その30 「……へ?」
「ここに濃度10パーセントの食塩水が200グラムあります。この食塩水に、濃度30パーセントの食塩水を30グラム混ぜます」
おそらく理科室から拝借して(奪って)きたビーカーに、水と食塩を入れながら問題文を読み上げる茜。それって実際にやる必要あったっけ……。
「質量パーセント濃度ですか。それ苦手なんですよねー……」
同じく。簡単なものなら解けるが、少しでも応用が入るとお手上げだ。
「さてここで問題」
手に持ったビーカーを突き出す。
「この食塩水を毎日飲んだ場合、生活習慣病のリスクはどれほど高ま――」
「なんですかその問題は!? 今は化学の問題を出しているんじゃなかったのですか!?」
珍しくちさがヒートアップしてる。それもそうか。さっきから茜は一問としてまともな問題を出していない。けれど、そもそも茜に問題を出して貰おうと考えたのが間違いだ。息抜き感覚でちさは頼んだんだろうけど、茜相手じゃ疲労が増すだけだ。
「じゃあ周期表でも覚える? ランタノイドとアクチノイド言ってみて」
「なんでマイナーなところをチョイスするんですか!? しかもテスト範囲外です!」
「マイナーだから、テスト範囲外だからって、問題をえり好みしすぎじゃない?」
「テスト勉強ですからこれ! そろそろ真面目にしてくださいよー」
「まったく……」
やれやれといった様子で茜が姿勢を正してコホンと咳をする。
「元素記号Hは?」
「水素です」
「正解」
やっと真面目に勉強に付き合う気になったのか。茜にしてはめずら――
「これであたしが教えることはなにもない……」
「それだけ!?」
いつも通りだった。
「うぁー、勉強飽きたぁー!」
「あー! ちさの教科書!」
茜が教科書を放り投げて伸びをする。ちさが慌てて拾いに走る。飽きたと言うけど、ほとんどちさをからかって遊んでただけじゃ……。ちさが茜を睨み付けるけど、すぐに諦めて席についた。
「ねー。今日の勉強はこのぐらいにして、遊ばない?」
怠そうに頬杖をつく。そんな茜に沙紀が半眼の視線を送る。
「あなた三年でしょ? そんなだらけたこと言ってて、希望の大学に受かるとでも思っているの? もう少し頑張ってみたら?」
先の言葉に目をぱちくりさせる茜。しかしすぐに笑い出して、
「あはははっ。受験なんてまだまだ先よ。今から頑張ってもバテちゃうよ。受験は最後の二ヶ月頑張ればいいって、努先輩も言ってたじゃん」
沙紀がこっちを見たのですぐにあさっての方向を向く。
「まったく。どこかの誰かのせいで茜がさらに堕落しちゃったじゃない」
「誰かって、努だろ? どうしてわざわざ濁したんだ?」
「先輩の名誉のために」
だからボクを見るなって。ちゃんと大学に合格したんだからいいじゃないか。水の泡になったけど。
「どうせ茜は家に帰っても勉強する気なんてさらさらないでしょ? だからここにいる間くらいは頑張りなさい」
「えぇー」
茜が口を尖らせる。
「でないと夜に押しかけて強制勉強会を開くわよ」
「今日は見たいドラマがあるので頑張らさせていただきます」
茜の手が鞄に伸び、中から英語の教科書を取りだした。
「んじゃやりますかね。しぶしぶ」
「しぶしぶ言わないの」
「つぶつぶ」
「ぶっ!」
一斉に音のした方を向く。そこにいたのは口元に手を当ててプルプルと震えるちさ。茜のしょうもない冗談がツボに入ったようだ。茜だけは嬉しそうに笑顔を浮かべ、ボクや颯、沙紀は微妙な顔をする。
「あ、茜先輩、なかなかやりますね……」
「いや、こんなので笑えるちさの方が凄いと思うわ」
茜的にはちさを褒めているのだと思うけど、バカにしているように聞こえる。気分を良くした様子の茜が握りしめたシャーペンをノートの上に走らせる。その筆跡に迷いはない。次々に問題を解いていく。あんなに勉強嫌いなのに成績がいいのはこのためだろう。やれば出来る子なのだ。
「だぁーっ。お腹空いて無理。おやつ食べてからにする!」
やれば……ね。茜がポケットから携帯電話を取りだしてどこかへ電話をかけ始める。
