エピローグ 涙のあとに残るもの
朝が来た。
灰ではなく、薄い靄〈もや〉のような涙の名残が、悲哀律国エレリアの天を覆っている。
夜のあいだ降り続けていた王涙の雨は、ようやく止んでいた。
拍所〈はくしょ〉の塔根。
昨夜、静哭湖〈ラメント・レイク〉が口を開き、悲哀の王がその身ごと世界の底へ沈んだ場所。
今、そこにあるのは、ただの濡れた石と、浅い水溜まりだけだった。
輪郭の曖昧な小さな湖が、王の立っていたあたりにぽつりと残されている。
水面には、天幕の白と、揺らぐ灯火、それから――ひとりの子どもの影が映っていた。
ノアが、膝をついてそこを覗き込んでいる。
金でも銀でもない、淡い琥珀色の瞳が、ひどく赤い。
泣き腫らした、という言葉ではまだ足りないほど、まぶたには涙の通った跡が刻まれていた。
「……ミラさま」
呼びかけは、夜の終わりにも一度、落とした名前だ。
今度もやはり、返事はない。
けれど、水面は一拍だけふるりと揺れ、映ったノアの顔の隣に――ほんの一瞬、誰かの笑みの輪郭が重なったようにも見えた。
ノアは息を飲み、目をぎゅっと閉じる。
(……ほんとうは、こんなふうに叶えたくなかった)
あの夜、自分で言った言葉。
「ぼくの最初の涙は、セレンのために流したい」。
それは嬉し涙や、胸が温かくなる涙のつもりだった。
自分を見つけてくれた人に、ありがとうと伝えながら流す涙。
なのに現実は、
喪失人になりゆくセレンを抱きしめながら、喉を裂いて絞り出す泣き声になってしまった。
「ミラさま……セレン、まだ目を覚まさないよ」
声に出すと、胸の奥の痛みが現実の形を持つ。
「ぼく、ひどいことをした。
エレボスの声に、器として応えた。
セレンの名も、ミラさまの悲しみも、喰おうとした」
小さな拳が、震えながら膝の上で握り締められる。
「でも……それでも、ぼく、泣いてもいいって言ってくれたのは、セレンで。
悲しんでもいいって教えてくれたのは、ミラさまで。
だから――もう、何も喰わないでいたかった」
水面の中の自分は、情けないほど幼く、弱く見えた。
けれど、その瞳の奥には、昨夜までにはなかった色がひとつ宿っている。
他人の悲哀を喰う器ではなく、
自分の悲しみを背負って立つための、ささやかな光。
「……ぼく、決めたよ」
ノアは水面から目を離し、拍所の奥――寝台の並ぶ方向へ視線を向けた。
「これから泣く時は、セレンのためにも泣く。
誰かの悲しみを“喰う”んじゃなくて、“一緒に泣く”ほうを選ぶ。
……それが、ぼくに残った“器”の使い方だと思うから」
言葉は小さく、震えていた。
それでも、その震えは、昨夜のような崩壊ではない。
立ち上がるための震えだ。
*
拍所の一角。
薄布で仕切られた小部屋で、セレンは静かに横たわっていた。
瞳は開いていない。
その奥の“名”は、悲哀に喰われ、音を失っている。
けれど、完全な喪失人たちとは違って、セレンの顔にはまだ「涙のための形」が残っていた。
頬にはひと晩前に触れたノアの涙の跡が、かすかに残っている。
イリスが椅子に腰かけ、その寝顔を見下ろしていた。
紫銀の瞳は、今は淡蒼を深く含んでいる。
悲哀の色。しかし、それは世界全体の悲しみではなく、ひとりの少女のための色だった。
「……あの子、強いよね」
背後から、かすかな声がした。
振り向かずとも分かる。
薄布の向こうで、ルーファが柱に背を預けている気配。
「ノアのこと?」
「うん。
自分のせいで世界が傷ついた、って思い込んでる子が、
それでもまだ誰かのために泣こうとしてる」
ルーファは苦笑した。
「風律から見たら、ああいう子は“真ん中”だよ。
守りたくなるし、同時に、使われてしまう危うさも持ってる」
「使われる……たとえば、エレボスに?」
「それだけじゃない」
薄布越しに、風がそっとイリスの肩に触れる。
「世界のため、国のため、“正しさ”のため――
悲しい子ほど、誰かの旗の下に立てられやすい。
……イリスも、そうでしょ?」
イリスは一瞬、返事に迷った。
人間だった頃の自分。
感情を封じ、ゼロへと変じる前――世界の、感情の、何を見ていたのか。
完全には思い出せない。
けれど、“何かを守るために泣くのをやめた”という感覚だけが、骨の根元に刺さっている。
