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風邪で三日三晩寝込んだ大学生ですが、男女比がバグった世界でまさか自分の夢が叶うとは思いませんでした!

作者: Ciga-R
掲載日:2025/12/20



 夜の静寂に包まれた、一人暮らし用の古いハイツ。


 窓の外はほとんど闇に沈み、街灯の白い光だけが、カーテンの隙間から細く差し込んでいた。


 大学生の星野(ほしの) いつきは、こじらせた風邪に身体を奪われ、意識と眠りの境目を漂い続けていた。


 熱に浮かされた三日間。


 骨の奥まで染み込むような倦怠感と、頭の中に湿った綿を詰め込まれたような重さだけが、途切れ途切れに残っている。


 ——そして三日目の夜。


 樹は、ようやく浅い眠りから引き上げられるように目を開けた。


 スマホを手に取ると、表示された時刻は深夜一時。


 部屋の空気はすっかり冷えきっていて、布団にくるまっても寒さがじわじわと肌に染み、呼吸をするたび、喉の奥がひりついた。


「……三日……寝てた、のか……」


 声は自分でも驚くほど掠れていた。


 通知を確かめる。


 着信も、メッセージも、SNSの反応も——何ひとつない。


 三連休だったはずなのに。


 誰にも、気づかれなかったらしい。


「……そっか」


 短く呟いて、スマホを胸の上に置く。


 普段から人付き合いが濃いわけじゃない。理解はしている。


 それでも、今は胸の奥に、小さく鈍い重みが落ちた。


 そこに寒さと空腹が、遅れてやってくる。


 ふと、樹の頭に浮かぶ。


 湯気の立つ茶碗。

 柔らかく煮えた米と、出汁の匂い。

 喉に引っかからない、優しい味。


「……こんなときにさ」


 誰に向けるでもなく、天井に向かって言葉がこぼれる。


「彼女でもいたら……あったかい”おじや”とか、雑炊とか……作ってくれたり、するんだろうな……」


 想像しただけで、胸の奥が少しだけ緩む。


 誰かが、体調を気遣ってくれて。


 無理しなくていいよ、と言ってくれて。


 湯気の向こうで、静かに微笑んでくれる存在。


「……って、何考えてんだオレ」


 小さく苦笑する。


「星野 樹。現実を見ろ。完全に一人暮らし。完全に孤独」


 そう言い聞かせるように呟きながらも、その願いは、簡単には消えてくれなかった。


 料理の腕前なんて、どうでもいい。


 完璧な看病なんて、いらない。


 ただ、そばに誰かがいて、「大丈夫?」と声をかけてくれるだけで——


 それだけで、きっと、今よりずっとずっと楽になる。


 外では、遠くを走る車のエンジン音がかすかに響いていた。


 深夜の街は、何事もなかったかのように静かで、無関心。


 暗い部屋に取り残されていると、世界から切り離されたような気分になる。


「……一言でいいんだけどな」


 喉を押さえ、息を整えながら、樹は小さく呟く。


「『大丈夫?』って……それだけでさ」


 返事は、もちろん返ってこない。


 念のため、もう一度だけスマホを手に取って画面を確かめる。


 けれどそこには、やはり何の履歴も残っていなかった。


 樹は布団の中で身を丸め、寒さと孤独と、叶わない小さな願いを胸に抱いたまま、再び、ゆっくりと目ぶたを閉じた。


 布団の中で取り留めのない思考を漂わせているうちに、樹の意識は少しずつ輪郭を取り戻していった。


 頭の奥に鈍い痛みは残っている。


 けれど、全身を覆っていた重たい倦怠感は引いていて、代わりに——胃の奥から、はっきりとした空虚が主張を始めていた。


 ぐう、と腹の底が小さく鳴る。


 一度鳴り出すと、それは遠慮を忘れたように繰り返された。


「……腹、減ったな……」


 かすれた声で呟く。


 起き上がろうと布団に手をつくが、身体はまだ鉛を仕込まれたみたいに重い。


 それでも、空腹だけは容赦なく存在感を増していく。


 意を決して布団を跳ねのけた。


 足元がおぼつかないまま、壁づたいに進み、ようやく冷蔵庫の前にたどり着く。


 扉を開けると、白い光が部屋を照らした。


 ——中は、驚くほど静かだった。


 整頓の必要すらない、空白。


 棚にはほとんど何もなく、隅に残っているのは、封の開いたチョコ菓子が少しだけ。


 三日間。


 誰にも気づかれず、誰にも頼れず、少しずつ消えていった痕跡。


「……そりゃ、そうか」


 乾いた笑いが漏れる。


「これじゃ……ちゃんとしたもん、食えるわけないよな……」


 樹はしばらく冷蔵庫の前に立ち尽くし、手にしていた空のペットボトルを意味もなく指先で回した。


 床から這い上がる冷気が、足首を伝って身体の芯まで忍び込んでくる。布団に戻れば、少しは楽になる。


 それは、分かっている。


 けれど、腹の虫はそんな理屈を聞いてくれなかった。


「……動かないと、だよな……」


