その4 「誰がやらせるか!」
リビングから数歩先にある脱衣所に駆け込むと、美衣が入ってこないようにカギを閉める。それとほぼ同時に、ドアノブがガチャッと動き、ドンドンとドアが音をを立てて揺れ始めた。慌てて背中をドアに張り付け、カギを押さえた。
「お兄ちゃん、ここ開けてよー」
「誰が開けるか!」
ドアの向こう側にいる美衣に叫ぶ。さっきから脱衣所のドアは、突き破られるんじゃないかと心配になるくらいに揺れている。さすがに無理矢理こじ開けてくることはないと思うが、家の中のカギは玄関のものより作りがチープだから、何かの弾みでカギが外れるということもありえる。美衣が諦めるまで、こうしてドアに張り付いて、カギが回らないように押さえるしかない。
「ねー。一緒に入ろうよー」
「ことわる!」
「大丈夫。見るだけだから。AかBか、はたまたCか。ちょっとだけお兄ちゃんの胸を見定めるだけだから。ねー、何か減るわけじゃないし、いいでしょ?」
「ボクの神経がすり減るんだよ!」
しつこい。こっちは早くシャワーを浴びて汗を流したいのに。ほんっとに何を考えているんだ。AだとかBだとか……ボ、ボクの胸のサイズなんてどうでもいいだろ。
「妹がこんなに頼んでるのに~?」
「いくら頼んでもダメだ!」
「えー」
「えー、じゃない。無理なものは無理。世の中には限度という素晴らしい言葉があるのを知らないのか?」
「クレジットカードのアレでしょ? この前お母さんがネットでバッグを買った時に、お父さん名義のクレジットカードを使って『あら、限度だわ』って言ってたよ」
「それお父さんの飲み代用のカードだろ!?」
そういえば最近「居酒屋でカードを使おうとしたら何故か使えなくて、後輩に奢る予定がお金を借りることになった」とお父さんが嘆いていた。原因がお母さんのショッピングとは……可哀相に。
「お父さんのお酒代とかどうでもいいよ」
「おま、どうでもいいって、職場でのそういう付き合いは重要なんだぞ?」
「だったら兄妹の親睦を深めるために、私とお兄ちゃんも――」
「親睦を深めるどころか溝が深まるわ!」
「お兄ちゃんうまい!」
「うっさい! 早くリビングに戻れよ!」
……。あれ、急に静かになった。ドアを叩く音もドアノブをガチャガチャと動かす音も聞こえなくなった。もしかして、さっきの一言で本当に帰ったのか?
「……お前は完全に包囲されている。大人しく出てきなさい」
まだいた。しかも今度は小芝居まで始めた。
「こんなことして何になる。君の罪が重くなるだけだぞ」
罪って何の罪だよ。
「お母さんも泣いてるぞ」
「またお前は適当なことを」
「司、お願いだから自首して」
「お母さんいつの間に!?」
突然聞こえたお母さんの声にびっくりする。しかもよく聞くとすすり泣く声まで聞こえる。美衣の小芝居に全力で付き合うつもりらしい。
「これ以上お母さんを泣かせていいのか?」
「ぐすっ……司」
「ぐっ……」
迫真の演技過ぎて、本当に自分が悪いことをした気分になってくる。
「司……お願いだから出てきて。出てきてお母さんに胸を揉ませてっ」
一瞬にして消え失せた。
「司、お母さんに胸を揉ませなさい! 無理ならせめて身体測定をやらせて!」
「誰がやらせるか! というかお母さんはさっきまでの普通のお母さん面はどこへ捨ててきた!?」
「なに言ってるの。お母さんはいつだってあなた達のお母さんで、いつだって真面目よ。だから今も真面目に司の裸を見たいの、触りたいの、弄くり回したいのっ」
何を力説しているんだ。グヘヘとか変な声も聞こえてくるし。
「美衣っ! とっととお母さんを連れてリビングに戻れ!」
「あ、お兄ちゃんちょっとキレてる。お母さん、そろそろ戻ろうか」
「お母さんは司の全裸を所望しているのよっ」
「いやもうそこまでいくと私でも引くから」
「あーん。押さないでー」
二人分の足音が遠ざかる。リビングのドアが開け閉めされるのを耳にして、今度こそ諦めてくれたのを確認する。やっとドアから離れ、ため息をつく。疲れた……。顔を上げると、洗面所の鏡越しに女の子を見つけた。「誰だ?」と首を捻り、数秒してそれが自分だということに気付く。
鏡に映ったボクは、不機嫌そうに赤色と青色の瞳をした目を少し釣り上げている。寝起きのままのはずなのに、長い銀色の髪はあまりはねてなくて、蛍光灯の光を受けてキラリと光っている。さっきまで大声を出していたせいか、白い肌はほんのりと朱に染まっている。ちょっと色っぽいな。自分のことながらそう思った。ただ、愛用のはずのシャツとジャージがダボダボなせいで、『兄姉から服を借りた妹』的な感じになっていて、とても色気に欠けていた。当たり前のことだが、冗談でもなんでもなく、本当に女になってしまっていた。
がっくりと肩を落とす。友人になんて言おう。というか、大学へはどう説明しよう。信じてくれそうにはないけど……。これからのことを考えると憂鬱になってくる。しゃがんで頭を抱えたくなる衝動に駆られたが、なんとか押しとどめる。
シャワー浴びよう。そうすれば気分もマシになるだろう。よしっと、気合いを入れ直してシャツに手をかける。
