その11 「トラブってばかりだな」
「大昔にいたご先祖さんの吸血鬼は、血を吸わないと生きていけなかったの」
リビングに入ってきたときの不真面目さとは違う、まるで熱心な高校教師のように真剣な表情をしたお母さんがそこにはいた。
急遽リビングで始まったのは吸血鬼講座。講師はもちろんお母さん。受講者はボクと美衣の二人。例によってお父さんは仕事中のため欠席だ。
「自分達が生きていくために、確実に吸血できる環境が必要だった。そこでご先祖さんは、常に微量のフェロモンを体から分泌させることによって、周囲の人間が自分達を好意的に受け入れるようにした。そしていざ吸血する際には、そのフェロモンを相手に直接塗布することで、一時的に恐怖などの感情および痛覚などの感覚器の遮断そして筋力低下と、現代で言う麻酔をかけたような状態にして血を吸っていたの」
お母さんは何故かボクと美衣の間に座っている。しかもかなりボク寄りに。そんなに寄られても、もう血は吸わないから。
でもそこに座ってくれて良かった。吸血衝動に駆られていたとはいえ、ボクは妹である美衣を襲って、チューの一歩手前の行為をしてしまったのだ。しかも頬を触るわ服をはだけさせるわ首筋を舐めるわ……。思い出しただけでも顔が熱くなる。恥ずかしすぎて、美衣の顔をまともに見れたもんじゃない。すぐにでも走って逃げて自分の部屋に閉じこもりたいのだけど、いつの間にやらお母さんに腕を掴まれていたので無理だった。
「ってことは、私がぼーっとしちゃって、簡単に血を吸わせちゃったのは、そのフェロモンのせいってこと?」
言いながら美衣が自分の唇に触れる。映像と共に思い出すからぜひとも止めて下さい。
「ええ。最近はご先祖さんとは違い、血を吸わなくても生きていけるようになったから、常日頃からフェロモンを振りまくなんてことはないけど、吸血衝動自体は昔の頃と変わらず受け継がれているの。だから司は吸血鬼特有のフェロモンを作り出すことができるし、吸血する時には無意識に昔と同じやり方をとってしまうのよ」
な、なるほど。それがさっきのアレということか。ということは……やばい、ちょーやばい。あんなこと定期的にやってたんじゃ、ボクの方がお母さん以上の変態じゃないか。これじゃもうお母さんのことを変態だと馬鹿にできない。
頭を抱えて唸っていると、お母さんがそっとボクの肩に手を置いた。
「気に病むことはないわ。それは吸血鬼として当然の行為なんだから」
「当然と言われても……」
「だから早くお母さんの血も吸いなさい」
「なにがだからなんだ」
「ささっ、ぐいっと。さあさあさあ」
「うなじを見せつけてくるなー!」
ふんふんと鼻息の荒いお母さんの顔を押し返す。やっぱりお母さんの方が変態だ。
「そういえば、お母さんはなんで部屋に入ってすぐお姉ちゃんが私の血を吸ってるって分かったの?」
「ああ、それはね」
お母さんの動きが止まり、浮かせた腰を下ろした。美衣、ナイス質問!
「血を吸われていると嗅覚も麻痺して分からなくなるらしいけど、濃度の濃い吸血鬼のフェロモンはとても特徴のある匂いがするの。リビングに入ったときに桜に似た香りがして、そこにあなたたちがいた。それでお母さんはすぐに分かったのよ」
桜の香り。それがボクの匂いってことか。良かった。卵の腐ったような匂いとかじゃなくて。
「桜か~。いいなあ。ということは、お姉ちゃんが血を吸いたくなると、桜の香りがして、あんな感じになっちゃうってこと?」
「香りはそうだけど、襲いかかるようなことはないわ。今はまだ司が吸血鬼になったばかりのせいで、自分のことを制御仕切れていないだけ。すぐに慣れて見境なく人を襲うようなことはなくなるわ」
「良かった。じゃあお姉ちゃんが他の誰かを襲うことはないんだね」
「ええ。でもまあ、これに懲りて見境なく力を使うのは控えなさいってことよ」
そんなことは言われなくても分かっている。ただ今日のあれは仕方なかったんた。力というものもよく分かっていなかったし。しかし今日みたいな事がまたあって、それが家の外だったら大変だな……。お母さんが言うように、力は使わないよう十分気をつけないと。
「大丈夫だよお姉ちゃん。もし血がほしくなったら私を呼んで。すぐに駆けつけるから」
「美衣……ありがとう」
「大丈夫よ司。もし血がほしくなったらお母さんを呼びなさい。すぐに会社を早退するから」
「お母さんはいいや」
◇◆◇◆
その日の夕方。目の前のキッチンではお母さんと美衣が晩ご飯を作っている。今日はカレーらしい。「リンゴとハチミツは入ってますか?」と聞いたら入ってないと返された。テンションが下がった。
さっき帰ってきたお父さんはダイニングテーブルにつき、テレビを見ながらビールを飲んでいる。ラベルを見ると発泡酒と書いてある。楽しみっていったらそれくらいしかないんだから、ケチらずに麦のビールを飲めばいいのに。
みんながダイニングに集まっているので、なんとなくボクもお父さんの対面に座っている。でもとくにすることもないのでシラバスを開いていた。おっ、調理実習なんてあるのか。男の時はなかったのに。女になると授業科目が違うらしい。
「あ、あー。司」
「ん?」
シラバスを見たまま返事する。調理実習って何を作るんだろう。定番のクッキーとかそういうのか?
