗に掃除されているおかげで埃っぽいということはないし、マットを敷いているからスカートが汚れるということもない。昼寝をするにはいい場所かも。
時刻は13時42分。五限目はとうに始まっている。携帯には立夏から何処にいるのかと心配するメールが届いている。すぐに心配しないでと返したけど、その返事が意味深なものだったので、なんかいろいろと誤解されている気がする。あとでちゃんと説明しないと。
肩を落としてため息をつき、ふと視線を下ろす。そこにはスヤスヤと寝息を立てる颯さんの姿があった。ボクの膝の上に頭を乗せ、マットに体を横たわらせる颯さん。漫画やドラマなどで度々お目にする、いわゆる膝枕というスタイルだ。まさか実際にボクがやることになるとは思わなかった。枕より全然固い膝だから寝心地はどうだろうと疑問が浮かぶけど、起きないところを見ると、そこまで悪くはないみたいだ。ボクが女の子だから、男よりは柔らかいおかげなのかもしれない。努の頃に使っていたスポンジで体を洗おうとするとすぐに赤くなるよわよわな肌だ。ふにふにな膝が低反発な効果を生んでいるんだろう、たぶん。
グラウンドの隅にある体育倉庫。ボクと颯さんはそこにいた。どうして授業を休んでまでこんなところにいるのか。それは少し時間をさかのぼった、中庭で昼食を食べ終えたあとのことだ。
◇◆◇◆
「ハイテンションに任せてあれこれした後にふと冷静になるとさ、俺何やってんだーって頭抱えたくなるよな」
「言わないでください死にたくなります」
ささほどまで繰り広げた光景が頭をよぎる。途端、ワーと叫んで近くの物に八つ当たりしたくなる衝動に駆られるものの、それをやってしまうとさらに大変なことになってしまうので自重した。こういうとき、某机の引き出しから飛び出てくる青い猫型ロボットが現われて、時間を巻き戻してくれる便利なアイテムをくれたらいいなあと思う。もしくは魔法少女になって、この学校全生徒全先生の30分前からの記憶を消去する奇跡のような魔法が使えたら良いなあと思う。はい、現実逃避です。
「それより、司」
「それよりとはなんですか」
今まさに新たなトラウマが出来たというのに、その軽さはなんだろう。
「そろそろ口調を直したらどうだ?」
「口調? ……あぁ」
すっかり忘れてた。
「……こだわりますね」
「ルールだからな」
「さっき茜先輩のいいなりにならなくても、みたいなこと言ってませんでした?」
「それはそれ、これはこれだ」
「朝の時も、喋り方なんて細かいことは気にしないって言ったボクに同意してましたよね?」
「あれは忘れろ」
「自分勝手な……はいはい。分かりましたよ。もう」
頑固な颯先輩に渋々了承して、頭を不必要に回転させる。どうして話すことだけにこれほど頭を使わないといけないんだろう。脳の疲労が通常の倍だ。バイリンガルな人の頭の中はこんな感じなのかもしれないと、ふと思った。
歩きながら頭を抱えると、耳の横でお弁当箱が揺れてカランと音をさせた。見事に空になったお弁当箱はとても軽い。その軽さはボクの苦労が報われた証拠で、ちょっと嬉しかったりする。
「後で馴れ馴れしいと怒っても知らないからね」
「んなこと言うか」
まあ、全部食べてくれたお礼だと思えば、そんなに気にならなかった。
中庭を離れたボク達は人のいない場所を探して校舎の周りをウロウロとしていた。理由は簡単。颯さんから血をもらうためだ。ちなみに『血が足りないから吸わせて欲しい』と、率直に頼むボクに、颯は躊躇する素振りなど少しも見せず、二言で了承した。やはり持つべきものは面倒見のいい先輩だ。
「うーん。良いところないなあ……」
そうして適当な場所を探しているのだけど、これがなかなか見つからなかった。中庭を除けば、外にはあまり人がいないから、すぐに見つかるかと思ったのに、意外にも死角になりそうな場所は少なかった。体育館裏なんて定番で良さそうだと思ったのに、意外にもそこには数人の男子が昼食をとっていた。手には学校への持ち込みが禁止されている携帯ゲーム機が握られていたから、没収されないようこっそりとやっているようだ。爆弾とか罠とか部位破壊という言葉が聞こえたので、きっと今流行のアクションゲームを友達同士でマルチプレイしているのだろう。とにかく、体育館裏はダメだった。
