表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/50

幕間 風の囁き ― 灰の果てにて

風が、今日も丘を撫でている。

この風は、いつから灰を運ぶようになったのだろう。

かつては花の香りを運び、子どもたちの笑いを抱いていたはずなのに。


少女は、ひとり丘に立っていた。

足元には古い石碑――風律国アーヴェルの古語で刻まれた祈りの詩。

「風は生まれ、風は還る。声ある者よ、風に己の色を託せ。」

それはこの国がまだ“色”を持っていた時代、誰もが歌った言葉だった。


少女は指先で碑文をなぞる。

灰が指にまとわり、皮膚のぬくもりを奪う。

「……もう、誰も覚えていないのね。」

“声”を失った世界で、彼女だけが風を聴いていた。

呟いた声は、風に乗って遠くへ消えた。


彼女の髪は淡い翠。

灰の中でただひとつ残った“風の証”。

その髪が靡くたび、空の色がわずかに震える。

風が――まだ生きている証だった。


遠くで、風鈴が鳴った気がした。

この世界ではもう鳴るものなどないはずなのに。

それはまるで、風が何かを告げようとしているようだった。


「……誰かが、調律を始めた。」


風がざわめく。

灰を巻き上げ、彼女の頬を撫でる。

その流れの奥に、“歌”があった。

聞き覚えのない旋律。けれど心のどこかが懐かしい。


少女は瞼を閉じ、風の律動を感じ取る。

それはまるで、誰かが世界の呼吸を整えているようだった。

風が応える――“調律の波”。


(あの響き……まるで、風が泣いている。)


彼女は手を胸に当てる。

風の巫女に伝わる古い記憶が疼いた。

この風は、世界の涙。

人々が失った“感情”を運び、灰の海を渡っている。

そして、誰かがその風に触れた。


「……ゼロの律。」


その瞬間、彼女の瞳が淡く光る。

翠の中に、一瞬だけ銀の閃光が走った。


母の声が蘇る。

『いつか灰の彼方に、色を取り戻す者が現れる。その者と風は同じ歌を歌う。』


「――なら、これは“前触れ”ね。」


風が答えるように唸る。

遠くで雷鳴に似た振動が響いた。

それは空気の断層が震える音――感情の律動が再び世界に刻まれた証。


風は知っている。

静寂の奥に、まだ“歌”が眠っていることを。

だからこそ、この風は再び吹いたのだ。


少女は深く息を吸い込む。

風が肺を満たす。

冷たいはずなのに、胸の奥が熱を帯びた。


「動き出したのね。」

世界が。


灰の谷の向こうに、わずかな光が見える。

その光の下を、二つの影が歩いていた。

遠くて形は見えない。

けれど、風がその名を囁いた。


――“調律の巫女”と“無の器”。


少女は目を細め、風に語りかける。

「彼らが、あの夜の果てから来たのね。」

風が頬を撫でる。返事のように、優しく。


「……わかってる。

 だから私は、ここで待つ。

 風が呼んだなら、風が導く。

 ――きっと、この丘で会える。」


風が彼女の足元に集まり、淡い光の輪を描いた。

それはまるで、世界が彼女の“待つ”という意志を祝福しているようだった。


風が彼女の背を押した。

まるで世界そのものが「待て」と囁いたかのように。


少女は微笑み、丘に再び立ち返る。

風が輪を描き、彼女を包み込む。

その風は、彼女の髪を揺らしながら“道”を描く。

けれど――その道は、まだ踏み出されない。


――その瞬間、空が鳴った。

遠いどこかで、“調律の残響”が共鳴する。

それは、イリスの詠唱の余波。

風の巫女は、それを“再生の歌”と受け取った。


「……きっと会える。

 この灰の果てで、風が色を取り戻すその時に。」


風が応える。

翠の光が丘を包み、空へと還っていく。

少女は目を閉じ、風の律に身を委ねた。


――彼女はもう、動かない。

風が導くその時まで、

この丘で、歌を絶やさぬように。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