その35.5 「あってどうする」
「……な、なあ、司」
「あはは。ん、なに?」
夕食後、テレビを見つつ晩酌の相手をしていたときのこと。お母さんが買ってきたお買い得な缶ビールをグラスに注いでいると、お父さんが遠慮がちに話しかけてきた。
缶ビールをテーブルに置き、テレビを背にしてお父さんの方に向き直る。酔いで頬を赤くしたお父さんは、しきりに視線を動かして頬を掻いていた。真正面から見つめているというのに目線を合わせようとしなかった。自分の子供相手に何を恥ずかしがっているのか。
「そ、その、だな……」
話を振ってきたのはそっちだというのに言い淀む。なんだろう。また耳かきをして欲しいとか、肩を揉んで欲しいとか、そんなお願いだろうか。だったらごにょごにょせずさっさと言ってしまえばいいのに。
「ええと……」
なかなか先に進もうとしない。挙動がまるで思春期の男子中高生だ。白髪もなく、同年代と比べて顔の皺も少ないからなおさらそう見える。とは言えさすがに四十オーバーの男が中高生というのはキツイものがあるので、せいぜいちょっと歳のいった大学生といったところだろうか。飲んだくれのただの親父だけど。ちなみにこのことをお父さんに伝えたら一万円の臨時収入を得た。大人は若く見られることが嬉しいらしい。
「よ、よし」
髪の毛をくるくると指に巻き付けて時間を潰していると、ようやくお父さんが切れの良い声を上げた。さて、何をお願いされるだろう。
「つ、司」
「はいはい」
楽だったらいいなと思いつつ適当に返事する。そして再び始まる溜めの時間。早く、と急かそうとした間際、遮るようにしてお父さんが口を開いた。
「とっ、父さんと一緒におふろにはいへぶしっ!?」
一瞬だった。視界の隅から突如として現われたそれは、瞬く間に進路上のお父さんの顔面に激突。赤い顔をして上擦った声を上げていたお父さんは真正面からそれをもろに受け、赤と白の破片と水滴を飛び散らせながら、大きな音と共に椅子ごと床に倒れた。
「お父さん!?」
何が起こったか分からず、とりあえずお父さんを心配して駆け寄る。生きてるかなと多少物騒なことを考えつつお父さんの顔を覗き込む。しかし、
「いたいっ」
お父さんはすぐに上体を起こすと、涙目で鼻を押さえ、声を上げた。全然ピンピンしてる。あの衝撃でこのダメージはどう考えてもおかしい……が、考えても仕方ないので放り投げた。
お父さんの視線の先を追って背後を見る。そこには案の定というかなんというか、我が家でこんなことをするのはこの人しか居ないわけで、少し冷静になればこの奇行もあの人なら奇行ではなくなるわけで、予想の範疇だ。
つまるところ、そこにいたのは我が家の問題児――ではなく、我が家の大黒柱。今にも握りしめたリンゴを潰してしまいそうな般若顔のお母さんだった。
「美衣! 110番よ!」
「なっ!? お母さん、そこは110番じゃなくて119番だろ!?」
お父さんが涙目で訴える。どっちもいらないと思う。
「何言ってるの! 実の親が娘を襲おうとしているのよ!? 110番に決まってるじゃない!」
「襲う!?」
お父さんの素っ頓狂な声を横目にお母さんの隣を見やれば、ソファーに座った美衣が面倒臭そうな顔をしてお母さんを見上げていた。ボクと目が合うと、肩を竦めて小さく笑った。何も言ってはいないけど、言いたいことは分かる。ボクも同じだ。
『またか』
「お父さんはただ単純に司と久しぶりに親子水入らず――」
「何が親子水入らずよ! お風呂で年頃の娘とイチャイチャ裸のお付き合いなんて羨ま――じゃない、いやらしい!」
「いやらしい!?」
今日もお母さんの頭の中はピンク色。
「む、娘に邪な考えなんて起こすか!」
「さあどうかしら。私なら心の奥底から湧き上がるリビドーを抑える自信なんてないけど、あなたにそれができるっていうの?」
