その36 「これほしい」
六月はジューンブライドと言って、結婚式を挙げるにはいい月らしいけど、こと日本においては梅雨まっさかりの暗雲立ちこめる季節。多くの人が灰色の空を見上げては眉間に皺を寄せている。きっとお祝いムード一色でなければならない結婚式場でも、裏方のスタッフは毎日天気予報を見ては、式のプランに頭を悩ませているのだろう。ご愁傷様です。
そんなじめじめとした憂鬱な六月が今日から始まる。窓の外は数日前から居座り続ける雨雲のせいで夜のように暗く、ボクのテンションを底辺のままキープしている。それなのに、周りはやけに賑やかだった。
「来週までは雨の日が多いって天気予報で言ってたから、もう少し様子を見た方がいいかも」
「でも今日の登校中、他校の子だけど、結構夏服の子を見かけたよ?」
話題は制服の衣替えについて。蓮池高校では今日から制服移行期間に入っていた。その名の通り、これからの一ヶ月間は冬服から夏服に衣替えする準備期間であり、冬服でも夏服でも各自の判断で自由に制服を選べるようになっている。男子はブレザーを脱いで半袖ワイシャツになるくらいの変化しかないので、各自で自由に衣替えを済ますのだが、女子の場合は少し違う。女子の制服は夏と冬ではデザインが大きく異なり目立つのだ。そのため「自分だけまだ冬服」もしくは「自分だけもう夏服」なんて事態を避けるために、あらかじめ仲間内で話し合い、衣替えの日を合わせるのが恒例となっている。
「今年は暑いし、早めに夏服にしてもいいかもな」
立夏も多分に漏れず、早々に話を振ってきた。
「ふーん。そうだね」
パンを囓りながら適当に相槌を打つ。昼休み。雨、そして授業の終わりが遅かったせいで食堂には空席が一つもなかった。仕方なく今日は売店でパンを買い、教室で食べることにした。
「司は暑がり、それとも寒がり?」
「ん? うーん。寒がりかなあ。冬はコタツから動かないし。夏は結構平気」
「あたしは逆だなあ。夏のあの暑さに耐えらんなくって」
「へ~。意外だ。立夏は真夏の炎天下の中でもマラソンしてそうなのに」
「中学でも言われたことあるけど無理無理。あんなのほんと死ぬって」
「直射日光浴びながら走るんだもんね。部活中に熱中症で倒れたってニュースもよく聞くし」
昨日の夕方のニュースでもそんなことを言っていたことを思い出す。たしか持久走中に陸上部の女子三名が突然倒れて救急車で搬送されたとか。
「そうそう。だからあたしは夏の間はあまり頑張らないようにしてる」
「じゃあ夏の間は陸上休み?」
陸上って夏が本番だったような気がするけど。
「うん。代わりに水泳部に混ざってプールで泳ぐことにしてる。さすがに大会前は走るけど」
「立夏ならむしろそのまま水泳で大会に出ればいいんじゃない?」
「だめだめ。あたし泳げないから」
「得意そうなのに?」
勝手なイメージで、立夏は運動ならなんでもできるものだと思っていた。
「ビート板必須。体が沈むんだよ。たぶんあたしの体の中には金か鉛か何かが入ってるに違いない」
間違いなく入ってないと思う。
「それより話は戻るけど、いつから夏服にする?」
「別にいつでもいいよ」
「うーん。そうじゃなくてさ~……」
とりとめのない話をしつつ、時折衣替えの話題を入れてくる立夏。さっきから立夏はずっとこんな感じだ。ボクとしては衣替えの日なんてどうでもいいので、立夏に任せたいから今みたいに応えているのだけど、どうもボクの返答に納得がいかないらしい。そんな会話を続けていると、
「ねえねえ。吉名さんちょっといい?」
「吉名さんはいつから夏服にするの?」
隣の席の女の子二人が話に割って入ってきた。堀見さんと弘末さんだ。
「特に決めてないから立夏に合わせるつもり」
「またそんなことを言う。だいたいこんなこと言うヤツは当日になったら、『あれ、そうだっけ?』って約束守らないんだよ」
