その56 「悶えてないよ!?」
「まったく、朝からお熱いことで」
「……」
一年二組の教室。窓際の列の後ろから二つ目の席に座る僕は話しかけてくる立夏を無視して頬杖をつき、窓の外を見ていた。
「時間をずらすヤツらはともかく、予鈴前に手を繋いで登校するヤツなんて早々いないんじゃないか?」
まったくその通りだ。例えばどこかのクラスに全生徒公認のバカップルがいたとしても、朝の往来の桜並木通りを手を繋いで登校という視線を集めること受け合いな羞恥イベントを自ら進んでやることはないだろう。ボクだってやりたくない。やりたくないのに……どうしてああなった?
「それをまさか大人しそうな司がねぇ……。現場を見たとき、あたしは開いた口が塞がらなかったよ」
「……」
当然の反応だと思います。
「……で」
「……ぐぅ」
「いつまで無視してんだ」
「いたっ」
頭に衝撃を受けて反射的に立夏へと視線を向ける。その先には手刀を構えた立夏がにやにやと嫌な笑みを貼り付けていた。
「今ので脳細胞が死んだ」
「学年六位だったんだから、少しぐらい死んでも構いやしないって」
頭を押さえて半眼で見つめても立夏には効果無し。ふふんと鼻で笑ってボクを見下ろしている。身長変わらないのに。
「なに顔真っ赤にしてるんだよ。さっきまであんなに嬉しそうに颯先輩と手を繋いでたじゃないか」
「わー、わー」
両耳を塞いで声を上げから、机に突っ伏す。思い出さないように努力しているのに、なんてことを言うんだ。そんなこと聞きたくない。全然聞きたくない。ああもうまた顔が熱くなってきた。せっかく落ち着いてきたっていうのに、また最初からやり直しだ。冷静に、冷静になるんだ。そうだ、素数を数えよう。……あれ、素数ってなんだっけ。
「はいはい、現実逃避しないように」
両腕を掴まれて持ち上げられる。必然的に体が起されて立夏と目が合う。
「もしかして、今更になって朝のことが恥ずかしくなったのか?」
「……悪い?」
「いや、別に悪いなんて言ってないけど」
ふんっと顔を背けるボクに苦笑する立夏。そうだよ。あの時は良かったんだ。まったく恥ずかしくなかったというわけじゃないけど、隣に首まで真っ赤にした颯せんぱ……颯さんがいたから、なんか安心してしまったのだ。それを今更になって思い返し、かなり恥ずかしいことをしていたことに気付いて、記憶を闇の彼方へ葬り去っている真っ最中なのだ。
あんなに大勢の人の前で、仲良さげに手を繋いで登校しちゃってまあほんとにどこのバカップルだよ。いくら全校生徒にボク達が付き合っていることを知らしめるためとは言え、やり過ぎにもほどがある。
「うぅ……茜先輩に乗せられるんじゃなかった。意地でもノーって言うべきだったんだ」
「今更手遅れだな」
「他人事だと思って……」
「実際他人事だしな。いやー、それにしても登校中の司はかわいかったなあ。先輩と手を繋いで嬉しそうに笑っちゃってさあ」
「それ以上言わないで! 恥ずかしくて死ねるから」
羞恥心で人が死ぬのなら、ボクはもう死んでるんじゃないかと思う。今温度計を顔に当てて計ったらいい数字が記録できそうだ。
「しかし、まさか二人が本当に付き合うことになるなんてな。なんとなくそうなるだろうなとは思ってたけど、驚いたよ」
「そ、そうかな……?」
「どっちから告白したんだっけ? 颯先輩から?」
「は、颯さんからだよ」
「へぇ~。あの人もやるもんだなぁ。で、司はなんて答えたんだ?」
「……ちょっと立夏!」
なんともしらじらしい立夏に痺れを切らしたボクは荒々しく彼女の肩を掴んで耳元に顔を寄せた。
「フリ! 付き合うフリだからね! そこのところ、ちゃんと分かって言ってるんだよね!?」
「わ、分かってるよ。当たり前だろ」
「本当に?」
「本当だって」
囁くボクの剣幕に押された立夏はちょっと引いている。
「それならいいんだけど……」
「全部千沙都と茜先輩から聞いてるから……ん、司っていい匂いするのな。桜みたいな……どこの香水だ?」
「桜? ……あっ。あーそれはたぶんシャンプーか何かだと思う。香水は付けてないから」
