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戦いの後に

風が、まだ止まない。

世界は静まり返り、まるで戦いの記憶までも灰の下に沈めようとしていた。

塔の影はもうない。ただ、焦げた大地が続くだけだった。


イリスは灰原の中心に立ち尽くしていた。

風が彼女の髪を撫でる。白銀の束が流れ、光を拾って淡く輝く。

その瞳には、灰色の世界が映り込み――しかし、その奥には、まだ“痛み”の色が残っていた。


「……静かね。」

自分の声が、異様に遠く聞こえる。

あの激しい戦闘の直後とは思えないほど、世界は息を潜めていた。


アッシュがすぐ傍にいた。灰を踏む音は正確で、無駄がない。

彼は視線を巡らせ、灰の地表を観測する。

「魔素濃度、安定化傾向。感情波、残留微量。……“悲哀”因子、数値化不能。」


イリスは小さく笑う。

「数値化、できないのね。」

「定義不能の揺らぎ。数値として処理できない波。」

「それを――“心”と呼ぶのよ。」


アッシュはその言葉を解析するように黙り込む。

風が彼の頬をかすめ、ノルディアの銀が微かに光った。

彼の横顔には、まだ“人間”という形だけがあった。


イリスはゆっくりと歩き出す。灰の上に足跡が残るが、風がすぐにそれを消す。

その様子を見て、彼女はぽつりと呟いた。

「……何も、永遠じゃないのね。」


「永遠とは、停止です。」

アッシュの即答に、イリスは小さく頷いた。

「そうね。だから私は――止まれない。」


風が二人の間を通り抜けた。

そのたび、どこか遠くで微かな残響が鳴る。

それはまるで、壊れかけた鐘が最後の音を搾り出すような音だった。


彼女は空を仰ぐ。

そこには、八つの光の名残がわずかに瞬いていた。

夜でも昼でもない、灰色の天に滲む微光。


「……封印の反応ね。」

アッシュが視線を上げる。

「位置座標、八方向。均等間隔に配置。揺らぎ波、増幅中。」

「封印の軋みが始まっている。想定より早いわ。」


イリスの声は淡々としているが、その奥に微かな焦りがあった。

あの夜に築いた封印――“ヴォイドの夜”の調律が、確実に崩れ始めていた。

それを理解しながらも、彼女の手は震えない。


「再調律を行うべきです。」

アッシュの言葉は、ただの提案に過ぎない。

だがイリスは首を横に振った。

「今の私では、全てを均せない。……世界を壊すだけよ。」


「壊す、とは。」

「感情の波を無理に鎮めれば、世界の律が崩壊する。

 かつて私が、そうして“歌”を止めたように。」


沈黙。

アッシュは、ただ風の音を記録していた。


「それでも放置すれば、封印は崩壊する。」

「ええ。だから――旅をするわ。」

イリスの声は穏やかで、しかし確信に満ちていた。

「この歪みの源を探す。調律だけじゃ届かない場所があるはずだから。」


アッシュが問う。

「目的地、定義を。」

「……灰の果て、“風の祈り”の地。」


その名を口にした瞬間、風が少しだけ強くなった。

灰を巻き上げ、どこか遠くで見えない羽音のような音を立てる。


イリスの声には懐かしさが混じっていた。

まるでその地に、かつての記憶が眠っているように。


「“風の祈り”――過去記録に該当なし。」

「ええ。記録になど残らない。けれど……あの地だけは、歌を忘れていないの。」


風が吹いた。

灰が舞い上がり、空に渦を描く。

その中心で、イリスの髪が光を反射し、虹のように揺れた。


「……貴女の髪が、光を分散しています。」

「それは、まだ“色”が世界に残っている証拠よ。」


アッシュはその言葉を観測記録として保存した。

しかし、彼の胸の奥で何かがわずかに動いた。

それは感情と呼ぶには小さすぎる揺らぎ。

だが確かに、そこに“温度”があった。


イリスは振り返らずに言った。

「アッシュ。貴方は“器”として造られた。

 けれど、貴方が観測するもののすべてが、いつか私を導く光になる。」


「光……定義を求む。」

「見えなくなった色。忘れた歌。

 ――それらすべてを、私はもう一度この世界に取り戻したい。」


イリスの言葉に、アッシュの瞳が微かに揺れる。

「矛盾を観測。……“色を取り戻す”とは、“調律”の目的と一致しません。」


イリスは短く目を伏せ、静かに微笑んだ。

瞳が一瞬、淡い蒼――“悲哀”の色に染まる。

「今のは……観測記録から消して。」


「了解。」とアッシュは答えた。

だが、彼の内部をかすめた何かが、微かに残響した。

それが記録なのか、ただのノイズなのか――彼自身にも分からない。


わずかな沈黙。風が二人の間をすり抜ける。

アッシュはその流れの中に、イリスの言葉の“残響”を検出した気がした。

それは論理にも定義にも属さない“温度”。

けれど、確かに彼の内部に何かを残した。


風が強くなる。

遠くで、灰の波が一瞬だけ蠢いた。

感情喰らいの残滓――わずかな歪みが、まだ世界のどこかに息づいている。

ノルディアが共鳴し、淡い脈動を返す。

アッシュはその共鳴を、先ほどの“言葉の余韻”と重ね合わせながら、静かに頷いた。


「理解。私は貴女の観測者。

 貴女が見失った“色”を、記録し続ける。」


イリスは振り返り、彼の瞳を見る。

そこには何の色もないはずだった。

けれど――ほんの一瞬、再び彼女の瞳が紫から淡い蒼に変わった。


風が止む。

灰が静まり、空に一筋の光が差し込む。


「行きましょう、アッシュ。」

「目的地――“風の祈り”。」

「ええ。……そこに、まだ“声”が残っているはず。」


彼女の足が灰を踏む。

そのたび、微かな音が響く。

それは、かつて世界が持っていた“歌”の欠片のようだった。


二人は歩き出す。

灰の地平の向こう、風が再び鳴り始める。

その音は冷たく、それでいて優しかった。


――この灰の果てにも、まだ微かな光がある。

それを見つけるための旅が、今、始まりを告げていた。


第一章第1節【完】

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