「……そうかもしれない」
イリスはセレンの枕元に片手を置いた。
眠る少女の額には、ミラが与えた名の痕跡――セレン=愛しい涙――がまだ薄く残っている。
「あの子は、悲しみを“記録する側”に立った。
ノアは、悲しみを“喰われないよう抱える側”に立とうとしている」
イリスは静かに言う。
「世界は、二人を何度も傷つけるでしょう。
それでも、あの子たちはきっと――世界を嫌いになりきれない」
「あなたも、ね」
ルーファの言葉に、イリスは答えなかった。
答えられないとも言えた。
世界が自分を何度も悲しませる。
それでも――完全に見捨てきれない何かがあるから、今もこうして刃を握っている。
ミラ・アルメリアが最後にくれた言葉が、喉の奥で燻る。
『いつかきっと、あなたが泣いてもいい世界が来るわ』
それは、まだ遠い未来の話だ。
イリスは瞳を閉じて、淡蒼と金光の揺らぎを内側へ沈めた。
*
数日後。
エレリアの上層水脈〈すいみゃく〉。
王城のさらに上、かつてミラが水面を踏んで降りてきた高さ。
そこに、新たな湖が生まれていた。
深くはない。
静哭湖のように世界の底と繋がっているわけでもない。
ただ、街のあちこちから集められた涙の河が、
ひととき高さを揃えて滞留するための、浅い水盤。
涙議会〈レメンティア・コンクラーヴ〉は、そこを「ミラ湖」と呼ぶことに決めた。
王喉を失った国は、いま、皆で高さを探っている。
泣き続けていないと不安になる者。
もう泣きたくないのに、周りの悲しみに引きずられる者。
喪失人となった家族の前で、どう呼吸をすればいいのか分からないまま立ち尽くす者。
悲哀律国エレリアは、まだ病んでいる。
だが、その病を「王一人」に背負わせる構造は――もう、ない。
涙議会の席のひとつに、空席がある。
そこには、ミラの名ではなく、「愛しい涙」を意味する古い符が置かれていた。
セレンの椅子だ。
筆頭官としての彼女は失われても、
国は「悲哀を記録する席」を空けたまま残している。
いつか、誰かがそこに座るために。
*
拍所の前庭。
石段に腰かけて、ノアが空を見上げていた。
セレンの寝台のそばにいる時間が長すぎて、
「外の光」が少しだけ眩しい。
雲越しの淡い日差しが、胸鈴〈むねすず〉の欠け目に反射して微かに光った。
隣に、風の気配が腰を下ろす。
「……眩しい?」
ルーファが問いかける。
「うん。でも、きらいじゃない」
ノアは素直に答えた。
「ミラさまの湖、見た?」
「……ううん。まだ」
「そのうち、一緒に行こう。
あそこは、“泣いていい水面”だから」
ルーファは空を見上げたまま続けた。
「エレリアは、これからしばらく“泣き方を学び直す国”になる。
悲しみを抱えたまま立つ方法を、みんなで探すことになる」
「……怖くない?」
「怖いよ。
でも、誰かが泣いてくれるから、怖さを分け合える」
ルーファの声は柔らかい。
風律の巫女としてではなく、ひとりの女としての声。
「ノア。あんたは“悲しみを喰う子”じゃなくて、“悲しみと一緒にいてくれる子”になっていけばいい。
それだけで、救われる人がきっといるから」
ノアは胸鈴に触れ、そっと握りしめた。
「……ぼく、セレンとミラさまのために、泣く。
それからいつか、誰かのために笑えるようにもなりたい」
「いいね、それ」
ルーファが笑った。
「それに――セレンを元に戻す手がかり、エレリアの中だけにあるとは限らないしね」
ノアが、横顔を見る。
「……外にも、あるかな」
「世界は広いよ。
悲しみの形も、“名を取り戻す方法”も、きっとひとつじゃない。
イリスと一緒に回れば、何か見つかるかもしれない」
ノアの喉が、小さく鳴った。
「……ぼくも、行っていいのかな」
「それは、イリスにちゃんと聞きな。
あの人、危ないところにはちゃんと“注意書き”付けるから」
風がふわりと吹き、ノアの淡蒼の髪を揺らす。
拍所の鈴がひとつ鳴り、遠くで水面が小さく跳ねた。
*
イリスとアッシュは、塔の陰の細い通路で空を見上げていた。
イリスの紫銀の瞳には、淡蒼の名残がまだ沈んでいる。
アッシュの《ノルディア》の面には、レクイエムの無理出力で刻まれた亀裂が薄く残っていた。