 小さく息を吐き、観念したように着っぱなしのジャージの上からダウンジャケットを羽織る。


 靴下を引き上げながら、ふと、湯気の立つ椀の記憶がよぎった。


 温かくて、喉に優しくて。


 誰かが、黙って差し出してくれるような——


「……いや、ないない」


 首を振って、その想像を振り払う。


 真冬の深夜に外へ出るのは、本来なら避けたいところだ。けれど今は、空腹のほうが勝っていた。


「……仕方ない。コンビニ、行くか……」


 吐いた息が白くにじむ。


 手袋もつけないままドアノブを握ると、金属の冷たさが掌に刺さった。


 鍵を回す指が、少しだけ震える。


 扉を開けた瞬間、夜の冷気が一気に流れ込み、樹の身体を包み込む。


「三日も寝込んで……こんな時間に出歩くとか……」


 自嘲気味に呟いて、肩をすくめる。


「ほんと、オレってさ……」


 言葉は、最後まで続かなかった。


 寒さと空腹と、埋まらない静けさを抱えたまま、樹はゆっくりと、夜の中へ足を踏み出した。


 夜風が頬を冷たく撫で、吐いた息は白くほどけて闇に消えた。


 足元のアスファルトは乾いているはずなのに、街灯の光を受けて、わずかに揺らいで見える。


 水面でもないのに、反射が遅れてついてくるような——そんな錯覚。


「……あれ」


 樹は無意識に足を止めた。


 見慣れた通り道のはずだった。


 何度も通ってきた、駅とハイツを結ぶ、ただの住宅街。


 なのに、どこかあやふやな感じがする。


 街灯の位置は合っているのに、光の落ち方が記憶となんだか違う。


 遠くの建物の輪郭が、焦点の合わない写真みたいに、わずかににじんで見える。


「……気のせい、だよな」


 三日間、熱に浮かされて眠っていた。体調が戻りきっていないせいで、感覚が鈍っているだけ——そう考えようとする。


 けれど。


「……こんな、建物……あったか?」


 視線の先。


 住宅街の一角に、ガラス張りの建物が立っていた。


 派手ではない。高さも、規模も、周囲から浮くほどではない。


 夜の街に溶け込んでいるはずなのに、まるで「そこにある」と主張しているみたいに、妙に輪郭がはっきりして見える。


 樹は眉をひそめ、ゆっくりと歩を進めた。


「三日寝てただけで……世界が、ズレたりするか?」


 独り言が、空気に吸われる。


 街は静まり返っていた。


 車の音も、人の気配も、どこか遠い。


 寒さの中で、時間の流れだけが、ほんの少し柔いでいるような感覚があった。


 やがて、目的のコンビニが見えてくる。


 ネオンの光。

 見慣れた配置。


 いつもの、はずの景色。


 ——なのに。


 胸の奥に、かすかなざわめきが走った。


「……コンビニ、だよな……?」


 形は、確かに知っているそれだ。


 ガラス越しに並ぶ棚も、冷蔵ケースの明かりも、記憶と一致している。


 けれど、色合いが、どこか違う。


 ネオンの光が、輪郭を失い、にじむように揺れている。


 夜の街に溶け込んでいるはずなのに、その場所だけ、薄い膜に包まれて浮かび上がっているみたいだった。


 樹は足を止める。


 寒さにかじかんだ手を、無意識に握りしめる。


 空腹と冷気に背中を押されながらも、目の前のコンビニに、一歩踏み出すことを、身体がためらっていた。


「……変だな」


 そう呟いた声だけが、静かな夜に落ちていく。


 理由は、分からない。


 ただ、ここから先に進めば——


 何かが、決定的に噛み合わなくなる。


 そんな予感だけが、胸に残っていた。


 樹は静かにコンビニのドアを押し、店内へ足を踏み入れた。


 時刻はすでに深夜二時。


 外の冷たい空気が一瞬で追い出され、代わりに、ぬるく心地いい暖気が全身を包み込む。


 ——ほっと、する。


 だが、いつもなら自然と目に入るはずのレジが、妙に静かだった。


 誰も、いない。


「……あれ?」


 首をかしげ、店内を改めて見回す。


 深夜ということもあって、客の姿はひとりもいない。


 レジ前も、通路も、冷蔵ケースの前も——どこにも人の気配がなかった。


「……まあ、この時間だしな」


 そう自分に言い聞かせながら、無意識にレジの奥へ視線を向ける。


 たまにこの時間に顔を出している、やけに愛想のいいおっさん店長。


 夜中でも「お疲れさま!」と声をかけてくる、あの人の姿も——ない。


「……あれ? 今日は来てないのか」


 深夜で無人なのは、珍しくはない。


 そう、珍しくはない……はずなのに。


 その「はず」が、なぜか胸の奥で引っかかる。


「まあ、深夜だしな。バックヤードで休憩中とかか……会計のときには、さすがに出てくるよな」


 自分に言い聞かせるように小さく呟き、樹は弁当コーナーへ向かった。


 腹の虫が、待ってましたとばかりに騒ぎ出す。


 しかし——


「……ん?」


 棚に並ぶ弁当を見て、思わず足が止まった。