不自然じゃないように気を遣いつつ、さっと立夏から離れて椅子に座り直す。桜の匂い。それは無意識にボクが血を欲している証。そういえば最近血を飲んでなかったからなあ。今はある程度我慢できるから、とくに今すぐ問題はないとしても、昼休みには誰かから血を貰わないと。この場合お姉ちゃんが適任だけど、午後から体育だって言ってたから出来れば避けたい。となると事情を知っている颯さんに頼むしかない。ちょっと気が引けるけど、ちょうど昼休みに会う約束もしているし、ちょうどいいか。彼なら断ることもないだろうし。
「シャンプーか、なるほど。あたしもそれにしようかなあ」
「そんなに気に入ったの?」
「ああ。ずっと嗅いでいたいような、凄くいい匂いだった」
「そ、そう。あはは……」
な、なんというか……自分の体臭を褒められるのは微妙な気分だ。
◇◆◇◆
昼休み。
「あれぇ。いそいそと司はどこへいくのかなぁ?」
「うっ……」
お弁当の入った保温箱を手に立ち上がったところで立夏に声をかけられた。朝同様ににやにやとした笑みを貼り付けた顔でボクを見上げている。
「知ってるくせに」
「いやーど忘れしちゃってさあ。誰とどこでお昼を一緒にするんだっけ?」
「立夏ってそんなキャラだったっけ……」
絶対茜先輩の影響だ。ほんとあの人は周りの人に悪い影響ばかりを与える。
「司を見てると構いたくなっちゃうんだよな。まったくその奇抜な容姿がにくいよ」
「ボクだってなりたくてなったわけじゃないよ」
ふんっと鼻を鳴らしてそっぽを向く。ボクとしてはいつものようにちょっと拗ねたフリをしただけなのだけど、立夏にはそう見えなかったらしく、
「……悪い。言い過ぎた」
「えっ。と、突然どうしたの」
振り向くと立夏が机に両手を付いて頭を下げていた。特に怒っているわけでもなかったのでその大袈裟とも言える反応に戸惑ってしまう。
「司のことを考えずに配慮の欠片もないことを言ってしまった」
「全然怒ってないから、顔を上げて。立夏が気にすることはないよ」
そう、立夏が気にすることなんてない。だって……銀髪に違う色の目、そして女の子。どれも本当になりたくてなったわけじゃないけど、今じゃこれも有りかなと思えるんだから。
「……慣れないことはやるもんじゃないな」
少し間を置いて顔を上げた立夏はばつが悪そうに頬を掻いた。
「さっきの授業中からそわそわしてる司があまりにもかわいらしくてさ、ついちょっかいだしたくなったんだよ」
「かわいいって……し、小学生じゃあるまいし」
「未成年というくくりなら小学生も高校生も一緒だよ。悪戯が巧妙になるだけ高校生の方がタチが悪いか」
そう言って立夏がはにかむ。もう大丈夫そうだ。
「……って、ボク、そんなにそわそわしてた?」
「そりゃもう見てるこっちまで緊張してくるほどに」
立夏が苦笑する。思わず頭を抱える。なんてことだろう。何度も何度も時計を見て、落ち着きがないのは自分でも自覚していたけど、それでも周りに気付かれないよう配慮したつもりだった。それが目の前の席の立夏にさえばれていたなんて……って、いつ立夏は振り返ってボクを見たの? さっきの時間に立夏が振り向いたこと、あったっけ?
とにかく、立夏にばれていたということは、最低でもクラスの何人かにも知られているということ。通りでさっきから妙にいつもと違う変な視線を感じると思った。
う、うーん。もしかして、ボクはボクが思っている以上に緊張してる? 緊張というか、颯さんとのお昼を期待してる? ……べ、別に颯さんとのお昼を楽しみにしてるわけじゃないし、別に食べて貰って美味しいとか言われたいわけじゃないし……いや、どうせなら美味しいとは言われたいけど、それだけでボクが喜ぶなんてことはなくて、わざわざ作ってあげたんだから喜ぶのが当然なわけで……。そ、そうだよ。颯さんが喜ぶのは義務にも匹敵する決定事項なんだから、ボクがそんなことを心配する必要はないんだよ。いや、心配してないよ? 心配なんてするもんかっ。
「悶えるのはいいが、そろそろ行かないと颯先輩を待たせるんじゃないか?」
「も、悶えてないよ!?」
反論しつつ、時計を見る。いつのまにか昼休みが始まってから5分が経過していた。あの颯さんのことだ。授業が終わると同時に待ち合わせ場所に向かっていてもおかしくない。
「えっと……それじゃ行くね。お昼一緒出来なくてごめん」
「気にせず早く行けって。颯先輩とよろしくなー」
「颯先輩に、だよね!?」
「ははは。どっちでもいいじゃないか」
「良くない!」
そうしてまたしばらく言い合いを続けて、結局颯さんの元へ向かったのは昼休みが始まって10分後のことだった。