その42 「学校以外でスク水なんてありえないだろ」
いくら喧嘩をしようが、1時間も経てば「あーもういいや」と許してしまう寛大なのかアホなのか分からない吉名家では、たとえ1キロくらいありそうな分厚いアルバムをお腹に全力でぶん投げられても、119番にご厄介にならない限りは、その日のうちに再度顔を会わせても険悪になるようなことはない。まあ、お母さんの場合は血反吐吐こうが骨を折ろうが笑って許してくれそうだけど。
そんなわけで、ボクと美衣とお母さんはいつも通りダイニングテーブルを囲んでお昼を食べていた。ちなみにアルバムはリビングから消えていたので、きっともうお母さんの部屋にあるやたら大きい防火防水防塵対応の金庫に仕舞われているのだろう。……なんであんな金庫が一般家庭にあるんだ?
「美衣、醤油取って」
美衣の近くにある醤油差しに手を伸ばして言う。すぐに取ってくれるかと思いきや、彼女はボクを一瞥してから首を横に振った。
「ダメ。お姉ちゃんまたプリンから食べる気でしょ。プリンはデザート。最後だよ」
「なっ。別にいいじゃないか。プリンから食べたって」
「ご飯食べられなくなるよ?」
うっ。それを言われると痛い。夕飯前にお菓子を食べてご飯が食べられなくなったことが一度や二度どころじゃなくあるから反論しにくい。
「じゃあプリンをおかずとして食べるから。定食頼んだらついてくる酢の物みたいな一品料理として食べるから」
しにくいってだけで、反論はするけど。
「ダメなものはダメっ」
美衣の手によって醤油差しが彼女のすぐ傍に移動させられる。あそこじゃもうどんなに体を乗り出しても美衣が邪魔で取ることが出来ない。
「美衣のケチ」
仕方ないので、一言言ってやって潔く諦める。プリンを冷蔵庫に戻し、椅子に座る。食事に邪魔な長い髪をヘアゴムで手早くまとめる。
「慣れたものだね」
「毎日のように弄ってたら嫌でも慣れるって」
「じゃあ今度三つ編みに挑戦してみる?」
「それはイヤだ」
お箸を持ち、お昼ご飯のうどんを啜る。はらりと落ちてきた髪を右手で押さえると、隣からため息が聞こえた。
「お姉ちゃん色っぽい」
「――っ!? コホッコホッ!」
汁が器官に入り咳き込んでしまう。お茶を飲んで落ち着いた後、美衣を睨んだ。
「色っぽいとか言うなっ!」
「だって色っぽかったんだもん。ねぇ、お母さん」
「それだけでご飯3杯いけるわ!」
ポケットに忍ばせていたウニのオブジェをお母さんに投げつける。静かになった彼女の額に突き刺さったままのウニを確認してから、脳内で色っぽいボクを想像する。……うん。凄いキモいっ! って違う違う。なんで努だった頃のボクを想像するんだ。キモくて当たり前じゃないか。
間違った脳内映像を掻き消し、横目で戸棚のガラスに映る自分を見る。そこに映ったポニーテール姿のボクは色っぽいというよりも、なんというか……。
「これが高校生?」
「あ、自分で言っちゃった」
ハッとして美衣に目を向ける。美衣はわざとらしく目をそらした。
「お前色っぽいって言ったよな!?」
「見た目年齢的に見て、だよ」
食ってかかるボクに対して美衣は冷静だ。目は合わせようとしないけど。
「その見た目年齢はいくつ?」
「……13歳」
「中二じゃないか!」
「おしい、中一」
「さらに下かよ!」
「司なら小学生でもいけるわ!」
「寝てろ!」
ポケットからもう一つウニのオブジェを取り出して全力投球。顔を赤く染めたお母さんがぐったりするのを見届けると気分が良くなったので、食事を再開することにした。
「お姉ちゃんはお昼からどうするの?」
「うーん。まだ決めてない。漫画の続きでも読もうかな。美衣は?」
「私は友達と遊ぶ約束してる」
「……ふーん」
別に羨ましくない。まったく全然少しも羨ましくない。
「お姉ちゃんも友達と遊んだら?」
「みんな忙しいんだって」
うどんに七味を振りながら言った。うわ、入れすぎた。
「残念ね、司。お母さんも午後は近所の尾崎さんとお買い物の約束をしてあるのよ」
「どうでもいい」
「ひどいっ」
お母さんが口元を袖で覆い、ヨヨヨと床に崩れ落ちる。相手するの面倒なので放置……と思っていたら、すぐに彼女は立ち上がって椅子に座り直した。