「司、まだ大丈夫なのか?」
「ん、んー……。うん、まだ大丈夫」
颯さんが心配そうにボクを見つめる。少し焦っていることがバレているみたいだ。笑顔で返したけど、颯さんの表情は晴れない。
立夏に桜の匂いがすると言われたのが朝。今はもうお昼休みで、13時を過ぎたところ。さすがにここまで時間が経ってしまうと、血への欲求が強くなってくる。ちょっと前のボクだったら、今すぐにでも颯さんの首に齧り付いていることだろう。衝動を抑えられているのは、ひとえに慣れだ。今にもプツンと切れそうな心をなんとかとどめて歩を進めながらあたりを覗う。
「ここでいいかな」
弓道場の裏を通りかかったところで足を止めた。校舎からは死角で、周りにも人はいない。はやる気持ちを抑えつつ、颯さんの袖を引く。
「いや、ここはダメだ」
「どうして?」
余裕がないボクは若干イラッとしてしまい、強く聞き返してしまった。
「食堂の方から丸見えだ」
颯さんが指を指す。その延長上に目を向けると、小綺麗にまとめられた庭の向こうにガラス張りの食堂が見えた。いつも手前の庭にばかり目がいっていたから気付かなかったけど、その奥は弓道場だったんだ。
食堂の中の人はまばらで、雑談に興じる彼らは窓に背を向けている。景観のためにと整備された庭も年頃の彼らの興味を惹くことはなく、ちょっともったいないなと思ってしまった。
「誰かに見られる前にいくぞ」
「ち、ちょっとそんなに引っ張らないでよ」
「急がねーとこっちに気付くヤツがでてくるだろ」
それは分かるけど、どうして顔を真っ赤にするほど恥ずかしいのに手を握るんだろう。気付かれる云々なら颯さんだけでどこかへ行ってしまえば良いのに。グイグイと手を引かれながらそんなことを思って、小さく笑ってしまう。
颯さんがボクの手を掴んだまま歩く。あと数日で七月になろうとしている初夏。太陽の光は肌を突き刺すように熱いのに、ボクの手を包む大きな手はそれ以上の熱を持っていた。
「な、なに笑ってんだよ」
「さあ、なんでだろう」
ボクの曖昧な返事に、ふんっと鼻を鳴らして前を向く颯さん。そのまま歩き続けてグラウンドに出る。一周400メートルのトラックを持つグラウンドの奥の方では、来週末に試合がある野球部の面々がバットの素振りをしていた。
「おー。気合い入ってんな」
広いグラウンドに枯れた男の声が規則的に響く。お昼休みにも練習とは凄まじい熱の入れようだ。そういえば、第一校舎の正面にでかでかと野球部を応援する横断幕があった。それによると、たしか野球部は現在県大会の真っ最中であり、次が二年ぶりの決勝戦。相手はすぐ隣の千里学園高校。数年前に千里学園高校が共学となって以来、多くの練習試合と度々公式戦で相対した結果、今じゃ二校はライバル関係にあるのだとか。甲子園に行けるかどうかの大一番ということもあり、いつも以上に燃えているようだ。
「アイツら、甲子園行けると良いよな」
「……そうだね」
元々スポーツ少年などではなく、こういった熱血スポ根漫画のような学校生活とは無縁だったけれど、司となった今のボクではもうあの輪に入ることができないと思うと、疎外感を覚えて少し寂しくなってしまった。
「ああいうのを青春っていうのかな」
感傷的になっていたせいか、ぽろりとそんな言葉が漏れる。青春とは、夢や希望に充ち満ちた若い時代、大抵中学から高校もしくは大学までの期間を人生の春にたとえたもの。まさに目の前の彼らにピッタリの言葉だ。
「だろうな。でも俺達みたいにダラダラ好きなことをするのも、充分青春してるんじゃないか?」
それはどうだろう。部を立ち上げた本人が言うのもなんだけど、周りからすればボク達のやっていることはただの暇つぶし。青春を謳歌しているとは言いがたい気がする。
「まっ、そういうのは人それぞれ。ソイツが青春してると思えば青春してるんじゃないか?」