「そんなことはない……と思う」
当日に忘れて、冬服で来てしまうということは大いにあり得る話だ。ただそれでも次の日からは間違えなければいいだけの話で、たった一日くらいどうって事ないと思う。
「ほらぁ! こんなこと言うんだぞ?」
「吉名さん。ちゃんと決めましょ」
真剣な表情の三人。なんだろうこの温度差は。堀見さんの隣にはいつの間にかまた別の女の子がいるし。
そんな感じで衣替えについてあーだこーだと話していると、また一人、また一人と増え続け、気付けばクラス全体に広がっていた。そして急遽「一年二組の衣替えをいつにするか」というとてもとてもどうでもいい議題の会議が始まってしまった。参加者はクラスほぼ一同。教壇には学級委員が立ち、昼休み中だというのにまるでホームルームだ。
なんで制服一つにこんなにも話を大きくするのだろうと他人事のように成り行きを見守っていると、ふいに学級委員がボクを指名してきた。無駄に注目されるなか、携帯電話の天気予報を見て「8日から晴れが続くみたいだし、この日でいいんじゃない?」とあまり深く考えず適当に答えた。しかしその一言がみんなに快く受け入れられたらしく、結果「一年二組は全員8日から夏服とすること」と即行で決まってしまった。
よく分からない会議のせいで大事な昼休みが潰れてしまったけど、立夏は納得してくれたようなので、それだけは良かったと思えた。
◇◆◇◆
それから一週間後の8日。約束の日がやってきた。
自室の姿見の前に立ち、そこに映し出された自分自身の姿を見つめる。そこには蓮池高校の夏服を着たボクがいる。前立ての部分に藤色のラインが入った白色の半袖オーバーブラウスに、グレーを基調としたチェックのスカート。首元にリボンはなく、代わりのように胸元のポケットには大きな校章が刺繍されている。全体的に涼しげな感じで、実際スカートの生地が薄くなっていて軽い。男子の制服のスボンも夏服は生地が薄くなるのだから当然と言えば当然なのだけど、これには少し驚いた。
スカートの裾を摘まんでひらひらとさせてみる。これは冬服よりも捲れやすそうだ。気をつけないと。そう自分に言い聞かせながら自身の姿を凝視していると、ふいにそれに気付いてしまった。なんとスカートが透けているのだ。さすがにパンツまでとはいかないまでも、裾から数センチ上までが微妙に透けて見えていた。見えたとしても中は太ももと太ももの間の空洞なので別に気にすることはないのだけど、それでもこれは少し恥ずかしい。
「……あ」
と、そこで気付いてしまった。スカートが透けることよりも、もっと重要なことがあるじゃないか、と。おそるおそる視線を上げる。
「やっぱり……」
視線の先には白いブラウスが。そしてそこにはうっすらと透けて見えるブラジャーがあった。タイトな形状のブラウスが体のラインに沿っているせいで、ぼんやりとレースやらリボンやらの装飾までもが見えてしまっている。
これはかなり恥ずかしい。ブラジャーが見えてしまうということ自体よりも、こんな女の子女の子した下着をつけているところを衆目に晒してしまうことが恥ずかしい。せめて無地で飾り気のないものをつければいくらかマシになりそうなのだけど、お母さんが買ってくるのはどれもワゴンセール品ではない気合いの入ったものばかりで、簡素な作りなものは一つとしてない。だったら自分で買いに行けばいいのだが、あんな女だけが入ることを許された禁断のエリアにボク一人で踏み込むなんて羞恥プレイもいいところで、かといって美衣に頼むのは情けなくてできない。今更ブラジャーをしないというのも不自然だし、結局お母さんが買ってきた物をつけるしかないのだ。