「学校はどうだった?」
「どうって言われても、今日は入学式とホームルームしかなかったから」
「友達はできたか?」
「うん」
「そうか」
どうせ作るなら、家で作らなそうな凝ったものを作ってみたいな。料理経験ゼロに等しいけど。
「……せ、制服姿を初めて見たが、似合ってるな」
「んー。見せるの初めてだっけ」
「あ、ああ」
「ふーん」
そういえば着替えるの面倒で制服を着たままだったっけ。ニーソックスだけは脱いでるけど。家族にならスカートを穿いた姿を見られても恥ずかしくなかった。女になった初日から見られているわけだし。
「た、大変だと思うが、もう一度高校生活が楽しめると思って、気を楽にして頑張りなさい」
「ん? うん」
お父さんがやけに話しかけてくる。いつもならこの時間はビール片手に静かにニュースを見ているのに。
「つ、司。飲むか?」
シラバスから顔を上げる。お父さんが缶ビールを持った腕をこちらに伸ばしている。お父さんの顔が少し赤い。酔っているのか?
「いらない」
「ど、どうしてだ? つとむだった頃は付き合ってくれたじゃないか」
あー、そういえばお父さんに誘われて何度か晩酌に付き合ったことがあるなぁ。でもごめんお父さん。もうボクは飲めないんだ。
「炭酸がきつくて飲めないんだよ」
「そうなのか……」
しゅんとしたお父さんは一家の大黒柱とは思えない小ささだった。可哀相に見えてくる。……やれやれ。シラバスを閉じて立ち上がり、キッチンからグラスを一つ取る。そしてお父さんの隣に座ってグラスを渡した。
「はい。それ持って」
お父さんにグラスを持たせ、代わりに缶ビールを奪い取る。
「飲めないけど、付き合ってあげるよ」
缶ビールを両手で持って、グラスに注ぐ。勝手が分からず、適当に注いだら半分以上が泡になってしまった。
「案外難しい……まあいいか。ほら、飲んで飲んで」
「あ、ああ」
泡ばかりのグラスを傾け、グイッと一気に飲む。さっきまでちびちび飲んでいたのが嘘のようだ。
「あー、うまい。かわいい娘が淹れてくれたビールは格別だな」
「現金だなあ。ボクが注いでも味は変わんないって」
「それが全然違うんだって。それに……ほら、美衣があの通りお母さんっ子だろう? お父さんのことまったく構ってくれなくてな。だからこうして娘にビールを注いで貰うのがお父さんの夢だったんだよ。夢が叶ったから味も格別ってわけだよ」
そう言ってお父さんが笑う。さっきの一杯で一気に酔いが進んだのか? それにしても嬉しそうだ。本当にこんなことが夢だったらしい。
「お手軽な夢だなあ。これくらいならいつでも付き合うのに」
「本当かっ!? だったらこれからも頼む」
「はいはい。美衣がお母さんなら、お父さんの面倒はボクがみるよ」
よしっ、とガッツポーズを取るお父さん。まったく、うちの親はどっちも相手するのが大変だ。
◇◆◇◆
そうして、なんだかんだあったけど、なんとか入学初日を無事乗り越えた……かのように思えた。しかし、それは突然だった。
「お、お姉ちゃーん!」
制服から部屋着に着替えていると、美衣が大声を上げながら扉を開けて部屋に入ってきた。ブラとパンツしか着ていなかったボクは反射的に持っていたブラウスを胸にあてて体を隠した。
「は、入るときにノックぐらいしろよ!」
突然の乱入者にドキドキする心臓を押さえながら美衣を叱る。
「……お姉ちゃん、色っぽい」
しかしまったく効果はなかった。ボクをじっと見つめたまま動かない美衣に業を煮やして、近くにあったウニのヌイグルミを掴む。
「いいから出てけ!」
そして投てき。ウニのヌイグルミはボスッと美衣の顔に当たり、床に転がった。まあ、ウニと言えどヌイグルミなので痛くはないよな……。
「はっ、そんなことしてる場合じゃない。お姉ちゃん大変だよ!」
「いいからまずは部屋から出ろよ!」
「またまた。そんなに恥ずかしがらなくてもいいでしょ? 姉妹なんだから」
「いい加減人の話を――」
ウニのプラモデルを掴む。今度のはプラスチック製だから当れば痛い。組み立てるのだってどれだけ苦労したか。
「わ、分かった。出る、出るから投げないで」
やっと美衣が部屋を出た。ほっとしてプラモデルのウニを元の場所に戻そうとした。それなのに、
「そんな場合じゃないよお姉ちゃん!」
「出てけぇぇー!」
結局投げた。