「ようは考え方次第ってこと?」
「そういうこと」
「哲学的というかポジティブというか……」
「正しいことを言ったまでだ。実際俺はそれなりに青春してるつもりだしな」
部室で雑談したりお菓子食べたり本を読んだり茜に弄られたり。楽しいかと言われたら楽しいし、充実しているかと言われたらそこそこに充実していると思う。なんだかんだで放課後の時間が経つのは早いし。うん。他人がとやかく言うものではない気がしてきた。
「……うわ。嫌なことを思い出した」
ふいに颯さんが頭を抱えた。「なにを?」とボクが聞くと、苦笑を浮かべてこう言った。
「そういえば前に図書館で会った時、努から部活に誘われて嬉しかった云々って話をしたよな?」
頷く。勉強会の後の話だ。図書館で参考書を借りようとしたところ颯さんと出会って、高い位置にあった参考書を取って貰って、校門まで一緒したのだ。特に変わったことはなかったから、思い出したからといって後悔するようなことはなかったような。
「あれって今思えば、努には言うなよとか言っておきながら本人に言ってたんだよな」
「まあ、もちろんそうなるけど、それが?」
「完全に自爆してるじゃねーか! 自分で本人に暴露とかまぬけにもほどがある!」
颯さんが乱暴に頭を掻き毟る。ボクが努だと知らなかったのだから、それは仕方のないことじゃ……あ、そういえばあの時彼は「絶対に努には言うな」とか言ってたっけ。なるほど。ボクにはこのことを知られたくなかったんだ。知られたくなかったことを、実は自分でバラしてましたなんてことが分かったら、それは恥ずかしいかも。
「まあまあ颯さん落ち着いて」
「落ち着いてられるか! ってそういやお前、あの時笑ってたよな? なんで笑ったのか微妙に分からなかったが、そうか、それで笑ってたのか!」
笑ってたっけ? ……あ、笑ってた。ツンデレだとか笑ってた。
「いいえ、ボクは笑っていません」
「なんで日本語訳みたいになってんだよ」
「ボブはナンシーのことが好きです。しかし、彼女は彼の母です」
「教科書にそんな英文があったら引くよな。……ってそうじゃない!」
「妹の方が良かった?」
「余計悪いわ!」
「ぼぶらぶずなんしー。ばっとしーいずひずしすたー」
「ラブの方かよ完全にアウトだよ!」
「父親の再婚相手の子供だったとしたら?」
「したら、じゃねーよ!」
平日のお昼に放送しているドロドロ愛憎劇ドラマに最適な英文だ。たぶんラストは妹と駆け落ちのように両親の元を去って行って、片田舎で幸せに暮らすのだろう。白菜とか作ってそうだ。
「なんでこんな話に……って、司大丈夫か? 顔色かなり悪いぞ」
朱色に染まっていた顔が瞬く間に強張った。颯さんが肩を強く押すもんだから、頭がグワンと揺れて気持ち悪くなってしまった。
「グラウンドにきたあたりから体に力が入らなくなってきてる。実はもうフラフラ」
「お前、よくそんなんで暢気に話してられたな」
「普通の人間とは作りが違いますので」
「バカ」
真面目に答えたのに怒られた。
「冗談は良いから、行くぞ」
「うわっ!?」
今まで以上に強い力で手を握り歩き出す颯さん。足がもつれて倒そうになると、そっと肩に手を置いて支えてくれた。
「もうあそこしかねーな」
「トイレとか?」
「さすがに女子トイレは無理だ」
図書館にある身障者用の広いトイレのことを言ったつもりなのに。
グラウンドの隅に並ぶ倉庫。颯さんは僕をそこまで連れてくると、一つずつ鍵が開いてないか見て回りはじめた。
「この時間は大抵どれか一つは開いてんだよ」
「またそれは不用心なことで」
「昼休みが終われば先生が見回りに来て全部閉めるから良いんだよ。跳び箱とかマットを盗もうと思うヤツなんて、そうはいないだろ」
「前にニュースで盗まれたとか見たような……」
「よし、一番端が開いてた」
颯さんが鉄製のドアを開き、中に入る。それに続くと、湿っぽい空気に土と白線の粉の匂いで咳き込んだ。
「ここなら大丈夫だ。ほら、どうするのか知らないが、適当にやってくれ」
