その5 「吸血鬼!?」
脱衣所を出て、廊下を走る。リビングの前で立ち止まり、蹴破る勢い(あくまでも勢い)でドアを開けた。
「ちょっとお母さん。なんだよこの服は! 背中のファスナー締めるのにどれだけ苦労したとおも――うわっ!?」
勢いよくドアを開け放したせいで風が起こり、ふわりと膝丈スカートが舞い上がった。慌てて裾を押さえて、捲れないようにガードする。
あ、危ねぇ……。男物ならいざ知らず、女物のパンツを穿いているところなんて見られたら一生の恥だ。誰にも見られてない……よな?
ゆっくりと顔を上げて、ダイニングテーブルに座る二人に視線を送る。お母さんと美衣は無言のまま、顔の前で手を横に振った。良かった。見えなかったらしい。ほっと胸を撫で下ろす。
「……お、お兄ちゃん、女の子みたいだね」
「不本意ながらも『みたい』じゃなくて、本当に女の子なんだけどな」
「そうじゃなくて、そのスカートを押さえる仕草とか、その恥ずかしそうな表情とか」
「仕草、表情……?」
何気なく視線を下ろす。白いワンピースを着た自分の姿が見える。足は内股で、両手はスカートの裾をギュッと掴み、軽く曲げた膝の上に置いている。
続いて周りを見回し、戸棚のガラスに映る自分を見つける。ガラスに映るボクは、頬をうっすらと赤く染め、少しだけ俯き気味に睨んでいる。しかしそれはまったく威圧感がなく、潤んだようにも見える目もあいまって、なかなかに女の子女の子していた。
「な、ななっ……」
む、無意識に……無意識にこれをボクがやってしまったのか? マジで? 本当に? 数時間前まで男だったのに? 女物のワンピースを着ただけで?
ぼんっと音が聞こえそうなくらいに、顔が一瞬にして熱くなる。頭がくらっとして、近くの壁に手をつく。
「どうしたの? 顔真っ赤だよ?」
「へっ? いやっ、美衣、こ、これは……っ!」
何か言い訳をしようとするが、考えがまったくまとまらず、しかも動揺しすぎて上手く喋れない。
「あ、お兄ちゃん照れてる? そのワンピースも凄く似合ってるよ」
「にあっ!? はっ、なっ、はぇ!?」
ますます熱くなる。頭の中の神経みたいなものが、ブスブスと焼け焦げる音が聞こえた気がする。
「でもお母さんも準備いいね。どこからあんな服を出してきたの?」
「タンスの奧からよ。昔美衣に着せるつもりで買って、そのまま着せることなくこやしになった服が何着かあるのよ。それにしても司、よく似合っているじゃない。かわいいわよ」
「んなっ!? ……か、かわいいなんて言うな」
「お兄ちゃんかわいいよー」
「んなー!」
頭を両手で挟んでふるふると横に振る。その間にも美衣が「かわいいよー」と連呼し、ボクは「うっさい」やら「それ以上言うな」やらと返す。
しばらくそれを繰り返し、やがて美衣が飽きたことでループは終わった。ぜーぜーと息をつきながら視線を戻すと、ツゥーとお母さんの鼻から血がしたたり落ちていた。
「姉妹が仲良くお喋り……一方は言葉責め。そしてもう一方は頬を染めてイヤイヤと顔を振る。ふぅ……いいわね。これだけでご飯三杯はいけるわね」
「お母さん。鼻血出てるよ」
美衣が冷ややかな目をして言う。
「あら、勿体ない」
お母さんが鼻血を拭き取るが、後から後から泉の如く湧いてくるそれはあっという間にティッシュ数枚を真っ赤に染め上げた。
「ふふ。今日は絶好調ね」
変態だ。変態がいる。どうしようもない変態が――っ!?
