その53 「先輩!?」
時間が止まった。そう思ってしまうほどにみんなの動きが停止し、その視線はある一点に集中していた。その一点の先であるボクと颯先輩だけは、眼前に立つ女の子を驚いた表情のまま凝視している。彼女は両手を胸に抱くようにして強く握りしめ、真剣な顔でボク達の言葉を待っていた。
……こ、これは一体どうしたら……。返す言葉が見つからず、視線を彷徨わせながら、ぐるぐると頭の中を回転させる。いや、返す言葉なら決まってる。「そうです」か、もしくは「違います」の、この二つだけ。質問がボクと颯先輩が付き合ってるかどうかなので、それ以外の答えはない。誤魔化すという選択肢もあるにはあるけど、それじゃこの場のみんなは許してくれないだろう。ボク達が明確な答えを提示するまで、質問攻めに会うのが目に見えている。だから返答は二択。
もちろん嘘偽りなく答えるなら「違います」になる。ボクと颯先輩は親友であり、元親友であり、部活の先輩後輩なのだから。迷うことなく、ここは「違います」と言うべきなのだ。言うべきなのだけど……。
ちらりと隣の颯先輩を見上げる。彼はなんて答えるんだろう。それが気になった。人見知りを大いに発揮して口を開けないというのも、実はある。でも、それ以上に彼がどちらを選ぶのか、それが知りたかった。
あっ。あとそれと彼に全部投げた。ボクじゃみんなを納得させられるような言葉を思いつかないので、彼にこの四面楚歌な状況下でもボク達が付き合っていないということをすんなり受け入れてくれるような素晴らしい一言を期待した。というより期待させて下さいお願いします。
そんな願いを込めて横顔を凝視していると、彼の瞳がこちらを向いた。視線が交差し、そして彼はゆっくりと頷いた。「俺に任せろ」と、そう言ったような気がしないでもなかった。いやもうそういうことにしよう。うん。
ボクを含めたみんなが注目するなか、颯先輩は口を開いた。
「ああ。その通りだ。俺達は付き合っている」
おぉー。さすが颯先輩。ボクとは違う少しも動揺していない、堂々とした口振り。それなら誰もが先輩の言葉を信じて疑わ――
「って先輩!?」
ち、ちょっと待って! 今先輩、なんて言いました!? その通り? 何がその通りなの!? 付き合ってるのがその通り!? なんで!? どういうこと!? これ以上はないくらいに驚愕に目を見開いて先輩の袖を掴む。
「明坂先輩っ。も、もう一度確認のためによろしいですか? 明坂先輩と吉名さんは――」
「付き合っている。そう言ったんだよ」
颯先輩はさっきよりもずっと大きな声で、ここに集まった人全員に聞こえるように言った。
『キャアァァ!』
突如沸き起こる黄色い声。悲鳴のような、歓声のような、きっとそのどちらでもある声は幾重にも重なり校舎中に響き渡った。
「は、ははは颯先輩? ど、どうしてそんな嘘を――んーっ!?」
反論しようとしたら途中で口を塞がれた。
「何も言うな。黙ってここは俺に任せとけ」
耳元で囁くように、しかし力のこもった声で言う颯先輩にコクコクと頷くと、すぐに手を離してくれた。酸素を取り入れながら彼を見上げる。
俺に任せろって、あんな発言をしちゃったあとで、どうするつもりなんだろう。……ボ、ボクと付き合ってるだなんて嘘を付いて……。分からない、分からないけど、もうこうなってはどうしようもないので、先輩に任せるしかない。
「いつから付き合い始めたのですか!? どちらが告白したのですか!?」
質問をぶつけてきた女の子が颯先輩へさらに一歩前に出て近寄る。も、もしかしてこの女の子、新聞部の人? そう思えるくらいに臆すること無く、むしろ目を輝かせて颯先輩に質問をぶつけていく。
「付き合い始めたのは昨日。告白したのは俺からだよ」
「昨日、明坂先輩から、ということですね。では、その時の告白の言葉は!?」
絶対新聞部だ。メモってるし。