 数は、ある。


 種類も、それなりに。


 だが、どれも——小さい。


「……いや、小さくない?」


 一つ手に取ってみて、眉をひそめる。


 いつもの感覚より、一回り……いや、二回りは控えめだ。


 しかも、パッケージが妙におしゃれで、無駄に高級感を主張してくる。


「いやいや……」


 思わず、棚に向かってぼやく。


「俺、三日ぶりの飯なんだけど? もっとこう……胃袋に『ドン!』って来るやつ、ないの?」


 返事は、もちろんない。


 値段を見ると、普段買っている特盛弁当とほぼ同じ。


 サイズは半分。

 満足感は、未知数。


「……世知辛すぎるだろ、深夜のコンビニ」


 肩を落とし、腰に手を当てる。


 空腹と失望が、仲良く胃袋の底で手を組んだ。


 ふと、別の棚が視界に入る。


「……あ」


 思い出したように呟く。


「三日寝込んでたから……下着、完全に尽きてたな……」


 小さくため息。


「しゃーない。背に腹は代えられん。文明の力を信じるか……」


 樹は下着コーナーの位置を思い浮かべながら、そちらへ向かう。


 ——と。


 そのとき。


 バックヤードの扉の向こうから、かすかな物音がした。


 カチャ、と何かが触れる音。


 人の気配。


「……お、店員さん?」


 そう思った直後だった。


 レジのほうから、空気が変わる。


 ——見られている。


 それも、かなり。


(……え、なんか……めっちゃ視線感じない?)


 樹は、ぴたりと動きを止めた。


 振り返ればいい。


 それだけの話なのに——なぜか、できない。


 無意識に、下着コーナーの棚を凝視し続ける。


(いや、違う違う。これは気のせい。深夜テンションと病み上がりのコンボだ)


 そう思おうとするほど、視線は強くなる。


 じっと。


 まるで、挙動の一つ一つを確認するかのように。


(……いや、これ絶対見られてるだろ)


 背中に、はっきりとした圧を感じながら、樹はなぜか「今、自分が下着を見ている」という事実だけを、妙に強く意識してしまうのだった。


「い、いや……オレ、そんな不審なことしてませんからね?」


 樹は慌てて、棚に並ぶ下着を横目で見て、目線をさまよわせる。


 だが、そこにあるのは女性用の下着ばかりだった。


 ボクサーもトランクスも見当たらず、男性用は影も形もない。


「……ちょ、ちょっと待ってくれよ……」


 樹は慌てて小声で弁解しながら、棚に並ぶ女性用の実用的な下着から、露骨に視線を逸らした。


「ちょっと確認してただけで……じっくり見てたわけじゃ……本当に……」


 自分でも苦しい言い訳だと分かっている。なのに、背中に突き刺さる視線が、まったく弱まらない。


(……いや、見られてる。絶対、見られてる)


 しかも、警戒とか疑いとか、そういう種類じゃない。


 もっと——近い。

 もっと——強い。


「……なんで、そんなに見てるんですか……?」


 思わず、小さく声が漏れる。


 腹は空いているし、寒さもまだ抜けきらない。


 それなのに、変な汗が背中を伝う。


「あ、あの……オレが何かすると思ってます?」


 振り返れないまま、横目だけでレジのほうを盗み見る。


 ——目が、合った。


「……やっぱり……!」


 耐えきれなくなり、樹はゆっくりと正面から振り返った。


 レジのカウンターの向こうに立っていたのは、思わず言葉を失うほど、整った顔立ちの若い女性だった。


 派手な化粧はしていない。


 それなのに、明るい照明の下で、白い肌がふんわりと光を弾いている。


 大きな瞳はくりっと丸く、今は少しだけ見開かれていて——そこには、はっきりとした好奇心と、隠しきれない期待が宿っていた。


 黒く艶のあるストレートヘアが肩にかかり、彼女が息をするたび、さらりと揺れる。


 完璧すぎる美人、というより。


 笑えばきっと、場の空気を一気に明るくしてしまうタイプ。


 そして、その彼女が。


 ——ものすごく、嬉しそうな顔で、樹を見ていた。


 目が合った瞬間、ぱっと花が咲いたみたいに表情が明るくなる。


 驚きと、戸惑いと、それから——どう見ても抑えきれていない“ときめき”。


 ほんのり赤く染まった頬のまま、彼女は、じっと、まっすぐ、樹を見つめ続けている。


 隠す気は、たぶん、ある。


 でも、隠せてはいない。


 その視線は、あまりにも真っ直ぐで、あまりにも熱を帯びていて——


(……え、なにこれ)


 樹は、なぜか胸の奥がざわつくのを感じながら、逃げ場を失ったように、その場に立ち尽くしていた。


「……え……?」


 喉まで出かけた声を、樹は慌てて飲み込んだ。


 近い。


 思っていたより、ずっと。


 目が合ったまま、離れない。


 しかもその瞳は、驚くほどきらきらしていて——明らかに、嬉しそうだった。


(な、なんで……?)


