その38 「違うのに……」
何人かの顔見知りの女の子と挨拶を交わしながら自分の席へと向かう。入学式から二ヶ月。やっと一年二組にも他クラスのような活気が出てきた。入学当初はお通夜みたいな教室の雰囲気も、今ではいくつかのグループに分かれて他愛のない話に花を咲かせ、隣のクラスの話し声が聞こえてこないほどに賑わっている。もちろんクラスの変化に伴い、ボクの周囲の環境も変化している。それは立夏以外にも話せるクラスメイトができたこと。立夏ぐらいしかまともに話をしたことのなかったボクだけど、最近になってやっと立夏以外にもボクに話しかけてくれる人が出てきたのだ。それがさっき挨拶してくれた女の子や、隣の席の堀見さんや弘末さんだ。胸を張って友達と言えるほどの仲でもないけど、これでも凄い前進だと思う。なんせボクは元男だったんだから。
「なあ司。上級生の男子から高価な物をプレゼントされたって本当か?」
席につくと開口一番に立夏はこう言った。相変わらずの驚異的な伝播速度。他人の噂は密の味というけれど、たった数分、昇降口から教室へ移動する僅かな間に当事者を追い越して噂が広がるのは、驚きを通り越して何か不可解な力の存在を感じられずにはいられない。
……まあ実際は、新聞部か放送部の連中のせいだろう。アイツら、いつも話題を広めたのは自分達の方が先だとかなんとか言って手柄を競ってるからな。迷惑な話だ。
「高価なものかは知らないけど、貰ったのは事実だよ」
「何貰ったんだ?」
鞄から香水を取り出し立夏に手渡す。立夏は物珍しそうにまじまじと見つめ、裏返して手書きの『試供品』の文字を見つけるとプッと吹き出した。
「へー。香水か。だから今日の司からはいい匂いがするんだな」
「わ、分かるの?」
「これだけ近くにいればそりゃ匂うって」
手首を顔に近づけて鼻を鳴らす。いい匂いだけど、やっぱり学校で付けるのは間違いだったのかもしれない。
「ちょっとしか付けてないのに。後でトイレに行って洗い流そうかな……」
「いいじゃん。司に合ってるよ」
香水を返してもらい、すぐさま鞄に戻す。
「で、そいつってどんな奴なんだ? 話題にはなってるけど見たことなくてさあ」
「どんなって……うーん」
改めて石島のことを考える。長身のモデル体型にサラサラブラウンヘアー。造形の整った顔に見栄えのいい笑顔。そしてボクへのあの紳士的な対応。
「……うん。たぶんイケメンって奴だと思う。身長高いし顔いいし、さぞ女の子にはモテるだろうなって感じの人」
ボクの曲がりに曲がった視点からではなく、第三者的、客観的に評価した場合、彼は非の打ち所のないとても良い好青年となる。まあ間違ってはいないだろう。
「ほぉ……なるほどねぇ」
「な、なにその目は?」
意味ありげに目を細め、にやりと笑みを浮かべる立夏。よく茜が見せる表情だ。大抵こういう顔をするときはよからぬ事を考えている。
「なかなかの高評価じゃないか。百合っ気のある司が珍しい」
「ゆ、百合? 百合っ気ってボクにそんなものはないよ」
「何言ってんだか。司は付き合うなら男より女がいいんだろ?」
「うん」
男と付き合うか、女と付き合うか。そんなこと考えるまでもない。
「ほらやっぱり」
「ち、違うんだって。いや違わないけど、ただボクは男と付き合うなんてことが考えられないだけで、それでどちらかと聞かれたら選択肢は女の子しか――」
「それを百合って言うんだよ」
「うぅ。違うのに……」
内面的にはまだ男……って、いつかボクも内面的にも女になる日が来るのだろうか? まあそれは今はおいといて。とにかく、現時点ではまだまだ男なのだから、世間一般的に言われるような百合ではない。そう言いたいのだけど、自分が元男だなんて言えないので我慢する。
「そんな百合っ気のある司から高評価を得た男子生徒は、司と付き合う可能性は何パーセントぐらいありそうなんだ?」
「ゼロパーセント」
近似値でゼロではなく、整数でゼロ。どんな間違いが起きようが、ボクが男と付き合うなんて事はないんだ。
「即答か。いよいよもってあっち側の人間だな……」
「だから違うって」
「たしかに司ならそういう路線に進んでも有りっちゃ有りだよな。司が誘えば喜んでそっちの世界に足を踏み入れてしまうのも少なからずいるだろうし。いや、すでにいるか……」
まったく聞く耳持たずらしい。やられっぱなしは性に合わない。少しだけでも反撃してやる。
「そ、そういう立夏は付き合うならどっちがいいの?」
「そりゃ男だろ」
即答だった。女と男が付き合う。どこもおかしくない答えに二の句が告げられない。って考えなくても分かったことじゃないか。何を質問してるんだボクは。頭を抱えるボクの横で立夏が「そういえば」と口を開いた。
「司って男子とあまり話さないよな」
「え? う、うん」