その後、大きなたんこぶができた美衣に慌てていた理由をたずねた。それは努の頃の友達である颯からの電話のせいだった。颯とは、ボクが一度目の高校入学を果たしたときに、席が隣だったということがきっかけで知り合い、友達になった明坂颯のことだ。一年から二年まで同じクラス、同じ部活で、気付けばいつも隣に颯がいるほどによく一緒にいた。おかげで親友とまでいえる間柄になったのだが、三年になって突然「留学してくる」と言って学校に休学届を提出して、一人海外へ飛び立ってしまった。
それから一年が経ち、先日の高熱で寝込む数日前に「そろそろ日本へ帰る」と電話があったのだが……今日、日本に帰ってきたのだろうか。
「お、お姉ちゃん、どうするの?」
「どうしよう……」
電話の前で狼狽えるボクと美衣。今電話は保留にしている。ちなみにボクと美衣は携帯電話を持っていない。両親の意向で高校卒業までは持ってはいけないことになっているのだ。そのことにずっと不満を覚えていたが、今回ばかりは両親に感謝した。持っていたら今頃面倒なことになっていた。
しかしやばい。電話が切れる前に、早く颯にどう答えるか決めないといけない。このまま美衣にもう一度出てもらい、居留守でこの場を逃げることも出来るが、そんなことをしても僅かばかり時間を稼ぐだけで、根本的な解決にはならない。だからと言って、このまま電話に出て「女になりました」なんて暴露したら大変だ。颯は女が苦手なのだ。その女嫌いな颯にボクが女になったことを明かして、果たして彼は今まで通りにボクと親友でいてくれるだろうか。颯はいいヤツだ。口では「ああそうだ」と言うだろうけど、きっと今まで通りとはいかないだろう。そうして、ボクと颯は親友ではなくなってしまうのだ。それは少し……いや、かなり寂しい。
電話の前で頭を抱えているボクを美衣が心配そうに見つめる。
「お困りのようね」
と、お母さんがどこからともなく現われた。
「これを使いなさい」
そう言ってテーブルに置いたのはヘンテコな機械。怪訝な顔をするボクに「ボイスチェンジャーよ」とお母さんは言った。なんでそんなもの持ってるんだ。
ボイスチェンジャーとは、機械にマイクを使って声を入力すると、好きな声に変えて出力されると言うものだ。ためしにと使ってみると、最近やっと慣れた自分の女の声が、スイッチやツマミを操作する度に男の声に変わっていき、やがて努だった頃に近い声を出せるようになった。直接話すとバレてしまうかもしれないが、電話越しなら大丈夫そうだ。
さっそくそれを使って電話に出ることにする。緊張しながらもボイスチェンジャーを介して受話器を取った。
『もしもし』
『おっ。努か? 久しぶり、颯だ。さっき帰ってきたところ。時差ぼけがやばいぜ』
聞き慣れた颯の声が受話器から聞こえてくる。その声に疑るようなものはない。努の声として聞いてくれているようだ。ほっと胸を撫で下ろし、以前のような調子で話す。
『まったく。行くのも突然だったけど、帰ってくるのも突然だなぁ。帰ってくる日ぐらい連絡してよ』
『ははは。本当は昨日帰ってきて驚かせるつもりだったんだけどな。それが出国手続きでトラブって一日ずれたんだよ。おかげで始業式初日から欠席だぜ』
『始業式?』
『高校に休学届出してただろ? 後一年、蓮池に通わないといけないんだよ』
そうか。休学届を出していたのだから、今年颯は高三になるのか。
『初日から欠席じゃあ担任に目を付けられそうだなぁ』
『颯は一年の頃からトラブってばかりだな』
『ははっ。ホントだ』
笑い声が聞こえる。颯はこう言っているが、一、二年の頃の担任からの評価は良かったヤツだ。一日休んだところでどうってことはないだろう。その後もどうでもいいような話を続け、電話を初めてから三十分ほど経ったところで、
『それじゃまたな。大学忙しいだろうけど頑張れよ。また今度遊ぼうぜ』
『あ、ああ。またな』
曖昧に返事をして電話を切った。結局颯にはボクが女になったことを言えず仕舞いだった。ため息をついて振り返ると、そこにはお母さんが立っていた。
「ありがとう。これのおかげでなんとかなったよ」
「そう。それは良かったわ」
お母さんは嬉しそうに微笑み、しかしボクにこう言った。
「けれど、颯君は司の大事な友達だったんでしょう? 隠してばかりでは颯君が可哀相よ。それを貸したのは、別に正体を隠しなさいってことじゃないの。電話なんかじゃなくて、ちゃんと面と向かって話しなさい。そういう意味で貸したのよ。分かった?」
「う、うん。分かった」
躊躇しながらも、お母さんの威圧感に押され、ぎこちなく頷いた。お母さんの言うとおり、颯にいつかは話さないといけない。けれどしばらくは、この機械にお世話になろう。今のボクを見たときの颯の反応を知るのが、まだ少し怖かった。
当分は、颯に本当のことを言えなさそうだ。