泣けない調律者たち
ゼロの刃が、世界に向けて傾いた瞬間。
拍所の空気が、音ごとひっくり返った。
天幕からは、何ひとつ落ちてこない。
なのに、頭上には“雨音の後”だけがある。
床下の静哭湖〈ラメント・レイク〉が、ゆっくりと天地を裏返す。
石の目地から滲み出た水は、ただの水ではなかった。
ひと粒ひと粒に、震える声が詰まっている。
泣き終えたはずの嗚咽。
喉まで上がって止まった名前。
灰と共に飲み込んだ別れの言葉。
それらが、透明な滴となって宙にせり上がる。
拍所の中央、ミラの足元から最初の柱が立ち上がった。
細く、高く。
天幕まで届いた涙が、そこで輪になり、拍所全体を囲う。
輪はひとつでは終わらない。
王喉を軸に、幾重にも涙の輪が重なって浮かび、その隙間から細い飛沫が斜めに降り始める。
上から落ちるのではない。
横から、斜めから、内側から。
どの方向を向いても、どこかで“王涙の雨”が降っている。
床には、溜まらない。
落ちた悲哀はすぐさま石をすり抜け、また別の柱となって立ち上がる。
泣き過ぎた世界を、無理やりひとつの部屋に閉じ込めたみたいな光景だった。
「……観測更新」
アッシュが《ノルディア》の面を軽く叩く。
青白い線が一瞬だけ奔り、すぐに“無色”へと溶けた。
「王喉悲哀圧――上昇継続。静哭湖:拍所全域へ反転噴出。
フィールド状態、“常時悲哀飽和”」
ミラの周囲は、もはや“王”のための空間ではなかった。
泣けなかった者の涙を、泣き過ぎた者の震えを、
ぜんぶまとめて押し込んだ世界そのものだった。
「――ゼロ・モード、展開」
アッシュが一歩、前へ出る。
《ノルディア》の輪郭から、色が抜ける。
そこに、“空白”の線が生まれた。
光でもない、闇でもない。
ただ、「ここから先は、何も通さない」という条件だけが走る、無の刃。
ゼロ光刃。
涙柱が、その線の手前でわずかにたわんだ。
触れた瞬間、悲哀としての“高さ”を失い、ただの冷たい湿りへ戻る。
「前線、取る。イリスは“全体”を」
「了解。……全域、拍から組む」
イリスは杖を握り直した。
界面を張るのでは間に合わない。
エレボスとの戦いのように「面」で受け止めれば、あっという間に飽和してしまう。
今必要なのは、“流れそのものを書き換える”調律だ。
「――第一階位、起点」
杖先で床を一度、静かに叩く。
乾いた小さな音が拍所に広がり、その音に呼ばれるように、周囲の呼吸が一瞬だけ揃った。
起点。調律式の最初のひと拍。
──【調律魔法第一階位――起点拍】
「第二階位、拍律補正」
低く告げる。
詠唱というより、世界への指示に近い声で。
乱れていた呼吸の高さが、ひとつ、またひとつと整っていく。
悲哀の波がぶつかるタイミングと、民の胸が震えるタイミングが、ほんのわずかにずれる。
直接、悲しみを消す魔法ではない。
ただ、“直撃しない間”を作る魔法。
──【調律魔法第二階位――拍律補正】
そのわずかな間を、ゼロ光刃が駆ける。
アッシュは前線へ踏み込んだ。
足元には、浮き沈みを繰り返す浅い湖。
王涙の雨が斜めから刺さる。
視界を塞ぐ、細い涙柱がいくつも立っていた。
ゼロ光刃が一本、横に払われる。
無の線が走り、二本の涙柱が根元から断ち切られる。
柱は一度、宙に浮いたまま形を保ち――次の瞬間には、ただの湿り気の霧となって消えた。
上から降る飛沫が、その空白をすぐに埋める。
ミラが、喉で笑った。
「まだ、浅い」
王の声が、静哭湖の底から響く。
その声ひとつで、床下の湖面がさらに一段、深く掘り下げられた気がした。
涙の輪が増える。
拍所の天井近くまで立ち上った柱が、今度は斜め下へと折れ曲がる。
重力が、悲哀に合わせて捻じ曲げられている。
「イリス、右後方からのベクトル三。民、直撃軌道」
アッシュが短く告げる。
《ノルディア》の面に悲哀の流れが線として映っていた。
「――名で、止める」
イリスは片手を離し、空中に“名前”を書くように指を走らせた。
「名よ、泣きの在処を指し示せ。
呼ばれぬ涙は、元いた座へ還れ――ここはエレリア、“名なき奔流”は門の外へ」
淡い文字の軌跡が空中に浮かび、涙の流れと交差した。
──【調律魔法第四階位――名鎖標】
本来は、喪失人になりかけた者の“名”を身体へ結び直すための術だ。
今は逆に、「名を持たない悲哀」の足を止める鎖として使う。
民の上へ落ちかけていた無数の滴が、空中でふっと滞った。
名の鎖に絡まったそれらは、“ここではない場所”へ押し戻される。
ミラの喉へ、王喉に繋がる“底”へ。
本来なら――この流れの上に、さらに高位の調律式を重ねていくはずだった。
悲哀そのものの深さを測り、余剰を削り、全体の高さを均すための式。
イリスがゼロの巫女として、何度も世界に向けて振るってきた理の刃。
けれど、今は。
(……計算が、進まない)
詠唱の後ろで、脳裏に浮かぶはずの「式」が、一行目から滲んでいく。
ミラの悲哀が、数字に変わらない。
娘を失った夜。
封印の中で聞き続けた、世界の嗚咽。
セレンの髪に触れた、さっきまでの手。
それらが、全部、“値”ではなく“顔”として目に飛び込んでくる。