「観測:エレリア滞在フェーズ、終了へ移行」
アッシュが静かに言う。
「うん。エレリアに、私がこれ以上できることは、もう多くない」
イリスは、指先でノルディアの欠けをなぞった。
「国の悲哀は、国の人たちが持つべきもの。
世界の均し過ぎは、また別の歪みを呼ぶ」
「観測結果:悲哀律再配置後のエレリア――
涙の滞留率、八割から五割へ低下。
代わりに、“悲しみを抱えながらも動こうとする層”が増加」
「……ありがとう、アッシュ」
イリスは口元だけで笑う。
「あとは彼らの“揺らぎ”の問題。
私の刃は、そこにはもう届かない」
アッシュは少しだけ首を傾げた。
「調律者の役割、終了?」
「一時停止。
次は別の場所で、別の感情の歪みが待っている」
イリスは空を見た。
「……それに、エレボスも終わってはいない」
口に出した途端、喉の奥に昨夜の“声”の残響が滲む。
「観測。」アッシュが応じる。
「エレボス系統の揺らぎ――悲哀律域からは後退。
しかし、ゼロと感情律の境界層に“喉構造”の残滓を検出。
今後、他律域での再顕現リスク、高」
イリスは、小さく息を吐いた。
(世界の過剰な感情を均すこと。
その陰で、“喉”を育てるエレボスを追い続けること。
これからは、どちらか一方だけを選ぶことはできない)
世界は、今日もどこかで泣いている。
どこかで怒り、どこかで怯え、どこかで赦されたいと願っている。
世界が自分を何度も悲しませるかぎり、自分は世界のために刃を振るう。
たとえ、そのたびに自分自身の“泣き場所”が削れていくとしても。
「……行こう、アッシュ。
世界は、待ってくれない」
「了解。
ゼロの器として、次の歪みへ同行する」
アッシュの声は変わらない。
その観測は、どこまでも理に忠実だ。
だが、その理の奥で――ほんのわずかに、
“悲哀を抱えたまま立つ人々”への、理解に似た揺らぎが生まれつつあることを、
イリスはまだ知らない。
そこへ、小さな足音が近づいてきた。
「……イリス」
背後から呼ぶ声に、イリスは振り返る。
ノアが、胸鈴をぎゅっと握りしめたまま立っていた。
背後には、少し離れた位置でルーファが腕を組んで見守っている。
「ノア?」
「ぼく……お願いがあるの」
ノアは一度喉を鳴らし、言葉を選ぶように息を吸った。
「ぼくも、一緒に行かせてほしい。
ミラさまが守った世界を、この目で見たい。
それから――セレンを元に戻す手がかりを、探したい」
胸鈴が、かすかに震える。
「ぼくの中には、まだ“悲哀を喰う”力が残ってる。
それがいつか、誰かをまた傷つけるかもしれない。
でも、イリスとアッシュと一緒なら……ちゃんと、使い方を間違えないで済むかもしれない」
イリスはしばらく黙って、ノアを見つめた。
その瞳には、昨夜までにはなかった芯が通っている。
悲しんだまま立ち上がることを選んだ子どもの目だ。
「危険な場所へ行くかもしれない」
「うん」
「世界の醜さも、見せることになる」
「……それでも、見たい。
セレンが守ろうとした世界だから」
短い沈黙のあと、イリスはルーファへ視線を移した。
風律の巫女は、肩をすくめて笑う。
「ノアの“後見人”なら、わたしがやるよ。
危なくなったら風でぶん投げてでも守る。
それに……外の風も、そろそろこの子に知ってほしいしね」
イリスは小さく息を吐いた。
「……分かった。
一緒に来て、ノア」
ノアの目が、大きく見開かれる。
「その代わり――約束して。
自分を“道具”だとは思わないこと。
悲しみを喰う時は、誰かのため“だけ”じゃなく、自分のためにも泣くこと」
「……うん。約束する」
ノアはそう言って、深く頭を下げた。
*
夕刻。
エレリアの境界線から、ずっと離れた場所。
砂混じりの風が吹き荒ぶ、赤土の高原。
空は夕焼けの色を通り越して、ほとんど血のような赤に染まっていた。
怒律国――怒りの感情を律とする国は、その高原の向こうにある。
粗く積まれた黒鉄の城壁。
兵の足音で常に震える地面。
遠くからでも分かる、熱と殺気の混じった空気。
その国の、とある見張り台で。
潮見石を預かる兵――潮見番が、両手のひらで血紅〈けっこう〉の結晶を支えていた。