「もしもし。注文いいですか? パーティーセットを一つ。以上で。はい、クーポン使います。場所は蓮池高校の第二校舎四階西の突き当たりにあるエンタメ部までお願いします」
携帯をしまい、ふふーんとやけにニコニコとしている茜。
「何を注文したのかしら?」
「ポテトとかチキンナゲットとかハンバーガーとか、いろいろ入ったパーティーセット。ほら、この前オープンした学校前のハンバーガー屋さん。デリバリーしてますってあったから頼んでみたの」
鞄から取り出したチラシを机に置く。そこには『パーティーセット今なら半額!』と大きく書かれていた。三人前のそれが通常3000円のところを1500円か。安いが高い。
「三人前みたいだからみんなで食べようよ」
茜らしからぬ言葉が飛び出す。そう思ったのはボクだけじゃないようで、
「お、茜にしては気前がいいな」
颯が意地悪そうな目をして言う。
「あたしのお金じゃないですからね」
茜が茶色い封筒を握りしめる。みんなの視線が一斉に注がれる。茶色の封筒、あの中にはエンタメ部の部費が入っている。沙紀がため息をつく。
「やりたい放題ね。先生にバレたら怒られるわよ」
「接待費にするからバレないって」
「どことも付き合いのないエンタメ部が誰を接待するのよ……」
「あたし」
「ほぉ……」
沙紀の口角が上がる。しかしその目は笑っていない。
「嘘です備品代か何かに紛れ込ませます」
「最初からそう言いなさいよ。笑えない冗談なんて言わずに」
顔を引きつらせながら笑う茜。また笑っているだろうかとちさに目を向けると、笑うどころか真剣な表情でノートに向かっていた。ツボがよく分からない子だ。
それから数分後。扉を叩く音が聞こえた。茜が扉を開けると、四角い箱を抱えた男性が立っていた。
「案外早かったわね。迷わずにここまで来れたなんて」
茜がお金(部費)を渡すところを見ながら沙紀が言う。
「いやそれより部外者が校舎に入っていいのか?」
颯の言うことももっともだ。基本学校というものは部外者は立ち入り禁止になっている。数年前に卒業生が母校を訪れて警察に通報されたという話を聞いたことがある。あの男性も運が悪かったら今頃警察に通報されているんじゃないだろうか。少し心配だ。
「いいのではないでしょうか。注文したのは私達ですし。サッカー部もたまに目の前の中華のお店に出前頼んでいますから」
納得したような納得していないような。たしかサッカー部はグラウンドまで出前してもらっただけで、校舎にまで入って貰ったわけじゃないんだよな。
「はい、お待たせ。勉強はちょっとお休みにして、休憩にしよう」
机の中央にポテトやらハンバーガーが盛られた大きなプラスチック製の器をドンと置く。敷かれまいと教科書やノートをさっと片付ける。ちさだけが遅れて「ちさの教科書がぁー」と声を上げながら引っ張り出していた。今日だけで結構ダメージ受けてそうだ。あの化学の教科書。
お金の出どころが部費だから、みんな遠慮することなく手を伸ばす。ボクもチキンナゲットにソースを付けて口に運ぶ。何の変哲もないチキンナゲットだけど、小腹が空いていたのでやけに美味しく感じる。
「ふぁい。つふぁさどーふぉ」
「……へ?」
顔を上げると、茜がポテトの端を咥えて、机を挟み対面に座っているボクに向かって体を乗り出していた。もしかして、これをボクに食べろというのか?
「ふぉら、ふぁーやーくー」
んーっと口を突き出す。体勢に無理があるらしく、腕がプルプルと震えて苦しそうだ。
「ポッキーゲームは彼氏でも作ってその人にやってもらいなさい」
真顔で茜の口にポテトを突き刺す沙紀。二本になったそれを不満げな顔で食べながら、茜は椅子に座り直した。
「そんなのいないからこうして同じ境遇の沙紀とここで遊んでるんじゃないの。わっかんないかなぁ~。あ、でも司は別だからねーっ。彼氏いても優先順位はきっと上だから」
笑顔でそんなことを言ってくるが、まったくこっちとしては嬉しくない。
「今この子、軽く私に喧嘩売ったわよね? 同じ境遇ってあたりがとくにそうよね?」
「さ、さあ~」
突然話を振られた立夏が曖昧に笑う。目が笑ってなくて怖い。