 理由を考える余裕もない。


 胸の奥が、どくん、と大きく鳴る。


 視線を逸らそうとして、逆にぎこちなく動いてしまう。


 右手と右足が、同時に前に出た。


「あ……あれ……?」


 自分でも分かるほど、不自然な動き。


 なのに、彼女はくすっと笑うように、楽しそうに見ている。


(見られてる……しかも、なんか……喜ばれてる……?)


 訳が分からないまま、樹は棚から弁当を取ってカゴに入れた。


 もう一つ。


 気づけば、ペットボトルまで放り込んでいる。


 ——それでも、視線は外れない。


 むしろ、少し前のめりになって、「次は何するの?」とでも言いたげな顔で、じっと。


(いや、待って。これ……普通じゃない)


 心臓がうるさい。


 視線を感じるたびに、鼓動が跳ねる。


「……は、早く……会計……」


 半ば逃げるように、樹はレジへ向かった。


 目の前に立つと、彼女はぱっと表情を明るくして、まるで待ちきれなかったみたいに、嬉しそうに微笑んだ。


 その瞬間。


 樹は、完全に目を合わせられなくなった。


 視線は床へ。


 手元のカゴを握る指が、かすかに震える。


(……なに、この状況……)


 分からない。


 分からないのに——


 胸の奥だけが、やけに熱かった。


(……これ、もしかして俺、視線を避けすぎてないか? でも、今あの目を見るのは……いまは、無理だ)


 そんなことを考えているうちに、樹の視線は自然と下へと逃げていった。


 顔を見ないように。


 それだけのつもりだった。


 ——のに。


 ふと、視界に入ったところで、目が止まる。


「……うわ……」


 声にならない声が、喉の奥で引っかかった。


 制服越しでも分かる、はっとするほど整ったシルエット。無駄のないウエストのラインから、すっと伸びる脚。


 肩から腰にかけてのバランスがあまりに自然で、作り物みたいにきれいだった。


 ただ立っているだけなのに、目が勝手に引き寄せられる。


(……いや、違う違う。見るな。今、それは完全にアウトだ)


 樹は内心で必死にブレーキをかける。


 そこで、さらに少しだけ視線をずらして——胸元に留められた、小さな名札に気づいた。


(……名札)


 なんだか、少し安心する。


 最近は本名を出さない店も多いのに、ちゃんと名前が書いてある。


 白地に、黒い文字。


 ——如月 冬彩


(……きさらぎ、ふゆ……あや?)


 一瞬で、読めなかった。


(とあ? ゆあ? といろ……は、さすがにないか)


 考えれば考えるほど、分からなくなる。


(……聞けるわけ、ないよな。こんな状況で「名前なんて読むんですか?」とか)


 ちらっと視線を上げかけて、すぐにやめる。


 またあの、まっすぐで嬉しそうな目に捕まる気がした。


(……名札に逃げて正解だった)


 そう思いながらも、胸の奥のドキドキは、まったく収まる気配がなかった。


 樹の視線が、名札のあたりで止まっていることに——冬彩は、すぐに気づいた。


 一瞬だけ目を丸くして、次の瞬間、ぱっと表情が明るくなる。


「あっ……」


 声は弾んでいて、隠しきれない嬉しさがにじんでいた。


「……名前、もしかして気になりました?」


 そう言いながら、名札に軽く指先を添える。


「如月 冬彩、って書いてありますけど……きさらぎ・ゆあ、です」


 胸を張るわけでもなく、でもどこか誇らしげに、楽しそうに。


 その一言で。


 樹の頭の中が、完全に真っ白になった。


「えっ……あ、あ……」


 喉が、ひくっと鳴る。


(名乗られた……! しかも、めっちゃ明るく……! しかも、しかも、こんな可愛い子から……なんでだ?)


