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あいそまたーんっ  作者: 本知そら
第五章 初夏のお話
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その37 「うるさい!」

 二週間前は晴れだった天気予報も当日には晴れ時々曇りに変わり、玄関を出れば外は大雨だった。どうも梅雨前線という目には見えない大きな線が、予想していた以上に日本上空に停滞し続け、局所的な大雨を発生させているらしい。この天気に、テレビの天気予報士は「予報がなかなか当たらない」と苦笑交じりに愚痴っていた。天気予報はあくまでも予報、的中率が高めの占いのようなもので、外れても文句が言えないことは分かっている。それでもバケツをひっくり返したような大雨を目の当たりにすると、凄く騙された気がするのは当然の感情だと思う。だから、お母さんがやたら笑顔で花柄のかわいらしいレインコートを渡そうとしてきたときに、鬱憤を晴らすかのように全力でウニを投げつけたとしても、きっと許されるはずだ。


「やあ、吉名さん、司さん。おはよう」


 スカートについた水滴をハンカチではたいているボクに、三度みたびあの男が声をかけてきた。名前は……なんだっけ。声と顔は覚えているのに名前が出てこない。たしか、い、い……石島いしま。そう、石島だ。


「おはようございます。石島先輩」


「司……」


「いいんだよ。今から僕は石島、石島なんだ」


 二人の雰囲気からして、また名前を間違えたらしい。どちらかというと人の名前を覚えるのは得意なはずなのに、何故だか彼の名前だけは覚えられない。たぶん無意識の内に彼を拒否しているのだろう。ちょっとキモいし。


「久しぶりだね。部活の勧誘や試験が忙しくて、なかなか会えなくて寂しかったよ。おや、今日から衣替えしたんだね。うん。夏服もとても似合ってるよ」


「あ、ありがとうございます」


 誉められたようなので一応礼は言っておく。たとえ相手がほぼ他人だとしても、誉められるのは少なからず嬉しいものだ。しかし、なんで今日から衣替えしたことを知ってるんだ。忙しかったんじゃないのか?


「あぁ。朝から雨で気分が滅入っていたけれど、司さんに会えたおかげで、たとえこの後嵐が来ようが槍が降ろうが、今日一日、僕の心は快晴だよ」


 満面の笑みで歯の浮くような台詞を吐いた。こういう優しさが全面に出たような男が今の女の子には受けるのだろうか。……あ、別にボクが男だった頃に一度も告白されたことがなく、モテた覚えが一度もなかったことを僻んでるわけじゃないよ?


「司さんはどうだい。今日の調子は?」


「悪くはないと思います」


 そういえばすっかり忘れていたけど、彼は入学式のボクを見て「惚れた」とか言ったんだっけ。言動から察するに、今もそれは変わっていないのだろう。しかし彼はいまだボクに面と向かって告白紛いのことはしていない。臆病なのか、それとも時期を見計らっているのか。どちらにしても、性急にならない彼の性格は好感が持てた。


「そうか。それなら良かった」


 あ、今コイツ一瞬だけ視線を下げた。本人はばれていないつもりでも案外分かるもんなんだな。ともかく残念でした。


 そこはかとなくテンションの下がったスマイルを振りまく彼からは、今日もいい匂いがした。この前よりも甘く、きつめの匂いだ。距離を空けて嗅ぐにはちょうどいい。近くだと咳き込みそうだ。


「今日の香りはどうだろう? 少し強めのを付けてきたんだ」


「……いいと思いますよ」


 これ以上近寄られると息を止めたくなるけど。


「そうかい!? それはよかった」


 目を輝かせる石島先輩。まるで親に誉められた子供だ。……って、しまった。嘘でも否定すれば良かった。今のでさらに助長して、次会ったら今日よりもキツイ香水を付けてきたらどうしよう。さすがに風紀委員のご厄介になるんじゃないだろうか。それは後ろめたい。


 隣を見れば美衣がボクを睨んでいた。すぐに視線をそらした。


「そ、そうだ。この前の休日に商店街へ買い物に行ったんだよ。そのときに店員から試しにどうぞとこれをくれたんだ」


 何故か彼が早口で捲し立てながら鞄から取り出したのは、手の平よりも大きいビンだった。銀色の蓋におしゃれなロゴの入った藍色のビン。それは香水だった。


「司さんにあげるよ」


 差し出された手から反射的に香水のビンを受け取る。


「えっ。そんな悪いですよ。こんな高そうな物」


「試しにとタダで貰ったものだから司さんが気にすることはないよ。僕よりも君に合いそうな香りだから、君につけてほしいんだ」


 そうは言っても、彼から物を貰う義理はない。返そうと手を伸ばす。


「でも――」


「ああそうだ。僕は今日は日直だった。すまないけど先に教室へ行くよ。司さん、また今度」


「あのっ」


 シュタッと手を上げて、彼は足早に去ってしまった。あまりの全速力の競歩に唖然となって見送る。


「……どうしたんだろ」


「プレゼントしたことが恥ずかしかったんじゃない?」


 たしかに去り際の彼の顔は赤かった気がする。恥ずかしければやめればいいのに。視線を落とすと、彼から受け取った香水のビンが目に入る。ボクの手には少し大きすぎるくらいのそのビンには、なみなみと透明な液体が入っている。たぶん未使用だ。