怒りの国はこれを「戦いの潮見石」と呼ぶ。世界の感情がうねるたび、石は“先に”色を変える。
今、その石が――
悲哀の色を帯びていた部分だけ、するりと抜け落ちるように褪せていく。
潮見番は息を呑んだ。
褪せたのは、ただの色ではない。――“支え”が一つ減った証だ。
だが次の瞬間。
結晶の芯が、別の脈で打ち始めた。
光でも熱でもない。もっと深いところから返ってくる、封の軋み。
潮見番の指先が冷える。汗ではない。怒りの国に不似合いな“怖さ”だった。
見張り台の床石――黒鉄の継ぎ目に刻まれた古い封印紋が、うっすらと赤く滲む。
誰も触れていないのに、鎖が一本、内側で引き摺られたような音がした。
(……封印が、鳴いた)
潮見石の表面に、深紅の“影”が一瞬だけ映る。
人の形ではない。
ただ、王座に座る輪郭だけが、こちらを“見返した”。
「……見たか?」
低い声が背後から落ちる。
振り返れば、肩幅の広い男がひとり。黒鉄の胸甲には怒律国の紋章――裂けた眼と燃え上がる刃――が刻まれている。
この辺境の見張り台に立つには、重すぎる格の男だ。
怒律軍の将。前線統べる者。
「悲哀律の王が、沈んだな」
将はそう言って、唇の端をわずかに吊り上げた。
潮見番は頷く。
だが、喉が乾く。言葉が出る前に、床の封印紋がもう一度、微かに熱を持った。
「……好機、ということですか?」
「好機以外の何に見える」
将の瞳に、炎のような光が灯る。
「悲しみは、弱さを生む。
弱さは、他人の痛みに縋る。
他人の痛みに縋る国は、怒りひとつで崩れる」
彼は遠く、エレリアの方角――見えもしない涙の国を睨む。
「今まで、あの国の王喉が邪魔だった。
悲哀の王ミラ・アルメリア。
世界の痛みを自分の喉一つで受け持つ、愚かで厄介な女だ」
声音には、嘲りと、わずかな敬意が混ざっている。
「だが、その柱は折れた。
残るのは、喪失と、混乱と、泣き場所を失った民の群れ。
……怒りを焚きつけるには、これ以上なく都合がいい」
将が潮見石に指を伸ばした、その瞬間。
結晶が“息を吸った”。
深紅が膨らみ、そして――遠い地下から重い鼓動が返ってくる。
軍の太鼓ではない。
太鼓のほうが軽い。合わせてしまえる。
これは、合わせた途端に喉を持っていかれる種類の律動だ。
将の胸甲の紋章が、わずかに熱を持つ。
まるで封の内側から触れられたみたいに。
将は一瞬だけ、笑みを消した。
「……封印監察を呼べ」
潮見番が目を見開く。
封印監察――怒律国が“王の封”だけを見張らせている、最奥の係。
将は続ける。声音が、さっきより低い。
「悲哀が沈んだ“隙”で、王影が動く。
俺たちは“戦”を欲しているが、王は“戦”で止まらない。
王が目を開けば――怒りは国を守る剣じゃなく、国を焼く火そのものになる」
その言葉の最中にも、床の封印紋が淡く灯り続けている。
消えない。
――緩んでいる。
潮見番は硬い喉で叫んだ。
「封印監察へ! 潮見石、深紅脈! 床紋、持続点灯!」
伝令が走る。
見張り台の階段が、鎧の音で揺れる。
将は潮見石を掲げ、赤い空へかざした。
「まだ進軍命令は出さない。だが――準備は始める」
将の目が細くなる。
「世界が悲しみに沈んだ直後ほど、焚きつけやすい時期はない。
『なぜ、自分だけがこんな目に』――その問いは、怒りの火種だ」
砂を含んだ風が唸り、城壁の向こうで軍の太鼓が低く鳴り始める。
まだ命令はない。
だが、兵の足音はすでにひとつのリズムを刻み始めていた。
世界のどこかで、涙が静まった。
その静けさのすぐ隣で――新たな怒りの律動が、胎動を始めている。
ただひとり、ゼロの巫女を除いて。
拍所から少し離れた回廊で、イリスは足を止め、振り返りもせずに空を見た。
紫銀の瞳に、わずかに深紅の予感が滲む。
(……世界は、また私を悲しませる)
喉の奥で、彼女はひとつだけ短く息を吐いた。
(ならば――私は、また世界を均しに行く)
その時。
遠い遠い場所で、怒りの国の“封”が、もう一度だけ鳴った。
――王はまだ眠っている。
けれど、王の影は、起き始めている。
悲哀律国エレリアの物語は、ここでひとまず幕を閉じる。
次に刃が向かう先には、燃え上がる世界と、封から滲む怒りの王座が待っている。