 それよりも、名乗られたのなら返さなきゃいけない。


 分かっているのに、焦って言葉が出てこない。


「あ、あの……その……」


 視線が定まらず、手元を意味もなく動かしてしまう。


「ほ、星野……です」


 一拍、置いて。


「……星野(ほしの) いつき、っていいます……」


 最後のほうは、少し小さな声になった。


 照れと極度の緊張が、どうしようもなく混ざっている。


 ——その瞬間。


 冬彩の目が、ぱっと見開かれた。


「……!」


 そして、次の瞬間には、まるで胸いっぱいに空気を吸い込んだみたいに、顔が輝く。


「……星野、さん……」


 名前を、確かめるように。


 大事なものを口にするみたいに、ゆっくり。


「……樹、さん……!」


 声が、少しだけ上ずっていた。


 両手を胸の前でぎゅっと握り、嬉しさを抑えきれない様子で、にこっと笑う。


「……素敵な名前ですね!」


 その反応が。


 ——想定外すぎて。


「えっ……あ、い、いや……」


 樹の心臓が、急に忙しくなる。


(名乗っただけで、なんでそんな喜ぶの……!?)


 自分の名前を呼ばれただけなのに、胸の奥が、じんわりと熱を持つ。


 冬彩は、そんな樹の様子を見て、さらに嬉しそうに目を細めた。


「……ちゃんと、教えてくれてありがとうございます」


 その言い方が、妙に丁寧で、優しくて。


(……いや、こっちが……)


 樹はもう、どこを見ればいいのか分からない。


 目を合わせればドキドキして、逸らせば、また名前を呼ばれそうで。


 嬉しそうにしている彼女を見て、なぜか自分まで、気持ちが浮き足立っていく。


(……まずい)


 そう思うのに。


 止められない。


 舞い上がっている冬彩につられて、樹の胸の奥も、静かに、でも確実に浮き始めていた。


「……温めますか?」


 不意にかけられた冬彩の声に、樹ははっと我に返った。


 澄んだ、よく通る声。さっきまで胸を占領していた雑念が、一気に引き剥がされる。


(あ、温め? そうだ弁当を買ったんだ)


「あ……あ、はい。あった、温め――お願いします!」


 勢いよく答えたものの、思い切り噛んでしまい、頬が一気に熱くなる。


 その瞬間だった。


 レジ越しに伸びた冬彩の手が、樹の手にそっと触れ――そのまま、両手で包み込むように握られた。


「……え?」


 思考が止まる。


 冷えた指先に、はっきりと伝わる体温。


 柔らかくて、あたたかくて、現実感がなくて。


「え、ちょ……えっ!?」


 声が裏返る樹に、冬彩は困ったように微笑んだ。


「手、冷たそうだったので……」


 それだけ言って、ほんの一瞬、ぎゅっと力を込める。


 ――無理だ。


 樹の顔は、もう完全に真っ赤だった。


「も、もう大丈夫ですっ……!」


 慌てて手を引くと、冬彩は素直に離してくれたが、手のひらには、いつまでも温もりが残っていた。


 会計を終え、弁当を受け取って背を向けたところで。


「……あの」


 後ろから声がかかる。


 振り返ると、冬彩が少しだけ俯き気味に立っていた。


 耳まで赤い。


「さっきの……私の手、嫌じゃなかったですか?」


 一瞬、言葉に詰まる。


 でも、考えるより先に、口が動いた。


「……嫌どころか」


 そして、勢いで。


「人生で一番のご褒美でした」


 言った直後、猛烈な後悔が押し寄せる。


 ――言うなよ、オレ!


 だが、冬彩は完全に固まっていた。


「……っ!」


 顔を真っ赤にして、視線を逸らし、小さく呟く。


「……変です……」


 それでも、声はどこか柔らかかった。


 樹の心臓が、また一段跳ね上がる。


「……すみません、変ですよね」


 そう言うと、冬彩は少しだけ顔を上げて、ちらっとこちらを見る。


「でも……そんなに嫌じゃなかった、なら……」


 言葉は途中で消えたが、その続きを、樹は勝手に想像してしまう。


 視線が絡んで、すぐに外れる。


 それだけで、胸がいっぱいになった。


 ――ああ、まずい。


 そう思いながらも。


 樹は、自分がもうとっくに彼女に心を持っていかれていることを、はっきりと自覚していた。


 コンビニの自動ドアが開き、冷たい夜気が流れ込んだ瞬間だった。


「……っ」


 一歩、踏み出したところで、樹の視界がぐらりと揺れる。


 胸の奥がざわつき、さっきまで高鳴っていた心臓が、今度は嫌な速さで脈打ち始めた。


(……やば、また……)