たしかに男とはあまりどころかほとんど話していない。『司』になってからというもの男と話したのは、お父さん、颯、石島、そして告白してきた男に返事をしに行った時を除けば数えるくらいしかない。それも連絡事項とかその程度だけで日常会話はゼロに等しい。
「男にトラウマでもあるのか?」
「全然」
立夏がそう思うのも無理はない。実際避けているのだから。言っておくが、男にトラウマなんて欠片もない。むしろ思っていた以上にスキンシップが多く、生々しい話をする女の子にトラウマができそうなくらいだ。
「じゃあなんで避けてるんだ?」
「うーん……なんとなく流れ的に」
ボクだって、できることなら男子の会話の輪に入りたい。女の子よりも元同性だった男の方が会話が弾むに違いない。二ヶ月前のボクは当然のようにそう思っていた。もしもボクと同じ境遇の男がいたなら同じように考えたはずだ。
しかしそれは間違いだった。ことボクに関して言えば、の話だけど。
入学したての頃、クラスメイトはボクを遠くから眺めるように一定の距離を置いていた。ボクに話しかけようとする人は少なく、たまにいても交わすのは一言二言だけ。その原因が銀髪碧眼という日本人離れした容姿のせいだということが分かっていただけに、ボクから話しかけることができるはずもなく、男子の輪どころか女子の輪にも入ることができず、一人ポツンと窓際の席に座っていた。
そんななか、立夏だけは違っていた。彼女だけは気後れすることなくボクに毎日話しかけてくれた。ボクのことを根掘り葉掘り尋ねるでもなく、昨日のテレビや宿題の答え合わせと、他愛のない話がほとんどで、女の子特有の恋愛だとかダイエットだとか、そういう馴染みのない話題はしなかった。もちろんゼロだったわけじゃないけど、それでも隣から聞こえてくる堀見さんと弘末さんの会話と比べると微々たる物で、まるで男友達と会話しているような気楽さがあった。
彼女といるのはとても心地良く、楽だった。それに甘えてしまったボクは、数週間後、気付けば立夏以外誰ともまともに会話をしたことがない寂しいヤツになっていた。
さすがにこのままではダメだと思い、急遽男女問わず友達を作ることを決意する。そこでまずは輪に入りやすそうな男子からと、勇気を出してとあるグループに加わってみようと試みた。話を盗み聞き、タイミングを見計らって割って入り。そこから話を広げて……と考えたが、それは失敗に終わった。なぜなら――
『昨日の国際試合は面白かったな』
『ああ。キーパーが凄かった。まさかPKを全て止めるとは思わなかったぜ』
『俺は後半のコーナーキックからのヘディングが良かったと思う』
『吉名さんはどこが印象に残った?』
『……え、えっと、なんの話?』
彼らは昨日テレビで中継していたサッカーの話をしていたのだ。スポーツに興味がなかったボクは前日も裏の音楽番組を見ていた。
そうして思い出した。そういえば男だった頃もあまり話題についていけてなかったことを。それでもそこにいられたのは、何かと話の合う颯がそこにいてくれたおかげだ。颯がいない今、無理矢理に男子の輪の中に入ってみても会話が弾むわけもなく、さらにボクが女だということで男子は一歩引いているように見えて、到底以前のような友達関係になれるとは思えなかった。
そしてボクは、結局男子の輪に入ることを諦め、立夏と仲良くしている女子の輪に加わることにした。もちろんこちらも話が合わないが、それでも同性ということで男子ほどボクを敬遠していなかったし、みんな優しかったこともあって居心地が良かった。そうしてできたのが、ボクと立夏、そして堀見さんと弘末さんを含む六人のグループ。グループとは言っても、大抵ボクは立夏と二人で話すことが多いので、そのグループに席をおかせて貰っているくらいで、主に調理実習や体育のチーム分けなどのグループを作る必要があるときに一緒になる程度の関係だ。
そんな経緯があり、別に男子を避けたいわけじゃないけど、必然的に避けてしまう環境が出来上がってしまったのだ。
「なんとなく……ねぇ。つまり無意識のうちに男を避けている、と。やっぱり遺伝子レベルで司は……」
「だーかーらー違うって」
「はっ。まさかいっつもあたしといるのは、あたしのことをそっちの世界に引きずりこもうとしているとか?」
立夏が大袈裟に自分の体を抱きしめ、ボクと距離を置く。
「ないない。ただ単純に立夏といると楽しいから一緒にいるだけだよ」
そう言うと、立夏の動きがピタリと止まった。突然どうしたのかと首を傾げていると、彼女は頬を少し赤くしてニシシと笑った。
「そっか。あたしといると楽しいのか」
「うん。ボクって立夏ぐらいしか友達いないさ」
苦笑交じりに言うボクに、立夏は大きく一回ため息をついた。そして、
「……まったく、たしかにこれじゃ踏み間違っても仕方ないよな」
ぼそっと何かを呟いた。