喰らいの調律
灰が風を裂くたび、影が増えていった。
世界の静寂が、裂け目の底から漏れ出すように。
感情喰らい――空虚の残滓。
封印から漏れ出した“ヴォイド”の欠片が、
この地の歪みに吸い寄せられ、形を取り始めていた。
イリスはその中心に立つ。
紫の瞳が静光をたたえ、手のひらには白銀の符文が浮かぶ。
「……数が増えているわ。封印の歪みが、群体化を許している。」
アッシュの無色の瞳が灰の海を走査した。
「二十六。再生周期、約三秒。
単一撃破では意味を成さない。」
イリスは一歩、灰の地を踏みしめた。
その瞬間、空気が変わる。
灰の粒が一斉に逆流し、
塔の残響が、彼女の存在に呼応して微かに震えた。
アッシュが観測を呟く。
「魔素濃度、異常上昇。……観測値、規格外。
貴女の魔力出力――記録上、神話域。」
イリスの横顔に、わずかな影が差す。
「神話域……ね。
けれど、力とは常に均衡を崩すもの。
調律の巫女が全てを解き放てば、世界の“律”そのものが壊れてしまう。」
風が彼女の白銀の髪を撫でる。
そのたびに空気の律が歪み、灰が光を孕んで軋む。
ほんのわずかに“力”を解放しただけで、
天地の魔素が震え、世界が息を潜めた。
(だから――私は、もう二度と暴走させない。
あの夜のように。)
瞳が紫紺に沈み、蒼紫へと揺れた。
抑制。制御。
その繰り返しが、彼女の存在そのものだった。
アッシュはわずかに視線を動かす。
「力を封じながら戦う……非合理。」
イリスは静かに息を吐いた。
「合理だけが、答えではないの。
この世界は“感情”で壊れ、“感情”で成り立っている。
だから私は、力を抑えながら均すしかない。」
風が髪をかすめ、白銀の束が淡く光を返す。
「力を使えば、確かに早い。
でも、感情の奔流に呑まれれば――それは私が最も忌避する“破滅”へと繋がる。」
アッシュの無色の瞳が、静かに彼女を見つめる。
「合理性を欠く選択。……それでも、行うのですか?」
イリスはゆっくりと頷く。
「ええ。力を使うことが救いにならないのだとしても。
――放棄することは、もっと罪だから。」
掌を掲げる。
灰の空に微光が集まり、音もなく震えた。
八つの感情を制御しながら、ただ一つ――“悲哀”だけを選ぶ。
「ならば、せめて。
哀しみを、静かに終わらせるために。」
イリスの瞳が淡い蒼に染まり、光が走った。
「静寂の海よ、哀しみを映せ――」
「悲律・第一《涙音》」
声は囁き。
しかし次の瞬間、風が泣いた。
蒼の旋律が空を切り裂き、波紋が灰を吹き飛ばす。
感情喰らいの群れが一斉に凍りつき、
その身を覆う灰の膜が剥がれていく。
「足止め完了。アッシュ――」
「了解。」
アッシュが踏み込む。
地を蹴る動きに、一片の無駄もない。
呼吸は揺らがず、筋肉の収縮すら“計算された機構”のように正確。
その瞬間、彼の全身が一つの方程式となり、衝撃と反動が完璧な均衡を描く。
腕に装着されたノルディアが白銀に脈動し、空気が震えた。
その拳が感情喰らいの胸を撃つ。
衝撃波が走り、灰が光に変わり、
一体が音もなく消滅した。
だが、次の瞬間。
灰が流れ、消えたはずの影が再び立ち上がる。
「再生確認。」
アッシュの声は機械的だが、その間には微かな“苛立ち”があった。
「中和波、効率不足。出力制御、誤差範囲外。」
イリスの眉が動く。
「……出力が乱れたのね。
覚醒したばかりの貴方には、まだ“感情波”の揺らぎが読めない。」
アッシュは沈黙する。
「理解。次回、補正。」
イリスは短く頷き、灰の群れへと視線を戻す。
「……中和の理は完璧でも、それを扱う貴方は、まだ人の形をしている。」
灰の波が地平を覆い、群れが咆哮を上げる。
世界そのものが、感情を吐き出しているようだった。
「後退を――」
そう言いかけた瞬間、
アッシュの足元の灰が爆ぜた。
影が伸び、絡みつく。
その形は人の腕。
否、かつて“誰かの絶望”だった残響。
アッシュの身体が一瞬沈む。
ノルディアが白光を放ち、灰の腕を中和する。
