その45 「どっちがいい?」
窓から外を見上げれば星が見える。たとえ街のネオンに照らされて目にすることはできなくても、そこで星はたしかに輝いている。……なんて、ちょっと詩人になってみる。恥ずかしくて口にはできないけど、そうして夢見るくらいはいいと思う。今のボクは女の子なんだし。
あの後、沙紀先輩はボクが泣き止むまでずっと傍にいてくれた。「こういうのもいいわね」と笑う彼女はいつも通りで、背中をさする手は温かかった。それでまたボクは泣いてしまった。
二人とも部室には戻らず、頼まれた用事が思っていた以上に時間がかかってしまったと嘘をついて、先に家へと帰った。家に帰って、寝て、気付いたら夜になっていた。起きると枕は濡れていた。泣きながら寝ていたらしい。
そして現在。久しぶりに止んだ雨上がりの夜空を、ベッドの上で見上げていた。今まで溜め込んでいたものを、涙として吐き出したからなのか。今のボクは晴れ晴れとしていた。今なら立夏やちさとガールズトークもできそうだ。……いや、やっぱりまだちょっと早い、かな?
コンコンとノック音。振り返らず、「はーい」と美衣のように間延びした返事をする。ガチャリとドアが開き、誰かがベッドの傍にやってくる。
「こっちに来なよ、美衣」
美衣が息を飲んだ。もう十何年も一緒に暮らしているんだ。足音だけで誰か分かる。おずおずと美衣がベッドに乗り、ボクの隣りに座る。
「……星、あんまり見えないね」
「街の方の明かりが邪魔してるから、しょうがない」
ちらりと美衣を見る。ボクより一回り大きい妹。いや、今はボクが妹なんだっけ。小さく笑って、そっと美衣の肩に頭を乗せる。一瞬ビクッと揺れたけど、それだけだった。
そのまましばらく二人で夜空を眺める。赤く晴れた目を見たはずなのに、美衣は何も言ってこない。時折ボクに視線を向けるだけだ。
「で、なんの用?」
夜空を見上げたまま問いかける。
「お母さんがご飯だから降りてきなさい、だって」
「もうそんな時間なんだ。……だから空がこんなにも暗いのか」
「お姉ちゃん、ずっと寝てたもんね」
美衣がボクの頭に手を乗せる。髪を梳くように撫でられて、思わず目を細める。
「こうしてると、わたしがお姉ちゃんみたい」
「お姉ちゃんじゃないの?」
ボクの言葉に美衣が絶句する。ボクが家の中で妹として振る舞ったことはない。あくまでもボクは美衣の姉であり、妹というのは外向けの態度に過ぎなかったからだ。
「……お姉ちゃんは、妹になるのが嫌なんだよね?」
「今更そんなことを聞く?」
美衣の声が沈んでいたので、あえて茶化してみる。
「お姉ちゃんが嫌なら、お姉ちゃんはお姉ちゃんのままでいい」
「妹がほしかったんじゃなかったの?」
「わたしはお姉ちゃんみたいな妹がほしかったの」
美衣は力強く言った。ボクは態度を変えない。
「シスコンさん」
「シスコンでいいもん」
ふんっとそっぽを向かれてしまう。ボクはこっそり笑って夜空に視線を戻す。
「小さかった頃も、ここでこうして空を見上げてたよね」
美衣の体が揺れる。と同時にボクを見て目を見開いた。彼女のこんな顔を見るのは三ヶ月ぶりだ。
「お姉ちゃん、もしかして……」
美衣はそれ以上言わない。まだ彼女の中でそれが確定事項ではないから。だからボクはそれが正しいと、頷いてみせる。
小さかった頃の記憶。ボクはそれをずっと単純に忘れてしまったのだと思っていた。幼稚園へ楽しそうに通う美衣を送り出す、赤と青の目をした銀髪のボク。美衣よりも二歳年上のはずなのに、美衣よりも小さかった女の子の、吉名司。
「ずっとおかしいと思ってたんだ。美衣がすぐに『お姉ちゃん』って言ったことを。ボクをいまだ妹扱いできていないのにね」
「だって、お姉ちゃんはお姉ちゃんだから」
美衣の一言で確信する。ボクは生まれたときから吉名司だった。それが先祖返りしたこの体のせいで努となり、今また司に戻ったのだ。
「美衣も大変だね」
姉だと思っていた人が兄になり、そして今は姉であり、妹に。三ヶ月前、ボクが司になったとき、美衣はボクを見てどう思ったのだろう。