 熱。


 興奮と緊張が抜けた反動で、体調の悪さが一気にぶり返す。


 足に力が入らず、体が前に傾いた、その瞬間――


「えっ!?」


 背後で、慌てた声。


 倒れかけた樹の腕を、誰かが掴んだ。


「だ、大丈夫ですか!?」


 振り向くより早く、身体を支えられる。


 顔を上げると、そこには冬彩がいた。息を切らし、頬を赤くして。


「す、すみません……ちょっと、立ちくらみで……」


 そう言いかけたところで。


「……あ」


 冬彩が、はっとしたように目を見開いた。


 次の瞬間、彼女の手が、そっと樹の額に触れる。


 ひんやりした指先が、熱を持った肌に重なった。


「……熱、すごい……」


 冬彩の声が、急に真剣になる。


「これ、高熱ですよ。大丈夫じゃないです。救急車、呼びますね!」


「い、いや……!」


 樹は慌てて首を振る。


「そこまでじゃ……ちょっと、無理しただけで……」


 そう言いながらも、視界はまだふわふわしていて、自分の言葉に説得力がないのは分かっていた。


 冬彩は少し唇を噛み、困ったように樹を見つめる。


「……でも……」


 一瞬迷ったあと、彼女は意を決したように言った。


「じゃあ……せめて、連絡先、交換しませんか」


「え……?」


「もし途中で悪化したら、すぐ連絡ください。放っておけないです」


 真っ赤な顔で、でも真っ直ぐに。


 その言葉に、胸がきゅっと締めつけられる。


「……お願いします」


 樹がそう答えると、冬彩はほっとしたように微笑んだ。


 スマホを取り出し、互いに画面を見せ合う。


 指先が近づくだけで、また心臓がうるさくなる。


「……樹、さんですね」


「は、はい……」


「冬彩です。……きさらぎ、ゆあ」


 名前を口にされるだけで、妙に嬉しくなってしまう自分に気づく。


 交換が終わると、冬彩はもう一度、心配そうに樹を見た。


「本当に、無理しないでくださいね」


「……はい」


 夜の入口で、二人の間に、静かな余韻が残る。


 体はつらいはずなのに。


 胸の奥だけが、妙にあたたかかった。


 コンビニを出て、数歩。


 夜の冷たい空気に触れた瞬間、樹は小さく肩をすくめた。


 それでも足取りは、さっきまでよりだいぶんと軽い。


(……連絡先、交換したんだよな……)


 ポケットの中のスマホが、やけに気になる。まだ数十秒しか経っていないのに、待ちきれず画面を点けた、その瞬間――


「……え?」


 通知が、ひとつ。


 差出人の名前を見た瞬間、心臓が跳ねた。


 ――【如月 冬彩】


(は、はやっ!?)


 思わず立ち止まり、慌ててメッセージを開く。


『無事に歩けてますか? ちゃんと帰れそうか、ちょっと心配で……』


 短い文面なのに、胸の奥が一気に熱くなる。


(やば……めちゃくちゃ嬉しい……)


 寒さも忘れて、すぐに返信を打つ。


『大丈夫です! さっきより、だいぶ楽になりました』


 送信。

 数秒後。


『よかったです(にっこりな顔文字)……でも、無理はしないでくださいね』


 その絵文字ひとつで、テンションが天井知らずに跳ね上がる。


(……可愛い……)


 歩きながら、また打つ。


『冬彩さん、まだお仕事中ですよね? さっきは本当にありがとうございました』


 少し間が空いて。


『はい、今は落ち着いてます。こちらこそ、声かけてくれて嬉しかったです』


 画面を見つめながら、樹は思わずにやけた。


(やばい、帰り道なのに……完全に浮かれてる)


 その後も、ぽつぽつとやり取りが続く。


 体調のこと、夜は寒いこと、深夜シフトの大変さ。


 どれも他愛ない内容なのに、一通一通がやけに心に残る。


 家まで、もう少しというところで。


『あ、ごめんなさい。お客さん来たので、また後で!』


 すぐに続けて。


『今日はしっかり栄養摂って、早めに休んでくださいね』


 画面を見つめたまま、樹は小さく息を吐いた。


「……はぁ……」


 胸の奥が、じんわり温かい。


(気遣いまで……反則だろ……)


 そのまま、しばらくスマホを閉じることも忘れて、寒空の下で立ち尽くしていた。


 ――数分後。


「……っ」


 ふいに、頭が重くなる。


 こめかみの奥がズキリと痛み、さっきまでの高揚が、ゆっくりと熱に変わっていく。


(……あ、やば……)


 寒さに晒されていたことを、今さら思い出す。


 指先はかじかみ、視界が少し滲む。


「……調子、乗りすぎた……」


 スマホをポケットにしまい、樹はふらつく足で歩き出した。


 胸はまだ、あんなに温かいのに。


 体は正直で、容赦なく限界を訴えてくる。


 ――でも。


 ポケットの中のスマホがあるだけで、

しっかりと、前に進める気がした。


 しかし、玄関のドアを閉めた瞬間、張りつめていたものが一気に切れた。


「……っ」


 靴もろくに揃えられないまま、樹はその場に膝をつく。


 さっきまであれほど騒がしかった空腹は、嘘のように引っ込んでいた。ただ、身体の奥から熱だけがじわじわとにじみ出てくる。


(……弁当……)


