レクイエム
拍所の空気が、ひと拍だけ止まった。
セレンのかすれ声が落ちた場所から、静哭湖〈ラメント・レイク〉の表面に細い輪が広がる。
――陛下……母さま……
その呼びかけが、王喉のいちばん底へ届いた。
涙柱の一部がふるりと震え、世界へ向けていた深さを束の間、向きを変える。
王としてのミラではなく、ひとりの母としてのミラへ。
床下の湖が、静かに形を変えた。
*
ミラの内側。
底なしの水面に、二つの影が浮かんでいた。
ひとつは、八王時代に失った娘。
もうひとつは、灰と水に濡れた街の中で見つけた、よく似た瞳の少女。
――セレン。
呼べば、二つの影が重なる。
悲哀の王は知っていた。
世界は幾度も、自分を悲しませる。
怒律の火も。
虚無〈ヴォイド〉の囁きも。
調律の刃も。
それでも自分は、世界より深く泣くと決めた。
だから――悲哀だけを沈めるはずだった。
泣けない者のぶんまで泣き、痛みを底へ引き受けるための湖。
泣ける涙の場所だけは、必ず残すはずだった。
けれど今、静哭湖は境界を忘れている。
喪失人となったセレンの瞳から、色を奪ったのは誰か。
ノアの胸鈴へ、過ぎた悲しみを押し込んだのは誰か。
――私だ。
王としての声が、底でひび割れる。
(悲哀だけを沈めるはずだったのに。
愛しい涙まで、呑み込むところだった)
世界が私を悲しませる。
だから、私は世界より深く泣く。
そう決めたはずの言葉が、今だけは胸の内側を逆に刺した。
*
フィールドの悲哀圧が、わずかに落ちる。
「観測――王喉出力、一時低下。全域、圧曲線に乱れ」
アッシュの声が、わずかな“間”を逃さない。
涙柱の密度が、ほんの数呼吸ぶんだけ薄くなった。
空を埋め尽くしていた王涙の雨に、斑〈むら〉ができる。
「……今のは」
イリスが、セレンへ視線を滑らせる。
喪失人として横たわるはずの少女の唇が、まだ微かに震えていた。
瞳は焦点を持たないのに、その一言だけが拍所全体の“高さ”を書き換えた。
陛下。
母さま。
ふたつの呼び方が、ミラの肩に重なる。
王――ミラ・アルメリアは、ゆっくりと顔を上げた。
王涙の雨が、その頬だけ避けるように流れを変える。
ミラの目元に、たったひと粒――他のどの涙とも違う色をした雫が浮かんだ。
王としての涙でも、世界の代わりに流す涙でもない。
ただ、娘を呼ぶ声に応えた、ひとりの母の涙。
「……セレン」
ミラの声は、驚くほど小さかった。
静哭湖の全てを震わせることもできたはずの王喉が、今はただ、床に横たわる少女ひとりの名だけを呼ぶ。
愛しい涙が、一滴、頬を伝って落ちた。
その滴が床石に触れた場所だけ、悲哀が少しばかり柔らかくなる。
イリスには、それがはっきりと見えた。
(……悲哀じゃない。“愛しい涙”)
名の意味。
セレン――愛しい涙。
ミラが与えた名が、今ようやく、王自身の中から溢れている。
ミラはセレンを見つめたまま、低く息を吐いた。
「悲哀だけを沈めるはずだったのに……。
あなたの涙まで、底に引きずり込むところだった」
その告白に呼応するように、静哭湖の波がわずかに下がる。
世界全体へ向かっていた深さが、自分自身へ返ってくる。
王であることと、ひとりの母であることの境目が、ようやく輪郭を取り戻し始める。
ミラは、イリスのほうを見る。
涙の柱越しに、紫銀の瞳と、悲哀の王の瞳が真っ直ぐにぶつかった。
「調律の巫女」
呼ばれて、イリスは一歩前へ出る。
王喉とゼロの巫女との間に、ゼロ光刃を構えたアッシュが立つ。
その肩には、ノアが小さくしがみついていた。
ルーファの風が、全員の呼吸を同じ高さで保ち続けている。
ミラは、少しだけ笑った。
「世界が、また私を悲しませた。
そして私は、また世界を悲しませるところだった」
静かに目を閉じ、もう一度開く。
「今なら、まだ“王ミラ・アルメリア”として、あなたの前に立てている。