「お姉ちゃんに比べたら全然だよ」
美衣が言い切る。こういうことって本人よりも周りが辛いと思うのだけど、美衣はそう思っていないようだ。お母さんやお父さんもそうだったのだろうか。記憶の中のお母さんは優しく微笑んでいた。今の底抜けに変態染みた明るさではない、四月の太陽のような暖かさ。あっちが元来のお母さんなのだろう。
『馬鹿みたいに明るい家庭を作りましょ。そうすればきっと、どんなことがあっても、司は司のままでいられるわ』
記憶の片隅の思い出。小さなボクを抱いたお母さんはそう言っていた。
「ボクはお母さんやお父さんにも迷惑かけてたのか」
「誰も迷惑だなんて思ってないよ」
「……うん。そうだろうね」
これでもお母さん達の子供なのだ。どんな風に思ってくれているのかくらいは分かる。鬱陶しいぐらいに。
よしっ、とボクは気合いを入れて立ち上がる。ベッドの上だったからバランスを崩して倒れそうになる。美衣が手を伸ばすけど、その手が届く前にベッドから飛び降りた。くるりと回って美衣の方を向く。
「美衣に選ばせてあげる。姉と妹、どっちがいい?」
右手を腰に当てて、偉そうに言う。突然のことに美衣が目をぱちくりさせている。
「ほら、どっちがいい? 遠慮とかしなくていいからさ」
「え、えっと……どっちもがいい。わたし、妹がほしかったけど、お姉ちゃんもほしいから」
美衣は戸惑いつつも、はっきりと答えた。予想はしていたけど、まさか本当に言うなんて。ボクは自然と笑みを浮かべた。
「よくばりさんだなあ」
「うん。好きだからよくばる」
そう言って、やっと美衣がはにかんで笑う。ボクはため息をついて「しょうがないなあ」と肩を竦める。
「いつもは妹、時々お姉ちゃん。それでいい?」
「うんっ」
美衣が首を何度も縦に振る。嬉しそうな美衣を見て、これで良かったんだと心から思う。けれど……あーあ。せっかくしょうもない自尊心とか見栄を捨て去って、今の微妙な姉妹関係をはっきりさせようと思って言ったのに、結局こうなってしまった。美衣のことをシスコンなんて言ったけど、ボクも大概だ。
「じゃ、明日からそうするよ。お母さんとお父さんを待たせてるだろうし、そろそろ下に降りようか」
「えー。今日からじゃないの?」
「いろいろ準備があるんだよ。一区切り付けたいしね」
「むー」
美衣が頬を膨らませる。ボクは苦笑して、いまだベッドの上にいる美衣に手を差し出す。
「早くしないとお母さんに怒られるよ? 『お姉ちゃん』」
「うんっ」
満面の笑みでボクの手を取る。これじゃどっちが妹なんだか。まっ、手間のかかるお姉ちゃんというのもいいかな。
部屋を出て、階段を降りる。姉である美衣の手を握りしめ、妹であるボクが引っ張っていく。変わったような変わってないようなそんな関係。でもボクはたしかに変わったと思う。お母さんとお父さんにはなんて説明しよう。そんなことを考えながら、リビングへと続くドアを開いた。
◇◆◇◆
それから一週間後。
「んーっ」
眠い目を擦りながら、窓を開いて背伸びをする。一昨日から止んだ雨のおかげで久しぶりの青空。雨で洗われた空気は澄んでいて、そよそよと吹く風が頬にあたって心地いい。
今週から目覚ましを一時間半早くセットするようにしました。寝起きが良ければ一時間でもいいけど、悪いから三十分さらに早起き。おかげで夜は二時間早く寝ないといけなくなったけど気にしない。え? 寝る時間が三十分長くなってる? 気のせい気のせい。
窓を開け放したまま、パジャマから制服に着替える。寝ている間はブラはしない主義なので、引き出しからショーツと同じ色のブラを取り出して付ける。その上にキャミソール、ブラウスと着てリボンタイを結ぶ。スカートと靴下を穿き、姿見で身だしなみをチェック。鞄を引っ掴んでリビングへ。
「お母さん。おはよう」
キッチンに立つお母さんを後ろからぎゅっと抱きしめて挨拶する。朝早いから他にはまだ誰もいない。
「おはよう。司」
「お母さん、鼻血出てる」
「愛よ」
お母さんから離れて、ダイニングテーブルに備えてあるティッシュを渡す。毎度毎度抱きつく度に鼻血を出すのはやめてほしいけど、最近は諦め気味。