「店員から貰ったということは、試供品のはずだよね?」


 美衣がビンに顔を寄せて言う。


「試供品って普通もっと小さなビンに入ってない?」


 ボクの記憶では、握ると隠れてしまうような小さなビンだったと思う。


「たぶん……」


 美衣がビンを裏返す。そこに書いてあった文字を見て、二人で苦笑する。


「本当に試供品なら、油性のペンで『試供品』なんて書かないよ」


「はあ……あいつ、わざわざボクにあげるために買ったのか……。お姉ちゃん、これアイツに返しておいて」


「貰っておけばいいじゃない。いず……石島君もせっかく買った物を突き返されても困るだけだろうし」


 彼の肩を持つような発言に少しむっとしてしまう。


「お姉ちゃんはアイツの味方なの?」


「私はいつでも司の味方だよ。司が大人しく受け取っておけば石島君は満足するだろうけど、もしそれを返して、石間君が意地になったらどうするの? これ以上の物を渡そうとしてくるかもしれないよ?」


「それは困る……」


「でしょ?」


 なるほど……。美衣の言うことももっともだ。わざわざビンに試供品と手書きして渡すぐらいだ。彼なりにいろいろと考えてのことなのだろう。しかし、いくらするんだろう、これ。高かったらいやだな……。あとでネットで調べてみよう。


「せっかくだし付けてみたら? 司の好きな匂いかも」


「いや、ここ学校だし」


「気にしない気にしない。付けてあげる」


 素早い動作でボクから香水を奪い取り、手首にシュッとひと吹きする。


「なんで手首に?」


「血が通っていて暖かいところに付けると、香りがよく出るんだよ」


 そんな豆知識があるとは知らなかった。正直、今まで香水なんて使ったことがないから、服にでも吹きかければいいのかと思っていたけど、ちゃんと最適な場所があるみたいだ。


「そんなこと知ってるって事は、もしかして香水持ってるの?」


「うん。学校では使わないけどね。いくつかあるよ」


「ほぇ~……」


 事も無げに言う美衣が途端に大人に見える。というより、最近の自分の言動を鑑みて、美衣の方が総じて精神年齢が高いように思える。元々の自分の精神年齢がお子様だったのか、それとも中学から高校に上がったばかりの一年二組のクラスメイトと毎日かかわっているせいか、どちらが原因なのかは分からないけど。ボクとしては後者であってほしい。


「あ、いい匂い。司どう?」


「うん。いいかもしれない」


 たったひと吹きしただけなのに、香りはすぐにボクの鼻まで届いた。彼がつけていたような甘く、きついものではなく、たとえるなら良い香りのする石鹸のような、軽く爽やかな匂いだ。


「これなら毎日学校へつけていっても問題なさそうだね」


「うん。……へ? つ、つけないよ」


「えー。石島君喜ぶよ?」


「……本当にどっちの味方?」


「だから司だって」


 疑いの目を向けるボクに「ほんとだよ」と付け加える。美衣もお母さん同様、色恋沙汰に興味津々ということか。いや、それはお母さんや美衣に限ったことじゃなく、単に女という生き物がそうなのかもしれない。休み時間に立夏や周りの子と話す話題も半分が似たような内容だ。おかげでいつもついていけなくて困っている。


 香水を鞄にしまい、歩き出す。美衣が少し遅れて続く。階段を上がり、踊り場を越えてUターンしたところで立ち止まり、振り返る。


「アイツと付き合うことは絶対ないから、期待するような展開はないよ」


「うんうん。そうだよねっ」


 美衣は嬉しそうに頷いた。やはり結果ではなく、過程が楽しみのようだ。大きくひとつため息をつき、前に向き直る。


「薄いピンクかぁ……」


 美衣が呟く。薄いピンク……――っ!? 慌てていつもより少し大きく広がったスカートを押さえる。


「み、見た?」


「うん。ばっちり。夏服なんだから気をつけないと」


「うぅ……」


 後ろの美衣をきつく睨む。なんでさっきからずっと後ろにいるんだろうと思ったけど、これを待ってたのか? 恥ずかしくて顔が熱い。


「でも大丈夫。似合ってたよっ」


「うるさい!」


 朝の廊下にボクの怒声が響き渡った。

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