――この“高さ”のうちに、私を調律しなさい」
イリスの喉がひくりと鳴る。
「……王を、調律することは」
「もう決めているのでしょう?」
ミラが先回りした。
「あなたは世界を守るために、世界から涙を奪ってでも、刃を振るう娘だ。
その覚悟を、私は知っている。
だからこそ、“悲哀は争わない”と言いながら、あなたに助けを求めた」
静哭湖の底から、あの日の会話が浮かび上がる。
ゼロの調律と、泣いていい世界。
共に歩むはずだった“共存の兆し”。
「でも、私の悲しみは、もう私ひとりのものじゃない。
世界が積もらせた悲哀と、私自身の悔いと、セレンの涙が、全部ここへ落ちている」
ミラは自らの胸元、王喉の位置を指先で叩いた。
「このままでは、私が世界を沈める。
世界が私を悲しませるだけじゃ足りなくて、今度は私が世界を悲しませてしまう」
その言葉に嘘はなかった。
イリスは視線を逸らさない。
世界を均すための刃として生まれた自分。
世界から悲哀を引き受けようとした王。
どちらも、世界に何度も傷つけられた側だ。
それでもなお、世界を守ろうとしている。
ゼロの巫女の胸に、重い秤が置かれる。
「……調律すれば、エレリアは――」
「変わるでしょうね」
ミラは淡々と言った。
「涙の高さは変わる。
泣き場所も、泣き方も、今まで通りにはいかないかもしれない」
ほんの少しだけ、目を細める。
「それでも、世界を沈めるよりはましだと、王としては思う。
母としては……セレンが生き延びてくれるなら、それでいい」
喪失人として横たわる少女に目をやり、柔らかく目尻を下げた。
「これは、私の願いであり、私の責だわ。
調律の巫女。世界のために、私を斬りなさい」
イリスの指が、杖の柄を強く握り締めた。
世界から涙を奪ってでも、世界を守る――。
自分が選び続けてきた立ち位置を、今この瞬間に、改めて引き受けるしかない。
(これは、私が刃を抜かなかった結果でもある)
エレリアで、ゼロを封じ続けたこと。
ミラと並び立つ道を選んだこと。
それらの末に、この静哭湖が生まれている。
世界は幾度もミラを悲しませた。
そして今度は、世界とミラの両方を、イリスが斬らなければならない。
「……分かりました」
ゼロの巫女は、静かに頭を下げた。
「調律の刃を振るいます。王を、悲哀ごと均す覚悟で」
アッシュが一瞬、イリスを見た。
紫銀の瞳は、もう迷っていなかった。
「アッシュ」
「ゼロの運搬――全てを受け持つ。
……器容量、限界近い。それでもやる」
イリスは首を振る。
「“限界まで”じゃない。限界を、こえて」
その言い方に、アッシュがわずかに目を見開いた。
半歩ぶんの沈黙のあと、短く頷く。
「了解。ゼロ・モード――封鎖制限、解除申請」
《ノルディア》の面が、静かに鳴動する。
ゼロの出力制御に掛かっていた見えない枷が、一枚、また一枚と外れていく。
風が、その隙間を埋めた。
「……本当にやるんだね、イリス」
ルーファが、ふっと息を吐く。
「世界から涙を削る調律を、“世界のかわりに泣こうとした王”に向けて。
――イリス、あなた自身は、いつになったら泣くつもり?」
その横顔には、いつもより深い影が差していた。
「私は、感情のいい面を信じたい。
泣くことが誰かを救う場面を、何度も見てきた。
だから、世界を守るためだって分かってても……その涙まで削るやり方は、やっぱり好きにはなれない」
イリスは、それを真正面から受け止める。
「……私も、そう思いたかった。
ミラと並んで、“悲しみがあっても生きていける世界”を、選びたかった」
ほんの一拍、言葉が途切れる。
「でも今は――選べない。
このままなら、悲しみが世界を呑む。
世界を守るために、世界から涙を奪う。……いつもの、私のやり方に戻るしかない」
ルーファは目を伏せ、喉の奥で風を鳴らした。
「……ずるいよ、ほんと」
「うん。分かってる」