「することがなくて暇なら、ここに行ってきたら? スーパーの福引きで当たったのよ」
そう言って取り出したのは一枚のチケット。近所のフィットネスクラブの一日利用券のようだ。
「少しは体を動かしてこいってこと?」
最近は梅雨で雨ばかりだから、家でゴロゴロすることが多い。もちろんそれをお母さんは知っている。
「それもあるけれど、来週から体育で水泳が始まるのよね? 司は運動得意じゃないんだから、授業の前に一度泳いできたらどう? ここのクラブ、プールがあるのよ」
お母さんが凄いまともなことを言っている。しかし、頭にはボクが投げたウニが二つ突き刺さり、そこから溢れ出した血で顔は赤く染まっている。笑えばいいのか、真面目に受け答えすればいいのか微妙だ。
「お姉ちゃん、行ってきたら?」
他人事のように美衣が言う。ボクは腕を組んで思案する。さすがにこの期に及んで水着を着たくない、なんてことを言うつもりはない。嫌でも来週には着ることになるのだから。ただボクは基本的に家でゴロゴロするのが好きなインドア派、しかも今の姿は目立つので外へ出るのは何かしら用事がある時だけと決めている。わざわざ自分で用事を作ってまで外へ出るべきかどうかと迷ってしまうのだ。
……って、それ以前に重要なことを忘れていた。
「水着がないよ」
海開きもプール開きもしていない6月下旬。しかも女になって初めての夏。水着なんて持っているはずがなかった。
「スク水はあるよね?」
「うん」
スクール水着なら先週家に届いた。世間一般的な紺色一色の味気ないヤツだ。
「それでいいんじゃない?」
「学校以外でスク水なんてありえないだろ」
「そういうのが好きな人もいるんだって」
「余計にありえない!」
男共にスク水姿を見られて興奮されるとか、想像しただけで鳥肌が立つ。それだったらまだ一般的な女物の水着を着た方がマシだ。恥ずかしいけど。
「水着やタオルは貸し出しているのを使いなさい。あと、このフィットネスクラブは平日昼間の利用者がほとんどいないから、たぶんプールを利用する人なんていないんじゃないかしら。たとえいても若い子なんていないだろうし、水着姿を見られても恥ずかしがることはないわ。安心しなさい」
「……お母さん、ボクの心の中読んだ?」
「司の考えていることくらい分かるわよ」
ニコリとお母さんが微笑む。彼女のことを何も知らない人からすると、ちゃんと子供のことを理解したいいお母さんに見えるのだろうけど、知ってしまっているボクからするとキモいの一言だ。
「あーもうどうしましょう。尾崎さんに今日はどうしても外せない用事が出来たって言って断ろうかしら。せっかく司の水着姿アンド着替え風景を写真に収められる絶好のチャンスなのに」
ほらやっぱりこうきた。
「嘘ついてまで来るっていうなら、行かないよ」
用意していた言葉で告げると、あからさまにお母さんは肩を落とした。
「……分かってるわよ。いくらお母さんでもご近所さんとのお付き合いをないがしろにはしないわ」
いや、だったらその落ち込みようはなに……? 顔を両手で覆って「ああ……」とか呟くのはやめてほしい。
「仕方ないわ。今回は諦めましょう。……そうよ。夏はまだ始まったばかり。チャンスはいくらでもあるわ。むしろチャンスなんて作ってしまえばいいのよ! ねじ込めばいいのよ! 叩きつければいいのよ! そういうことよね!?」
「そ、そうだね」
鼻息荒く語るお母さん。どうせ今彼女の頭の中では来月あたりに海へ行く計画が練られていることだろう。告げられてもいなくとも100パーセント来るであろうイベントにため息が漏れる。
赤い欠片がぷかぷかと浮く水面を見下ろして、お箸を置く。大変からかったです。
「とにかく、せっかくだし行ってくるよ」
椅子から立ち上がり、チケットを手に取って言う。
「ええ。お母さん的にはプールで溺れて助けられた監視員さんに恋をするというストーリーもありだと思うの」
「……え、突然なんの話?」
「あなたの人工呼吸が私のファーストキスでした、ってどう? ロマンチックじゃない?」
一体何がスイッチだったのだろう。お母さんは胸の前で手を組んで、目をキラキラと輝かせていた。面倒だ。あとは美衣に任せよう。
