その44 「まだ、分かりません」
どこかの公園。ボクは大きな噴水のある広場で誰かを待っていた。時計を見て、あたりを見回す。ボク以外に誰もいない。噴水の音だけが心地良く耳に触れる。
ふと自分の姿を見下ろす。ボクは白の清楚なワンピースを着ていた。こんなの持ってたっけ? と首を傾げて、なんでこんな少女趣味な服を着ているんだ!? と動揺する。
「司-!」
遠くからボクを呼ぶ声が聞こえる。目を凝らして見やれば、元親友の颯だった。彼はボクに駆け寄り、緊張した面持ちで切り出した。
「つ、司は誰か付き合っているヤツとかはいるのか?」
制服姿の颯が少し顔を赤らめて言う。
「いえ、いませんけど……?」
特に考えもせず反射的に答える。あれ、この展開どこかで……。
「そ、そうか。だったら俺と付き合ってくれ!」
「……はい?」
瞬間、思考がフリーズする。……突き合ってくれ? 餅? 正月にはまだ早いのに? 軽く現実逃避。その後数秒かけて意味を理解したボクは声の限り叫んだ。
「はぁ!? おまっ、ちょっと待て!! なに寝ぼけたこと言ってんだ!?」
「寝ぼけてない。本気だ」
真剣な表情。だめだコイツ。目を覚ましてやるしかない。
「ボクは努だ! 吉名努!! お前の親友だ!」
周りに誰もいないことをいいことに、ついにボクは正体を明かしてしまった。なんて言われるだろう。拒絶されるだろうか。心臓をドキドキとさせながら彼の言葉を待つ……必要はなかった。
「そんなこと知ったことか! 俺は司が好きなんだ! 前世がなんだろうと関係ない!」
すぐに返ってきたのはまったく予想もしていなかった言葉だった。また思考がフリーズする。ボクだと分かったうえでも好きだと告白してくれて、嬉しいのかキモいのか殴り倒したいのかよく分からない気持ちがごっちゃになる。
「ぜ、前世って人を勝手に殺すな! って、おい、ちょっと、なに近づいてきてるんだよ……」
「好きなんだ。キスさせろよ」
「き、きすぅ!?」
声が裏返る。顔も熱を持ち、凄く熱い。
な、な、ななななに言ってんだコイツ!? きす!? あのフライにしてタルタルソースで食べると美味しい海のアイツのことか? それはきすだ! あ、文字的には同じだ。って感心してる場合じゃない!
ゆっくりと歩み寄る颯。伸ばした両手が今にも届きそうで、彼が一歩近づく度に一歩後ずさる。
「なんで逃げるんだ。好きなんだ。キスさせてくれよ」
「お前はちょっと頭を冷やせ! 自分が何しようとしているのか分かってるのか!?」
「ああ。司にキスしようとしている」
「訂正する。正気に戻れ!」
「俺は至って正気だ」
「どこが!?」
と、そのとき、ドンと背中に何かが当たった。驚いて振り返る。
「司、つーかまーえたっ」
「もう逃がさないわよ」
「つーちゃん柔らかいですー」
「へっ!? い、いつのまに!?」
茜、沙紀が両腕を掴み、ちさが腰に纏わり付いていた。
「あ、茜先輩! 沙紀先輩! ちさ! 離れてください!」
「いーやー」
「それは無理な相談ね」
「つーちゃんすべすべですー」
一人受け答えできてないヤツがいるけど、三人ともボクから離れるつもりは毛頭ないことだけは分かった。一人だけでも無理なのに、三人がかりじゃ腕一つ動かすことが出来ない。こうなったらしょうがない。吸血鬼の力を……って、あれ、力が湧いてこない?