 コンビニ袋は手に提げたままだ。


 食べなきゃ、と思うのに、立ち上がる力がない。


 そのまま、ほとんど這うようにしてリビングへ行き、ソファに身体を投げ出した瞬間――意識が、ふっと遠のいた。


 どれくらい時間が経ったのか分からない。


 目を開けると、天井がぐにゃりと歪んで見えた。


 喉が焼けるように熱く、息を吸うだけで苦しい。


「……はぁ……っ」


 体温計はない。


 でも、これは間違いなく高熱だと、身体が教えてくる。


 震える手でスマホを探し、画面を点ける。


 すぐに目に飛び込んできたのは、冬彩からのメッセージだった。


『その後、無事に帰れましたか? 体調、悪くなってません?』


 その一文を読んだだけで、胸の奥がきゅっと縮む。


 指が震え、打ち間違えながら返信する。


『……正直、あんまり良くないです。熱、出てきたかも』


 送信して、少し目を閉じる。


 すぐに、通知音。


『え!? 大丈夫ですか!?』


『一人ですよね? ちゃんと水分摂れてます?』


 心配が、文字越しでも伝わってくる。


 樹は弱く息を吐き、もう隠す気力もなく打ち込んだ。


『……もう、ダメかもしれません。さっきまで平気だったのに』


 少し間が空いた。


 その数十秒が、やけに長く感じられた。


 そして。


『……分かりました』


『もうすぐシフト終わります。そっち、行きます』


 一瞬、理解が追いつかない。


「……え……?」


 慌てて画面を見つめる。


『えっ、いえ、そこまでは……!』


 送った直後。


『遠慮しないでください。放っておけないです』


 その文面を読んだ瞬間、胸が熱でさらに苦しくなった。


(……来る……? 本当に……)


 頭がぼうっとして、判断力が鈍る。


 本当なら止めるべきなのに、その言葉が出てこない。


 しばらくして、力を振り絞るように打った。


『……すいません。鍵、開いたままです……住所は……』


 送信。


 スマホを胸の上に落とした瞬間、視界が暗くにじんだ。


「……ほんと、何やってんだ……俺……あんな可愛くて、素敵な人が本当に来てくれる……はず……」


 それきり、意識は深い底へ沈んでいった。


 ――ふわり。


 鼻先を、やさしい匂いがくすぐる。


(……あれ……)


 だしの香り。

 ほんのりとした米の甘さ。


 どこか懐かしくて、胃の奥がきゅっと反応する。


(……いい匂い……)


 まぶたの裏で、光が揺れた。


 ゆっくりと目を開けると、視界の端に、白い湯気が立ち上っている。


 その瞬間、樹の意識は――はっきりと、現実へ戻り始めた。ゆっくりと焦点が合っていく。


 最初に目に入ったのは、見慣れない天井――いや、見慣れているはずの自分の部屋。


 その空気が、いつもと違う。


 どこか、あたたかい。


 そして、さっきから鼻をくすぐっている匂いの正体が、はっきりしてきた。


 ――雑炊だ。


(……え?)


 身体を起こそうとして、樹は小さくうめいた。


 頭が重い。でも、さっきよりは意識がはっきりしている。


 そのとき、かちゃ、と小さな音がして、視線を動かした。


 キッチンに――人影。


 湯気の向こう、コンロの前に立つ細い背中。エプロンはしていないのに、手慣れた動きで鍋をかき混ぜている。


 黒い髪が肩口で揺れ、白い首筋が覗く。


(……待て)


 心臓が、どくんと強く跳ねた。


(……ここ、俺の部屋だよな)


 ありえない組み合わせが、頭の中で噛み合わない。


 その背中が、ふと動いた。


 鍋を火から外し、ゆっくりと振り返る。


 そして――目が、合った。


「……あ」


 一瞬の間。


 現実が、音を立てて押し寄せる。


 コンビニの明るい笑顔。


 名札。


 メッセージ。


『行きますね』


 全部が一気につながって、樹の脳内で弾けた。


「……き、さ……」


 喉が詰まって、名前すら出てこない。


 その様子を見て、彼女はぱっと表情を和らげた。


 少し安心したように、少し照れたように、でも――とびきり嬉しそうに。


「起きました?」


 たったそれだけ。


 なのに、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。


 ここは自分の部屋で。


 今は朝方で。


 自分は高熱で倒れていて。


 ――目の前にいるのは、さっきまで“コンビニの店員さん”だったはずの冬彩(ゆあ)だ。


「……え……?」


 間の抜けた声しか出ない樹に、冬彩は小さく笑った。


「よかった……ずっと起きなかったから、心配しました」


 そう言って、鍋を置き、こちらへ歩いてくる。


 その一歩一歩が、現実すぎて。


 樹は、ようやく理解した。


 これは夢でも、幻でもない。


 ――本当に、来てくれたのだ。


「それで来たんですけど……鍵、開けてくれているって言ったから……早く来ました」


「……急いで……来て……くれたんだ」


 冬彩は少しだけ照れたように視線を逸らし、それから、キッチンのほうをちらりと見た。


「あ、でも……そのまま来たわけじゃなくて」


「……?」


「一回、家に戻りました。鍋とか、お米とか……あと、消化にいいもの、色々」


 その言葉に、樹は一瞬、思考が止まった。


「だって……樹さん、コンビニのお弁当食べられるほど、元気じゃなかったじゃないですか」


 まるで当然のことのように言う。


「お腹は空いてるって言ってましたけど……ああいうの、今はきついかなって」


 胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。


 雑炊の匂いが、さっきよりもずっと強く感じられる。


「……」


 何か言おうとして、声にならない。


 ただ、視界が少しにじんだ。


(……そこまで……考えて……)