堂々と何を言ってるんだろうこの人は。
「ああそうだ。父親だからな。父親だから娘と風呂に入ってもいいじゃないかっ」
高校生にもなって父親とお風呂に入る人が世界にどれだけいるだろう。間違いなく少数派であることは間違いない。入ること自体はたしかに良いとは思うけど。
「父親父親って、本当は司と一緒にお風呂に入って、開放的な気分のなか、くんずほぐれつすべすべぷにぷにお肌を満喫するつもりなんでしょう!?」
「それはお前の願望だろう!?」
お父さん大正解。
「ええそうよ悪い!?」
さすがお母さん。開き直るのが早い。もちろん悪いに決まってる。
「お母さんだってまだ司と一緒にお風呂入ったことないのに! お父さんだけずるいわよ! 司、お母さんと一緒に入りましょ?」
「絶対イヤ」
間髪入れずに返答すると、お母さんは全てに絶望したかのような顔をしてソファーに崩れ落ちた。
「……お姉ちゃん、入ってあげたら?」
「鼻血を垂れ流すような人とか?」
「やめたほうがいいね。あとの掃除が大変そうだし」
残念、と美衣がお母さんの肩を叩く。本気で残念がっているお母さんを見ていると少なからず心にチクリとくるものがあるけど、ここで折れたら後に大変なことになるのは明白なので、心を鬼にする。
「……お母さんがあれだし、ごめん」
「そ、そうだな」
表面上は納得しているお父さんだが、固い表情でお母さん同様残念がっているのは丸わかりだ。下心丸出しのお母さんはともかく、純粋に親子のふれあいをしたかったであろうお父さんには申し訳なく思う。
「お酒とか、そういうのならいくらでも付き合うから、元気出しなよ」
なんで子供が親を励まさないといけないんだろう。しかし意気消沈しているお父さんを見ていると放っておくわけにもいかない。
「司は良い子だな」
しみじみと言われて、なんだかこそばゆい。
「二人の育て方が良かったんじゃない?」
照れ隠しついでに言うと、痛みとはまた別に目を潤ませてしまった。
大人は褒められることが嬉しいらしい。
「それで、どうして美衣がここにいるんだ?」
浴槽の縁に肘をつき、泡だらけの美衣を睨む。
「お父さんはダメ、お母さんもダメ。そしたら間をとって私が入るのがいいんじゃないかなと思って」
スポンジを握りしめて体を洗う美衣が笑顔で応える。
「何が間を取ってだよ。一緒に入るのは嫌だって、前に言わなかったっけ?」
「えー。そう?」
「わざとらしく首を傾げるな。その顔は知ってましたって顔だ」
「えへへ」
悪びれた様子もなく、笑って誤魔化す。確信犯だ。
「まったく……」
「まあまあ。今日ぐらいいいでしょ? お湯も乳白色で見えないんだしさ」
「ほんと、それは良かったよ……」
美衣が浴室に乱入してきたのはほんの数分前。体を洗い終え、ボクにしては珍しく気分転換にと乳白色の入浴剤を入れて肩まで浸かったその時、突然美衣が浴室の扉を開けて入ってきたのだ。
お母さんが用意してあった全国秘湯温泉巡りセットには他にもマリンブルーやグリーンなど、透明色の入浴剤もたくさんあった。というかむしろそればかりだ。選んだときは箱に入っていた物を適当に掴んだだけだったけど、よくぞ数ある入浴剤の中からこの乳白色の入浴剤を選んだと、十分前のボクを褒めてあげたい気分だ。おかげで美衣にボクの体を見られずに済んだ。……まあ、乳白色じゃなかったら問答無用で追い出していたけど。
「でも、なんでそんなに恥ずかしいの? そろそろその体にも慣れてきたんじゃないかと思うんだけど」
「そ、そりゃある程度は慣れてるよ」
ここは浴室。もちろんボクも美衣も裸で、体を洗っている美衣に目を向ければ、当然そこには年頃の女の子の一糸纏わぬ姿がある。しかし、自分自身で女の子というものに慣れ、第一に相手は妹の美衣だ。変な気が起こるはずもない。