しかしこのままでは学校に行けそうにない。「夏服が恥ずかしいので学校を休みたい」とお母さんに言ってみようか。無理ですね、はい。そういえば、蓮池の女の子はけっこうみんな透けてたよな……。その昔のボクもごく一般的な男だったわけで、どうしても目がそっちに向いてしまっていた。あの頃は「なんで透けてるんだろう」なんて疑問に思ったことは一度もなく、ただただドキドキしながらこっそりと盗み見ていたものだ。かわいい子だと必要以上にドキドキしたり、透けていない人がいるとちょっとがっかりとしたり、派手な色つきのを見つけると「それはやりすぎだろう」と呆れたり。今ではいい思い出だ。
しかし、それはそれ、これはこれ。見る側なら別にどうでも良かったことだけど、見られる側になった今は話が別だ。むしろ元男だったのだから、男子が女子をどういうふうに見ているのかを知っているわけで、それを想像すると寒気がする。
ボクみたいな胸のない子を見て男どもが興奮するのかどうかはさておき、たとえ1ミリでもあいつらを喜ばせるようなことはしたくない。何か透けない、いい方法はないものか。ピンクやら水色みたいな色物じゃなく、白にすれば目立たなくなるけど、それでも形は出てしまう。たまにまったくと言っていいほど透けていない子がいたけれど、あれはどうしていたんだろう。それにたしか、上に何かを着ていたような……。
「お姉ちゃーん。そろそろ出ないと遅刻するよー」
ノックをすることなく美衣が現われる。いつもなら一言いってやるところなのだが、今はそれどころじゃなかった。
「あ、お姉ちゃんもやっと夏服なんだ。うん、似合ってる似合ってる」
数日前から夏服を着用していた美衣がおもむろに携帯電話を取りだし電子音を響かせた。
「なあ美衣。その……これが透けないようにするにはどうしたらいいんだ?」
自分の胸元を指さす。美衣が首を傾げた。
「キャミソールかサマーセーターを着ればいいんじゃないの?」
「それだ!」
そうだ、それだよ。なんで思いつかなかったんだろう。中に一枚薄いのを着込めばいいんだ。上に着るのはサマーセーターと言うのか。
「でも着ると暑いよ?」
「透けるよりまし。美衣は気にならないのか?」
美衣はブラウスの下に何も着込んでいないし、サマーセーターも着ていない。
「少し大きめのブラウスだから透けにくいし、慣れちゃった。それに見られても大丈夫なのをつけてるから」
美衣が言うようにここから見る限りは透けていなかった。だったらと、美衣に近づきブラウスの裾を掴んで引っ張る。……たしかに胸と胸の間にワンポイントのリボンがあるくらいで、ボクのと比較してとてもとてもおとなしいデザインだった。
「卑怯だ。これほしい」
「サイズ合わないよ?」
「むぅ……」
なんか負けた気分になる。…………はっ、いや別に胸の大きさを気にしてるわけじゃないからなっ!? 男の頃はどちらかといえば小さい方が好みだった……って言い訳にしか聞こえないか。弁解しておくと、いつも更衣室やら休み時間に女の子達と会話していると、どうしてもそう言った話題もあるわけだ。やれあの子は大きいやら、やれあの子は最近発達がめざましいやらと。何度も似たような話をしていると、ある程度の大きさはないといけないんじゃないかと思えてくるのだ。ある種洗脳に近いと思う。立夏や堀見さんには「司はそれくらいでちょうどいい」と言われるけど、それも同情されているように聞こえる。なんで胸のことでこんなにも悩まないといけないのか。女は大変だ。
とにかく着替えよう。サマーセーターは持っていないから、必然的にキャミソールになる。まあサマーセーターは暑いだろうから着るつもりはなかったけど。
「じゃあ着替えたらすぐに行く。玄関で待っててくれ」
タンスからキャミソールを取り出して言う。
「えー。見てちゃ――」
「早く出ないとアレを投げる」
指さしたウニのオブジェを見て、美衣は慌てて部屋を出て行った。