……あれ。何か大事なことを忘れているような。なんだっけ。思案しながらシャツを脱ぎ、ジャージ、パンツと脱いでいく。まあ、そのうち思い出――
鏡を見て、それを思い出した。今のボクは女の子。シャワーを浴びるということは服を脱ぐ。服を脱ぐということは……。
喉仏のない、簡単に折れてしまいそうな細い首。慎ましやかに膨らんだ、けれど形の良い胸。女の子特有の丸みを帯びた体。くびれの出来た腰に、やや大きくなったお尻。そして……。
ぼんっと音が鳴りそうなくらいに、鏡に映るボクの顔が一瞬にして真っ赤になった。元々の肌が白いからなおさらよく分かる。
……は、はは、ははは裸を見てしまった。女の子の裸を見てしまった。いやだなにこれ、凄く恥ずかしい。恥ずかしすぎて死にたい。鏡から目をそらし、咄嗟にさっき脱いだシャツを掴む。
いやいやいや。服を着てどうする。これからシャワーだろ? しかも見たのは自分の裸だ。なにを恥ずかしがることがある。そ~っと、もう一度鏡を見る。
…………………………うん。大丈夫。頭くらくらするけど。
「どこが?」と美衣の声が聞こえた気がするが、空耳なので問題はない。とりあえずシャワーを浴びようそうしよう。冷水から暖水へ、ちょうどいい温度になってからシャワーを頭から被った。頭から顔へ、そして体へとお湯が流れていき、全身を温めていく。
まず髪を洗うことにする。目を閉じているので手探りでシャンプーボトルを手に取り、二回プッシュして髪につける。いつものように頭の上でわしゃわしゃしていると、思ったより泡立っていないのに気付く。ああそうか。髪が長いからシャンプーもその分多めにしないとダメなんだ。またまた手探りでシャンプーボトルを手に取り、もう二回プッシュ。わしゃわしゃと手を動かすと、いつも通りに泡立った。
シャンプーを洗い流して、スポンジにボディーソープを付けて体を洗う。いつものようにスポンシでゴシゴシと――
「った!」
痛みが走り、思わず声が漏れる。スポンジで擦ったところが赤くなっていた。女の肌がこんなに刺激に弱いとは。柔肌とはよく言ったものだ。今度は力を加減して……と。力を入れているのか入れていないのか分からない力加減で全身を洗っていく。出来る限り意識せず、童謡なんかを口ずさみながら、腕やら胸やら足やらあの辺りやらを洗う。別に動揺しているから童謡を口ずさんでいるわけではないです。偶然です。つまらないとか言わないでください。
体を洗い終わったら、次はコンディショナーで髪をすべすべにする。裏面の説明を見ると、しばらく放置するようにと書いてあったので、その間に顔を洗うことにする。
『換えの下着と服、ここに置いておくわよ』
「あ、うん。分かった」
薄く目を開けると、すりガラス越しにお母さんの姿が見えた。扉のすぐ横に着替えを置いてくれたようだ。すぐに出て行くのかと思いきや、何故か脱衣所をうろうろとしていた。けれどしばらくすると出て行った。洗濯物を回収していたのかな。
……あれ? お母さんが出て行ったあとになって気づいた。脱衣所のカギ、締めたままだったよな? ……深く考えないようにしよう。
ようやく長い長い髪を綺麗に洗い流して、手櫛で梳く。シャワーを止め、ドアを開いて手を伸ばし、バスタオルを取る。髪をわしゃわしゃとかいて水分を取る。髪だけでバスタオル一つがびしゃびしゃになってしまった。次からある程度は手で水気を切っておこうと心に決め、二つ目のバスタオルを取る。体を拭いてから脱衣所へと出る。まだ髪が水分を含んでいたので、念入りにバスタオルで吸い取る。二枚のバスタオルを洗濯機のなかに放り込み、お母さんが持ってきた着替えを手に……なんだこれ。
手に取ったのは、女物のパンツ。布面積の少ない、薄くてよく伸びる、リボンがあしらわれた女物のパンツだ。もしかしてと探ってみたが、さすがにブラジャーはなかった。まあ、あれはサイズが重要らしいから、合う物がなかったのだろう。
さっき脱いだ男物のトランクスに目を向ける。……あれを穿くわけにもいかないしな。汗がやばいし。……し、仕方ない。女物を穿くか。
渋々女物のパンツに足を通し、おそるおそる腰の辺りまで引き上げる。意外と履き心地は良かった。男物よりも素材がいいのか、肌触りがいい。トランクスと違ってぴったりとフィットしているけど、あまり気にならない。何かがボクの中で音を立てて崩れた気がするけど気にしない。というか気にしたら負けだ。
さて、次は服か。この調子だと服も女物が……。そのとき、ふいに壁と洗濯機の間で何かが光ったように見えた。気になったので、着替えの手を止めて、洗濯機の前でしゃがみ、隙間をのぞき込んだ。薄暗いなかに、レンズのようなものが見えた。嫌な予感を覚えつつ手を伸ばして掴んでみると、それは小型のビデオカメラだった。赤いランプが点灯しているので、録画中のようだ。
……まさか、ね。録画を停止し、再生してみる。そこにはビデオカメラを隙間にセットするお母さんの姿と、浴室から出て来るボクの姿が映っていた。
「…………」
無言で停止ボタンを押し、洗濯機の上に置く。……これ、事件にできないかなぁ。ちょっと本気で思った。あ、データは全て削除しました。