その10 「これなら傷は残らなそうだ」
家に着いてやっと右目を開く。意識して閉じたままにするのは結構疲れる。鞄をリビングのソファーに置いて、買ってきた物を冷蔵庫に入れる。中を覗くと、プリンがあと一つしか入っていなかった。これは美衣の分だ。さっき投げたまま置いてきたプリンが悔やまれる。
「それあげるよ」
振り返ると、ソファーに座ってこちらを向く美衣と目が合った。
「マジで?」
「うん。さっき助けてくれたお礼」
らっきー。食べられないと思っていたからこれは嬉しい。さっそくプリンを取り出し、台所からしょうゆとスプーンを取り、美衣の隣に座る。ローテーブルに醤油を置くと、美衣が露骨に嫌そうな顔をする。
「またそれするの?」
「当たり前じゃないか」
プリンのフタをぺりっと剥がし、醤油を垂らす。醤油からスプーンに持ち替え、プリンに深々と突き刺す。グリグリとよく混ぜてから口に運ぶ。食感はともかく、味自体はウニに近い。素直に美味しい。そういえば最近ウニを食べていない。そろそろ本物を食べないと禁断症状が出そうだ。
「絶対味覚おかしいよ……」
美衣がジト~とした目を向ける。味覚がおかしかろうが何だろうが、美味しいんだから仕方ない。気にせずウニ味のプリンを堪能する。
美衣がテレビを付ける。ワイドショーをしていた。最近人気が出てきた芸人が司会を務めている。芸名なんだっけ……。ブ、ブなんとかだったような気がする。テレビでは、大御所らしきパネラーが司会者にタメ口で意見して、それに司会者が逆ギレしてパネルを床に叩きつけている。パネルは床をスーッと滑って画面から消え、ワァッと笑いが起きた。うん。今のはいいパネル芸だった。この芸人のことをこれからパネル芸人と呼ぼう。
ウニプリンを食べつつ見ていると、突然チャンネルを変えられた。特に不満はなかったので何も言わない。さようなら、パネル芸人。結局ちゃんとした芸名は分からなかった。プリンを食べ終え、空になった容器をゴミ箱へ、スプーンを流しに持っていく。
「あ、お姉ちゃん。ポテチ取って」
「んー」
棚を開けて中を探る。いくつかのポテトチップスの袋を見つける。
「醤油味とうす塩味とコンソメ味。どれがいい?」
「醤油味」
「よし、うす塩だ」
「醤油味って言ったのに~」
「醤油ならさっき堪能した」
「それはお姉ちゃんでしょ?」
美衣が何と言おうがうす塩だ。今はうす塩の気分なんだ。棚からうす塩味のポテチの袋を、冷蔵庫からさっき買ったコーラとウーロン茶を取り出してソファーへと戻る。
「ほら、飲み物いるだろ?」
「買ってくれたの? ありがとー」
ウーロン茶を渡して腰を下ろす。コーラをローテーブルに置き、ポテチの袋の口を持って、左右に引っ張る。
……開かない。深呼吸をしてもう一度、今度は全力で引っ張る。手がプルプルと震える。でも開かない。封が固くて開かないのか、それともボクに力がないせいで開かないのか。そのどちらかのようだ。見かねた様子の美衣が手を伸ばしてくる。
「開けようか?」
「いい。ボクが開ける」
ここで美衣に渡してもし開いてしまったら、兄の面目丸つぶれだ。それに言ってしまった以上、なんとしても開けなければならない。再びポテチの袋を持つ。ぐっと指に力を入れて左右に一気に引っ張る。まったくちっとも少しも開かない。
……仕方ない。もうこれしか方法はない。コンビニでの出来事を思い出す。『扉』を開けるような、殴り壊すような、そんなイメージを頭に思い浮かべる。
頭の中でカチッと音が鳴ると同時に、体に力がみなぎる。どうやら成功したようだ。軽く左右に引っ張る。袋は簡単にその口を開いた。ほら、と自慢気にローテーブルにポテトチップスの袋を広げる。
「お姉ちゃん、また目が赤くなってる」
「充血です」
「光ってる」
「血には蛍光塗料と似た成分が入ってるらしいよ」
「さらっと嘘付かない」
手を伸ばしてポテチを一つ。塩が薄い。台所から塩を持ってきて振りかけたいところだが、やったら美衣に怒られそうなのでやめておく。コーラの蓋を開け、ペットボトルに口を付ける。
「ぶっ!」
「ど、どうしたの!?」
口に含んだ黒い液体が霧状になって空中を舞った。虹みたいな物が見えたが、決して綺麗なものじゃない。だって自分の口から出たものだし。口の端から滴る水滴を手の甲で拭いながらゴホゴホと咳き込む。
「気管に入ったの?」
「入ってない。単純に炭酸で喉が痛かっただけ」
ひりひりと痛む喉を手でさする。目からもちょっぴり涙がにじんでいる。痛い……。な、なんだよ。なんでこんなに炭酸が喉に突き刺さるように痛いんだ? あのシュワシュワした感触が好きだったのに。
「お姉ちゃん、炭酸好きじゃなかったの?」
「好きなはずなんだけど……」
ローテーブルや床を拭いている美衣を横目にもう一口コーラを飲む。バタバタバタ……。足をばたつかせる。
「――ぷはぁっ!」
また吹くわけにもいかなかったので、涙になりながらもなんとか飲み込む。だめだ、美味しい美味しくない以前に喉が痛い。炭酸が飲めなくなってる。
「味覚、っていうのかな。そういうのが変わっちゃったんじゃないの?」