「司……」
「ひっ」
颯の両手がボクの頬を包み込む。視界いっぱいに広がるのは颯のとてもとても真剣な顔。やばい。やばいやばいやばい。頭の中で警報が鳴る。頬が熱くなると同時に、背中を冷や汗がダラダラと流れる。
「好きだ……」
颯が目を閉じ、ゆっくりと顔が近づけてくる。逃げようと藻掻いても体はピクリともしない。イヤイヤと顔を振ることも出来ない。
「ちょ、まっ、まって、すとっ……い、いやだ。こんなの。絶対――っ!」
あと数センチ。心の底から叫び声を上げようとしたその瞬間。プツリとボクの意識は途切れた。
◇◆◇◆
「ったぁー……」
鋭い痛みを感じて目を開く。そこは自分の部屋で、けれどもいつもと少し違う光景だった。頭をさすりながら体を起こす。ベッドから落ちたらしい。道理で痛いはずだ。
「……今のは夢か」
たしかに今思えば現実味がなかった。いくら颯に告白されたからって、あんなタイミングで自分の正体を明かすなんてありえない。それでも夢をみている間はそれを夢だと思わないのだから不思議だ。だとしても、なんだよあの夢の内容は……。
「……欲求不満なのか?」
自分で言っておきながら恥ずかしくなって、そそくさとベッドに上がり、布団に潜り込む。手足を丸めて目をギュッと閉じる。心臓がドキドキと激しく鼓動して、冴えてしまった頭ではもう一度眠ることは出来なかった。
◇◆◇◆
雨の中を登校して教室へ行くと、珍しく今日は立夏がいなかった。持ち主のいない机をぼーっと眺めて時間が経つのを待っていると、ぽんっと肩を叩いて彼女が現われた。
「おっはよう。どうした? そんなアンニュイな顔をしてさ」
今日も立夏は元気だった。脳天気とはまた違う彼女の明るい性格は見るだけでこちらも気分が良くなってくる。
そうだよ。ボクは何をうじうじと考えているんだ。朝にあんな夢を見たからって、昨日颯に……ボ、ボクに彼氏がいるかどうかって聞かれたからって、それで思い悩むことは一切ないんだ。颯だって、きっとただ単純に先輩が後輩を案じるように、もしくは世間話をするかのように聞いてきただけなんだよ、うん。
「はあ……」
ふいにため息が漏れる。だめだ、全然いつも通りじゃない。それもそのはず。なぜならボクは知っているから。颯があんなことを誰かに聞いたことなんて一度もないことを。
「ねえ立夏」
「ん、どうした?」
いつの間にか立夏はボクの頭を撫でていた。怒る気にもならなかったのでそのままにしておく。
「……彼氏とか彼女がいるかどうか聞くのってさ、その人のことが気になっているからなのかなあ?」
「え、司、好きなヤツでもできたのか?」
立夏が声を上げた途端、教室から音が消えた。廊下から漏れ聞こえる声がよく聞こえる。ちょっと話しづらい。
「ううん。いない」
すぐに空気が緩んだ。なんだったんだろう、今のは。
「ただなんとなく、そういうことを誰かに聞く時ってどんな気持ちなのかなあって」
「そりゃ人によって違うんじゃないか? 単純に好奇心だったり、本当にただ聞いてみただけだったり、もしかするとソイツのことが好きだったり」
つまり分からないってことか。まあそうだよな。颯がどうしてあんなこと聞いたのかなんて、本人以外には分からなくて当然だ。
「……誰かに聞かれたのか?」
立夏が耳元で囁く。ボクは少し悩んでから頷いた。立夏は「なるほど……」と呟いて、その顔に笑みを浮かべた。
「あまり気にするな。気にしたってしょうがないんだからさ」
背中をバシバシと叩かれる。痛い痛い。
「でもそうか。司もついに……」
「ん、ボクがついに、なに?」
「いや、こっちの話」
にやにやとする立夏に寒気を覚えた。
◇◆◇◆
放課後。いつも通りエンタメ部の部室へ行くと、今日はみんな部屋の中央に設置したソファーに集まっていた。それにしても、なんでみんなボクより来るのが早いんだろう。もしかしてホームルーム無視?