「さすがにそれは恥ずかしいな……」
「そこをなんとか!」
恥ずかしい以前にそんなこと言ってないじゃないか。というツッコミはこの場合ダメなのかな。付き合っていること自体が嘘なんだから。うぅ……。なんか心臓が痛い。颯先輩は気恥ずかしそうに鼻の頭を掻いた。そして一つ咳払いをしてから言った。
「……ずっと見ていました。ずっと傍にいたいと思いました。好きです。俺と付き合って下さい」
『キャアァァァァ!』
さっきよりもずっと大きな声が校舎を揺らす。比喩的表現ではなく、本当にビリビリと校舎が揺れた。あまりにも大音量で、ボクは咄嗟に耳を押さえた。窓ガラスが割れなかったのが不思議なくらいだ。
颯先輩と言えば、ボクとは逆の方向を向けていた。表情は見えないけど、首のあたりが真っ赤になっていたことから、なんとなくどんな顔をしているのかは予想できた。そんなに恥ずかしかったのなら、もっと簡単な嘘にすれば良かったのに。
……でも、「ずっと見てました。ずっと傍にいたいと思いました」かあ。嘘でもちょっと嬉しいかも。場違いにもほどがある笑みが浮かびそうになるのを、俯いて必死に我慢する。そうしていると、ふと床に人影が出来た。
「そうか。そういうことだったんだね」
喧噪に混じって聞こえた声。嫌な予感がして顔を上げれば、やたら悟りを開いたような顔をした出間先輩が、新聞部の女の子の横、つまりはボクと颯先輩の目の前に立っていた。
「い、出間先輩……」
「君がボクの告白を断ったのは、あの時既に、君の心には明坂先輩がいたからなんだね」
「い、いえ、ボクが告白を断ったのは単純にあなたがむぐっ――っ!?」
また颯先輩に口を塞がれた。
「何も言うな」
そしてこれまた同じ言葉。とにかくボクは何を言われても静かにしていろ、ということらしい。どう見てもそんなこと言ってられない状況なんですけど……はい、睨まれたので何も言いません。
「一、二年の中間、期末テスト全てで学年順位トップテンを維持し、留学で一年休学したのちに帰って早々の中間テストでは学年一位。それに加えてスポーツも万能で、運動部からは助っ人を頼まれることもしばしば。そういえば僕と一緒に練習試合に参加したこともありますよね。まさか正規の部員である僕と張り合うなんて思わなかったので、あなたのことはよく覚えています。そうですか……あなたですか。あなたであれば、仕方ない」
出間先輩が悟りきった表情で額に手を当ててブツブツと独り言を言っている。周りの喧噪のせいで何を言っているのかまでは聞き取れないけど、しきりに頷いているのが怖かった。
「明坂先輩。あなたであれば僕も安心して彼女を諦めることができ、託すことが出来ます。……僕の分まで彼女を幸せにしてあげてください。……くっ! それでは僕はこれで!」
なにこの展開!? なんか勝手に凄いこと言われて泣かれた!? 驚愕する僕を余所に、出間先輩は仏のような笑みと目尻に涙を浮かべ走り去っていった。……よ、よく分からないけど、諦めてくれたって事は、いいことなんだよね? たぶん。
「……だ」
「ん、先輩、何か言いましたか?」
「なにがだ?」
「あ、あれ? ……いえ、なんでもないです」
去って行った出間先輩の方角を見て何か言ったと思ったんだけど、気のせいだったのかな。
「あ、明坂先輩! 今出間さんと話したことについてもう少し詳しく聞かせて貰っても良いですか!?」
「それなら僕は吉名さんに質問を! いつ頃から明坂先輩のことを気になり始めたのですか!?」
出間先輩が見えなくなってすぐに新聞部の女の子が颯先輩へ、そして新たに現われた男子がボクへと詰め寄り、取材を再開する。この人もメモを持ってるから新聞部だ、絶対そうだ。
「えっと」
颯先輩へ視線を送る。それを分かっていたかのように、ボクを見て小さく首を振る。「何も言うな」は継続中のようです。
