その34 「大丈夫。みねうちだから」
「すみません」
コンビニを出たときだった。遠くの方から声が聞こえた。小さいながらも拒絶の色を示すそれは間違いなく美衣のもので、まさかと思いつつ向けた視線の先には、およそ想像通りの光景が展開されていた。
公園の入口でボクを待っていた美衣の前には、見たことのない灰色の学ランを着た男が立っていた。美衣との身長差のせいか、それとも元々の姿勢の悪さなのか、猫背のせいでせっかくの長身をだいなしにしている。自分で染めたであろう金髪はムラがあり、酷く痛み縮れている。耳にはピアスが見える。その風貌はいかにも「俺、悪っすよ」とでも言いたげだ。
彼は好青年にはほど遠い悪ぶった笑みを浮かべて美衣に言い寄っているようだった。愛想笑いを返す美衣の頬がぴくぴくと引きつっているのが遠目でも分かる。十中八九ナンパだ。
あれ? 前にもこの場所で同じようなことがあったような……。ああそうだ。入学式の帰りのあの時だ。まだ一ヶ月とちょっとしか経っていないのに、またナンパされるとは……ってちょっと待て。もしかして美衣って、実は結構モテるのか? 短期間に二度もナンパされるのだから、きっとそうなんだろう。たしかに美衣はひいき目を差し引いてもかなりいい線いってると思う。小さな顔に大きな瞳。モデルとまでは言わないまでも、出るところは出て引っ込むところは引っ込んだ体。表情もころころと変わり、面倒見も良い。モテてもおかしくはない。とは言え、兄としては複雑だ。もちろんモテるモテないで言えば、モテた方がいいに決まっているのだが、モテるということはつまり、時々こういう風に男が言い寄ってくることがあるわけだ。別に美衣が誰かに告白されたり、誰かと付き合うことになっても構わない。むしろ美衣が彼氏を作り、ソイツを家に招いたときに「お前に妹をやれるかー!」とちゃぶ台をひっくり返すことを夢見ているぐらいで、付き合うこと自体は歓迎だ。ただ、変なヤツとは関わってほしくないなぁ、という親心ならぬ兄心があるのだ。
そういえば美衣って誰かと付き合っている、もしくは過去に誰かと付き合ったことはあるのだろうか。浮いた話を一つも聞いたことがない。しかし、それはボクが兄であり男だったから言いづらかっただけで、実はお母さんもしくは友達にはこっそり相談していたとか、そういうことは――
「結構です!」
美衣が声を上げる。今はそんなこと考えてる場合じゃなかった。美衣が嫌悪感を前面に出している。流れが前回と同じ、このままでは美衣がピンチだ。途端に焦りを感じる。
ど、どうしよう。いや、落ち着け、落ち着くんだ。まだ男はにへらと笑ったままで手もポケットの中だ。まだ余裕はある。今度はプリンを投げるなんて失態を犯してはいけない。このためというわけでもないけど、そういう用途にも使えるものをちょうど今日から持ち歩いているのだから。
などと考えながら視線をなんとはなしに下ろすと、何故かボクの左手はビニール袋の中を漁っていた。全然落ち着けていなかった。なんでビニール袋を漁ってるんだよボクは!? 袋を地面に叩きつけそうになったが、もったいないという気持ちが勝り、なんとか踏みとどまる。
またプリンを無意識に投げようとしたのか? 美衣のピンチだから焦るのは分かるけど、プリンを無駄にすることはないだろ。とくに今日のはいつものより二十円高い、ちょっと豪華なヤツだ。投げたらあとで絶対後悔する。……あれ。これって焦ってる、のか?
首を傾げ、すぐに左右に振る。前回と同じ展開なうえ、吸血鬼の力をそれなりに操れるようになったせいで、変な余裕が生まれているらしい。慣れとは恐ろしいものだ。しかしプリンがもったいないとはいえ、果たしてこれを人に対して投げていいものか……。まあ、法律的にはアウトだよな。
「やめてください!」
はっとして視線を上げると、美衣が男との手を払い除けていた。彼の表情が一変する。迷ってる場合じゃなかった。意を決して鞄を開き、その中に手を突っ込む。手探りである物体を掴むと、鞄から引っこ抜いた。
手にしたのは、昨日食べたバフンウニの殻のオブジェ。切口が小さく、破損も少ない一番状態のいいものだ。これを見ていると昨日のウニ丼を思い出す。いやぁ、本当に美味しかった……じゃなくて!