 冬彩は樹の表情に気づいて、少し慌てたように続ける。


「ご、ごめんなさい……勝手でしたよね……?」


「……ちが……」


 かすれた声で、樹は首を振る。


「……ありが……とう……」


 それだけ言うのが、精一杯だった。


 冬彩は一瞬きょとんとしてから、ふっと柔らかく微笑んだ。


「……どういたしまして」


 その一言が、熱で弱った身体に、静かに、深く、沁み込んだ。


 そして、迷いなく。


 すっと、樹の額に手を伸ばした。


「——っ!?」


 ひんやりした指先が触れた瞬間、思考が完全に止まる。


 近い。

 近すぎる。


 冬彩は真剣な表情で、しばらくそのままじっとしてから、小さく眉を寄せた。


「……まだ、熱いですね」


 その一言が、静かに追撃してきた。


「さっきより下がってるけど……全然、安心できないです」


 心配そうに言われるたび、胸の奥がじわじわ熱を持つ。


(こっちの熱は……別の意味で……)


 言えるわけもなく、樹は視線を逸らしたまま、かすれた声で呟いた。


「……ほんとに……来てくれたんですね……」


 冬彩は少し照れたように笑って、手を離す。


「はい。だって……放っておけなかったので」


 その言葉が、雑炊の匂いよりも、額のぬくもりよりも、いちばん深く、樹の中に染み込んだ。


 高熱のせいなのか。


 それとも――別の理由なのか。


 心臓の鼓動だけが、やけにうるさかった。


「……あの……」


 樹は布団の中で、少しだけ身じろぎしながら口を開いた。


「なんで……冬彩さんみたいな、その……可愛くて、素敵な人が……俺みたいなのに、ここまで……」


 声は弱々しく、どこか逃げ腰だった。


 自分で言っていて、情けなくなる。


 風邪で寝込んでいるどこにでも居る大学生。


 彼女もいない、特別な何かがあるわけでもない。


 そんな自分の部屋に、彼女が立っている現実が、どうしても噛み合わなかった。


 すると、冬彩はきょとんと目を瞬かせたあと――


「……え?」


 一拍置いて、ぱっと表情を明るくする。


「何言ってるんですか!?」


 思ったよりもはっきりした声に、樹はびくっとする。


「樹さんみたいに、ちゃんと相手のこと考えてくれて、優しくて……それに、すごく素敵な男性と、こんなふうにお話しできて……」


 胸の前で手を握りしめ、少し前のめりになって。


「私のほうこそ、大感激です!」


「……」


 言葉が、出なかった。


(……なんで……こんなに……)


 ふに落ちない。


 どう考えても、釣り合わない。


 頭の中で必死に理由を探そうとした、そのときだった。


「……はい」


 視界の端に、白い湯気。


 気づけば冬彩が、スプーンに雑炊をすくって、こちらへ差し出していた。


「あ、あの……?」


「冷ましましたから。あーん、してください」


「…………」


 完全に、フリーズした。


 脳内が真っ白になる。


 ——夢が、最高潮な状態で叶った。


 ぼんやり思っていた。


 熱を出した夜、誰かが隣にいて、「大丈夫?」って声をかけて、温かい雑炊を食べさせてくれる。


 そんな、ありもしない願望。


 それが今、目の前で、当たり前みたいに差し出されている。


「……いただきます……」


 機械じみた動きで口を開けると、ふわりとした温もりが、舌に広がった。


 優しくて、薄味で、喉を通るたびに、胸の奥まで染みていく。


 冬彩は、その様子をじっと見つめながら、嬉しそうに微笑んでいた。


「よかった……ちゃんと食べられてますね」


 その声も、表情も、全部があたたかい。


 樹はまだ知らない。


 この世界が、かつていた場所とは違うことを。


 ただ今は。


 風邪で弱った身体と、愛情たっぷりの雑炊と、目の前で微笑む彼女の存在だけが、現実だった。


(……悪くないな……)


 いや。


 悪くない、どころじゃない。


 樹は、ゆっくりと目を閉じる。


 彼はまだ、自分が男女比のバグった、男が希少な異世界に来ていることに、まったく気づいていない。


 ただ胸いっぱいに広がる、あまりにも優しい味と幸せを、思う存分に噛みしめていた。




——Fin

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