風巫女は、しばらく黙っていた。
その間に、王喉からまた悲哀の波が押し寄せる。
ノアの胸鈴が小さくきしみ、アッシュの器が目に見えない悲鳴を上げる。
やがてルーファは顔を上げた。
「だったらせめて――“ひとりで”その罪を背負わせない。
私は風律の巫女として、泣くことの側に立つ。
それでも今日は、“世界を守るためにゼロを振るうイリス”の隣に立つ」
掌を開く。
「なら、拍は私が保つ。
世界の泣き声、全部は守れないかもしれない。
でも、この場だけは、足を止めさせない。――風律、調律に同調」
アッシュの背に、風の輪がひとつ、静かに嵌まる。
ノアの胸鈴が、それに合わせて小さく鳴った。
「ぼくも……できるぶんだけ、手伝う」
ノアは震えながらも、はっきりとそう言った。
「ミラの悲しみ、全部は喰えない。
でも、あふれた分だけなら、ぼくの中で受け止められるかもしれない」
喪失人の列の中で、ただひとつだけ“泣ける器”として残った子ども。
エレボスの器であると同時に、いまは悲哀の余剰を受け止めるための、小さな湖だ。
イリスは、ひとりひとりを順に見た。
ゼロを運ぶ器。
拍を保つ風。
悲哀を喰う子。
王を見上げる喪失人の娘。
世界から見れば、どれも頼りない支えだ。
それでも――この場にある全ての“希い”だった。
「調律開始」
イリスは杖を胸元で立て、目を閉じた。
「ゼロと悲哀を共鳴させる。
世界の底を一つに束ね、王喉と世界喉の高さを揃える。
――アッシュ、ゼロを“芯”に」
「零位相、王喉座標へ集中。
共鳴基準点、ミラ・アルメリア」
アッシュの周囲の空気から、色が消えていく。
ゼロ光刃は、もはや刃の形を保っていない。
ただ、「何もない」という条件だけが、王喉へ向けて細い道となって伸びている。
「ノア、悲哀の“溢れ”を喰って。
ルーファ、拍を乱さないで」
「了解」「……うん!」
調律式が組まれる。
それは今までのどの魔法とも違う、高さを持った構造だった。
悲哀を削るのではなく、
悲哀とゼロを同じ高さで並べる。
泣き声と沈黙をぶつけるのではなく、
泣き声の裏にある“願い”だけをゼロに写し取り、残りを静かに落とす。
「共鳴調律――」
イリスの声が一段深く沈む。
「悲哀よ、底を見せよ。
ゼロよ、その底を写せ。
世界の嗚咽を一つの歌に束ね――王喉へと還れ」
紫銀の瞳が開いた。
暗い悲哀の蒼が底で滲み、その縁に、決意の橙金がかすかに灯る。
「――【共鳴調律(ゼロ×悲哀)第六階位――鎮涙共鳴詩】」
静哭湖が、鳴った。
音はないのに、確かな“歌”が響いた。
王喉と世界の喉が、同じ高さで震える。
ゼロが、悲哀の一番深いところだけをすくい上げる。
そこにこびりついた、言い淀んだ名前や、飲み込まれた別れの言葉が、静かに擦り取られていく。
涙そのものは、消えない。
ただ、底に沈んでいた“息ができない理由”だけが、ゼロへと移される。
アッシュの全身から、きしみが上がった。
器としての骨組みが、悲鳴を上げている。
ゼロをこれほど深く通したことは、まだ一度もなかった。
イリスは、そのきしみを知っていた。
(ごめんね、アッシュ)
それでも、手を緩めない。
(世界を守るために、私は世界から涙を奪う。
あなたを作ったのも、そのため。
だから今だけは、私たちごと、この刃に載せる)
静哭湖の水位が、目に見えて下がり始めた。
涙柱が一本、また一本と折れ、ただの水へ戻っていく。
王涙の雨が止み、拍所の空気が重さを減らす。
ミラの周囲だけ、まだ湖が残っている。
王喉へと繋がる最後の水路。
世界中の悲哀が、最後に通り抜けていく場所。
その中心で、ミラはまっすぐに立っていた。
王衣は裂け、髪は水に濡れ、肩は震えている。
けれど、その目だけは澄んでいた。
「……きれいね」
ミラが、小さく笑う。
「世界中の泣き声が、一度きちんと息をしてから、静かになっていく」