踵を返してボクと向かい合い、軽く手を広げる。我慢している間はなんとか踏みとどまれていたのに、もう良いと分かると途端に一切我慢ができなくなるのは何故だろう。呼吸が荒くなり、目の前に赤いフィルターが入ったかのように視界が赤く染まる。それでも今のボクはなんとか理性が勝っていた。
「……は、颯先輩。一応噛みつく前に麻酔みたいなものがあるんですけど……その、やり方というか手段というか、それがあまりよろしくない方法でして、しかも今のボクには余裕があまりなくて――」
「痛みくらい我慢すりゃいい。前置きは良いから早くしろ。噛みつくのはどこだ? 首か?」
コクンと頷くと、颯さんはシャツのボタンをいくつか外してはだけ、頭を傾けた。
「じゃあ、血を吸いつつ麻酔をするということで……」
フラフラとした足取りで颯さんの前に立つ。身長差がありすぎて届かない。見上げるボクにすぐさま彼は膝立ちになる。少しだけボクの方が高くなった。
「顔、近いですね」
「あ、ああ。そうだな」
来るであろう痛みに颯さんの声が震える。安心するよう横髪を撫でると、ビクッと体が震え、何故か強張らせてしまった。何をされても怖い、注射を待っているような感覚なのかもしれない。だったら一気にいってしまおう。「いきます」と呟いてから、颯さんの首に齧り付いた。
颯さんの口から小さな声が漏れる。やはり麻酔なしでは痛かったのだろうか。苦痛に顔を歪める彼の姿が脳裏に浮かんだが、それでもボクは離れることなく血を貪った。マラソンを走り終えた後の渇きを潤すように、喉を鳴らして颯の血を体内に取り込む。颯さんの血液型はなんだろう。とりあえずA型(お母さん)ではないと思う。味が段違いだ。B型(美衣)と同等、いやそれ以上だ。
しばらくそのまま吸血を続け、充分に堪能すると傷口を舐めて治してから顔を上げた。視界は正常、動悸も安定している。汗も止まっているし、もう大丈夫だ。
「颯さん、ありが……ぬわっ!?」
グラリと颯さんの体が前に倒れる。慌てて抱きとめ、顔を覗き込む。
「颯……さん?」
颯さんは静かに目を閉じていた。顔の前で手を振っても、呼びかけても反応なし。少し顔色が悪い気がするけど、小さな呼吸音は聞こえるし、脈拍も正常。気を失っているだけのようだ。
血を吸いすぎたかな。もしくは麻酔の毒を颯さんの体に流しすぎたのかもしれない。お母さんはこれをオブラートに包んでフェロモンだとか言っていたけど、端的に言ってしまえばこれは毒。神経に作用する毒だ。血を必要とすると、ボク達はこの毒を無意識下で精製し始める。匂いはその副産物に過ぎない。そうして作られた毒は塗りつけるか直接流し込めば効果を発揮する。もちろん流し込む方が効果は強い。颯さんはこれが初めての吸血、しかも毒を流し込まれたのだから、体への負担も著しいものだったのだろう。
颯さんを肩に担ぎ、部屋の中をグルッと見回す。奥に敷いたままのマットを見つけてそこへ移動し、颯さんをその上に寝かせた。そのままでは寝づらいだろうと思い、迷った挙げ句に膝枕をした。他に枕になりそうなものがなかったのだ。
そうしてもう一度顔色を覗い、さっきよりほんの少しだけ良くなっていることにホッとしたときだった。
ガチャンと音が聞こえて顔を上げた。ドアは元々閉めていた。だから見た目的には何も変わっていない。しかし今も聞こえる金属のぶつかる音が外で行われていることを容易に想像させた。
先生が鍵を閉めにきたんだ。どうしよう。声を上げて止めさせるべきだろうか。いやでもそれだとこの光景を見られてしまう。またいらぬ噂を立てられる。絶対茜あたりが「そんなところで何してたんですか、もう。言わせないで下さいよ恥ずかしいっ」とかなんとか言って暴走するに決まってる。ああでも閉められてしまうとここから出られなく……。
などと思案している間に一際大きい音が聞こえて、砂を踏みしめる音が遠ざかっていった。シーンと静まりかえった倉庫の中、一人考える。
「……どうしよう」
ポツリと零した言葉が空しく小さな部屋に響いた。