そのとき突然、心臓がドクンと鳴った。心拍数が異様に上昇して、大きく瞳孔が開いた。なんだか少し呼吸も荒い。どうした? 病気か? 風邪か? 風邪なら薬を飲まないと。薬箱はどこにおいてあるんだっけ。
「ねえ、お母さん。薬箱の、場所、は……」
眼前の光景に、ボクの言葉は途中で消え去る。お母さんは美衣からティッシュを受け取り、鼻血を拭いている。拭いても拭いても鼻からはまた新たな血がしたたり落ちていた。その血はとても綺麗な赤色だった。粘性もなくサラサラとしていて、何故か目が釘付けになった。
……釘付け? いやいやあれはただの変態の鼻血だぞ? なんでじっと見つめているんだボクは。変な物に興味を持つのはボクの悪い癖だ。とはいえ、それがお母さんの鼻血とは、さすがに自分にドン引きだ。
「ねぇ、司」
お母さんが優しげな声色で話しかけてきた。
「な、なに?」
「お母さんの血がほしい?」
「……はっ!?」
心を読まれたのか? という驚きより、コイツなにキモい発言をしてるんだ、という驚きが勝った。
「でも、いくら血がほしいからって、鼻血はダメよ」
そう言うと立ち上がって、キッチンから包丁を持ってきた。そして、
「お、お母さん!?」
美衣が叫ぶ。なんとお母さんは、右手の小指に包丁を当てて、何の躊躇もなくサッと引いたのだ。ちゃんと手入れしてあり切れ味の良い包丁は、楽々と小指の皮を切り裂いた。すぐに傷口から血が溢れだし、鮮血が指を伝っていく。
「はい、司」
血の滴る小指を差し出す。ボクはふらふらと、まるで吸い寄せられるかのように近づく。血……。さっきのよりも綺麗で美味しそうな血。
「お、お兄ちゃん、どうしたの?」
事態を飲み込めない美衣が声をかける。だけど、どうしたと聞かれても、当のボクがまったく分かっていないんだ。応えようがない。というより、体が言うことを聞かなくて応えられない。
のろのろとした動きでお母さんの手を掴み、滴った血を舌で舐め取る。そして鮮血滲む小指を口に含んだ。……美味しい。血ってこんなに美味しいものだったんだ。知らなかった。ほのかに鉄の味がするけど、決して嫌じゃなかった。むしろそれが血の味を引き立てていた。
血を吸うボクを、美衣は何も言わず見つめている。ただ、表情はとても困惑していた。お母さんを見上げると、優しい笑みを返された。ボクの頭にお母さんが手を置く。
「そろそろ落ち着いた?」
小指を離し、胸に手を当てる。いつの間にか胸の鼓動は元に戻っていた。
「二人とも驚いたかもしれないけど、論より証拠、説明する前に見てもらおうと思ったの」
「ど、どういうことなの? さっきのあれ、どう見ても血を吸っているように見えたんだけど……」
美衣の言うとおり、ボクはさっき血を吸っていた。まるで映画とかで見るような吸血鬼のように。
「ええ、そうよ。司は血を吸っていたの。吸血鬼だから」
『吸血鬼!?』
ボクと美衣の声が綺麗に被る。お互い顔を見合わせ、そしてお母さんへと目を向ける。
「マジで?」
「マジよ。ちゃんと説明してあげるから、とりあえずそこに座りなさい。せっかく作ったお昼ご飯が冷めてしまうから、食べながら話しましょ」
促されて、美衣の隣に座る。こんな状況でご飯なんか……と思ったが、くぅ~とお腹が主張してきたので食べることにした。メニューはたらこのパスタと味噌汁。そこはスープだろうというツッコミはしない。我が家ではこれが普通だから。
「お母さんの一族はね、大昔は吸血鬼だったらしいの。でも今では吸血鬼の血も薄れて、一族のほぼ全員が普通の人間になってしまった。お母さんもそのうちの一人よ。だけどね、たまーに先祖返りをして、吸血鬼の子として生まれることがあるの。その子は幼少期から成人するまでは一見普通の人間と変わらないのだけど、成人が近づいてくると、突然原因不明の高熱に冒されるの。そしてそれが完治すると、先祖返りの子は吸血鬼となり、今までの仮の姿を捨て、本来のあるべき姿に戻るのだそうよ。それが昨日までの熱の正体。お母さん達は『吸血鬼化』と呼んでいるものよ」
お母さんは一息に話し続け、お茶を啜り、ふぅとため息をついた。
……ふむ。なるほど。分からん。お母さんの話は理解しがたかった。え? お母さんの家系があの空想上の生き物の吸血鬼? それで希に先祖返りする子が生まれて、吸血鬼になる? そのときついでに姿も変わる? なんてファンタジーな話なんだ。