(昔の私なら、今広がる波を――ただの“水面の段差”としてしか見なかった)
深いところ、浅いところ。
静けさが均ぶ高さまで、余った悲しみを削り落とす――それだけの務めだったはずだ。
(でも今は、“ここが痛い”って、先に分かってしまう)
刃を振るう前に、躊躇が挟まる。
ほんの一瞬。
けれど、それだけで致命的な“間”になる。
その遅れを突くように、王涙の雨が方向を変えた。
「前線、圧力上昇」
アッシュの足元で、水が盛り上がる。
静哭湖の一部が柱にならず、そのまま“舌”となって彼の足首を絡め取ろうとしていた。
悲しいという感情の形をした水ではない。
ただ、「立っていられない理由」そのものが、液体化したような重さだった。
ゼロ光刃が下へ走る。
足元の水が一瞬だけ軽くなる。
けれど、その軽さは長く続かない。
切り離された悲哀が、今度は別の柱となって背後から襲いかかる。
「観測。ゼロ・モード出力――安定度低下。器内部、“応力ひずみ”増大」
《ノルディア》の内側で、目に見えない骨組みがきしんだ。
本来なら、もっと深くゼロを浸透させられるはずだった。
イリスが設計した“完全な器”であれば、今の数倍は流し込めたはずだ。
だが、現実には層が足りない。
ゼロを留めておくための壁が、一段抜け、一段薄く、そのまま前線に出ている。
ミラの喉が鳴った。
「泣きたい者は、泣いていい。
泣けない者のぶんも、私が泣く。
……あなたたちも、もう泣かなくていい」
その言葉は、優しさとして聞こえるはずだった。
実際には、“世界から悲哀を奪う宣告”だった。
イリスの胸が、外から叩かれたように痛む。
ミラが選ぼうとしているのは、自分ひとりが“底”に沈むことで、世界を静かにする道だ。
世界の泣き場所を、王喉ひとつに集約する道。
(それは――私が世界にやってきたことと、何が違う?)
世界から感情の凹凸を削って、静けさを与えてきた自分。
世界から涙を集めて、自分が泣き続けようとするミラ。
方向は違うのに、根っこが重なる。
その自覚が、調律の式を曇らせた。
「イリス、左斜め上!」
アッシュの声で、反射的に杖を振る。
名鎖標の文字列が、斜めに走る涙の束を縫い止める。
同時に、ルーファの風が背から押した。
「詰まってるなら、詰まったまま動いて! 止まるほうが危ない!」
風は悲哀を消せない。
けれど、“立ち続ける”ための体勢だけは、何度でも整えてくれる。
それでも――追いつかない。
「……これ以上は、ぼくの中が」
ノアの声が震えた。
ミラの悲哀の一部は、なおも拍所の外側へ滲み出ようとしている。
避難路の先、名を呼ぶ声のほうへ。
その流れを、ノアの胸鈴が必死に喰い止めていた。
悲しい、だけではない。
悔しい。
間に合わなかった。
守れなかった。
世界がミラを、何度も悲しませてきた全ての感情が、ノアの小さな器に押し寄せている。
「これ以上は……ぼくの中が、壊れちゃう……!」
それでも、ノアは前を見た。
「でも……セレンが、ぼくをここに戻してくれたから。
――まだ、少しなら。ぼくの涙で、世界を軽くできるなら」
胸鈴が、ひび割れそうな音で鳴った。
ミラの悲哀の一部が、ノアのほうへ向きを変える。
そのぶんだけ、王喉から噴き出す圧が、ほんのわずかに落ちた。
助かるレンジが、生まれる。
アッシュのゼロ光刃が、その一瞬の“低いところ”を正確に叩く。
イリスの名鎖と拍律補正が、その隙間を広げる。
それでも、それはあくまで「一瞬」だった。
王喉そのものの深さは、少しも削れていない。
「……届かない」
イリスの喉から、言葉が零れた。
「今の私と、今のあなたじゃ――王の悲哀を抱えきれない」
世界を均すための刃と、世界を守るための器。
その両方が、同時に“足りない”。
イリスが、ほんの一拍だけゼロから手を離しかけた。
ミラの悲哀が、その隙を逃さない。
静哭湖の底からせり上がった水が、一気に天井近くまで立ち上り、拍所全体を呑み込もうとする。
涙柱が輪を解き、巨大な“落涙”となって覆いかぶさってくる。
アッシュのゼロ光刃では、ひと薙ぎでは足りない。
ノアの胸鈴には、もうこれ以上悲哀を飲む余地がない。
ルーファの風も、全体の流れを変えるには弱すぎる。
そのとき。
「……陛下」
まったく別方向から、音がした。
喪失人として横たわっていたセレンの唇が、かすかに開いた。
色を失っていた瞳に、一瞬だけ、光の薄い膜が宿る。
「……陛下……母さま……」
うわ言のような、掠れた声だった。
けれど、その呼び方だけは、はっきりしていた。
“王”ではなく、“母さま”。
その音が、王喉に届いた。
ミラの悲哀の波形が、一瞬だけ乱れる。
世界全体へ向いていた深さが、“ひとり”へ向かいかける。
静哭湖の表面に、細いひびが走った。
涙柱の一部が、そのひびのほうへ引き寄せられる。
王と世界のあいだに、「母と娘」の線が割り込んだ。
悲哀とゼロと器の綱引きが――ほんの一拍だけ、均衡を失う。
この次の一拍が、誰の涙を沈め、誰の涙を残すのか。
拍所の灯が、それを見届けるように、微かな明滅を繰り返した。