「美衣、よろしく」
「えー」
美衣の不満げな声を聞きながら、リビングを出た。
◇◆◇◆
家から10分ほど歩いたところにそれはあった。国道沿いのビルの1階から3階の3フロアを使用した金村フィットネスクラブ。地域でも有数の大きさを誇る会員制のフィットネスクラブだ。本来ならボクみたいな非会員で未成年な人が入れるような場所ではないのだけど、地域貢献及び会員数増加のために商店街の福引きなんかに一日利用券を寄付したりしているらしい。今回ボクはそれを使って入ることができるわけだ。
「いらっしゃ――っ!?」
入店したボクを見て、受付の女性が目を見開いた。今日のボクの格好はボーダー柄のシャツにホットパンツとニーソックス、そしてどこのチームだか分からない野球帽を被っている。とくにおかしなところはない。きっとこの髪と目が原因だ。
「えっと……ぐ、ぐっどいーぶに――」
「日本人です」
「えぇっ!? あ、いや、申し訳ありません。いらっしゃいませ」
予想通り彼女は驚き、慌てて謝罪した。その後、時折チラチラと見てくる彼女に辟易しながらいくつかの質問に答える。プール利用のみだと伝えるとバスタオルと水着を貸し出してくれた。デザインは選べないらしい。
ロッカーの鍵を受け取り、躊躇しつつ女性用更衣室に入る。広くて明るいロッカーには誰もいなかったので、安心して着替えを始めた。服と下着を脱ぎ、借りた水着を手に取る。広げて見ると、それは淡い水色を基調とした花柄のワンピースだった。フィットネスクラブだから競泳水着だろうと思っていたから少し拍子抜けだ。
足から着ればいいのかな。女物の水着なんて着たことがないのでさっぱりだ。とは言え、受付の人に聞きに行くわけにもいかない。ものは試しと見よう見まねで着てみることにする。足を入れ、腰まで引き上げ、腕を通し、胸の位置を調整する。……うん。たぶんこれでいいはず。
パッドがあったせいか、いつもより胸が大きく見える。そういえばクラスの子の中にもブラにパッド詰めている人もいたっけ。なるほど、こうして女の子は頑張り、男は騙されるわけか。
髪をヘアゴムでまとめながら、近くにあった姿見を見る。もちろんそこに映るのは水着を着たボクの姿。似合っているのはいいのか悪いのか……。僅かに赤く染まった顔を見ていて気付いた。プールに入るのにコンタクトをしたままだった。脱いだ服のポケットからコンタクトケースを取り出し、その中にしまう。再度姿見を見ると、当たり前だけど目の色が青と赤のオッドアイになっていた。
ここではこのままでいいとしても、学校ではどうしよう。コンタクトを外すわけにはいかないし……ゴーグルを付けるしかないのかも。あれの目をグッと押す感じが嫌で付けたくないけど、この場合仕方ないか。
などと思案しつつ更衣室を出てプールへと向かう。途中のシャワー室で水を浴び、プールサイドに出た。プールには誰もいなかった。いや、ただ一人監視員らしき人だけがいた。誰もいなかったプールサイドをグルグルと回っていたようだ。そりゃ誰もいないんじゃやることなくて回るしかないよな。
やってきたボクに気付いたようで、お互い小さく会釈する。そのまま、またグルグルと回るのかと思いきや、監視員はこちらに向かって歩き出した。何か注意事項でもあるのかなと待っていると――
「司じゃないか。どうしてこんなところに?」
「は、颯先輩!?」
やけに馴れ馴れしく話しかけてきたその人は、ボクが良く知る颯だった。
「お母さんからここの一日利用券をもらったんです。颯先輩こそ、どうしてここに?」
「俺は親戚から頼まれて……あれ?」
「――っ!?」
怪訝な顔をして颯が顔を近づけてくる。びっくりして後ずさると腕を掴まれた。
「な、なんでしょうか……?」
うるさいくらいに脈打つ心臓を胸の上から押さえつけて言う。まさかボクの正体がバレた!? いやいやそんなことはないはず。ボクは水着を着ただけだ。努だと分かる要素なんてこれっぽっちも――
「司、目の色が違うけど、どうしたんだ?」
「……あ」
そういえばそうだった。コンタクトを外しているのをすっかり忘れていた。