その16 「入部申請用紙」
ほとんど誰も使わない校舎の一番奥の階段の四階踊り場へとやってきた。ここなら誰からも話を聞かれることはない。
「相変わらず努先輩は脇が甘いですね。たとえ私の『努先輩』という呼びかけに答えてしまっても、惚け続ければ良かったのですよ。それを『なんで分かったの!?』と真面目に返すなんて……」
美衣がやったように、今度は沙紀が肩を大袈裟に竦める。隣では美衣がボクのことを半眼で見つめている。かなり居心地が悪い。
「でもそうですか……吸血鬼化、ですか。まさかそんなことがあり得るなんて」
正体がバレてしまっては隠していても仕方ない。沙紀には正直にボクの身に何が起こったのかを話した。
「しかし実際に本人が目の前にいる。これが何よりの証拠。信じる以外にありません。とにかく、いろいろと大変だったようですね」
沙紀はすぐにボクの言葉を信じてくれた。そして、
「心配しないでください。このことは誰にも言いません。言って、先輩に嫌われてしまうのは私の意図するところではありませんから」
ボクが『努』だということを秘密にすると誓ってくれた。安堵すると同時に、いくつか疑問が湧く。たとえば、
「ボクのこと気持ち悪いとか思わないのか? 男が女になったのに」
昔のボクの姿を知っている人が、今のボクの姿を見てどう思うのか。
「気持ち悪いとは微塵も思いません。むしろかわいいとは思いますが。元々努先輩は女顔でしたし」
沙紀はけろりとそんなことを言った。
「あ、ああ、そう」
女顔……そうか。ボクって女顔だったのか……。女になった今知らされる新事実。今更になってショックを受けた。し、しかしそれは終わったことだ。気にしても仕方ない。なんとか立ち直り、次の疑問をぶつける。
「どうしてボクのことが分かったんだ?」
これが分からなかった。沙紀がボクを疑うような素振りはなかった。だから気持ちが緩み、突然後ろから『努』と呼ばれ振り向いたのだ。
沙紀が口元に手を当てて、思案顔になる。しばらくして、
「美衣ちゃんと司ちゃんの関係が、努先輩と美衣ちゃんの関係に似ているなと思ったからです」
「関係?」
「はい。とくに二人のお互いを見る目。姉妹というより兄妹。そんな風に見えたんです」
その眠そうな目でそんなところを見ていたのか。相変わらず表情と考えていることが一致しないヤツだ。
「と、探偵のようなことを言いましたが、実際は二人の中庭での会話をこっそり盗み聞きしてしまったのです。あの時の会話と、先ほどの二人の様子を総合した結果、あなたが努先輩ではないのか、という結論に至ったのです。もちろんそれは勘や思いつきのようなもので、確信を得たのは努先輩が呼びかけに反応したときです。ですから安心してください。颯先輩も茜もまったく気付いていませんし、学校内でそれに感づくような人はいません。私のように二年間ずっと努先輩を見てきたような人でない限りは」
「そ、そうか。良かった」
茜と沙紀以外にそんな人はいない。ボクはほっと胸を撫で下ろした。しかし、完全に安心するにはまだ早い。まだ最も重要なことを聞いていなかった。ボクは緊張しながら、それを沙紀にたずねた。
「……そ、それで、沙紀はボクの正体を知ってどうするつもりなんだ?」
ボクの言葉に、沙紀が目を丸くする。
「いえ、ただの好奇心でしたから、何かするつもりは……。ああ、でも敢えて一つだけお願いするとすれば」
ほらきた。ボクの正体を秘密にする代わりの交換条件。弱みを握られたんだ。何を言ってくるか分かったもんじゃない。
「たまに部室へ来て、颯先輩の……そして、もし良ければ茜の相手をしてやってくれませんか? 相手といっても話し相手になってあげるだけでもいいので」
「……はい?」
それだけ? もっと凄いことをお願いしてくるものだと思っていたので拍子抜けてしまった。
「そ、そんなことでいいのか?」
「はい。あれでも茜は努先輩のことを慕っていたんです。その先輩が卒業してしまって、春休みの間なんて茜とは思えないくらいしょぼくれていたんですよ?」
あのいつも元気な茜が? 信じられない。
「そこに司ちゃんが現われて、少し調子を取り戻したんです。別にエンタメ部に入れとはいいません。ただ、茜のために、時々でいいので部室に来てもらえればと……ダメでしょうか?」
「……」
本当なら、弱みを握った沙紀はもっと強く出ればいいんだ。そうすればボクは否応にも部室に通うし、部員になれと言われればなるだろう。それなのに、今沙紀は懇願するようにボクに頭を下げている。
予想外の行動に困惑し、隣の美衣に目をやれば、何か言いたげな視線を送っていた。言いたいことは分かっている。ボクもそうした方がいいと思う。あとはそのリスクをボク自身が負えるかどうかだ。
しばらくの沈黙の後、ボクは無言で手を差し出す。沙紀が不思議そうに首を傾げた。
「……入部申請用紙」
「……はい?」
「入部申請用紙! エンタメ部に入るから入部届けがほしいって言ってんのっ!」
沙紀が驚愕し、目を見開く。しかしすぐに目をぱあっと明るくして、
「入部してくれるのですか?」
「ああ。今はまだみんなに正体は明かせないけど、だからと言って疎遠にもなりたくない。特に颯とは今のボクとも仲良くしてほしい。それにほら、バレたらバレたであの二人ならきっと笑って許してくれる……気がするから。たぶん、おそらく、だといいなあ……」
自信はあまりなかった。けれど、赤の他人になるのはもっと嫌だった。それにどうせいつかはバラすのであれば、二人の近くにいて女のボクに慣れてもらうのも悪くはないはずだ。
「……分かりました」
沙紀がポケットから折りたたまれた入部申請用紙を取りだし、ボクに手渡した。
「出来る範囲でお手伝いします。颯先輩とまたお友達になれるように」
「うん。ありがとう」
沙紀が微笑み、そして握手を求める。ボクはそれに応じる。
「ようこそ。エンタメ部へ」