慌ててウニを力強く……刺さらない程度に握りしめ、大きく振りかぶる。吸血鬼の力を開放し、勢い良く振り下ろした。その間際、揺れる視界がスローモーションになる。横目で高速で振り下ろされる左手を見ると、その手の平にはウニが密着していた。針がささっているように見えたが、痛みを感じないのでささってはいないのだろう。前を見据え、男を視界に捉える。ヤツに間違いなくぶつけられるよう腕と指で方向を微調整する。
やがてウニがボクの手から離れ、男に向かって飛んでいく。それは放物線を描くことはなく、ただただまっすぐに男目掛けて突き進む。若干というか、かなりやり過ぎた感を覚えつつ、不可思議な飛行物体を目で追う。それは時間にするとほんの一瞬の出来事だったけれど、丹精込めて作ったお気に入りのオブジェが風を切る様は、なんというか、言葉には言い表せないものがあった。二つの意味で。だってウニだし。
「っだ!?」
「よしっ!」
ザクッという音と共に男が短く声を上げて崩れ落ちた。思わずガッツポーズをとる。
「えっ、えっ?」
美衣が動揺した様子でうつぶせに倒れた男を見て、そしてこちらを見た。
「……ウニ?」
ボクがいたことよりも、投げた物体の方に関心があるらしい。そりゃそうか。
「イエス。シーアーチン」
流暢な英語と共に美衣の元へ走り寄り、男を見下ろす。見事にウニが彼の頭に突き刺さっている。シュールな光景だ。
「こ、この人、大丈夫?」
美衣がさっきまで不快な思いをさせられていた男を心配している。我が妹ながらいい子だ。
「大丈夫。みねうちだから」
「みねうちとかあるの?」
「これがスパイクボール君だったら、コイツは死んでた」
軽く睨まれた。架空のキャラクターを例に挙げたのが悪かったようだ。仕方ないのでみねうちだということを確認するために、しゃがんで男の脈に触れる。
「……よし。生きてる。高血圧の心配もない」
また睨まれた。ちょっと怖い。
「なんでウニなんて持ってたの?」
美衣が心底不思議そうに尋ねる。
「なんでって……。お気に入りのキーホルダーやら小さめのぬいぐるみなんかがあったら、鞄に付けたり持ち歩いたりするだろ?」
「うん」
「せっかく苦労して一番状態のいい殻を選んで、洗浄して、針の先を少しだけ削って、ささってもそれほど痛くないように加工し、さらには折れないように傷つかないように表面を樹脂でコーティングまでしたんだぞ? 家に飾っておくだけじゃもったいないから持ち歩くに決まってるだろ」
「えぇ~~?」
うわ、妹に変な目で見られた。べ、別にいいじゃないか。女の子がぬいぐるみを持ち歩くように、ボクがウニを持ち歩いても。生臭くもないし。
「じゃあ、そのコーティングをしたはずのウニがどうしてささってるの?」
「……あ」
二人同時にウニを見る。バフンウニは見事に男の頭にささっている。無言でウニを掴み、引っ張る。スポッと針が抜け、そこからぴゅーと血があふれ出た。ささっていた針を見ると、その部分だけコーティングどころか先端の加工もされていなかった。
噴水のように溢れる血を横目にゆっくりと口を開く。
「……まあ、所詮素人ですから」
「あ、逃げた」
目をそらし、あさっての方向を見る。誰にだって失敗はあるんだ。きっとコイツの運がなかったのが悪かったに違いない。
「大丈夫かな、この人」
「あ、頭は血管が多いから思ったよりも血が出やすいらしい……と、どっかのサイトで見たような見なかったような」
美衣に睨まれ、語尾を小さくしながら男を見る。勢いは衰えたもののいまだ溢れる血は男の顔を濡らしていた。
……絆創膏で止まるかな。鞄から絆創膏を一枚取りだし、ペタッと張ってみる。意外にもそれだけで血は止まった。ほら、やっぱりたいしたことなかった。……すみません張るまでコイツ死ぬんじゃないかと本気で心配してました。
ちらっと美衣を見ると、ボク同様安堵しているようだった。
「うっ……」
『っ!?』
突然男が身じろぎし、二人してびくっと体を震わせた。そおっと男を見下ろし、目を閉じているのを確認してほっと胸を撫で下ろす。
「……走るか」
「うん」
小さな血の池を作る男をそのままに、ボクと美衣は逃げるようにしてその場を後にした。