塔の外
調律の塔の扉は、まだ開いていなかった。
外界の灰風が微かに吹き込み、室内の光を揺らす。
イリスはその風を見つめ、沈黙していた。
アッシュは無言のまま立つ。
覚醒から間もないその瞳には、何の色もない。
ただ、観測だけがそこにあった。
(この目……世界を写しているだけで、何も感じていない。)
イリスの胸に微かな疼きが走る。
それが感情なのか、記憶の残響なのか――彼女にもわからない。
「アッシュ。」
呼びかけに、彼が静かに首を向ける。
「……これを持っていきなさい。」
イリスは掌を掲げた。
音のない魔法陣が展開し、白銀灰の光が空を裂く。
その光は、旋律のように脈を刻んでいた。
やがて、空間がひとつの形を結ぶ。
それは金属ではなく、概念の結晶。
世界の理が形を取った、“音なき律”の装具。
イリスはその名を告げた。
「――《ノルディア》。
世界を均すために造った、最初で最後の装具。」
光が静まり、装具が彼女の掌に収まる。
白銀の表面には、幾千もの符文が呼吸のように明滅していた。
その波動が塔全体に共鳴し、壁が低く脈を打つ。
アッシュは一歩近づく。
「定義を求む。」
イリスは短く答えた。
「感情の波を中和するための器。
あなたの存在と同じ、“無”の理で造った。
私の手が届かぬ領域まで調律を行う――それが、あなたの役目。」
「理解。」
イリスは彼の右腕に《ノルディア》をはめた。
金属音はなく、音のない吸着。
瞬間、灰の粒が宙に浮かび、空気の律が変わる。
「……共鳴率、安定。」
彼女はわずかに息を吐く。
「よかったわ。これで外の歪みを測れる。」
アッシュが装具を見つめる。
「この装具は、破壊も可能か。」
「ええ。必要なら。」
「その基準を定めるのは?」
「――私。」
短い沈黙。
イリスは背を向け、塔の出口に歩き出す。
「行くわ。世界の均衡のために。」
扉に刻まれた封印符がひとりでに崩れ落ちる。
灰の風が流れ込み、光が消えた。
*
灰の風が、沈黙を運んでいた。
調律の塔の扉が静かに閉じる音が遠ざかり、
イリスとアッシュは長い静寂の外へと歩みを進めた。
大地は灰に覆われ、空は白でも黒でもない“無の膜”に包まれている。
風は方向を忘れ、音は意味を失っていた。
かつて人が祈り、歌った空があった場所。
今はただ、息の残響だけが世界を漂っている。
それは、死ではなく――休息のように静かだった。
「……これが、まだ続いているのね。」
声は震えではなく、遠い記録のように淡かった。
かつて自らが調律した世界――その灰が、いまも息をしている。
その事実だけが、彼女の理性をわずかに揺らした。
アッシュの声が重なる。
「観測完了。空気成分:劣化。魔素濃度:極端に低下。
生命活動、確認できず。」
イリスは頷く。
「ええ。ここはもう、生の色を失った場所。」
風が彼女の髪を揺らす。
銀糸のような髪が淡く光を吸い込み、
瞳に宿る紫が一瞬だけ金に変わる――感情の残響。
「……始めましょう。」
イリスはアッシュを見た。
その瞬間、地の底から低い響きが広がった。
空気が震え、灰が立ち上がる。
「感じる?」
「はい。……何かが、蠢いている。」
イリスは灰の地平を見渡す。
そこに、何かが目覚めようとしていた。
(封印の緩みは……想定より早い。)
イリスはアッシュの右腕――《ノルディア》の共鳴端子に触れた。
彼女の指先が光を帯び、灰が微細な結晶となって空中に浮かぶ。
装具が世界の律に反応し、周囲の“音”がひとつ、静かに消えた。
その瞬間、世界は息を止めた。
風も灰も、ただ在ることを忘れた。
(……この静寂の奥に、何かが眠っている。)
アッシュの瞳が淡く光る。
「感情波、異常上昇。負域反応――急速拡大。」
「……来るわ。」
大地が呻き、灰が逆流した。
音のない圧が、世界を押し潰す。
それは怒りではなかった。
ただ、長い静寂が形を求めた――“空虚の残響”。
灰が舞い、闇が集まり、形なき“誰か”がそこに立つ。
その輪郭は揺らぎ、崩れ、再び組み上がる。
顔の位置に浮かぶのは、無数の虚ろな目。
その奥には怒りも悲しみもなく、ただ――空。
それは、生き物ではない。
死でもない。
ただ、感情そのものを喰らう“空白”。
イリスは息を潜めた。
「……感情喰らい。封印から漏れ出したヴォイドの残滓ね。」
アッシュが淡々と分析する。
「観測:形態不定。感情波、極端な負域。
意識反応:無。
行動原理:感情の捕食。」
イリスは冷たく頷く。
「ヴォイド――感情喰らい。激情が果てた先に生まれた空虚。
これは、封印から零れ出したその欠片。
自我はない。けれど、世界の色を喰らうには十分。」
影が呻く。
灰を吸い込み、形を変える。
かつて人だった何かの輪郭を取り戻し、
胸の空洞から黒い霧を吐き出した。
その霧は見る者の心に、喪失の幻を流し込む。
イリスの髪が風に揺れ、
瞳が紫から金に一瞬だけ染まる。
「アッシュ。」
「了解。」
ノルディアが白銀に脈打つ。
その光が、灰の世界に初めて色を落とした。
灰が光に透け、遠くで小さな風が生まれる。
イリスは、そのわずかなぬくもりを感じた。
それが世界のものか、自分のものか――区別できなかった。
――風が、息をした。