「……い、いつなんでしょうね?」
曖昧に答える。
「エンタメ部に入った頃からですか? それとも噂の相合い傘の時?」
やはり曖昧なのは許してくれないらしい。マイクのように持ったボールペンの先がこちらに向けられる。
……あの、これ、この状況、さっきより酷くない? これで収集つくの……? 不安が頭をよぎったその時、足先に何かが当たった。気になって視線を下げてみると、そこには丸い物体が――
ブシュウゥゥゥ。
「――っ!?」
突如丸い物体から煙が溢れ始め、声にならない悲鳴を上げる。すぐに煙は目線の高さを超えて、ボクを包み込んでしまった。煙はボクのところだけではなく、至る所で発生していた。みるみるうちに煙は廊下いっぱいに充満し、それに恐怖を覚えた生徒が悲鳴を上げた。
「ゴホっ」
煙が目に染みて痛い。煙を吸い込んで咳が出る。目に涙を滲ませながら口元にハンカチをあて、周囲を見回す。目の前にいたはずの男子が見えなくなって動揺するものの、隣にいる颯先輩だけはかろうじて見えた。慌てて手を伸ばす。
しかし、伸ばした手は何も掴まず、代わりに煙の中から現われた手に、逆に手首を掴ませてしまった。恐怖にビクッと体が震え、すぐに腕を引っ込めようとしたけど、力が強くてビクともしなかった。
「はろう。つかさっ」
「あ、茜先輩!?」
ボクを掴んだのは茜先輩だった。場違いなほどににこやかな笑顔で現われた茜先輩は、手を離すことなく、もう一方の手で丸い物体をどこかにぽいっと投げてから、煙の中に突っ込んだ。って、この煙は茜先輩がやったの!?
「そんじゃ、司、颯先輩、走りますよ!」
「えっ、ちょっと――っ!?」
ボクの言葉を待たずに茜先輩が走り出す。手首を掴まれているボクも引っ張られるようにして無理矢理走らされる。
「じゃまじゃまー!」
すぐ前方から茜先輩の声だけが聞こえる。煙と人をかき分けて進む彼女は速度を緩めることなく前進する。まるで彼女にだけは煙の先が見えているかのように。やがて煙が途切れ、視界が開ける。と同時に左へ曲がり、第一校舎を出て渡り廊下へ。隣を見れば僕と同じように茜先輩に捕まった颯先輩の姿があった。
「お前、あれはやり過ぎだろ!?」
「あ、やっぱりそう思います? まさかあんなに煙が出るとは思わなかったんですよ。さすが特注品」
振り返り、てへっと舌を出す茜先輩。
「だったら最後まで煙り玉を投げるなよ!」
「持ってても腐らすだけですから、いいやと使い切っちゃうことにしました」
茜先輩の言葉に、颯先輩は呆れ顔でため息をついたけど、笑みを浮かべて、
「まったく……。でも助かった。ありがとう」
「お安いご用です」
茜先輩が笑う。渡り廊下を半分ほど過ぎたところで手を離してくれた。それでも走るのはやめない。茜先輩が携帯電話を取り出す。
「ホームルームまで15分、か……。急いで部室まで行きましょか」
「部室、ですか?」
「そっ。このまま教室に行っても困るっしょ?」
茜先輩と颯先輩は平気な顔をして、ボクだけ息を切らして第二校舎に入り、階段を駆け上がる。4階まで上がり廊下へ出ると、部室の前に沙紀先輩が待っているのが見えた。部室の前で立ち止まり、茜先輩がポケットからカギを取り出し、沙紀先輩に手渡す。
「おはよう。颯先輩、司」
ボク達に挨拶をしてから、カギを使い部室のドアを開ける。
「こんな時間に部室に来るなんて初めてだから、少しワクワクするわね」
まずカギを開けた沙紀先輩が部室に入り、それに颯先輩、ボク、茜先輩の順に続く。何をするつもりなのか分からずぼーっと立ち尽くすボクの肩を沙紀先輩が後ろに回り込んで手を置き、ソファーの方へと押していった。ボク、沙紀先輩、そして颯先輩がソファーに座り、茜先輩だけは正面のホワイトボードの前に立った。
「じゃ、時間もないしすぐに始めますよ。議題はもちろん、新聞部の記事と朝の騒動をどうやって乗り切るか!」