ちさの隣りに腰を下ろし、鞄から雑誌を取り出す。最近読んでいるのは料理の本だ。調理実習の一件以来、もう少し料理くらいできたほうがいいのでは? と思うようになり、時間があれば図書館でそれ関係の本を借りて読んでいるのだ。だからと言って家のキッチンに立ったのは今のところゼロ。もう少し知識を得てから始めようと思っているところだ。
とまあ、本を開いてみたのだけど……案の定斜め前の颯が気になる。夢のせいもあって、ちょっと颯を直視できない。雑誌を読むふりをして、こっそりと颯を盗み見る。二人掛けのソファーに一人座り文庫本を読む颯は、見たところ変化はなかった。
うーん。これってもしや、ボクだけ気にしすぎた? でもあの時の颯は顔が赤かった。それはつまりあんなことを聞くのに抵抗があったと言うことで、それでもわざわざ帰り際ギリギリになって実行に移したのはそれなりに理由が――
「……なあ、司」
「は、はいなんですか?」
突然声をかけられ、慌てて雑誌で顔を隠しつつ返事する。
「そんなにジロジロと見られると落ち着かないんだが……」
「……へ?」
バレてた!? 待て、まだ間に合う。
「いえ、見てません。見てませんよ?」
悪戯をお母さんに見つかった子供よろしく全力でとぼけて、ちさに同意を求める。
「ごめんです、つーちゃん。さすがにフォローできないです」
もの凄く笑いを堪えたちさに裏切られた。ちさなら頷いてくれると思ったのに! 茜を見れば気持ち悪いぐらいにニヤニヤしていた。あの顔にウニを投げつけたい衝動を抑えつつ、沙紀に視線を移す。
「そうだ。先生から用事頼まれていたのを忘れていたわ。司ちょっと手伝って」
ボクの返事を待たずに、なかば無理矢理手を引かれて部室を出た。
◇◆◇◆
廊下に出て屋上へと続く階段を上がり、重いドアを抜ける。いつの間にか雨は上がっていた。
「努先輩、挙動不審すぎます」
沙紀が振り返りながら言った。
「ど、どのあたりが?」
「全てです」
「全て!?」
ボクとしてはかなり隠しているつもりだったのに……。がっくりと肩を落とす。
「颯先輩と何があったか知りませんし、詮索するつもりもありませんが……もう少し周りにバレないよう心がけてください。今のままでは、まるで恋する女の子、ですよ?」
「恋する女の子!?」
朝、ベッドから落ちたとき以上の衝撃がボクを襲う。殴られたわけじゃないのにガーンと音が聞こえそうなくらいに頭が揺さぶられる。
そんな、そんなつもりはないのに。ただ颯のことが気になっていただけなのに。立っていられず、その場に座り込んでしまう。沙紀が小さくため息を吐く。
「先輩。一つだけ伺いますが、今、あなたは颯先輩のことをどう思っているのですか?」
「どうって……」
親友、と答えようとして思い止まる。たしかに颯は親友だ。司になってもそれは変わらなかった。でも今はどうだろう。親友は親友でも、それは昔のことだ、と思うことが多くなってきている気がする。司では親友にはなれない。今の颯との距離から、なんとなくそう感じているのだ。もう親友にはなれない、戻れない。でも仲のいい先輩後輩にはなれるのだ。そういう関係も良いと、最近になって思えてきた。本当に最近だけど。
だから今は……
「元親友の部活の先輩、です」
今はこれが一番しっくりくる。自然と努ではなく、司としてボクは沙紀の問いに応えた。
「そうですか……」
そう呟いた沙紀は一瞬、ほんの一瞬だけ寂しそうな表情を見せた。
「先輩は変わろうとしているのですね。きっと颯先輩も……」
小さく頭を振る沙紀。
「先輩方がそうなら、後輩の私もそれに続かなければなりませんよね」
「今のボクは後輩だけどね」
「はい。そうですよね。……そうなんですよね」
目尻を押さえるような仕草をした後、ゆっくりと沙紀はボクを見据えた。その目に強い意志を宿して。そして、
「努先輩。私はあなたのことが好きでした」
唐突に、けれど自然に、沙紀は告白した。驚きはあった。そして同時に『好きでした』と、終わってしまった気持ちであることに、申し訳ない気持ちになった。でもそれ以上に嬉しかった。こんなになってしまったボクにも『好きでした』と言ってくれたのだから。
立ち上がり、スカートの埃を払って、ボクよりも身長の高い沙紀の頭に手を置く。
「ありがとう」
出来のいい後輩の頭を撫でる。沙紀が泣きそうな顔をして笑う。