イリスの瞳が紫紺に沈み、蒼紫へと揺れた。
「……怒りよ、焼き払え。」
右手が弧を描く。
火のようでいて、熱を持たぬ紅の奔流が灰を薙ぐ。
怒りと悲哀、二つの感情が同時に共鳴し、
灰の空が悲鳴を上げた。
「悲しみと怒りよ、交わりて焔を為せ――」
「複合律・第一階位《哀焔》」
紅と蒼が混ざり合い、紫紺の爆風が奔る。
灰が吹き飛び、地平が光に割れた。
光が消えるまでの一瞬――音がすべて止まっていた。
それは、世界が痛みに耐えるための“沈黙”のようだった。
「二重複律……出力制御、限界近い。」
「問題ないわ。これで均す。」
彼女の言葉と同時に、灰の地が光に裂かれた。
感情喰らいたちが悲鳴を上げ、灰の中に沈む。
だが、灰の底から新たな黒煙が湧き上がる。
群れの中央に、巨大な影が現れた。
人の形をしている。だが顔がない。
その胸の空洞が脈動し、
中から“声なき叫び”が漏れた。
アッシュが構える。
「大型個体。反応、異常強度。」
「……因子密度が高い。あれは――核。」
イリスは静かにルミナリアを掲げた。
白銀の杖が低く共鳴し、空気の粒が震える。
微光が杖の先端から滴り、音にならぬ音が世界を撫でた。
「静謐なる理よ、すべての波を均せ。
怒りを沈め、悲しみを癒し、喜びを還せ。
我が声は調律の弦――」
灰が光り、符文が地を覆う。
塔の残響が遠くで共鳴し、世界の色が揺らぐ。
だが、感情喰らいの核が咆哮する。
灰の腕が伸び、詠唱中のイリスを貫かんと迫る。
その瞬間、白銀の閃光が走った。
アッシュが身を投げ出し、腕でそれを受け止める。
ノルディアが唸り、灰の腕を中和。
「イリス、詠唱を続行。」
声には感情がない。
だが、わずかな“熱”があった。
イリスの視界に、灰の中でアッシュの姿が揺れる。
その姿にいつかの記憶が重なった気がした。
そして、詠唱が完成する。
「――均衡は、此処に在る。」
「調律・第一《音律:静謌》」
灰の粒はゆっくりと落下し、音のない安息が訪れた。
世界が――ほんの一瞬、呼吸を思い出したかのようだった。
感情喰らいの群れがひとつ、またひとつと消えていく。
イリスはそっと目を閉じ、静かに祈りを捧げた。
*
感情喰いは消え、沈黙だけが残った。
戦いの余熱はもうない。
ただ、世界そのものが息を潜めて、二人を見つめているようだった。
イリスは小さく息を整え、指先に残る光の欠片を見つめた。
それは、誰かの“悲しみ”の名残。
だが、ほんの一瞬だけ――その光が“安らぎ”にも見えた。
アッシュはその横顔を観測していた。
彼の視界には、淡い呼吸の揺れ、頬をかすめる灰の流線、
そして、イリスの瞳の奥に浮かぶ“微弱な色”。
「……異常。」
彼が小さく呟く。
「心拍数、通常値より上昇。表情筋、緊張波形を観測。
――感情の発露、ですか。」
イリスは少しだけ目を伏せた。
「……ただの、疲労よ。」
それは否定でも肯定でもなかった。
風が再び流れ、彼女の髪が頬を撫でる。
その白銀の束がアッシュの瞳に映り込み、
一瞬だけ、世界が“色”を取り戻した気がした。
その感覚に名はない。
だが、確かに――何かが、始まりつつあった。
アッシュが静かに立ち上がる。
ノルディアの表面に、ひとしずくの灰が落ち、蒸発した。
「これが……感情の戦い、ですか。」
イリスは目を閉じる。
「いいえ。――これはまだ、序章にすぎない。」
その声は祈りのようで、断罪にも似ていた。
彼女の言葉が灰に溶け、風がそれを運ぶ。
短い沈黙ののち、イリスはルミナリアを握り直した。
アッシュが視線を巡らせる。
灰の地平の向こう、遠くで風が生まれ、また消えていく。
「行くのですね。」
「ええ。塔の外を――世界を、もう一度見なければ。」
白銀の髪が風に揺れ、瞳に淡い光が宿る。
その光は、過去の調律ではなく、まだ見ぬ旅のための“理”だった。
灰が舞い、二人の足跡が静かに伸びていく。
風がそれを追い、微かな旋律を刻んだ。
――灰はまだ、終わっていない。
けれどその中に、確かに“始まり”の音があった。