水面を渡るレクイエムの震えを、まるで子守歌を聴くように受け止めながら、ミラはイリスを見た。
「調律の巫女」
「……はい」
「世界が私を悲しませる。
だからこそ、私は世界より深く泣く――そう言った女の末路を、あなたは見届けてくれた」
ミラはあどけないほど静かな声で続ける。
「ひとつ、わがままを言ってもいい?」
「王の……いえ、ミラの願いなら」
「いつかきっと、あなたが泣いてもいい世界が来るわ」
それは祈りではなく、予言でもなく。
ただ、母として、先に底に沈む者の言葉だった。
「そのときまで、どうか世界を嫌いにならないで。
世界は幾度もあなたを悲しませるけれど――
それでも、あなたのゼロが世界を守った夜があったことを、誰かが覚えているから」
イリスの視界が、いっきに滲んだ。
紫銀の瞳が揺れる。
暗い淡蒼が底からにじみ上がり、その縁に、希望の金光が一瞬だけ瞬いた。
悲哀と、ほんのわずかな喜びが、虹色のように重なって揺らぐ。
ゼロの巫女は泣かない。
泣けないように作られたはずだった。
けれど、今、喉の奥が熱い。
(泣いてはいけない。
ここで涙をこぼしたら、調律が崩れる)
歯を食いしばって、ゼロを維持する。
アッシュの構造は限界を超え、ノアの胸鈴はひびを抱えたまま鳴り続ける。
ルーファの風も、もはや震えを誤魔化すだけで精一杯だった。
ミラは、その全てを見渡した。
「ありがとう。
世界が私を悲しませたぶんだけ――
あなたたちが、私をここまで連れてきてくれた」
最後の一滴が、ミラの目から零れた。
愛しい涙。
それは王涙でも、悲哀を集めた柱でもない。
ただ、セレンとノアと、エレリアと、世界を見送るための、ひと粒の水。
その涙が静哭湖へ落ちた瞬間――
ゼロと悲哀の共鳴が、完了した。
レクイエムが、王喉を包み込む。
ミラの輪郭が、静かにほどけていった。
悲哀の王としての権能が剥がれ、
世界中の泣き声を束ねていた喉の構造が、ゼロの中へ溶けていく。
最後に残ったのは、ひとりの女性の影だけだった。
ミラ・アルメリア。
セレンに“愛しい涙”の名を与えた、ただの母親。
その影も、やがて光の粒となって散っていく。
ゼロがそれを、静かに抱えた。
世界から見れば、それは「悲哀の王の消失」として記録される。
調律の記録としては、「悲哀律の再配置」と呼ばれるかもしれない。
けれど、この場にいる者たちは知っている。
これは――ひとりの母の涙を、歌として残すためのレクイエムだった。
静哭湖が、完全に沈黙した。
拍所の床は、ただの濡れた石に戻る。
王涙の雨は止み、天幕にはもう、何も降ってこない。
ゼロ光刃が消えた。
アッシュの膝が、床につく。
《ノルディア》の面に走っていた亀裂が、細かくきしんだ。
「……観測、終了。
悲哀律王ミラ・アルメリア――王喉機能、停止。
悲哀分布――全域に再散布。局所過剰、解消」
ノアが、アッシュの背からずるりと滑り落ちる。
ルーファの風が、三人をまとめて支えた。
拍所の中心には、もう王はいない。
ただ、王が立っていた場所に、ひとつだけ小さな水たまりが残っていた。
輪郭の曖昧な、浅い湖。
ノアがふらつきながらそこへ近づき、跪〈ひざまず〉く。
「……ミラさま……」
返事はない。
けれど、水面に映る自分の顔の隣に、一瞬だけ、誰かの微笑みが重なった気がした。
イリスは杖を支えに立ち上がる。
世界を守るために、世界から涙を奪った。
悲哀の王を、悲哀ごと調律した。
喉の奥に、まだ熱が残っている。
(泣いてはいけない。
せめて、皆を拍所の外へ出すまでは)
ゼロの巫女は、自分にそう言い聞かせた。
拍所の灯が、ゆっくりと明度を取り戻していく。
世界が、また今夜も回り始める。
悲哀の王を失いながら、それでも朝へ向かっていく。
この夜の代償と意味を、本当に理解するのは、まだ少し先のことだった。