「まさか初恋がこんな形で終わるとは思いませんでした」
「……ごめんな」
沙紀は首を横に振る。
「先輩が司になっていなければ、きっと一生言えなかったと思います。だから、これで良かったんです」
「そっか。それなら良かった」
目尻に浮かんだ涙を拭ってあげる。恥ずかしそうに沙紀が「すみません」と言った。
4月のあの日。ボクが司になった日。変わらないと思っていた日常がガラリと変わったあの日。ボクの日常は突如として急激に変わった。人生に何度かあるというターニングポイント。
ボクが司になったことで、変わらないと思っていた颯や沙紀、茜との関係も変化した。そして今の沙紀の告白で、また大きく変わるのだろう。……いや、変わらないといけないんだ。
だからボクは、目を赤くする沙紀に聞いた。
「ボクからも一つだけ聞いていいか? ……茜は、ボクのことをどう思っていたんだ?」
「本人から聞かないのですか?」
当然の疑問。茜本人ではなく、沙紀からこんなことを聞くのは卑怯だろう。しかし、
「今聞いておかないと、決心が鈍る」
ボクの中で形になりつつある『それ』を、ちゃんとしたものにするために。沙紀は躊躇する素振りを見せてから、言った。
「茜は……努先輩に憧れていたんです。とくに何かが凄いってわけでもない先輩なのに、どこか人を惹きつけてしまう、その魅力に。自分もそうなれたらいいな、と」
「今のボクは?」
「可愛らしい後輩、ですかね。茜にはまだ恋愛は早いみたいです。お子様ですから」
「もう17なのにか?」
「私も心配しています」
沙紀がクスクスと笑う。憧れていた、か。手間のかかった後輩だけど、ちょっと嬉しいかも。うん。これなら、もう大丈夫。
心に決める。それは沙紀も同じだったのか、遠慮がちに聞いてきた。
「努先輩。……これからは先輩のことを、司だと思って接してもいいですか?」
まったく。本当に出来のいい後輩だ。出来が良すぎて、後輩とは思えないくらいに。
「うん」
……ここまでにしよう。たとえこれから先、茜や颯にボクのことがバレて、その結果どうなろうとも、ボクが司であることに変わりはない。……もう努に戻れないのなら、ボクはこれからもずっと司であり続けるしかないのだ。
一抹の寂しさを感じつつ、ボクはもう少し変わることを決意する。司という殻を被った努ではなく、『吉名司』という女の子になるために。
今ならなんとなく分かる。ボクが颯や茜、みんなに正体を隠してしまったのは、嫌われるからとかじゃなくて、みんなに『努』を忘れてほしくなかったからなんだ。努を司で上書きされたくなかった。努のままで覚えていてほしかった。そんな他愛のないこと。なんて情けないんだろう。
すうっと涙が頬を伝う。今度は沙紀が涙を拭ってくれる。いつの間にか、頭を撫でられているのはボクになっていた。
「なあ、沙紀。君は『努』だったボクのことを忘れないでいてくれるか?」
沙紀とは二年の付き合い。高校生活で見れば大きいが、人生というスパンで見ればたった二年。そんな短い期間に出会ったボクのことを……。
「初恋の人を、忘れるはずがないじゃないですか」
顔をくしゃっとして、泣きそうな、それでも笑って沙紀は言った。そして続けて、「きっと茜も同じですよ」と付け加えた。
両頬を涙が伝う。涙を流すなんて、司になってからはこれが初めてだった。嫌なことを後回しにしてきたツケが回ってきたのだろうか。でも、寂しくはなかった。悲しくはなかった。ただただ嬉しかった。
涙は止まらない。きっと目が赤く腫れるまで止まらないような気がする。それでもいいと思った。
「努せんぱ――」
「司、です」
彼女が目を見開く。ボクは泣きながら、笑ってみせる。
「……司、最後にもう一つだけいい?」
沙紀先輩はたった一言で分かってくれた。
「はい。なんですか?」
「……司は、颯先輩のことが好きなの?」
真正面からの問い掛け。茶化すわけでもなく、ボクをはずかしめたいわけでもなく、純粋に僕の気持ちを知りたいが為の言葉。
少し前のボクなら、きっと動揺するだけして、何も考えず反射的に否定していただろう。それはボクが努だったから。努だったから、『そんなことはありえない』と思っていたからだ。でも今は違う。ボクは司なんだ。何も恥ずかしがることはない。ちゃんと考えて、ただ思ったことを口にすればいい。霞がかかった世界で、ボクは答えた。
「……さあ。まだ、分かりません」