「だよねー。私の裸を見てもとくに感じるものはないっぽいし」
「あってどうする」
美衣が僅かに肩を落とす。なんで残念そうなんだ。
「なのに自分の裸を見られるのは恥ずかしい、と。普通逆じゃない? どっちかというと恥ずかしがるのは私で……あっ、それともお姉ちゃんもすっかり女の子に?」
「んなわけあるかっ。じろじろ見られてると思うと、男とか女とか関係なく恥ずかしいだろ」
「そうかな」
「そうだよ。例えばカラオケに行ったとして、普通に歌うのはいいけど、友達から『美衣の歌って凄いんだぞ』と囃し立てられ、みんなに注目されるなか歌うのは恥ずかしいだろ?」
「た、たしかに……」
神妙な顔つきで頷く。美衣は歌が得意じゃないから共感しやすいのだろう。だからこの例えにした。
「それでお姉ちゃんは、私やお母さんと入るのは嫌がるけど、お父さんとは良いって言ったの?」
「そういうこと」
お母さんと美衣は自らの言葉でボクの裸が見たいと言ってきた。対してお父さんはボクと二人で話がしたかっただけ。前者と後者ではボクの心の保ちようが違う。もちろんお父さんとは男同士だから入りやすいというのもある。内面的な意味で。
「うーん……。焦りすぎたのかぁ……」
「焦りすぎたというか、露骨すぎたな」
「特にお母さんが?」
「あれは焦るとかじゃなくて血走ってただろ。いろいろアウトだ」
言葉にしなくても、あの雰囲気で分かってしまう。
「やっぱそっか」
美衣がクスッと笑ってシャワーのノズルを持って立ち上がる。体についた泡を洗い落とし、浴槽の縁に手をついた。
「はいっていい?」
「いいけど、できるだけ離れて入れよ」
今更断わるわけにもいかない。幸い我が家のお風呂はそれなりの広さがあるので、子供であれば左右に分かれて一人ずつ入ることができる。美衣とボクが入っても、少しだけスペースを確保できた。初めて自分のコンパクトさが役だった気がする。
「はああぁ。あったかいね」
「うん」
「お姉ちゃん、ほっぺた真っ赤だね」
「体温が上がるとすぐ赤くなるんだよ」
「肌が白いもんね、お姉ちゃんは」
美衣の手が伸びてくる。避ける広さもないので、すぐにボクの頬に触れた。
「ぷにぷにして柔らかい。いいなあ」
「……ちょっとでも手が下がったら殴るからな」
「分かってるって。そんなことしないよ」
抗議してくるかと思いきや意外とあっさりしていた。少しは残念がると思っていたのに。
美衣は楽しそうにボクの頬を撫でたりつついたりしていた。時折耳や唇、髪に触れたりしたけど、言葉通りそれより下に手が伸びることはなかった。
「……私もだけど、お母さんのこと、少し大目に見てあげてね」
「どうしたんだよ突然そんなこと」
本当に突然だった。ゆるい空気が流れていたところに、ふいのお母さん擁護発言。このゆるい空気に便乗してボクを頷かせようという姑息なまねをするのかと思いきや、美衣の表情は笑顔のままでも、その目はまっすぐボクを見つめていた。
「お母さんの気持ちも、私は分かるから。十年以上も待ったんだから……」
「ん、じゅう……なんだって?」
最後の方は声が小さくて聞き取れなかった。美衣が少し間を置いて首を横に振る。
「なんでもない。とにかく、お母さんはお姉ちゃんのことが目に入れても痛くないくらいに可愛がってるってこと」
「それは言われなくても痛いぐらい分かってるって」
当然の言葉に当然の言葉を返す。
「あの愛情表現がもっとまともだったらね」
そしたらボクも素直に……なんてことは言わない。恥ずかしいから。
「あはは。そうだね。でも、あれはあれで楽しくない? 変態だけど」
「まあね。変態だけど」
そう言ってボクと美衣はどちらからともなく笑い合った。