「でも、姿が変わるからって、体型や性別まで変わるなんてね。普通は髪や瞳の色が変わるくらいらしいのだけど……。司は、希も希、ちょーレアケースってことなのかしら?」
首を傾げられても、ボクも美衣も答えられない。
「つまり、お兄ちゃんは本当は吸血鬼の女の子で、今までのお兄ちゃんは偽物だったってこと?」
「そういうことになるわね」
「なるほど。納得」
「理解早いなっ!?」
美衣がきょとんとした顔でボクを見る。
「だって、実物のお兄ちゃんがここにいるわけだし、お母さんが私達に嘘をつくことはないもん」
「ま、まあたしかに……」
「安心して。お兄ちゃんのことは忘れないから」
「もう過去の人!?」
「これからよろしくね。お姉ちゃん」
「お姉ちゃん!?」
じ、順応早いな……。
「あ、そうだ。お母さん」
「なにかしら?」
「さっきお姉ちゃんが血を吸ってたとき、両目が赤く光ってたように見えたけど、きのせい?」
「いいえ。吸血鬼は血を吸うときや、ある特定の状況下で赤く光るらしいわ。早々光るもんじゃないから気にしなくても大丈夫。ああ、目といえば、その色違いの瞳は成長段階の吸血鬼にだけ見られるものらしくて、成人するころにはちゃんと両目とも青くなるそうだから、安心しなさい」
「は、はあ」
気の抜けた返事をする。突然吸血鬼だと言われ、赤い目はそのうち青くなるから安心しろと言われても……。それ以前に吸血鬼のくだりで安心させてほしい。嘘でしたとか、そういう言葉で。それにしても、目、光ってたのか……。
「吸血鬼ってことは、お姉ちゃんはこれから昼間に外へ出られなくなって、十字架とかにんにくが嫌いになるの?」
「そういうことは一切ないわ。人と違うのは、ただ血を吸うことだけ。あと、人よりも強い力が出せるってことかしら」
言いながら、お母さんはボクを見て人差し指を向ける。
「でも、この吸血鬼の力を使うときは注意しなさい。使っている間は目が赤く光るし、後で血がほしくなるから」
「つ、使うかっ。そんな得体の知らない物」
「それならいいのだけど。ほら、ついってこともあるでしょ? ちなみに力さえ使わなければ、一週間くらいは血を飲まなくても大丈夫よ。飲みたくなったらお母さんに言いなさい」
一週間……長いような短いような。でも、その度にお母さんは指を切るつもりなんだろうか?
「……毎回手を切るのは痛いんじゃ? 輸血の血とかそういうものでも……」
「新鮮な血じゃないと飲めた物じゃないらしいわよ。司が気にすることはないわ。お母さんは、それが子供のためだと思えば何でも嬉しいわ」
お母さんがそう言い、微笑みを浮かべる。
「お母さん……」
ちょっとウルッとくる。いつもはどこかおかしいお母さんだけど、決めるときはきちっと決め――
「お母さん結構Mだから!」
「……あーそー」
感動して損した。我が子相手に何言ってんだろうこの人……。
「それに、血を吸うなら首筋に噛みつくのがいいらしいわよ。あまり相手も痛くないし、血も大量に吸うことが出来るそうよ」
映画や漫画で良く見るアレか。たしかに、絵面的にもそっちのほうがいいかも。でもそれだと噛んだ跡が残ってしまうんじゃないか?
「傷跡は?」
「ひと舐めすると傷跡は消えるって言ってたわ」
舐めると治るだなんて本当にファンタジーみたいだ。って吸血鬼なボクが一番ファンタジーな存在なんだけど。
「これで司の体については話したかしら。もしまた何か思い出したら、その都度教えるわ。さて、時間もそんなにないし、今日から忙しくなりそうね」
「ん? 時間ってなん――」
「司は早く食べちゃいなさい。伸びるわよ」
「へ?」
お母さんがいつの間にか空になった食器を持って立ち上がり、流しへと向かう。横に目をやると、美衣もあらかた食べ終わっていた。視線を落とした先には、ほとんど減っていないパスタの山。慌ててパスタをフォークに巻いて口に運ぶ。
「ところでお姉ちゃん。さっきその服嫌がってたけど、どうして着替えてこなかったの?」
「着替えてって、どこで?」
行儀悪くパスタを口に含んだまま、質問を質問で返す。服はこれしか置いてなかったんだ。他に着る服なんて――
「お姉ちゃんの部屋」
……あ。女物は恥ずかしいと言っておきながら、部屋にある男物の服を着るなんて考えが、ごま粒ほどにも思いつかなかった。
……頭悪いな、ボク。