美衣からハンドタオルを受け取り、口と手を拭う。
「ウニプリンは好きなのに?」
「全部が全部ってわけじゃないと思うよ」
なるほどと納得する。しかし残念だ。あんなに大好きだった炭酸が飲めなくなったのは。また何か美味しい飲み物を見つけるしかない。美味しい飲み物といえば、朝飲んだお母さんの血はおいしか――っ。
ドクンッと心臓が動いた。その音はあまりにも大きくて、美衣にも聞こえたんじゃないかと思うほどだった。慌てて胸に手を当てる。心臓は強く脈打っていた。
これはまさか……やばい、お母さんいないのに。あの時と同じだ。女になったあの日、お母さんの血を見たときと同じ感覚。瞳孔が開き呼吸が荒くなってくる。深呼吸をして胸をぎゅっと押すが収まる様子はない。
『でも、この吸血鬼の力を使うときは注意しなさい。使っている間は目が赤く光るし、後で血がほしくなるから』
お母さんの言葉が脳裏をよぎる。そうか、こういうことか。
「お、お姉ちゃんどうしたの!?」
ただならぬ様子に美衣が動揺した様子でボクの肩に手を置き、体を揺する。とにかく気合いで抑えるしかない。美衣に「大丈夫。気にするな」と声をかけようと顔を上げる。それがいけなかった。美衣のうなじが視界に入った。白くて綺麗な首筋。きっと血も美味しいはず……ってだめだ。離れないと。
「な、なんでもない。大丈夫だ」
うなじから目をそらし、美衣の手を払い除けて距離を取る。
「なんでもないって、そんなはずないでしょ!?」
それなのに美衣はすぐに近寄ってきて、またボクの肩に手を置いた。さらには前以上に体を寄せて、ボクの顔をのぞき込んできた。もう無理だ。自分を抑えられない。目の前が赤くなる。
「きゃっ!?」
美衣の短い悲鳴が聞こえる。視界が元に戻ると、ボクの下には美衣がいた。美衣はソファーに仰向けになっていて、ボクがその上に馬乗りになって組み伏せている。心臓がまたドクンッと鳴った。
両腕を押さえつけたまま、肘をソファーに付け、顔を近づける。鼻と鼻が当たりそうなくらいの距離で美衣を見つめる。瞳は不安で揺れていた。けれど、その腕や足に力を込めて、ボクを振り払おうというそぶりは見せない。ボクは美衣の腕から手を離した。
頬をそっと撫でる。美衣の体が一度ビクッと震えるが、それ以降は何もない。少しだけ開いた口からは小さな舌が覗いていて、その周りの唇は乾いていた。何気なくその唇を舐めると、塩の味がした。猫のようにペロペロと何度か舐め、塩の味がしなくなると舐めるのをやめた。ボクの唾液で濡れた美衣の唇は艶やかに輝いていた。
自分の呼吸音がやけに耳に付く。苦しい。リボンタイのせいで息が詰まりそうだ。リボンタイを取り去り、ブラウスの第一、第二ボタンを外す。美衣も苦しそうだったので、リボンタイを取ってボタンを外してあげた。ブラウスの襟を左右に広げると、綺麗な鎖骨、そしてうなじが目に入った。
美衣のうなじに目が釘付けにされる。すぐにでもかぶりつきたい衝動を抑えつつ、美衣と目を合わせる。
「いいよ。お姉ちゃんなら」
潤んだ瞳で微笑む。その一言と表情で、本能が理性を上回った。
「んあっ!」
悲鳴のような嬌声が耳元で鳴った。それは口中に広がる美衣の血液と同じくとても甘美で、ボクの心は喜びに震えた。
美衣の腕が背中に回り、ぎゅっとボクを抱きしめる。お互いがお互いの胸を圧迫するが、気持ちのいい息苦しさだった。ボクはそれに応えるように、さらにうなじに歯を立てる。いつの間にか異様に発達した犬歯が深々と美衣に突き刺さり、そこから血があふれ出す。あふれ出した血は一滴も零れることなくボクの喉を下っていく。
お母さんの血も美味しかったけど、美衣のはそれ以上だ。とても甘い。脳が蕩けてしまうんじゃないかと思うほどだ。
「はあ……」
美衣が熱い吐息が漏らす。痛みを感じていないことに安堵する。お母さんの時よりも多くの血を飲み干して、うなじから顔を離す。赤く血が滲む傷口をペロッと舐めると、みるみるうちに傷が塞がった。
「よかった。これなら傷は残らなそうだ」
そっとうなじをなぞる。ものの数秒でどこに傷があったのかも分からなくなっている。
「ありがと、美衣」
「ううん。お姉ちゃんならいつでもいいよ」
優しい言葉に嬉しくなって、頭を撫でてあげる。美衣は気持ちよさそうに目を細めた。
「ただいまー。司、牛乳は買ってきてくれ――」
突然の来訪。リビングのドアが開いて、お母さんが入ってきた。言いかけた言葉は途中で消え、その目はボクと美衣に釘付け。
ちなみに今のボク達は、美衣はソファーに仰向けに、ボクは美衣のお腹に乗って息がかかりそうな距離に顔を近づけ、頭を撫でている。ボクも美衣も胸元をはだけ、頬は上気し、息が荒い。
これはまずい気がする。いやまずいだろ。どう考えてもボクが美衣を襲っているようにしか見えない。いや襲ったんだけど。
「司、美衣、あなた達……」
バッグを床に落とし、ワナワナと震えるお母さん。怒られるっ。そう思った直後、
「ずるいわ! お母さんも混ぜなさい!」
『……はい?』
お母さんが発した斜め上の発言に、ボクも美衣も目が点になった。