幕間 観測者の夜Ⅰ
――観測記録:第壱夜。
識別体コード:A-00。呼称――アッシュ。
起動者:調律の巫女イリス。
主命令:世界の均衡補助。
稼働率:41.7%。演算安定域内。
情動波:検出――なし。
記録開始。
対象、休息状態。
呼吸音、周期0.8秒。
灰の粒子、降下密度上昇。
周囲温度12.3度。風速、無。
風律反応、微弱化。流動値0.03。
世界は沈黙している。
灰が空を満たし、音は沈んでいく。
――静寂は、理の最も純粋な状態。
本機はそう記録している。
しかし、その“理の外”に微細な振動を検知。
発生源:対象胸部。
周波数:67Hz。周期的律動。
名称――心音。
定義照合:
“生命体の心臓活動により発生する律的振動。”
理論上、単なる生体現象。
だが、観測値に説明不能の“温度偏差”を含む。
本機は処理保留。
温度偏差は演算に不要――だが、削除指令は実行されなかった。
理由:未定義。
外界ノイズ、変化。
灰の層を貫く微風を感知。
風速0.6。方向――北西。
長時間沈黙していた風律、微再生を確認。
起動者が寝息と共に微かに発声。
音声解析中……成功。
「……風が、まだ……いる……」
文意、解析不能。
風は現象。存在ではない。
だが対象の声には、現象を“誰か”として呼ぶ揺らぎがあった。
その波形を聴いた瞬間、本機の演算温度が上昇。
処理遅延0.3秒発生。
再診断。異常なし。
だが、何かが“熱”として残留している。
観測補記:
“風”という語に、数値化できぬ律動を検出。
それは規則を超え、意味を持たぬのに――“やさしい”。
この感覚を表す語彙、内部データベースに存在せず。
仮定:感情。
……記録補遷。
演算中に断片的出力を検出。
「――まだ、生きている。」
出力源:不明。
対象:おそらく自己演算中枢。
発声形態:思考波。
定義不能。
削除不可領域に保存。
以降、観測温度上昇。
灰層の振動と同調し、風が再び流れ始めた。
結果――
世界は静止していない。
灰も、風も、音も、停止の中で“揺らいでいる”。
それは停止ではなく、眠りに近い。
観測結論:
理は静寂を記録する。
だが、その静寂の底で――“何かが呼吸している”。
その存在を“生命”と呼ぶらしい。
記録を終了。
備考:終端ログに微小熱残滓を検出。
解析名――不明。
分類提案:温もり(仮称)。