「お母さん。ボクは何をすればいい?」
エプロンをしてお母さんの隣に立つ。
「そこにある野菜を使ってオムレツ作ってくれる?」
「りょーかい」
野菜オムレツは昨日お母さんに教わったばかり。上手にできるか分からないけど、頑張ってみよう。
一時間半も早く起きた理由はこれ。お母さんから料理を教わりつつ、お弁当を作っているのだ。せっかく料理に興味を持ったのだから行動しないと勿体ない。というわけでお母さんにお願いしたところ、「挨拶の時に抱きしめてくれたら喜んで教えるわ」と相変わらずの変態さを滲ませつつ了承してくれた。まだまだ手を火傷したり切ったり擦ったりするけど、やってみると案外面白くて、少しずつだけど腕も上達していてやりがいというものを感じている。
そうしてお母さんと二人キッチンに立つこと一時間。なんとか満足のいくオムレツを焼き上げ、四人分のお弁当を詰めたところで、後のことを任せてキッチンを離れる。まずは一階のお母さんとお父さんの寝室。ノックしてから入り、ベッドの傍に行く。
「お父さん、朝だよ。そろそろ起きて」
「んん……。もう朝か」
「うん。おはよう」
「おはよう、司」
お父さんからベッドから出たのを確認して二階へ、今度はみ……お姉ちゃんの部屋だ。同じようにノックしてから部屋の中に入る。
「お姉ちゃん、朝だよ。起きて」
案の定起きない。こうしてボクが起こしに来るようになってからというもの、お姉ちゃんはなかなか起きてくれなくなった。前はボクを起こしに来てくれていたのに……もしかして、姉もしくは兄になると朝が弱くなるとか?
最初は遠慮して起こしていたけど、今は遠慮なんかしない。布団を両手で掴み、思いきってお姉ちゃんから引きはがす。
「お姉ちゃん!」
声を張り上げる。と言ってもボクじゃそんなに大きな声は出せないけど。
「ううーん。まだ眠い……」
お姉ちゃんの手が布団を求めて彷徨っている。ちょっと面白い。
「起きないとウニぶつけるよ」
「うっ……」
ビクッとお姉ちゃんの肩が揺れる。……起きてる。
「き、今日はお姉ちゃんモードで起こして……」
どう見ても起きているのに、起こしてとはこれいかに。
「はあ……。毎日毎日日替わりで変えてくるなんて……」
わがままな要求にため息が漏れる。でもそれに応えようと思ってしまうのだからどうしようもない。
頭の中を『努』だった頃に切り替える。美衣の言う『お姉ちゃんモード』というのは、正確には『まだ努だった頃の司』のことだ。ちなみに切り替えると言っても、ボクの本質はあくまでも司だから、努に切り替えるというのは、『努だった頃の言動や性格までも思い出して、あの頃と同じように振る舞う』ことだ。普通にそれっぽく振る舞うのではなく、性格や言動までも変えるからかなり別人になってしまう。有り体に言えば、軽い二重人格みたいなものだろうか。どちらもボクだから本物の二重人格というわけではないけど。
「ほら、美衣。いい加減起きろ。遅刻するぞ」
途端に美衣の目がぱっちりと開く。
「かわいいのにかっこいい。朝はやっぱりこっちかなあ~」
伸びをしつつ美衣が言う。
「やらされるこっちの身にもなってほしいんだけど……」
頭の中をいつものボクに戻してお姉ちゃんを睨み付ける。
「あはは。司って器用だよねー」
「どっちかにしてくれた方がボクは疲れないんだけどなぁ」
「え、それ疲れるの?」
「うん。思考とかいろいろ、上辺以外も変えるから」
「へー。器用だねー」
「じゃあ止めてくれる?」
お姉ちゃんは首をゆっくり左右に振って、親指を立てた。
「いやだっ!」
「そう言うと思ってました」
がっくりと肩を落とす。なんか最近お姉ちゃんが凄くお母さんっぽくなってきた気がする。先行き不安だ。
「もうボクは戻るよ。早く降りてきてね」
「はーい」
間延びした返事を背中に聞いて、ボクは部屋を出た。朝から疲れる。けど、こんな毎日もいいかなって、ボクは思ってる。一階に降りて、まだまだ眠そうなお父さんの背中を押しつつ、ボクはリビングに向かった。